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月の蘇る
  9
 気を失っていた。
 まず耳に入ってきた戦いの喧騒は、少し遠くなっていた。それが時間の経過を物語っている。
 一刻も経ってはいないだろう。ではどうして気を失っていたかと言えば。
 左の鳩尾の辺りに違和感があった。怠い手で探って、刺さっていた刀を抜いた。
 心臓は外れたか、と他人事のように思った。
 刀を抜いた事で血が溢れ出す。このまま死ねれば良いのにと目を閉じていたかったが、どうにも気になってしまった。
 薄目を開き、確認する。
 あの少年の行方を示す物が無いかと、それを期待した。
 それだけで良かったのに。
 少年はそこに居た。
 血を流して倒れていた。
 絶望と歓喜が同時に沸き起こる己の心。
 何故、自問する。
 その答えを知りたくて、倒れている少年を見ようと身体を動かす。
 左腕を支えに寝返りを打ち、身体を這わせて。
 そうしながら薄々、解ってしまった。
 歓喜する己の片側は、純粋に返り討ちが成功した事に喜んでいるのだ。ザマを見ろ、と。
 この仕打ちは、己のした事だ。
 その証拠に少年は仰向けに倒れていた。そして覗き込めば、腹から胸、そして肩へと傷が走っていた。
 下から斬り上げたのだ。
 また、この手が、と。
 もう片側の自分が絶望した。何度も繰り返す過ちに。
 その手を伸ばし、傷口に触れる。
 まだ温かい。それだけではない。
 まだ息がある。
 救える。
 馬鹿か、お前は。頭の中の声がせせら笑った。
 お前を殺そうとした奴を救うのか?そんな傷を負わされてまで?
 かぶりを振って否定する。
 こいつは子供だ。あの時俺が救わなきゃいけなかった子供なんだ。なのに奴らに操られて、こんな事になってしまった。
 殺しちゃいけないんだ。俺が殺すなんて、そんな事、あってはならない。
 だけど、と頭の中の声が半笑いで告げた。
 そいつの傷を治す前に、お前が力尽きるのが関の山だろ。
 諦めろ。どの道死ぬ。
 ほら、もう感覚も無くなってきた。力も抜ける。また眠り込んじまうぜ?そのまま死ぬかもな――
 がくりと、頭を落とす。
 脱力と強烈な倦怠感が襲う。このまま何もかも手放して眠ってしまいたい。
 自分の荒い呼吸を聞いて。
 頭の中の声は消えた。残ったのは一つだけの信念。
 ずるずると起き上がり、力を振り絞って少年の体を抱え上げる。
 なんとか肩に担いで、足を引き摺り歩きだした。
 国軍の陣に行けば助かるかも知れないと思ったから。
 軍医も居るだろうし、宗温なら何とかしてくれる。少なくとも、無力な俺よりは。
 意地だろうか。どうにかして救いたい。それ以外は何も無かった。
 新たな血が脇腹を伝ってぼたぼたと落ちる。
 痛みは無かった。思うように力が入らず、時に意識が途切れそうになるのは厄介だった。
 通りに出る。
 主戦場は街の奥に向かって移っているが、まだそこここで刀を交えている兵が居る。
 彼らにとって死にかけている二人など目に入らないようだった。見ているのはただ、敵の死と自らの死。
 真横で国軍の兵が相手を斬り伏せた。
 それだけで十分なのに、興奮しているのか、恐怖に取り憑かれているのか、執拗にとどめを刺している。
 それを通り過ぎると、二、三人の兵が寄ってたかって一人を殴打している。
 逃げる男は鎧も付けておらず、明らかに農民だが、追ってきた兵は容赦なく切り倒した。
 これが戦か、と。
 今更驚く訳でも侮蔑する訳でもない。自分の方がもっと酷い事をしてきている。
 ならばこれは何だろう。
 この感情を思い出さねば分からなかった。
 死にゆく人々を見て、そして奪わなくても良い命を奪う人々を見て。見殺して。
 その中で、救わねばならぬたった一つの命を背負って。
 何だ、これ。
 何だよ
 なんなんだよ
 これは、一体。
 ああ、
 戦。これが。
 この、誰のものでもない意志の
 愚かしさが。
 ずっとずっと、いくつもいくつも、戦場に立っていた。
 なのに今初めて見えた。無力になって、こうして見て、初めて。
 これは、この感情は、悲しみだ。
 ずっと忘れていた。こうして人が死んでいく、悲しさ。
 止められる筈なのに、何も出来ない。そしてまた繰り返される時、人は泣くしかないのか。
 嗚咽もせず、涙だけ落ちた。
 そうしながら歩き続けるしかなかった。何かに抗う為に。
 二人の少年と別れた場所まで戻ってきた。
 一見して姿が見えず、先に陣へと逃れたのだろうと、また重い足を運ぶ。
「朔兄ぃ」
 物陰から声がした。
 泣き声だった。
 足を止めてぼやける視界で時間をかけて状況を確認した。
 見えたとしても理解したい状況ではなかった。
 少年は覚束ない足取りで近付いてきて、朔夜の外套の裾を引っ張った。
「青惇が…」
 道の真ん中で倒れているのは、つい先刻まで言葉を交わしていた少年。
「ねえ、朔兄なら生き返らせる事ができるでしょ?ねえ」
 無茶な願いに応える言葉は無かった。
 少しだけ近寄って、本当に息の無い事を確認し、再び陣に向け足を運ぶ。
「朔兄」
 最初こそ驚いたようだったが、呼ぶ声がだんだん責め始めた。
「朔兄、なんでだよ」
 朔夜は応えなかった。応えられなかった。
 黙々と足を引き摺る。死に近い少年を背負って。
「青惇は朔兄を待ちながら死んじまったんだよ!?俺は出来る限りの事をした!あいつを守る為に来る敵はみんな殺したんだ。でも数が多くてダメだった。俺は頑張ったんだ。だけど…」
 やっと、朔夜は声を絞り出した。
「人を殺して誰かを守ろうなんて思うなよ」
 賛比は面食らった顔で足を止めた。
 お前が言うのか、と声にならぬ声が聞こえた。
 自分だからこそ言うのだ。それは違う、間違っていると。
 お前たちは、俺のようになりたくないだろう?なってはいけないんだ、と。
「じゃあどうすれば良かったんだよ!?」
 幼い頃の自分が叫んでいる。
 母や故郷を、どうやって守れば良かった?
