月の蘇る 7 扉越しに賑やかな声が聞こえてきた。 病人が寝ている筈の部屋なのだが。 その中で一際目立つ声が妻のものであると気付き、桧釐は苦笑いしながら扉を開けた。 「あらあなた。お久しぶり」 何だか皮肉っぽい挨拶だが、事実であるので言い返せない。 「あれ?お会いしてなかったんですか?」 華耶がきょとんとして問う。その腕には春音が抱かれ、元気良く泣いている。 「そうなのよ。大事な妻を二日も放っておいたのよこの人」 「いやいや、後宮に居たら会えるものも会えない…じゃないですか」 尻窄みになる夫の反論。昨日帰ってきてから顔を見る暇も無かったのが本当の所。 それを見透かしたように於兎は笑う。 「今もたまたま出会ったって感じね?ご用件は私じゃなくて王様になんでしょ?どうぞ、ご遠慮なく」 促されて頭を抱えたい気分で入室する。 病床の王は意地悪く笑っていた。 「つまらん用件よりも先に大事な奥方に弁明すべきだろ」 「つまらないかどうかは聞いてから判断して下さいよ。あと、弁明は今夜落ち着いてからします」 「だってよ、於兎。土産も買わなかったぞ、こいつは」 それは体調を崩して予定外に旅を切り上げざるを得なくなったあなたのせいでしょう…とは流石に言えない。 「王様は華耶ちゃんに何を買ったの?」 於兎は参考までにという体で問うた。 何も買えなかった筈だ。自分で反撃出来ない桧釐の口元がせせら笑う。 龍晶はその顔をちらりと見ただけだが、華耶がおずおずと申告した。 「あの、この首飾りを頂いたので、それで十分です。それから二十歳の誕生日の記念に、新しい首飾りを二人で作るんです。義母上のものと、同じものを二つ」 「あらー!素敵ね!」 於兎は華耶の首元に目をやって感嘆を上げた。そして夫に怖い笑顔を向ける。 「良いわよ?私のは、既製品で」 蚊の鳴く声で桧釐は返事をした。 「で、何だ?こんな状態の王に持って来れる話なんて、どうでも良いものだろう?」 言われて、更に困ったように周囲を見回す。龍晶の予想とは真逆で、女子供には聞かせられない。 「人払いを…」 「嫌よ。私を誰だと思ってるの?たまには表の話を聞かせてくれたって良いじゃない」 耳敏い妻の横槍にますます頭を抱えたくなる。 「それに、お医者様から王様の病状を悪化させるような話はするなって言われたんでしょ?私達を退かせてまでする話って何?」 「いや…それは…」 尤もな妻の反論にたじたじになっていると、華耶が春音をあやしながら言った。 「あの、ご迷惑でなければ聞かせて下さい。彼は一人で抱え込んでしまうから」 気まずい苦笑いで龍晶は桧釐に言った。 「互いに言い逃れは出来ないな。聞かせてくれ」 「では…。先日の暴徒達の件なのですが…」 龍晶は顔色を変えず問うた。 「処断についてか?」 「陛下のご意向は伺うべきかと思いまして」 「それは殊勝な事だ…」 襲撃の最中、殺すなと言った。 普通は有り得ないだろう。王を襲う者は厳罰に処されて然るべきだ。 王が自分でなければ、その普通は当て嵌まる。 「お前は極刑としたいのだろう?前のように」 「それが当然かと」 「そうしなければならないのですか」 華耶が僅かに震える口で問うた。 「そう決まってしまっては、陛下はまた、夜も眠れない程苦しんでしまいます。桧釐さん、何とかならないんですか」 桧釐は后に目を向け優しく笑って答えた。 「そう…その事があるからお伺いに来たのです。本当は陛下に知られぬままでも良かったのですが」 「俺に隠れて処断すると?そんな事は許さん」 「そう言うでしょう?やっぱりあの医者に従う事は無理がある」 「お呼びですかな?」 その医者先生が扉を開けて入って来、桧釐は間抜けに口を開けて言葉を飲んだ。 龍晶は鼻で笑って、祥朗を伴った老医師に寝床の上の体を向けた。 「ご足労感謝します。すみませんね、この減らず口が失礼な事を」 「言わせてるのは陛下でしょう!?」 龍晶は鼻で笑って流した。祥朗はころころと笑い、医師も笑いながら言い足した。 「私も従って頂こうとは考えておりません。陛下のご苦労が減るに越した事はありませんが、陛下は退屈を何よりも嫌われるのも存じております」 「面倒事が無くなれば、やりたい仕事が出来て良いんだがな。まあ、立場上そうも言っていられないだろう」 「しかし、療養中は仕事を制限する必要があるでしょう。我々家臣で片付けられるものは片付けますから、陛下はまず御身の快復を優先して下さい」 「ああ、そうだな」 意外にあっさりと同意され、桧釐は拍子抜けした気分で主人を見返した。 「何だ?」 「いえ…もっとごねられるかと思っていました」 「お前な、俺もそろそろ良い大人だぞ?