月の蘇る 3 逗留している屋敷までの道はそう遠くない。 話を聞くには短過ぎる道程だと思っていたが、案内を頼んだ若者は言った。 「私はあの屋敷の敷地内に住まわして貰っています。よろしければ、屋敷内で事情を説明させて下さい。他聞を憚る話もございますので」 そういう訳で、龍晶らは若者と共に帰路に着いた。 彼は名を東索(トウサク)と名乗り、啓州の奥地からこの屋敷の主人を頼りにこの街に出、役所で小間使いをしているのだと言う。 「もう役所には戻れないでしょうね。あの人達に睨まれた以上は」 屋敷に着き、主人に応接間を借りて東索は溜息混じりに言った。 それは龍晶らも同感であった。法外な作物の専売の事実を役人らの意に反して明らかにしたこの若者の立場はどう考えても危うい。 「お察しの事と思いますが、これは蜂蜜だけの話ではありません。農民達が作る糧の殆どが、不当に役人達に搾取されています。この街はまだしも、人目につきにくい村などは餓死者まで出ているのです。役人に逆らえば殺される事もあります。村々ではもう、民同士で食物の奪い合いをするか、何も出来ず死を待つより無くなっているのです…」 「そんなに酷いのか」 息を飲んで呟いた龍晶に、東索は頷いた。 「私も両親と幼い妹を亡くし、このままでは己も危ないと思いこの街へ逃げてきました。こちらのご主人である司祭様は、村長のつてで紹介して頂きました。事の原因を突き止める為に役所の仕事を斡旋して頂き、内部へ入ったは良いのですが…私一人ではどうする事も出来ず困り果てておりました所、陛下にこの事実を知って頂いたのです。ですから、私が役所に戻れなくとも良いのです。役目は果たしました」 「後は俺の仕事か…」 若者の言わんとした頼みを口に出して、龍晶は腕を組んで窓の外を睨んだ。 民の窮状を救うのが己の使命だ。その為だけに王になったと言っても良い。 この現状は急ぎ変えねばならない。が、北州のように改革する事は難しいだろう。ここは悪事の根が深過ぎる。 「…人が必要だ。今の役人達に代わる、善良な人々が」 「人を集めましょう、陛下。今の腐った役人達は急ぎ処断し、入れ替えるのです」 桧釐の言葉に頷きはしたが、果たしてそう簡単に行くだろうかと思う。 人々は圧政に疲弊しきっている。王たる自分への信頼も無い。それで人が集まるだろうか。 「その村々へ行き、人々と話がしたい。桧釐、明日にでも行かせてくれないか?」 予想通りの苦笑いを返された。 「また陛下、無茶を言う…。そんな治安の悪い場所へ行かせられますかと言いたい所ですが、止めても意味は無いのは重々承知なので仰せのままにしますよ。仕方ないから」 文句を連ねながら部屋の隅で成り行きを見ていた朔夜に目配せする。 「頼むぞ」 「あ?…ああ」 その間の抜けた返答が不満だったのだろう。桧釐は呆れた顔を向けた。 「おいおい、大丈夫か。話聞いてたか?」 朔夜は唇を尖らせて反論する。 「聞いてたよ。そりゃ、龍晶は絶対守るけど。でも悪いのは明日会う人たちじゃなくて役人共だろ?」 「そういう問題じゃない。お前は人の善悪なんか考えなくて良いんだよ。陛下に刃向かう奴を斬れば良い。そういう点では役人よりも貧しい民の方が危ない。そういう事だ」 「はあ?飢えた民は俺に斬り捨させれば良いって事かよ?」 「誰もそんな事は言ってない」 このままでは埒が開かないと、龍晶は苦々しく口を開いた。 「別に、俺達は朔夜に命令出来る立場でも何でも無いだろ。好きにすれば良い。ただ、何者も斬って欲しくはないっていうのは、俺の個人的な願いだが」 朔夜は言葉を詰まらせ、桧釐は溜息で論争を終わらせた。 「東索、明日はお前の故郷へ案内してくれるか?」 王の頼みに、若者は気負い込んで頷いた。 両親は物盗りに殺され、逃れた兄妹は行く当ても無く、幼い妹が飢えてしまった。 一人になった兄は村を去った。