月の蘇る 1 闇の中に咳が響く。 僅かに口の中で血の味を感じたが、無かった事にしようと飲み込んだ。 どうせ近く死ぬのなら真実を知れば良かったのだろうかとも思う。だけど、最愛の人を前にそんな捨鉢で居てはいけないとも知っている。 この冬を越えれば全てがまた元通りになると、華耶は信じている。 そうだと良いな、と龍晶自身も星に願うように思うだけ。 願いは叶わないと分かってはいるけれど。 夜の冷気が体を包む。それでもこの濡れ縁から動く気にはなれない。 体に障りますよ、と言いに来る人も居ない。華耶が於兎と春音の元へ向かったのにかこつけて人払いをしておいた。 一人で考え事をしたいのだと告げて。 実際、考えねばならぬ事は多かった。でも答えを出せたとしても無意味だ。 政は都で進んでいる。王の意思など無関係に。 それで良かった。それを目指していたのだから。 王に権力が集中してはならない。それに反した結果が前王までの代の圧政であり、あの内乱だ。 そこで担がれた己の役割は、民に政を譲る事だと思う。 王たる自分は空蝉で良い。意味の無い存在。 だからと言って空いた手で個人的な事を好き勝手して良いとは思わないが。 無意識に冷気から体を守ろうと、膝を抱えて丸く座る。子供の頃のように。 こうして外からの攻撃に我が身だけを守っていた。当然守り切れはしなかったけれど。 自分の身さえ守れないのに、他の誰かの事まで考えられる筈が無かった。 誰も、何も守れない。 無力さに絶望する。 「何やってんだ」 突然声がして顔を上げた。 月明かりの庭に燕雷が立っていた。 呆れたような笑いを浮かべて。 体を損なう愚挙を責める気は無いのだろう。隣に座った。 「華耶ちゃんに頼まれて来たんだよ。春音ともう少し一緒に居たいから、様子を見てきて貰えますかってね」 「…ああ…」 わざとだ。 華耶は自分の前では話し難い悩みがあると見抜いて、燕雷をここに寄越した。 また咳込む。こうして華耶に心配ばかりかけてしまう。 「寒くないか。中に入るか?」 燕雷は自分も寒そうな素振りで気遣ってくれた。 「いや…頭を冷やしたい」 「そんなに熱々なのか?知恵熱でも出てんのか」 言いながら冗談混じりに額へ手を伸ばしてくる。 いつもなら抗って叩き落とす所だが、触られるがままになった。 「…重症だな」 「そうだろう。自覚はある」 いつに無い素直さが重症の証だ。 「何が原因だ?」 問いの答えを溜息で引き伸ばす。 最大の問題はこの整理出来ない頭の中と今の状況だ。 自分が混乱の渦の中に居るのか、それとも蚊帳の外なのかも判別出来ない。 ただ一つの感情だけははっきりと感じられる。 寂しい。そこまで来た、別れが。 「朔か」 何も言わないのに燕雷は確信的に答えを出した。 「…これで良いのかな」 弱気な呟きを漏らす。 「他にどうしようも無かったんだろ?」 「まあ…な」 行かせたくない。行って欲しいが。でも。 「苴に行かせるのと同じ事じゃないかと思ってしまう。結局、国の為に売るのと何が違う?死ぬ危険はどっちも同じだろ…」 「なら、戔の為に苴へ行かせるか?」 「それは…嫌だ」 燕雷は少し笑って、龍晶の肩に腕を回して抱いた。 冷え切った背中に体温が心地良い。 「朔も同じだと思うがね。あいつなら苴で無意味に処刑されるより、哥の王さんを救いに行きたいと言う筈だ。尤も、お前の為ならどこへだって行くだろうけど」 「だから駄目なんだ」 自分が責任を逃れられないから。 「俺が決めなきゃならないのなら、…いや決めて良いなら、どっちにも行かせたくない。あいつを守れないから」 「大丈夫だよ。朔はちゃんと戻ってくる」 「…うん。いや、そうじゃない…」 また会えると言われればそれに縋りたい。だけど、問題はそんな個人的感情に任せてはいけない。 「その繰り返しだろう。俺の側に居る限り、あいつが俺の為に動く限り、あいつは戔の為に人を殺し続ける事になる。自分を削りながら…」 燕雷は一度黙った。そして投げるように言った。 「仕方ないな。あいつがそれを望むんだから」 「駄目なんだよ、それじゃ。駄目なんだ…。俺は嫌だ」 「嫌だ嫌だばっかりだな。