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月の蘇る
  8
 忘れていたな?自分の片割れだってのに。
 他人の幸せそうな姿を見て勘違いしてたろ。
 自分の正体。俺達自身が何者かって事を。
 思い出せよ。
 俺の事を。
 思い出せよ。
 人を斬る愉悦を。
 思い出せよ。
 人間は皆、敵だって事を――

 闇の底から急激に掬い上げられたかのように目覚め、光の眩しさに寝過ごした事を知る。
 見飽きた光景の中に一つ異質な物を見つけて怠い体を起こした。
 鉄格子の扉は開かれ、その手前に竹で編まれた容器が置かれていた。
 蓋を開くと白い饅頭が覗く。もうかなり冷めているが、食えない程固くはなっていない。
 寝台に戻って腰を下ろし、小麦の味を噛み締めながら寝惚けた頭を回す。
 牢の鍵を開けてこの朝食兼昼食を置いて行ってくれたのは燕雷だ。事情を知り、尚且つ悪魔を恐れぬ旧知に予め鍵の開け閉めは頼んでおいた。食事は彼の親切心だろう。
 それでも燕雷は悪魔の存在を信じていない。朔夜の杞憂と考えている。信じていないからこそ引き受けてくれた風でもある。
 だが、残念ながらそれは杞憂では済まない。
 溜息を吐けばなけなしの己まで出て行きそうだ。体が萎む。
 誰にも知られぬこの場所で、夜ごと悪魔と戦っている。意識の中の戦い。体を乗っ取られまいと。
 夜明けになれば奴は消える。それまで耐える。悪魔の囁きに屈しないように。
 日の出と共にぐったりと眠り、昼過ぎの今やっと目覚めた所だ。
 こんな生活が続くのかと思うとそれだけでげんなりする。早く楽になりたい――人を、斬り殺さねば。
 己の欲求にぞっとする。既にこれは悪魔の思考だ。
 だけどもう、俺なんてここには居ないんじゃないか。
 もう、それで良いんじゃないか――

 夕暮れ前に燕雷が鍵と夕飯を持ってやって来た。
「結局一日中ここから出なかったのか」
 呆れ混じりの問いに肩を竦める。
「怠いし眠くて」
「不健康極まりないな」
 既視感を覚え、記憶を辿り、思い出す。
「龍晶にも同じ事言われた。ここに来たばかりの時」
 燕雷は軽く笑って、鉄格子を背凭れに座った。
「あいつ、どうしてる?」
 問うと、苦笑が返った。
「気になるなら自分で見て来いよ」
「それは出来ない」
 茶化してやりたいが、顔を曇らせて俯く様が可哀想で、燕雷は素直に教えてやった。
「向こうも同じ事を聞いてきたぜ。朔夜はどうしてるかってさ。あいつはあいつでここに来れない言い分があるみたいだ。ま、加減もそこまで良くは無いしな。根詰めて仕事したら、後はばったりだよ」
「無理するなって言っておいて」
 それは無理をして仕事をするなという意味でもあるが、それ以上に無理をしてここに来るなという意味の方が大きい。
「あいつはここには来れないよ。母さんを見つけちまった場所だから」
「そうらしいな」
 この奥の牢で、彼の母は骨となって息子との再会を待っていた。
「だからここを選んだのか?」
「んー…勝手を知ってる場所だからだけど、そうかも知れない」
 そこまで考えなかったが、好都合だった。
 龍晶と顔を合わす事だけは避けねばならない。
 己の中の悪魔が何をするか、分からないから。
「本当に危ないのなら、行軍は無理なんじゃないかとも思うけどな」
「だから一人で行く」
 燕雷は訝しげな顔をする。
 南部の反体制派を攻める為の行軍。十日近くの旅路を数多の兵達と共に行くのは危険が過ぎる。
 味方の兵を悪魔の贄にしてはならない。
「一人で行くなんてそれも無茶だ。大体、場所も分からないだろ。土地勘も無いのに」
 んー、と気のない声を出して。
「宗温に地図を貰えるように頼んでくれないか?敵の場所と、大体の行軍予定や宿営地が分かれば良い」
「それだけで辿り着けるのか」
「繍ではいつもそうしてた。誰も悪魔に触れたくないから、牢に戦地への地図が放り込まれる。土地勘も何も無くても、行けば敵は分かるからな」
「月夜の悪魔はまだ健在って事か。自ら戻る事もあるまいに」
 少し不満そうに唇を尖らし、溜息でそれを崩す。
「仕方ないよ」
 聞こえるかどうかの声で呟く。
「気は進まんが、皓照へは伝言しておいた。どうなるかは分からんが、奴は放ってはおかんだろう」
「うん。ありがとう」
 皓照へは悪魔の復活の可能性を伝えた。
 もし最悪の事態に陥れば、止められるのは皓照しか居ない。
 それで以前のように息の根を止められたとしても、朔夜はそれで良いと信じている。
 消えてしまった方が良い。この存在ごと。