生きて、この窮状を作り出した者達の罪を暴く為に。 それから三年経ったと言う。 「この三年は…言っては何ですが、国の混乱に乗じて役人達はやりたい放題で酷いものでした。前王はあなた様に加担した民は捕らえよと命令を出しましたが、それを利用して何の罪も無い民が捕らえられ、家財を没収されました。灌との戦の折には、兵になった方がまだ食っていけると、働き手の殆どが徴兵に応じ、村には女子供ばかりが残されて…。兵になった者は帰ってはきませんでした。それに、あなた様が兵を挙げると聞くと、ますます私腹を肥やそうとする役人が現れて…今のようになってしまったのです。正直、街から離れた村では龍晶様がどのような方かも知らず、上に立つ者は敵だという感覚があると思います。反乱の情報は徹底して民には知らさぬようにしていましたし」 馬車はまるで獣道のような荒れた山道を辿る。人の往来が少ないのだろう。 東索から聞かされる現実は悲惨だが、打ちひしがれている場合では無い。 この国の人々は、王という存在に振り回され搾取され、その王が変わったからと言って期待など出来る筈が無い。 その当人に現状を変えようという意思があったとしても、そこから距離が遠ければ遠い程その意は伝わらない。 だからこそ、こちらから歩み寄らねばならなかった。 「俺たちが止まった社のあった村、あそこも酷い目に遭ったのかな」 朔夜がぽつりと問う。 灌への旅路の途中で立ち寄った、この啓州の村。 村人達は国の触れにより家に泊める事は出来ないが、社へ逗留すれば良いと教えてくれ、食料も分けてくれた。 彼らがあの後受難に遭ったとすれば、それは申し訳ない事をした。 「恐らくは…」 言葉少なく東索は答えた。 「龍晶」 呼び掛けた朔夜の目は怒りに燃えている。 それを溜息で躱して、直視を避けた。 気持ちは分かる。感情に任せたいのは山々だが、立場はそれを許さない。 「まずは今困っている人を救う事だ。今の俺達には怒りに任せて悪人を裁く時間も人手も無い」 「でも、同じ奴らが今も人々を苦しませているんだろ!?」 「ああ。だが、そいつらを洗い出すには時間が掛かる。中には東索のように現状を変えようとしながら止むを得ず仕事をしている者も居るだろう。だが本物の悪人はしらを切る。下手をすれば善人ばかりが罪を被る。だから感情に任せて処断を急ぐのは避けた方が良い」 言いながら視線は桧釐に向けている。実質的な権限を持つ彼に釘を刺したのだ。 「ご尤もですがね」 苦笑を滲ませて桧釐はそれだけを言った。 会話が途切れ、龍晶の咳込みが響く。 どうもいけない。華耶の看病があっても、根本的に快方へと向かう事は無い。 「少し無理し過ぎなのではないですか」 桧釐の問いに首を横に振るが、反論に足る息を吸う前に朔夜が茶化した。 「こいつ、無理が何なのか分からないから。訊くだけ無駄だろ。お前が止めなきゃ」 「お前が言うか」 朔夜を小突き、改めて息を整え考える。 確かに無理はある。このままでは各地方で役所を引っくり返すような改革をせねばならない。それでは体が持たないし、何より国全体を誰が見るのか。 こんな事をしているうちに寿命が尽きるような気がしてくる。そして結局、何も変わらないのではないかという焦り。 各地方を巡りたいという望みは無駄ではなかったとは思うが、気軽に考え過ぎていた。 「各州に国から人を派遣しちゃどうですかね?不正を正し税収を監視する役目で」 それが現実的だろうとは思う。ただ、その役目が今まで無かった訳ではない。 「その役人が賄賂に塗れるから今こうなってるんだろう?」 「前王の家臣だからそうなったんでしょう?あなたの名の下で働く者は、そんな卑しい真似はしませんよ」 「そんなものか?」 「そうです。時代は変わった。あなたが変えたんです」 信じない顔をしてはいるが、龍晶はそれ以上の反論を知らなかった。 渦中の中心に居れば、何がどう変わったのかを知る事は出来ない。 