三歳児か」 冗談に少しだけ笑う。これでむくれないだけ大人になったという事だ。 「俺が生きてる間に朔夜は刀を置けるだろうか」 嫌だの理由はそういう事だ。 遠い未来の話では困る。この身が持たない。 「それが何よりもお前の為だと、朔が気付けばな」 「気付いてる。その筈なんだ、あいつは。でも状況がそれを許さないから、自分を殺して戦いに行くんだ…」 「…そうだな」 「王になれば救えると思ってた。少しは世界が自分の意のままになると。だけど、現実は…何も変えられないんだよな…」 ゆるゆると、欠けた月を見上げる。 下弦の月。冴えた夜空が、冬の近い事を告げる。 寒い冬になりそうだ。 「あいつになんて言おうかずっと考えてる」 月を相手に語るように。 「長い別れになるだろうから。今度は腹に無い事言って後悔したくない。でも謝るべきか頭下げて行ってくれって言うべきか、全然分からない」 「なるようになるんじゃないか。あいつは分かってるよ。お前とずっと一緒に居たんだから」 「うん…」 夜空を揺蕩っていくようだ。 千々に引き千切られて、力無く漂うだけ。 夜陰に乗じて移動する間は、切れ切れの意識も相まって真っ暗な記憶しか残らなかった。 足場の悪い山道を夜歩く。それだけなら慣れたものだが、治らぬ傷からはまだ血が出ている。ふとした拍子の痛みで意識を失った。 宗温は全て承知なのだろう。道案内に兵を二人付けてくれた。燈陰との四人での旅だ。 距離としてはそう長くないらしいが、自分という大荷物が足を鈍らせている。お陰で一昼夜歩けば着く行程に三夜かかった。 いくらか意識がまともな時に、兵に訊いた。自分が背負っていた子供はどうなったか、と。 彼らはにべもなく答えた。 陣に運ばれた時には既に息絶えていた、と。 お前の背中の上で死んでいたんだろうと、有難くない推測まで頂いた。 そんなもんか、と思う。 世界は悲しく残酷だ。だけどそれに向き合うには人は小さ過ぎる。慣れてしまわねば自分が壊れる。 そしてただの雑談の話の種になり、おしまい。忘れられてゆく。 仕方ないような気もする。自分だって、この手にかけた人々の顔すら覚えてない。 後悔する気持ちはある。だが、全て自分の為だ。 死人の為に何も出来はしない。 忘れるか、忘れないかだけ。 それだってただの自己満足なのだろうけど。 今は亡き彼が、命と引き換えに付けた傷が痛む。 治らなくて良い。まだ。 この身を貪って後悔させてくれれば良い。 そんな事しか出来ない。 「到着した」 燕雷の一言で何の事か察した。 真夜中。着くなら今夜中だと報告があったから、夫婦で寝ずに待っていた。 「会いに行きます。今どこに?」 華耶が緊張した声で問う。 すぐには答えず、燕雷はちらと龍晶を伺った。 時間が時間だ。危険が無いとは言い切れない。 龍晶は頷く。あいつを信じると、言外に。 燕雷は後ろ頭を掻いた。 「華耶ちゃんはさ、やっぱ皇后様だから、朝にしといた方が良くないか?」 「えっ…今じゃ駄目ですか?」 「うん。真夜中に他の男と会うってのはねぇ、やっぱねぇ…拙いよなぁ」 拙いのはその言い草だとばかりに龍晶に溜息を吐かれた。 「分かった。今は俺だけで会おう。ちょっと様子を見てくるだけだから」 妻に優しく言い置いて、燕雷の後に付いて部屋を出る。 「見れば分かると思うが、彼女には見せられる状態じゃない」 「朝になれば行けるのか?」 「準備は出来るからな。なんとかしよう」 裏庭に面した濡れ縁へ出た。 暗闇の中、同道した兵が二人、見張りに立っている。 もう一人、庭に立っている男。燈陰だ。 敢えて何も言わなかった。向こうも無視だ。 そんな事よりも肝心な人影を探す。 燕雷が庭に出て、木の影を指差した。 鋭く息を吸って、転がるようにそこへ走り寄った。 木の幹に腕を回され縛られて、朔夜はゆっくりと顔を上げ、そして力無く笑った。 笑う口の中は血に汚れていた。全身も。 胸の辺りは夜目にも真っ黒で、月明かりに反射して光っている。 龍晶は言葉を失っていた。あれだけ悩んで用意した言葉も、再会の挨拶も出なかった。 その代わりに涙が溢れ、拭う事も忘れていた。 