「そろそろ帰った方が良い」
 窓から差し込む日が橙に染まる。
 燕雷を促して牢から出すと、彼は錠を掛けながら言った。
「黙って出発するなよ。せめて国王夫妻には挨拶して行け」
「…それは保証出来ないな」
「待ってるぞ、あいつらは」
 返らない返答を諦めて燕雷は去った。
 溜息を落とし、気怠く立ち上がって扉の開かない事を確認する。そして燕雷の置いて行った夕飯を手に取った。
 見た目は朝と変わらない竹材の小箱。
 蓋を開いて目を見開いた。
 中身はいつもと違う、握り飯が入っていた。
 そして小さく折り畳まれた紙片。
 開くと、辿々しくも可愛らしい字で書かれた文字。
『しっかり食べて早く帰っておいでね 華耶』
 唇に小さく笑みが灯る。
 もうすっかり字を書けるようになったのか、一字一字龍晶に教えられたのか。
 いずれにせよ、二人が並んで囁き合いながらこの短い手紙を書いたに違いない。
 温かな場所はすぐ傍にある。
 早く帰る事は出来ないけれど。
 同じ場所で一生を閉じた龍晶の母もそう感じていたのだろうか。
 大事な人の幸せを願いながら。
 いつかの再会を夢見ながら。

 階段の登り口で先に行く人を見、桧釐は足を早めた。
「宗温」
 呼び止めると、最初の踊り場で彼は足を止めた。
「桧釐殿…これから陛下の所へ?」
 問いに頷き、数段を駆け上がって肩を並べる。
「お前、どうする気だ?」
 声を顰めての問いに、宗温は歩き出しながら別段気遣わず答えた。
「どうするもこうするもありませんよ。予定通りに事を進めるだけです」
「無茶だ。あれを忘れた訳じゃないだろう」
 二人が共有する、あの脅威の記憶。
 それを前にして、淡々としている宗温が信じられない。
「忘れるものですか。しかし、我々にはどうする事も出来ない…それも、忘れられぬ教訓でしょう」
「だからこそ未然に防ぐんだろうが」
「その方法があるのなら承ります」
「あいつを檻から出さない事だ」
 白々と横目で見られ、無視する訳にも行かず桧釐は舌打ちした。
「それはあの時の二の舞だって?だが以前は間抜けな俺が鍵をかけ忘れただけだろ」
「いいえ。貴殿は忘れた訳ではなく、温情で鍵をかけなかったのです」
「同じ事だろ」
「同じ事が起こり得る。だから解決にはならないというだけです」
 苛立ちを露わに溜息を吐く。
 目的の部屋の前まで来てしまった。
「安心して下さい。万一の時、真っ先に犠牲となるのは、同道する我々です」
 二度目の舌打ち。かつて死線を共に掻い潜った仲間を睨む。
「だからこそ止めてるんだ」
 言い放って、扉に手をかけた途端、中から何かが倒れる派手な音がした。
「陛下!?」
 驚いて目をやると、龍晶その人が椅子や周囲の調度品と共に倒れていた。
 病状の急変で意識を失ったのかと焦って駆け寄ったが、脈を取る前にその心配は無い事が分かった。
「急に入ってくるな馬鹿!」
 怒鳴られて、しかし尤もな言い分に苦笑いするしかない。
「申し訳ありませんでした。大丈夫ですか?」
 唸りながらその場に座り直す。
 それにしても派手に転けたものだ。
 倒れた椅子を直し、宗温が手を延ばす。
「立てますか?」
 龍晶は息を吐きながら手を取り、震える足でやっと椅子に座った。
 顔色は悪い。
「どうされましたか?それも、お一人で?」
「ここに誰か居れば確実に巻き込むだろう。だから一人で居た方が気が楽なんだ」
 肝心な所が抜けた返答に臣下の二人は訝しげな目を合わせる。
「…長椅子まで連れて行ってくれ。少し休みたい」
 二人の疑問を察して龍晶は言った。
 五歩も行けば辿り着く場所まで、肩を支えられて歩み、倒れ伏す。
 長椅子の上に膝を抱え、その腕の中に顔を埋めて、それでやっと緊迫し切っていた息を吐き出して龍晶は言った。
「あいつを信じてない訳じゃないんだ。だけど…今にも襲われるような気がして」
 悪魔への恐怖は誰よりも身に刻まれている。
 急に扉が開いて驚きの余り転けたのは、頭で状況を認識するより先に体が逃げようと動いたからだ。
「牢には鍵が掛けられています。あいつがここまで来る事は無い」
 冷静に桧釐が反論すると、怒気を孕んだ声が返ってきた。
「本気で言ってんのか!?そんなもの、奴の前では何の意味も無いって分かってるだろ!?」
 悪魔の力は人智を超える。が、鍵の有効性は朔夜自身がずっと口にしてきた事だ。
「落ち着いて下さい。とにかく、悪魔はまだ現れてはいない」
「…ああ。あいつが一人で戦ってくれているから」