また咳が迫り上がる。咳込みが落ち着くと、体がいやに重く感じた。 到着まで瞼を閉じ休む。矢張り旅の無理が祟ってきているのだろう。余り動かせる体ではない事は己が一番よく知っている。 それでも行かねば。この目で国を、民を見なければならない。そうでなくては、何をしても絵空事だ。 薄っすらと夢を見た。 荒廃した国。自分以外誰も居ない。 戦の後か、燃え残った火が瓦礫で燻る。あとは何も無い。ただ、絶望の地平。 怖くて、悲しくて、悔しくて。 叫ぶ。誰かが居て欲しい。 たった一人の国など、何の意味も無い。 遠く、人影を見つけた。 嬉しさに走り寄る。一人ではない、それがこんなにも希望に溢れている事とは。 が、それが誰なのか分かって足は止まった。 前王だった。 兄は侮蔑の込もった冷たい視線だけを残して、去って行った。 「着いたようですよ!」 桧釐の声で目を覚ます。 眠っていたつもりは無かった。夢と現実の境目が分からず、人の存在が信じられずに居た。 国を滅ぼしてしまったのだと思った。それを兄は無言の内に責めていた。 現実に頭が馴染むにつれ、そうならない為の今なのだと己を説得せねばならなかった。 己の無力さは自分が一番よく知っている。故に本当は不安でならない。何かを成す勇気など、本当は持ち合わせていない。 だが動かねば。あの光景を現実に見たくないのなら。 重い瞼を押し上げて、止まった馬車の窓から外の景色を見た。 まだ夢の中だろうか。この、荒んだ光景。 ひび割れた大地に頼りない麦がやっと数本生えた、それが畑だった。 あとは荒野が広がり、その上に崩れかけたあばら屋がぽつりぽつりと建っている。 腐臭が鼻を突く。その原因を考える気にはなれなかった。 「降りられますか」 当然の問いに頷くのを躊躇ったのは、想像を超える惨状に王としての責務を忘れてしまったからだろう。 己に責任が無ければ、誰しもが逃げ出したくなる、そんな場所には違いなかった。 「陛下」 次の言葉には帰るか否かを問われそうな桧釐の呼び掛けに、漸く龍晶は応じた。 「降りるよ。当然だろ」 乾いた大地に降り立つ。砂埃が傷めた喉を更に刺した。 咳の止まらない口元を袖で押さえて歩き出す。 日照りは未だ焼ける事を知らない肌を瞬く間に焦がすようだった。 「住人は?」 桧釐が東索に問う。確かに人の気配が無い。 問われた方も戸惑い気味に辺りの様子を伺っている。 と、首を巡らせながらいくらか先を歩いていた朔夜が突然走り出した。やっと日除けができる程度に崩れかけた小屋の屋根の下で跪き、こちらを振り向いて手招きする。 他の面々が駆け付けると、朔夜はそこに倒れている男の脈を取っていた。 男は干からびていた。そうとしか言えない有様だった。 まだ辛うじて息はあるのだろうが、その体は既に生きる事を止めていた。 「…どうする事も出来ない」 脈から手を離して、朔夜がぽつりと言った。 「街に連れ帰れば何とかなるんじゃないか。医師に診せれば…」 龍晶が必死に食い下がるその間に、男は一つ息を大きく吸い、事切れた。 朔夜が無言で立ち上がり、もう次には吹っ切った表情で他に人が居ないか探し始めた。 「最期に自分を救おうとする人が現れて、そしてそれが陛下で、この爺さんは報われたでしょうよ」 桧釐が何も言えず動けないで居る龍晶の肩を叩いて言った。 「…東索」 やっと息を吸って龍晶は問うた。 「これが…普通なのか?この村では」 食料も無く、水も無く、倒れた者を誰かが看病する事も、誰かに看取られる事も無く、人が、人ではないもののように死んでいく。 こんな事があって良いのかと問いたい。 だが、現実に今、起こった事だ。 「普通ではありませんが…有り得る事です」 これがこの国の現実なのだ。 城の中でぬくぬくと暮らしていた己には、全く考えもしなかった現実だった。 ただ、知らぬ事が罪であるのは確かだった。 