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月の蘇る
  5
 随分と気の重い任を背負わされてこの国を再訪したと思っていた。が、拍子抜けする程にとんとん拍子で交渉は纏まった。
 交渉と言うよりも既に確認作業であった。王に代わり実務を取り仕切る桧釐には、どうしてそんなに難しい顔をしているんだと笑われた。
 苴は戔とのかつての約束を先延ばしするその代わりに一人の少年の身柄を欲している。戔にとってはそれは願っても無い話で、二つ返事で要求は飲まれた。
 だが、交渉に当たった自分はその決定に飲み下せない何かを感じている。無論、国同士の話に使者である己の私情など何も関係無いが。
 桧釐の満面の笑みと己の冴えない愛想笑いを思い返しながら、告げられた場所で一人待っている。程なく待ち人は現れた。
「よお。ご無沙汰だな」
 彼とは哥で別れて以来だ。
「ええ、全く。まさか役人同士としてお付き合いさせて頂くとは、あの時思いもしませんでしたが」
 燕雷は皮肉っぽく片頬を上げて笑った。
「大昔に取った杵柄のせいだ。ま、暇潰しも兼ねてな。それにしたって、こんな厄介ごとに首を突っ込まなくても良いと自分でも思うが」
 意味深な言葉に孟逸はまた顔を曇らせた。
「交渉はすんなりと受け入れられましたが」
「そりゃ、桧釐にすれば都合が良いだけの話だろうよ。今はあいつの意思が戔の意思だからな、仕方ない」
 険しい目で他方を睨んでいた目が、旧知の友に戻って剽軽に細められた。
「おっと、苴の御使者殿に対して口を滑らせちまったな」
「公私の分別はしています。今は私人として、陛下のお見舞いに伺うつもりです」
 恐らく思いは同じだ。これから会う国王も。
「そうしてくれ。これから聞くであろう話を苴へ報告されちゃ戔はひとたまりも無いからな。お前だからあいつに会わせられるんだ」
「一切他言しない事はお約束します。お願いします」
「ん」
 燕雷は孟逸を連れて後宮へと向かった。通常は他国の人間など近付けもしないだろうが、燕雷が同伴する事で王本人から許可が下りた。
「お具合は如何程なのでしょう」
 伏せっているとは聞いているが、どれ程の病状なのかは知らない。
 以前も具合が悪かった事は間違いないが、謁見が出来るくらいには体が動いていた。
 それが病床から出て来ないとなると、いよいよ病が篤くなったと考えられる。
 そしてそれは各国の情勢に関わってくる。
「うん…まあ、話は出来るけどな」
 燕雷は言葉を濁した。
 いよいよ後宮の扉を潜る。この先は滅多な口は利けない。
 野菊の咲く庭はそれとなく手入れしてあり、簡素だが気持ち良い。
 立ち並ぶ御殿は使用する場所だけ手入れしているのだろう。奥にはかつて彩っていた極彩色が剥がれ落ちた壁が見え隠れした。
 意外に小ぶりな御殿に入り、幔幕をいくつか潜って、漸くその人が見えた。
 寝台の、厚い夜具の中に、最早埋もれると言った方が良いような体で寝かされている。
 枕元には美しい女性が付き添い、室内には一人の女官と、若い男が居た。
「龍晶、孟逸を連れて来たぞ」
 燕雷がひと声かけ、続けて枕元の女性を紹介した。
「こちらが皇后陛下だ」
 え、と驚いて思わず平伏した。他国の后にこんなにも間近で相まみえる事など、あってはならないと思ったからだ。
 だが、自分以上に狼狽えた声がすぐ間近から聞こえてきた。
「そんな、いけませんよ、頭を上げて下さい。私はただここに居るだけです。どうかお気になさらずに」
 見れば目前に跪いている后が居る。孟逸は慌てて額を床に擦り付けた。
 その様を笑って燕雷は言ってやった。
「おい、ここではそんな儀礼は不要だ。大体な、この皇后様は朔夜の幼馴染でそこいらの王女様とは違うからな。この堅物の王様が惚れちまうくらい美人で優しくて寛大だ。だから頭上げろ」
「ちょっと、燕雷さん」
 言われた通り頭を上げると、照れ笑いで燕雷の肩を叩く皇后の姿が目に入った。
 燕雷は笑いながらも、視線は寝台の王に向けられていた。その表情を伺うように。
 確かに先刻から何の動きも無い。周囲がこれだけ賑やかなのに。
「陛下は眠っておられるのですか?」
 尋ねると、燕雷は低い声で「いや」と否んだ。
 皆の視点が王へと集まる。孟逸もそこで初めて馴染みの顔を見た。
 額から目元にかけて布が掛けられ、顔の半分は隠されている。熱冷ましの為とも見えるが、それにしては不自然な気もする。
「華耶」
 細い呼び声と共に、明らかに以前より痩せ衰えた手が浮いて、宙を彷徨う。導く母の手を待つ幼児のように。
 皇后がその手を包んだ。
「ここにおります、陛下」
 安堵の小さな溜息。そしてまた別の名を呼ぶ。
「祥朗」
