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月の蘇る
  9
 水面に瞬いていた残照は、いつしか月明かりを映す仄かな煌めきとなった。
 船上の揺めきに身を任せ、夜空を見るともなく見る。
 先の事を考えられぬ程消耗していた。かと言って眠る事も出来ず、ただ虚しく去らざるを得なかった都の事を考える。
 出航準備をしていた軍用船を拝借した。宗温から先行するよう言われたと嘘を吐いて。
 舵を取る気でいた兵に同行を問われたが、断って宗温への報告を頼んだ。
 だから既にこの無謀は宗温を通じて龍晶らの知る所となっているだろう。そう、無謀だ。
 一刻も早く城から出なければならなかった。これ以上、悪魔の出現を抑え込む自信が無かったから。
 戦場に行かねばならなかった。が、軍隊に混じって行く訳にはいかなかった。悲劇はそこで起こり得る。
 せめてもの方策としてたった一人で船に乗り込んだが、気休めでしかないだろう。
 悪魔は人の血を欲している。
 この衝動を抑えられる力が必要だった。
 殺されても良い。この存在を消せるならば。
 皓照への文の返答を待たずに都を出た事が、何よりの無謀だった。
『つまらねえ事考えてるな』
 悪魔の声にああ、と呻く。
『あの金髪野郎に殺されたいだと?悪い冗談は言いなさんな』
「現実問題、皓照がお前を止めたら勝てねえだろ」
『俺じゃねぇ。お前が弱いんだ』
「…知ってるよ」
『お前が消えてくれさえしたら、俺はあんな野郎に負ける事は無い』
「そうかな…?」
 悪魔は不満げに鼻を鳴らした。
『お前が悪いんだ。なよなよの王様を出汁に腑抜けた生活を送りやがって。子供相手に竹刀なんか振って、どこの好好爺だよ。俺達は戦場にしか居場所の無い悪魔なんだ。他人の血を浴びる事でしか生きられない。早く人を斬れ。もうこれ以上堕落するのはまっぴらだ』
「お前さえ居なければ俺は今の生活で全く困らないんだけどな」
『寝惚けた事言ってんな。お前から刀を取り上げて何が残るって言うんだ』
 少し考え、あっさりと答えを出す。
「残らないね。何も」
 そこに悔恨も何も感じない。寧ろ前向きに考えられる。
 人を傷付けなくても良い自分に。
「あいつがそれを望んでくれるから、俺は別にそれで良い。生き方なんてまだ、どうとでもなる筈だ。お前さえ居なければ」
『馬鹿だな』
 悪魔は不気味に笑う。
『あいつはもうすぐ居なくなるんだぜ?』
「…嘘だ」
『俺が消す』
「やめろ」
『当然だろ。俺が俺で、お前がお前で居る為の邪魔者は、この手で消すんだ』
「やめろ…!」
『嫌ならお前から元に戻れよ。ほら、刀を持って人を斬りに行け。ほら、早く』
 意に反して手は刃を抜いていた。
 だが、ここに人は居ない。着岸し、集落を探さねば。
 櫂を手にした感覚で目が覚めた。
 流れに逆らう重みが己の行為を自覚させた。
「消えろ!」
 悪魔に怒鳴った。
 高笑いと共に、もう一つの意識は消えた。
 握りしめていた櫂から離れる。小舟は川の流れのままに水面を滑る。
 溜息と共に四肢を投げ出して転がった。
 瞬く星々と、静かな水音。嘘みたいな静寂。
 ここに友が居てくれたら、きっと良い夜になっていただろう。
 孤独を孤独と知ってしまった。
 出会う前なら、こんな悲しみなど湧かなかったのに。
 自分には人を殺す事しかないと信じ諦めていた、あの頃なら。
 確かに他に何が出来る訳でもない。
 だけど、そんな何も能の無い自分だからこそ生きていける。あいつがそれを望んでくれるから。
 もしもこのまま月夜の悪魔として変わる事の無い自分なら、消えるべきだ。
 でも、変われない。
 生きていたいのに。
 あいつと一緒に、生きて笑い合いたいのに。

 三日振りに後宮へと戻った。
 戻っても良いものか、確証は無かった。が、華耶に報せねばならないと理由を作った。
 本当はただ安らぎが欲しかった。桧釐らに指摘されるのを否定する余裕も無く限界だった。