「龍晶!」 また朔夜の呼ぶ声がする。それも、切羽詰まったような。 振り返ると、今度は如何な彼でも近寄り難いとばかりに足を止め、顔をしかめて一方を指差していた。 何があるのか、もう少しでそれが見えるという時に、様子を見て引き返してきた桧釐が行手を遮った。 「あなたは見ない方が良いかも知れない」 その言い方に眉根をひそめる。 「俺が見て何の不都合が?」 桧釐は口籠った。が、その顔に現れていた。 見て、耐えられるものではない、と。 それは母の屍を前にして立ちはだかった、あの時と同じ顔だった。 「俺はこの国の全てを見る必要がある。それが王たる者の責任だ。通せ」 表面上だけは強気だった。そうせねばならないと王の道を叩き込まれた本能がこれを言わせた。 内心は、桧釐が正しいと知っていた。この先の光景に耐えられる自信は無かった。 何があるのかは、一段ときつくなった腐臭が示していた。 「そこまで仰せなら」 桧釐は視界を開けた。 思った通り、否、それ以上だった。 そこにあったのは、打ち捨てられた無数の人の屍。 女子供も関係無く、折り重なって、腐れ落ちるのを待っていた。 先刻の男のように皆が皆、肉が付いていないのは、既に死んでいるからではないだろう。 誰もが飢えて死んでいった。 最期の日々を打ち捨てられて死んでいった、母と同じに。 「大丈夫ですか」 桧釐に問われた途端、張り詰めてた糸が切れたように地面に膝を着いて倒れ伏した。 体が震え、涙が勝手に溢れて止まらなかった。 「ごめんなさい…」 嗚咽の中で、何度も謝った。 自分の責任だと思った。薄々察していながら、目を背け、知りもせず、当然手を差し伸べる事をしなかった。 そうしてこの人達は、母は、死んでしまった。 自分は見殺しにした。その立場にありながら、助けられるのは自分だけだったのに、何もしなかった。 それは間違いなく許されざる罪だ。 「龍晶」 朔夜が横に屈んで背中を撫でた。 「お前が悪い訳じゃない。悪いのは、あの役人達だ。そうだろ?」 龍晶は頭を激しく横に振った。 あの役人達が原因だとしても、その上に居るのは間違いなく自分だ。責任は、全て己にある。 朔夜は困った顔をして桧釐を見上げた。 桧釐も苦笑いでかける言葉を探していたが、物音に振り向いた。 老人がこちらに歩み寄っていた。 「村長」 東索が呼んで、その人の立場を知った。 「何故帰ってきた」 返された言葉は意外だった。 「この方々に村の様子をお見せする為に…」 「他所者に見せて良いものではない。すぐに帰れ」 「村長…?」 東索の戸惑い振りからして、本来はこのような人ではないのだろう。 彼が村を離れていた数年の間に、長も村自体も、変わり果ててしまった。 「勝手に押し掛けた無礼はお詫びします。しかし、我々は知るべき事を知らねばならない。そうでなくては、あの者達が救われません」 龍晶が座り込んだまま村長に言った。目はまだ屍の山に向けられたまま。 「教えて下さい。何ゆえこのような事になったのか。我々はどうすれば良かったのか。この国にはまだ、同じような状況の村が数多あるのでしょう。無力な俺にはその把握もまだ出来ていない。しかし、この惨劇を繰り返してはならないと…今ここで決意しました。教えて下さい。彼らの為にも」 「この方は?」 村長は東索に訊いた。答えても良いものか迷った若者に代わり、朔夜が誇らしげに答えた。 「国王だよ。この国の、王様」 村長は驚き、腰を抜かさんばかりに転げ跪いて、額を地面に擦り付けた。 「お許し下さい…!もう、これ以上は…何も出せる物は無いのです…!」 龍晶は訝しみ、初めて村長に向き直った。 「少なくともこの一年、俺は年貢などを要求してはいません。何があったのか、お話し下さい」 その言葉に村長は再び驚き顔を上げ、そしてまた項垂れて、重い口を開いた。 [*前へ][次へ#] [戻る] |