「華耶ちゃんには見せられんだろ?」 燕雷の言葉が横から降って来た。 龍晶にとっては最早そんな事はどうでも良かったが、朔夜は掠れた声を出した。 「ありがと。気ぃ遣ってくれて」 「馬鹿…!」 自由の無い両肩を掴んで。 「なんだよこのザマは!勝手に死のうとしてるんじゃねぇよ馬鹿野郎!華耶に見せられる姿で帰って来いよ!」 朔夜は辛そうに笑った。 「…ごめん」 その言葉を潮に、笑みは掻き消えた。 「本当、ごめん」 何に対して謝っているのか。 肩から手が滑り落ち、地面を掴んで。 項垂れたまま、言った。 「お前は誰も殺してないよな。そう言え」 「龍晶…」 「たまたま惨劇の場に居合わせて、子供を一人助けたんだ。そういう事だろ」 「嘘はつけないよ」 「それが真実だろ!そう言え!」 「龍晶!」 身を削って叫ぶ声に、合わせられなかった目を上げた。 何が正しいか、なんて。 「お前は王様だろ。嘘は駄目だ。罪人は処刑しなきゃいけない。俺はそれを望むよ」 そんな事、いつだって後回しだったのに。 どうしてお前にそれを言われなきゃならないのだろう。 お前を失いたくないから、正しさを選ばなかったのに。 どうして、今更。 「…国外追放だ」 「甘いよ。首落とさなきゃ」 「罰を受ける方に決める権限なんざ無いだろ」 「じゃあ苴に送れば良いのに」 「駄目だ。お前の行き先は、哥だ」 「哥?なんで?」 心底分からない顔をして問う。当然だ。まだ何も知らないのだから。 「哥王や香奈多殿が大臣側に捕らえられた。助けに行ってくれ。頼む」 驚いた顔で黙り込む。必死に考えを巡らせているようだ。 「俺が行ったせいで大臣達を刺激したんだ。責任は感じるが俺には何も出来ない。代わりにお前に頼みたい。行ってくれないか?」 「それは、俺だって行きたいけど…。でも、苴は?納得しないだろ」 「そんな事お前が心配するな。なんとでもなる。俺に出来るのはその交渉くらいだ」 「本当かよ…?」 交渉でどうにかなるとも思えないが、政について口を挟む立場ではない。 朔夜は頷いた。 「お前がそう言うなら、俺は従うよ。そもそもこれは罰なんだし」 「そう言うな。そんなもの建前だ」 地面に胡座で座り込んで、空を仰いで。 「傷はゆっくり治せよ。その分、ここに居られるから」 「そんなの駄目だろ」 「良いんだよ。そのくらい、俺が許可する」 「王様だからってそんな」 二人は目を合わせ、笑った。 そして横の燕雷を見上げて龍晶は言った。 「朝までにこの酷いナリを何とかして、座敷で寝かせてやれ。華耶とはそれから会わせれば良い」 「じゃあ、いつかみたいに風呂でも焚いてやろうか?」 燕雷の軽口に朔夜は顔を顰めた。 「えー…風呂は遠慮しとく。傷に浸みるから」 「そんなに酷い傷でよくここまで来れたな。止血はしてないのか」 「包帯を巻くより月の光に晒した方が治りが早いかと思ったんだけど…」 「見ても良いか?」 燕雷と二人、血で張り付いた衣服を脱がす。 「明かりを」 兵が松明を持ってきて、血汚れの中の傷を探す。 浮いた肋骨の隙間に指一本分程の傷口。そこから未だに鮮血が溢れ出ている。 「至近距離で突かれたのか」 傷口から燕雷はそう割り出した。 朔夜は頷いた。 「どうやったら戦闘中のお前にそんな事が出来る?誰かに裏切られでもしないと無理だろ」 「それは…」 「そんな事より先に治療だろ」 二人の会話を聞かず龍晶は立ち上がった。 が、その足元がふらついて膝を着く。燕雷が咄嗟に腕を出して肩を支えた。 「龍晶!?大丈夫か!?」 何も出来ない朔夜の必死の声。ゆっくりと頷くのが精一杯だった。 燕雷が兵に人を呼ぶよう叫んだ。それを聞きながら少し落ち着いた息で、朔夜に言い返す。 「重傷人に心配される程の事じゃねぇよ」 「でも、お前…」 「いいから」 苛立ち混じりに話を打ち切る。朔夜が動こうと身を捩る度に血の滲む傷口を見ていた。 ここは互いに無理すべきではない。 やって来た人々に支えられて立ち上がり、背中越しに告げた。 「また明日な」 「うん」 可笑しなものだと思う。 こんな何でもない会話に、幸せを噛み締めるなんて。 [次へ#] [戻る] |