 従者に支えて貰い、やっと寝室へと入って。
「あ、王様。お帰りなさい」
 そこに居る筈の華耶でも十和でもなく、於兎に出迎えられて面食らった。
 それも長椅子に寝転んで寛ぎ放題の格好だ。
「華耶は?俺は入っても良いのか?」
「勿論」
 何を言わんやとばかりに返され、とりあえず寝台に腰を下ろした。
 従者を下がらせる。彼らは若干不審な目で不敬な先客を訝しんでいた。
「華耶ちゃんなら、春音とお散歩に行ったわよ」
「こんな時間に?」
「夜泣きするのよ、赤子ですもの。お散歩って言っても、後宮の庭を一回りするだけだから大丈夫」
 十和も一緒なのだろうし、夜更けとは言えそこまで心配は無いのだろうが。
「乳母殿はこんな所に居て良いのか?」
 夜中の散歩なんて危険な事を、后が自らやっている点は龍晶には気が気ではない。
「お后様にどうぞこちらでお休み下さいと言われたその通りにしてるのよ。悪い?」
 帰ってくるまでの短い時間の辛抱だ。そう自らに言い聞かせて、彼女は居ないものとして思索に耽る。
 が、放っておいて貰えなかった。
「三日もここに戻らないなんて、王様がそんな不義理を働く人とは思わなかったわ」
「は?不義理って何だよ?」
「華耶ちゃんに黙って何してたの」
「仕事に決まってんだろ。何言ってんだよ」
「三日も寝る事なく奥方様にも会わず?そんな事ある?」
「執務室で仮眠しながら、だ!疑うなら桧釐に聞け」
 何が言いたいのか考えるだけでも苛立ちが勝る。
 だがその苛立ちを浴びながら、怯む於兎ではない。
「ふうん。華耶ちゃんより大事な仕事が有るとは思えないけど。ま、王様なら他の女にうつつを抜かすのも仕事のうちかしらね」
 体が動けば殴っていたかも知れない。幸か不幸か、それだけの体力は無かった。
「彼女より大事な人なんか居ない!俺には華耶しか…!だから近くに居るには危険だったんだ。悪魔の刃に巻き込む訳にはいかないから。朔夜だってそれを何より恐れている筈だ」
 怒りに任せて我知らず全てを叫んでしまった。
 ひたと据えられた於兎の目。自分が言わでもの事を言った事実に息を飲む。
「どういう事?」
 頭を抱えて息を吐き出す。於兎の問いには無視をして。
「朔夜がまた自我を無くしたって事?」
「…そこまでは、まだ」
 呟くように答える。そう思いたいだけだが。
「別に隠さなくても、私だってあの子に斬られそうになった事くらいあるんだから。分かるわよ」
 意外に思ってまともに見返した。
「その減らず口のせいで?」
「違うわよ。失礼ね。繍で華耶ちゃんが捕まった時の話よ」
 冗談なのかと思ったが違うようだ。於兎は続けた。
「朔夜は梁巴の人達を安全な場所まで連れて行った上で、一人で王城に乗り込んで敵と戦ってた。そこに私は駆け付けたの。何か助けになればと思って。でもあの時、あの子には何か…違うものが乗り移ってた。何の感情も無くて、普通に刀を向けられて…斬られると思った」
 聞く龍晶の脳裏には、哥軍に捕虜とされた時、初めて見た朔夜の人ならざる姿が浮かぶ。
 絶体絶命の中で一人、敵を殲滅した。
 あの時の、神々しいまでの姿と、何の感情も無い冷たい視線と。
 斬られると思った事と。
「紙一重の所で朔夜に戻ってくれたから何事も無かったけどね」
 戻ったのか、と低く呟く。
 悪魔と呼ばれる存在の贄となった身が痛みを呼び起こす。
 何が違ったのだろう。否、答えは明白だ。
 あの時、朔夜は俺を憎んでいた。
 それだと、あれは朔夜自身の意思だという事になる。
 身を起こしている事が辛くなって、そのまま寝台に横たわる。華耶が帰ってくるまでは起きていたかったのだが。
――あの時は記憶を無くしていたから。
 誰に対してでもない結論付けをした。まるで言い訳のように。
「で、何があったの?」
 於兎の問いは無視をした。華耶が帰ってきたら応えるつもりだった。
 本当はそんな事は今どうでも良かった。
――俺は、あいつを本当に許せたのか?