 部屋の隅に居た若い男が立ち上がり、床の横へと畏まった。
「薬を頼む」
 彼は無言で頷き、さっと立ち上がると、元の場所で薬の調合を始めた。
「孟逸…このような面会しか出来ず申し訳ない」
 王はやっと客人に言葉をかけた。
 呟く程の声で、前後に苦しげに息を吸う音の方が大きく聞こえた。
「何を仰いますか。お目通りが叶っただけでも私は幸運です。どうか旧知が訪ねてきたと思って、お気遣いの無いようお願いします」
 祥朗と呼ばれた若い男が薬を持って来た。
 薬は匙で少しずつ口元に運ばれる。
 王は仰向けのまま、それを舐めるように飲み、時間をかけ半分程の量を減らした所で僅かに手を挙げそれ以上を拒んだ。
「全て飲むとたちまち眠ってしまうからな。俺は客人に話がある」
 義弟に告げて微笑み、孟逸へ改めて顔の向きを戻した。
「目を開けば悪い幻ばかり見る。だから何も見えないようにしてある。悪く思わないでくれ」
 それ故の目隠しなのだという事なのだろう。
 幻など見た事の無い孟逸にその想像は出来なかったが。
「幻とは、何が見えるのですか」
 恐る恐る問う。王は口元の表情を凍らせて、ぽつりと答えた。
「死者が俺を迎えに来ている」
 息を飲む孟逸に、自嘲とも揶揄とも見える笑みを向ける。
「その声で現実の声が聞こえなくなる時もある。そう思って話をしてくれ。薬を飲めば奴らの数は減るが、やがて眠ってしまうのでな。それまで付き合ってくれるか」
「それは…勿論です」
 想像を超えた病状への戸惑いを感じ取って、龍晶は淋しく笑った。
「この頭が狂ってるのはお前と出会うずっと前からだよ。お前も含め、皆が見ていたのは俺の幻だ。本当の俺は…こんなだ」
 自分は生まれ変わる国の新たな王への過度な期待に押し潰された一人の若者に過ぎないと、そう言いたいのだろうか。
 孟逸は励ます言葉も無く口を閉ざすより無かった。
「軽蔑しても失望しても良い。取り繕って遜られるのだけは嫌だ」
 己と違うものに対する差別的な沈黙に感じたのだろうか。
 孟逸は慎重に言葉を選んで継いだ。
「私がただの使者ならば媚びへつらう事もありましょうが、私はあなたの友としてここに来ました」
「…取ってくれ」
 傍らの皇后が目隠しの布を取り払った。
 頬は痩せこけていても、涼やかな若者の目は変わり無かった。
「久しいな、孟逸。よく来てくれた。お前にしか訊けない事があったから、来てくれて助かった」
 声に芯が通った。王としての態度なのか、友として心を許したからか。
 皇后が自ら布を桶の水に浸し絞って、再び王の額へと戻した。今度は目を隠さずにだが、熱がある事は確かなのだろう。
「朔夜の事ですか」
 聞きたい事とはそれしか無いだろう。孟逸とてそれを王から聞きたかった。
 龍晶は答えず、視線を他所に飛ばした。誰も居ない、孟逸と燕雷の間辺りを凝視する。
 思わず振り返って確認する。無論、壁と天井があるばかりだ。
「俺がこの国を崩すと言うなら、地獄に連れて行けば良い」
 はっきりとした口調で何も無い空間に向け告げる。周囲の者は驚くでもなく、ただ見守る。
「怖いものは無い。お前らだって怖くはない。ただ一つだけ恐れるとしたら、あいつの力を欲望のまま利用する世界だ」
 孟逸は息を飲んだ。これは決して、気の病が生んだ幻覚に対する言葉ではない。
 その鋭さのまま孟逸を見据え、龍晶は問うた。
「朔夜をどうする気だ」
 孟逸は答えあぐねた。この目は、生半可な答えを許さない。
 国が朔夜――否、月夜の悪魔と呼ばれる兵器をどう扱うのか、具体的には聞いていない。
 戔が出兵を止める代わりに苴が滅ぼす事になるのであろう繍へ連れて行くのが本筋だろうとは思う。そもそも他に戦の相手は居ない。
 だがそれを答える事は出来なかった。
 どう考えてもそれは、兵器として利用するという事になるだろう。
「ごめんなさい、孟逸さん」
 緊張は皇后の意外な言葉で破られた。
「心配なんです。陛下は勿論、私も朔夜の今後の事が気にかかっているから、それが陛下をますます追い詰めてしまって。…だから、こんな言い方になっちゃうんです。ごめんなさい」
「そんな、勿体のうございます。ご心配は当然です。明確に答えられぬ私が悪いのです」
 孟逸は頭を下げ返して、国王夫婦の視線から逃れた。
 正直、王の視線は怖かった。得体の知れぬものを見る目が己に突き刺さる感覚に寒気を覚えた。
 世間知らずで強情なだけの若者だと侮っていた部分があった。それが突然、深い闇を見せられた。
 逃げたくなった。
「つまり、先の事は分からねぇって事か」
 燕雷の言葉に頭を下げたまま頷く。
 朔夜の処遇は今後の情勢次第だろう。苴は戔の出兵を待つと言うだけで、代わりに出兵するとは明言していない。ならば、朔夜を繍に行かせるのは筋が違ってくる。