「戦わなきゃやられるだけだろ!」
 戦っても全て失った。
 どうすれば。
 その答えは今抱えている手の中にしかない気がした。
 彼を救いたい。その意志しか今は無い。
「朔兄…待ってよ」
 賛比が泣き声とも恐れともつかぬ声を出して後ろを注視した。
「この兵、白い布が付いてないよ。敵だよ…?」
「お前らと同じ場所に居たんだ。でもこいつは俺が助けられずにここに運ばれた」
 その意味が分からぬ筈は無いだろう。だが賛比は首を振った。
「でも今は敵だ!そいつをどうする気…?」
「まだ生きてる。だから助ける」
「無駄だよ!そんなの無駄だって!もう死にそうだし、それなら青惇を助けてやってよ」
「あいつはもう死んでる!」
 怒鳴った。やり切れなさに。
 己の無力さが歯痒くて。
「死んだらもう、生き返らせる事は出来ない…」
 言い訳のように呟いて。
 それをしたかった、数々の顔を思い出した。
 それでもその術を知ってはならない。駄目なのだ。
 本当に?
「朔兄!」
 賛比の驚いた声で、自分が倒れたのだと知った。
 背負っていた少年の下敷きになるような形で、しかしそこから這い出る事も出来なかった。体の力が抜け切ってしまって何処も動かせない。
「朔兄、血が…!」
 少年に刺された箇所からどくどくと血が逃げてゆく。
 賛比は今までその傷に気付いてなかったのだろう。無理もない。彼も必死でここまで来た。
 怯えながら必死に考え、意を決した顔に変わると一言叫んで走り出した。
「人、呼んでくるから!生きててね、朔兄!」
 生きてて、か。
 何故か笑ってしまう。
 もう良いのになあ…
 目を閉じると、今までで一番幸せな記憶が浮かぶ。
 唯一の親友と、大好きな人の、婚儀の夜。あの綺麗な二人の笑顔。
 それを見られたんだから、俺はもう、何も望まないんだ。

 陶州の隣に位置する街である黄州に王家の別荘がある。
 温暖で冬も過ごしやすく、緑豊かな土地だ。
 華耶はその光景を一目見て気に入った。そして遥かな山並みを見て呟いた。
「あの山の中に、梁巴があるのかな」
 地図上ではずっと南西に当たる場所が梁巴だが、あの山脈に連なる場所である事は間違い無い。
「済まない。道を開く事が出来なくて」
 え、と小さく声を出して驚き、華耶は首を横に振った。
「仲春は悪くない。私が急かすような事言ったから…ごめんなさい」
 そして笑顔になって付け足す。
「何十年か後に、二人で行けたら良いな」
「朔夜は?」
「あ、三人で。あ…あと燈陰さんも。四人で」
 増えていく数に苦笑いして、龍晶は山並みを映していた目を閉じた。
 籐椅子に身体を預け、遮る壁の無い庭からの風を心地良く受ける。
 こうしていれば確かに何十年後は存在しそうな気がする。
 全てが解決し、何も苦しまなくて良い未来が。
「ねえ、仲春」
 華耶が後ろから肩に手を掛けて言った。
「心配しないでね。私、今、幸せだから」
「朔夜が居ないのに?」
 思わず問うてしまう。要らぬ事と知りつつも、それだけ意外な言葉だったから。
 華耶はあっさりと答えた。
「朔夜は近くに居るし帰ってくるもの。今までに比べたらずっと待ちやすい」
「そういうものか?」
 笑ってしまったが、それだけ今までが酷かったという事だろう。
 いつ戻って来るのか、生死すら分からない、そんな中ただ待つしかなかった彼女の辛さは想像出来る。
 ただし今回は、帰ってきたとしても次に長い別れが待っている。それは華耶も知っている。
 その辺りはどうなのかと振り返ると、するりと胸元に腕が回された。
「それに、今は一人で待たなくて良いもの。仲春が一緒に居てくれるから」
 手を重ね、腕に頭を持たせ掛けて考える。
 この幸せを享受しても良いものか、と。
 戦場にであろう居る友に後ろめたさを感じながら。
 それでもあいつは自業自得だとも思う。
 気持ちの中で切って捨ててしまえればどんなに楽か。
 そうすべきだと囁く享楽的な空気が、この地にはある。