 そういう友への済まなさがあるのだろう。閉じ込めるだけ閉じ込めておいて、他は何も出来ない。
 顔を見る事も、言葉一つ掛ける事も出来ずに居る。
「朔夜君と話をしてきました」
 宗温が告げると、龍晶は反射的に顔を上げた。
「反体制派の掃討は予定通りに共に行くそうです。ただ、道中の行動は別にする、と。本隊からは距離を取りながら、拠点にて合流する手筈となっています」
「…そうか」
「俺は行かさない方が良いと思いますが」
 すかさず桧釐が口を挟んだ。止めるなら今しかない。
「どう考えたって危険過ぎるでしょう。悪魔を野放しにするなんて」
 宗温は何か言いかけてやめた。判断は王へと委ねたようだ。
 その龍晶は、瞼を閉じて暫く黙りこくってしまった。眠っているかのようだが、眉間に込もる力が深い懊悩を物語っていた。
 やっと出した声は、掠れていた。
「悪魔は俺を殺しに来る。それさえ果たせば満足するだろう。犠牲は一人で済むという事だ」
 すぐには理解し切れない理屈を、何とか噛み砕いて。
「それは、何かの冗談ですかね、陛下?」
 引き攣る口で返すしかない。
 宗温は責任を感じて問うた。
「矢張り朔夜君に掃討へ加わって貰うのは止めた方が宜しいでしょうか」
「いや。連れて行ってやってくれ」
「陛下」
「それしかないんだ。このまま閉じ込めていてもあいつが苦しみ、やがて悪魔に支配されるだけ。朔夜が言った事だ…悪魔の望みを叶えてやるんだと。それしか術は無いんだと思う。あいつに人を殺させる事しか」
 唇を噛み、友として救ってやれない悔しさを飲み込んで。
 王として、腹を決めた目を上げた。
「朔夜と共に、反体制派を平らげ、国の憂いを取り除いて来てくれ、宗温。王として命じる」
「は。承りました」
 頷き、その問題はひとまずこれで良しとして、桧釐を見上げた。
「明るい話もさせてくれ。この国の未来の為の話を」
「勿論です。何でしょう?」
「旱魃に苦しむ各地に水路を建設する。啓州だけの問題ではないだろう?この国には川が少ない。水が必要だ」
「それは分かっていますが、しかし」
「費用は灌から借りようと思う」
 先刻まで書き物をしていた卓を指す。
「義父上に宛てて書状を書いていた。恐らく否とは申されまい」
「借りると言っても…莫大な借財となるでしょう…?水路だけではなく、軍の整備や学舎の創設もあります。返す当ては…」
「金鉱脈もある」
「そうですけど、金を当てにするなんて博打だとよく分かっていらっしゃるでしょう。あなたらしくもない」
「いや、そうじゃない。金鉱脈を掘る為の費用も今まで以上に必要だと言う事だ。だが無駄な散財とはならないだろう。博打に勝てる当てがある」
「ほう?」
「金鉱脈を知り尽くした彼らの勘で自由に掘らせる。費用不足でまだ手付かずの場所があるからな。恐らく金はまだ出て来るだろう。前王が制限していたお陰だ」
 それに、と続ける。
「まだ手付かずなのは鉄も同じだ。鉄鉱石はまだ簡単に手に入る。金と同時に採掘し、農具を作る。この国は勿論、他国にも売れる」
「水路が引かれると同時に農地も増えるという事ですか」
「ああ。黍も順調に種が取れるようになった。あれを各地に配れば飢饉も改善する。それと、もう一つ。蚕だ。哥王から頂いたものを後宮で育てて貰っている。これも各地で増やせば財産となる」
「はあ、壮大な計画ですな。その為の投資だと?」
「ああ。将来、何倍にもなる投資だ」
 画に描いた餅だろうか。そうであったとしても、やるだけの価値はあると龍晶は確信している。
 国力が増せば戦をする必要が無くなる。攻める理由は無くなり、攻められる恐れは減る。
 自分の生きているうちにそれが全て実現するとは思っていない。全て、春音の世の為の布石だ。
 この国に春を呼ぶ為に。
「では陛下、書状は灌へ届くよう手配します。こちらはもう封をしても?」
 卓上にあった書状に目を通した桧釐が問う。
「ああ、頼む」
「では、そのように。…ああ、これではあまりに無防備ですから、護衛兵を付けましょう。宗温、頼む」
「はい」
 言うべき事は言って、部屋を出ようとした時、向こう側から扉は開いた。
「…なんだ、燕雷か」
 中を覗いた燕雷は、何かを探すように部屋を見回すと龍晶に訊いた。
「朔は来ていないか?」
「いや?」
 嫌な予感を抱えつつ首を振る。
 燕雷は苦虫を噛み潰した顔に変わり、呻いた。
「どうした」
 緊迫した問いに、溜息で諦めを表して。
「牢に居ない。黙って行きやがった、あいつ」


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