 軍部が今後どう動くか、そこに拠る所が大きいだろう。
 それとも軍部が不要だと断定すれば、或いは。
「まあ良い。そんな事だろうと思った」
 笑い混じりの燕雷の言葉に顔を上げる。
 片頬で笑う旧知を訝しく見返して。
「そんな事、とは」
「お前の返事がどうであれ、こちらのやる事は変わらない。ただ、お前がこの一件をどう考えているかを知りたい。そうだろ、龍晶」
 話を振られた王は、微かに頷いたように見えた。
 もうあの恐ろしいまでに鋭い目は無い。また何処か遠くに行ってしまったような。
「…私は…」
 飲み下せない何かを表す言葉を探さねばならなかった。
 それを口にしたら立場は危うくなる。それ故に、目を背けてきたもの。
「初めからこの話に気乗りはしませんでした。おかしいと思うのです。一人の人間を国の取引の材料にする事自体が…いえ、彼の力を見縊る訳ではありませんが…」
 そして誰からも目を逸らし、独り言のように呟いた。
「軍部には彼を憎む者は未だに多い。そんな中に拘束されたも同然の彼を放り込むのは、猛獣に獲物をやるようなものです。国の思惑など猛獣は知った事ではないでしょう。危険過ぎます」
「安心しろ。そんな危険は冒させない」
 きっぱりとした、王の宣言。
 その意と、これまでの態度との違いの二重に驚いて、孟逸はその若者を直視した。
 そこには、揺るぎない目があった。
「朔夜は逃がす。出来れば、国外へ」
 再び驚かざるを得なかった。が、周囲の空気は全く動じなかった。
 この場に居る誰もが、それを当然の事として捉えている。
 そして気付いた。自分はこの秘密の企みに引き入れられたのだと。
「苴には何と…いえ、それ以前に、桧釐殿はそれをご存知なのですか」
「知らせる訳ねぇだろ」
 王らしからぬ口調でぶっきらぼうに言い捨てる。だがこの若者にはそれが妙に似合う。
「苴には…いや、戔も含めて、俺は騙す気で居る。朔夜は消えた、無いものは渡せぬから別の交渉をすべきだと言う」
「上手くいきましょうか」
「上手くやるんだよ。やるしかない」
 龍晶は暫し口を閉ざした。眉間に刻まれた皺が、言葉とは裏腹の不安を物語っていた。
「孟逸、お前には苦労をかける事になる。済まないとは思っている。だがお前が心ある人間だと見込んでこの企てを話した。これから苴で上手く立ち回ってくれ、頼む」
 横に居た皇后も無言で頭を垂れた。
 燕雷は肩に手を置き、頷いた。
 否と言える筈が無い。
「分かりました。ご期待に沿えるように振る舞いましょう。朔夜の為に」
 それを聞いて、王の正気の目は再び遠のいた。
 そして譫言のように言う。
「戦はしてはならぬと母が言う…。あいつの為だけじゃない。あいつ一人を守れぬ俺に、この国の民は守れぬと思うんだ…」
 皮肉に自嘲して。
「もう殆ど死にかけているのにな」
 それ以上は会話にならず、孟逸は王の元を辞した。
 燕雷と共に後宮を去り、回廊に至ってやっと口を開いた。
「どこまでが正気であられるのでしょうか」
 他人に聞かれてはまずい問いだ。周囲に誰も居ない事を確認し、声をひそめた。
「正気の有無は正直分からんが、本気である事は確かだ」
 燕雷は特に気を遣わずそう答えた。
「本気ですか…」
「巻き込まれるのが嫌ならこの話、忘れて良いぞ」
「いえ、そういう訳では」
 朔夜を逃がす事に異論は無い。気になるのは別の所だ。
「あの病は快方に向かうのでしょうか」
「それは…」
 初めて燕雷は声を落として問い返した。
「体の病の方か?それとも気の病か?」
「私は御身の無事を祈っているのです」
 遠回しにそれは王の死期を尋ねているのだと燕雷は気付き、苦く笑った。
「…治るよ」
 治って貰わねば困る。否、今死なれてはならないと言うべきか。
 本人に自覚は無いが、彼が存在する事で保たれている国同士の関係は確かにある。
 その緊張の糸が切れた時、何が起こるかは予測出来ない。
「苴には戔王は伏せっているとだけ伝えてくれ。本人は気の病すら外交の手段としているから、必要ならそれも言って良いだろう。まともな話が出来る状態ではない、と」
「了解しました」
「仕方ないよな」
 繋がらない発言を訝しむと、燕雷は苦笑いを深めて顔を逸らしつつ、話を繋げた。
「孫みたいなもんだからさ、年齢的に。死なせたくはないんだが…。運命ってやつか。こればかりはどうしようも無いんだろうな。俺はそういう役回りなんだろ」
 孟逸が何も言えないで居ると、彼は首を横に振って己の発言を否定し、付け加えた。
「やれるだけの事はするよ。若い者の為にさ」


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