 どこかで、まだ、蟠りは残っている。
 あいつさえ居なければ、と。
 切って捨ててしまえば、それが出来れば、今この苦しみから開放されるのに。
 あいつを守ると決めたのも自分なのに。
「於兎さん、帰りました。あ、仲春」
 華耶の声ではっと我に返る。
「帰ってたんだ。お疲れ様」
 彼女は我が子を抱いていつものように微笑んでいる。
 それが何だか済まなくて。
 何か、騙しているような。
「於兎さん、今は機嫌良く寝ていますから、後はお願いして良いですか?」
 華耶は春音を於兎に手渡し、頭を下げた。
「勿論。華耶ちゃんはそちらのお子様を、よろしくね」
 おい、と不機嫌な視線を送る。背を向けている華耶には見えず、彼女はくすりと笑った。
「はい。分かってます」
 そのくらい周囲にとっては手のかかる面倒な存在なのだと、自分を省みて文句を飲み込んだ。あとは自己嫌悪しか残らない。
「じゃ、王様、あとの話は華耶ちゃんから聞くから」
 於兎は言い残し、春音を抱いて去って行った。
「話って?」
 華耶はきょとんとした表情で振り返る。
 龍晶は告げるべき事を淡々と告げた。
「朔夜が一人で反体制派の拠点に向かったと、報告があった。無論、あいつの独断だ。まだ誰も行けとは言ってない」
 華耶はじっと横たわったままの龍晶を見詰め、訊いた。
「怒ってる?」
 怒りが無いと言えば嘘になる。朔夜に出し抜かれた形なのだから。
 だが、怒りよりも脳内を占めているのは、迷いだ。
「なあ、華耶。俺の代わりに決めてくれないか?俺よりもあいつの事はよく知っているから」
 王としての決断を託すと言うのだ。華耶は驚いて枕元へ寄り、龍晶の顔を覗き込んだ。
「何を?」
 言葉を選びながら、選択肢を提示せねばならなかった。
「あいつを…朔夜を追いかけて止めるべきか、それともこのまま行かせるべきか…。あいつを守る必要もあるが、犠牲がより少なく済むのはどっちか…」
 言ってしまって、口が滑ったと思った。
 朔夜が悪魔であると、華耶に告げてしまったようなものだ。
 恐々、彼女の顔を見る。
 必死に考えを巡らせる顔が、龍晶の視線に気付くと柔らかく笑った。
「大丈夫だよ、きっと。そんな恐ろしい事にはならない。朔夜は朔夜なりに考えて、一番良い方法を取ってる筈だから」
「…ああ」
 分かりきっている事だが、その言葉が欲しかった。
 朔夜を信じて疑わない、華耶の言葉が。
 そしてそれは、悩み考える事からの逃避でもあった。
 それでも良い。もう疲れた。
「朔夜はきっと戻って来る。いつもそうだもの」
 頷く。そして赤子が母を求めるように手を延ばした。
 頭は霞み、瞼は重く、動く事もままならないが、一言だけ。
 華耶を抱きしめて言った。
「あなたを守る為なら俺は何だってしてしまう。…ごめん」
 耳元で鋭く息を飲む音がした。
 分かっている。
 俺が華耶を守る為に朔夜を殺すのなら、その俺を殺すのは、この最愛の人だ。

 いつものように縁側から中を覗き込んで、いつもとは違う空気に気付く。
 妙に片付いている。そもそも男やもめの暮らしに物は少ないのだが、この長屋から生活感を無くすくらいにはそれらが無くなっている。
 もしや家主すらここから消えたのではないかと疑念を抱いた時、当人が背後からのっそり現れた。
「ああ、燈陰、居ましたか」
「それはこっちの台詞だ。藪から棒に出てきやがって」
「薮なんて無いじゃないですか。君がよく手入れしている証拠ですよ」
 的外れな褒め言葉は無視して横を素通りし、長屋の中へと入る。
「家移りするのなら新居を教えて下さいよ?君が居ないと何かと不便ですから」
「断る」
 ぴしゃりと言い放ち、奥から手に取ってきた燕雷からの書状を縁側に向け投げた。
 板間を滑って手元に来たそれを皓照は拾い、封を解き広げる。
 が、既に一度封を切られた痕跡がある。皓照は横目に書状を投げ渡した男を見た。
 ここぞとばかりに燈陰は毒付く。
「貴様への伝言など、二度としてやらんからな。どうして俺がこんな事に巻き込まれなきゃならん」
「あながち君に関係の無い話ではないようですよ?」
「いや、関係無い。今更親も子も無いだろ」
 矢張り勝手に封を切り読んでいた。言っている事との矛盾に皓照は笑みを深める。
「ご安心ください。既に手は打ってあります」
「どんな手だ?」
「気になりますか?」
 燈陰は不快げに眉根に皺を寄せ、やや間を置いて吐き捨てるように言い訳した。
「疑問に思っただけだ。お前があいつを殺す事以外に方法があるのか」
「ええ。別に私でなくても良いというだけです」
 皓照は腰掛けていた縁側から立ち上がり、改めて長屋の中を見渡して問うた。
「何処に行く気ですか?」
「だから、どうして貴様に教えねばならない」
 苛立ちも露わに奥の土間へ逃げようとした背中に、皓照は構わず呼び掛けた。
「梁巴に行くつもりなら、戔を経由して行きませんか?」
 燈陰の動きが止まった。
 皓照は更に畳み掛ける。
「戔では梁巴に人を送ろうと考えているようです。ああ、皇后陛下から君に報せがあったのなら既にご存知ですね。ならば話は早い。勝手に行くのも何ですから、王宮に挨拶して行きませんか?」
 溜息混じりに振り返る。
「どうして貴様に指図されなきゃならない」
 天邪鬼な男は、肩を竦めて笑った。
「指図なんて。お誘いですよ。私もそろそろ戔王陛下と旧友のご機嫌伺いをせねばなりませんから」


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あきゅろす。
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