主治医の前で病身に鞭打って無理しますとは言わんだろ、普通」 「はあ、成程。陛下もその辺の建前は使えるお年頃となられましたか」 「全く。お前は言葉を慎め」 肩を竦めて見せる桧釐に笑って、医師は言った。 「お元気で何よりです。すっかり熱も下がったようですし、今日はもうお暇しましょう」 「あ…お待ち下さい。お茶をお出ししますから」 華耶が慌てて引き止め、十和が茶器を卓へと並べた。 「では今暫くお邪魔しましょうか」 引き返した二人が卓に着く。十和の淹れる茶の香りが部屋を満たした。 「そう言えば、今日は朔夜殿の姿が見えませんが?」 医者の問いに答えたのは華耶だった。 「今日はお稽古をする日みたいです。ここに来るよう誘ったんですけど、どうも朝から道場で一人稽古をしているみたいで」 「何かあるんだろうな」 友の心理を読んだ龍晶が呟く。それに妻は小首を傾げた。 「何か?」 「俺と顔を合わせられない、何か事情があるんだろう。そうでなきゃこんな事はしない」 「そう…かな。何だろう…」 顔を曇らせる華耶を見て、何か安心させる推測を口にしようと考えたが、何も思い当たらない。 嫌な予感ならすぐに思い浮かぶ。嫌われる理由はいくらでもある。 先日の騒ぎで、自分達を守ろうと戦ってくれていたのに、それを否定するような命令を下した事とか。 「私はてっきり、朔夜殿が陛下の治療に成功して、それで今日はお休みなのかと思いました」 医師の言葉に心底驚いて見せたのは龍晶本人だった。 「治療?朔夜が?何故ですか」 「昨日、私が申した事なのです。陛下のご病気は朔夜殿が奇跡を起こせば完治するでしょう、と」 「残念ながらそうではありません。あいつには病を治す事は出来ないし、現に治っている訳ではなく、先生と祥朗の薬が今はよく効いているのですから…」 言いながら、それを聞かされた朔夜の行動を脳裏で辿る。 恐らくあいつは素直に言われた事を実行しようとした筈だ。試すだけはいくらでも出来るのだから。 見送りからこの部屋に戻ってきた朔夜は、力を使えるようここに居た人々を外に出し、かつて己が付けた傷痕を目にした。 そう、見てしまったのだ。未だに消えない己の罪を。 だからだ。きっと己を責めている。俺の顔も見られないくらいに。 馬鹿だな、と心の内で友に語り掛ける。 後で迎えに行こうと決めた。何度でも言ってやるつもりだ。お前のせいじゃない、と。 「ああ、そう言えば先生。救民街は近ごろどうなっていますか?全く訪う事が出来ず、気になってはいたのですが」 話を変える。華耶の気を紛らわしたかった。 「お陰様で、皆が元気で穏やかに暮らしておりますよ。医者としては暇が有難く、だからこそこうしてお城まで参上出来る訳です。そうそう、陛下が呼び掛けて頂いたお陰で、街を豊かにする技術者が来るようになりましてな。今は若い者を中心に、皆で井戸を掘ったり水路を作ったりしていますよ。完成すれば病が減り、私はますます暇となるでしょう」 医師が語り終えても龍晶は反応せず、口元に手を当てて動きを止めている。 目には不思議な光が宿っていた。 「陛下?」 訝しげに桧釐が呼んで、やっと上げた目元は笑っていた。 「一つ決まったぞ、桧釐」 「はい?」 訳が分からぬとばかりの表情の従兄を置いて、医師に尋ねる。 「例えば…その作業をする者が増えたとして、困る事はありますか?」 「はて。手は多いに越した事はないでしょう。ただ、陛下が褒美を与えて下さる技術者達以外は皆、手弁当でやっておりますが。それでも良ければ」 「無論です。彼らに必要なのは技術の習得ですから」 そして桧釐に向き直り、王命を下した。 「襲撃事件に加わった者達への刑罰は、救民街での労役とする。それを終えたら啓州各地で水路の作成及び井戸掘りの技術を伝え、自らそれに生涯を賭けて従事する事。これで決定だ。異論は許さぬ」 桧釐は苦笑とも諦めともつかぬ笑みで額を抱えて、溜息混じりに答えた。 「甘々ですが仕方がありませんなぁ。従いましょう。宗温にそっくりそのまま伝えてきます」 「ああ。一字一句違うなよ」 そして傍らに付き添う華耶に微笑み、腕の中でようやく眠り始めた春音の頭を撫でた。 「それがこの子の未来の為だ」 さらさらと生え揃った赤子の髪は、父に似た黒髪だった。 従者を声の聞こえぬ遠くに残して、龍晶は一人道場の入口の前に立った。 日が落ちようとしている。夏の西日を背に浴びながら、中へと声を掛けた。 「おい、いい加減に出て来い」 微かに動いたような気配はあった。だが、扉が開く事は無い。 「何やってんだよ、朔夜。返事くらい寄越せ」 扉の戸板を隔てたすぐそこから、細い声で問いが返ってきた。 「寝てなくて大丈夫なのか?」 