「陛下、客人です」
 十和が現れ、庭の中に跪いて告げた。
 華耶の温度が離れる。それを心残りに思いつつ、問い返した。
「誰だ?」
「学問所講師、杷毘羅(ハビラ)様です」
 はっとして、背凭れに預けていた体を浮かせた。
「ここへ通してくれ」
 はい、と十和は踵を返した。
 杷毘羅がわざわざここに来る訳。それは一つしか思い当たらない。
 伯父である舎毘奈からの報せを届ける為だ。
 哥で何か動きがあった。
「仲春」
 少し曇った華耶の声に、龍晶は険しい顔を引っ込めて微笑んだ。
「大丈夫だ。ここに居てくれ」
 程なくして十和が客人を連れ戻ってきた。
「陛下、杷毘羅様です」
 異国の作法がまだ身に付かぬ彼は、必要以上に頭を地面に擦り付けている。
『杷毘羅、久しいな。ここへ来てくれ』
 彼に分かり易い哥の言葉で声を掛けると、一層畏まって顔も上げずに対面する場所まで移動した。
 庭の真ん中でひしゃげている彼を苦笑して見下ろす。
『顔を上げてくれ。祖国の言葉で話すのも久しぶりだろう?』
『は。陛下より哥のお言葉を頂戴して、勿体のう御座います。しかしこれよりはどうか南方語でお喋り下さい。我が修練にもなりますので』
「成程。では言葉の上達ぶりを聞かせて貰おうか」
 龍晶としてはどちらの言葉でも良かったが、横の華耶が耳慣れた言葉にほっとした顔を見せた。
 ただし言い出した本人の緊張度は上がったようだが。
「ええ…お、伯父…の、手紙…です」
 それだけ言うのが精一杯だったようで、書状を差し出してまた頭を下げてしまった。
 十和が受け取り、龍晶の手元へと届ける。
 書状を開きながら王は余裕の笑みを異郷人に向けた。
「ここまで届けてくれた事、礼を言う。下がって休むと良い」
 杷毘羅はまた頭を地面に擦り付けて、足をもつれさせながら去って行った。
 それを見届けてから、書状に目を落とす。
 行を追う毎に表情から余裕は消え、険しくなってゆく。
「なんて?」
 心配して華耶は問う。
 溜息、そして沈黙。
 内容を何とか噛み砕いて、龍晶はやっと説明した。
「哥で政変が起きた。大臣が王の腹心を捕らえたと…そう書いてある」
 華耶はその内容を噛み締めるように理解し、顔色を無くした夫に訊いた。
「それは…あなたにとって、とても悪い事なのね?」
 龍晶は呆然としている己に気付いて少し笑みを見せた。
「この捕らわれた人に、以前とても世話になった。看病までして貰って、まだ何も恩を返していない。何とか助けられないか…」
「私に何か力になれる事はある?」
 少し考え、ありがとうと応じて。
「華耶が側に居てくれれば、それだけで俺の力になる。あとは慎重に考えねば。十和」
 庭に控えていた女官を呼んで。
「燕雷を呼んでくれるか」
 はい、と十和は別棟で仕事をしている燕雷を呼びに行った。
 入れ違いに別の女官が入ってきた。
「陛下、お客人なのですが…」
「済まんが今取り込み中だ。お断りしてくれ」
 逡巡した後に小さな声で畏まりましたと言って背中を向けた女官の態度が、ふと妙に気になった。
「待て…その客人とは、どういう人だ」
 断り辛い客なのだろう。だが王から出直すよう言われて否を言える客などこの国には居ない筈だ。
「あの、それが…本当かどうかは分からないのですが…」
 困り顔で女官が答えた。
「哥王の縁者だと、その方は仰せになっております」
「哥王の縁者…!?」
 今、その哥の事を話していた所に。
 何よりも、哥王と龍晶に直接の面識があると知る者は限られている。
 だが哥王に縁者など居るのか。否。
「まさか」
「これをお渡しするように言われました」
 女官が差し出したのは、短刀。
 その鞘を見て龍晶は目を見開いた。
 隣に居る華耶も思わず声を漏らした。
 虎の彫刻の鞘。
「…お通ししてくれ」
 震える唇で女官に告げた。


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