龍晶は小さく笑って、扉に向けて答えた。 「ずっと寝かされてたら腐っちまうだろ。散歩のついでだ。熱が下がってるうちにな」 「そっか。…無理するなよ」 扉が開く気配は無い。黙ってしまえばそのまま消えてしまいそうな友に、龍晶は慌てて語り掛けた。 「なあ、何があった?先生に言われてお前は治療してくれようとしたんだろ?それで見たのか、傷痕を」 返答は無かった。恐らくそれは肯定なのだろう。 しかしそうではなく、それが朔夜が居なくなってしまった故の沈黙に思えて、それが耐えられず早口に捲し立てた。 「だから何だって言うんだよ。こんなものは、俺の弱さ故に出来たものだ。お前のせいじゃない。俺は言ったぞ、お前を許すと。だからいつまでも引き摺ってんじゃねえよ。こっちは良い迷惑だ。華耶の悲しそうな顔を見なきゃいけない俺の立場も考えろよな。彼女の為にもいい加減、開き直れよ」 応えは無かった。鍵も無い扉を開ける事は容易かったが、この手で開けてはいけない気がした。 眩しい残照の陰で、あいつは闇と同化してしまうと思った。それを確かめるのが怖かった。 流石に病み上がりの身が辛くなって、壁を背凭れに座り込む。 横の扉が開くのを待った。 「龍晶…そこに居る?」 壁越しに、漸く声が聞こえた。 「ああ。早く出て来い」 「お前がそこに居たら、出れない」 「はあ?別に扉は塞いでないぞ」 安堵も混ざって何かの冗談に聞こえた。 が、そうではなかった。 「日が暮れたら悪魔が出て来るから」 ぞわりと、背筋に寒気が走った。 封じようと努めてきた記憶が脳裏を占め、逃げろと本能が命じた。 座ったまま後退りして、しかし踏み止まった。 ここで逃げたら、あの時の二の舞となる。 そしてここに居るのは朔夜に違いなかった。 「何故そんな事を言う?」 声は恐怖に掠れた。 それに応える声も恐怖に加え罪悪感で細く、震えていた。 「声が聞こえるようになった。奴の声が。お前の事、まだ狙っている」 絶句して目前の扉を見詰める。 朔夜は続けた。いくらかしっかりとした声で。 「でも、奴に好きにはさせないから。ここに居る限りは俺は俺のままで居られるよう努力するから。でもずっとは多分無理だ。夜は前のように牢に入る。それで、もう少ししたらここから離れるから」 「離れるって、どこに」 「奴の望みが叶う場所」 顔を顰める。そして考える。悪魔の望みとは、何か。何故叶えてやる必要があるのか。 「…分からない。どういう事だ」 「贄が必要なんだよ。悪魔を満足させて大人しくさせる為の贄が。俺に刀は置けないって事だ、龍晶。お前の気持ちを無駄にするけど…」 壁を拳で叩く、鈍い音がした。 「…ごめん。俺は人を殺しに行く。それしか出来ない」 頭の中の混乱は、静かな落胆に収束した。 所詮、俺には友を救う力など無いのだ。 知った振りで偉そうな口を叩いていただけだ。 『刀を置け。お前が苦しむのなら』 それも全て、一人よがりな自己満足だった。 あいつの苦しみは、俺の手には届かない。 「宗温によるとさ、反体制派の拠点が見つかったらしいんだ。近々そいつを潰しに行く。勿論お前の許可が必要なんだけど。でももう良いよな?」 もう良いって、何が。 俺は――お前は、何を諦めてそう言う? 「行って良いよな」 眩い光線を放っていた太陽は遂に山の端に沈んだ。 夜が迫る。 「…ああ、急がなきゃ。龍晶、お前は早く戻れよ。そしたら俺は牢に行くから」 力の無い足で立ち上がって、ふらふらと後ろへと歩む。 もう何が正しいのか分からない。朔夜を牢に入れるべきではない筈なのに、自分はここから逃げようとしている。 行かせるべきではない。牢の中にも、人を殺す戦場にも。 なのに俺はまた、行けと命じるのか。 分かっている。命令など無くてもあいつは行ってしまう。 俺なんか居なくても。 「なあ、朔夜」 うん?と意外そうに声が返る。 「お前が怪我を治してくれた農兵達は、どうにか生かしてやる事が出来そうだ。労役の後に啓州で水路を作って貰う事にした。そうすればあの村もきっといつか蘇るだろう」 「へえ…そっか。お前らしいや。考えたな」 「お前が彼らを救ったんだ」 俺なんか居なくても良い。 お前がお前の光を持ち続けていてくれれば。 「忘れないでくれ。お前の力は人を救える事を」 細く、扉が開いて。 端正なのに何処か悪戯っ子のような、だけど今は雨に洗い流された後のような素の表情の顔が覗いた。 「龍晶…ありがと」 ふっと笑って、手を挙げる。 「ああ。おやすみ」 「おやすみ」 東の空は既に紺色の夜に染まっていた。 一番星が光る。 道無き道を行く旅人を導く、確かな光が。 [*前へ][次へ#] [戻る] |