月の蘇る 1 いつか来たような荒涼とした場所に立っている。 大地がひび割れたような川。その対岸に、会いたい人が立っていた。 「朔夜、来たか」 川越しに名を呼ばれて、手を挙げ応える。 「死んでもないのに、来れるんだな」 「だから彼岸と此岸に分かれているだろう」 「そういう事?分かりやすいんだな」 「そりゃ、お前の頭の中だからな」 千虎は笑っていた。 「久しぶりだな。様子はあの世からちょくちょく見てたが」 「俺なんかを見るより自分の家族を見てやりなよ」 「お前も家族だろうが。家には連れ帰りそびれたけどな」 「今はそれで良かったって思えるよ。苴に居たらあいつに出会えなかった」 「俺を殺した甲斐も有ったな?」 「ええ?そんな事言う?それは済まないと思ってるよ、今でも」 「ちょっと揶揄っただけだよ」 急に悄げた朔夜の顔を笑って、千虎は川底を覗き込んだ。 そこに何が見えるのか、朔夜には分からない。 「俺の息子に会いに行くか…」 見ているのは遺してきた家族の姿なのだろうと察した。 「うん。刀を返しに行く」 まるで誰かに言わされているように平坦に説明する。 「乗り気じゃないって感じだな」 「まあね。石を投げられると知ってて喜び勇んで行けないだろ」 「俺の優しい奥さんがそんな事するもんか。お前は堂々と帰る筈だった家の敷居を跨げば良い」 「知らない家には違いないだろ。しかも、お前の息子にとっては俺は赤の他人どころか父親の仇だ」 「顔も覚えていない親の仇なんか、そこまで憎いと思うかね」 あの時、息子に何年も会っていないと行っていたから、赤子が物心つく前に別れたそのままなのだろう。 顔も声も知らない父親。どういう感覚だろうか。 「ま、逆に良かったのかも知れないな。下手に覚えていたら寂しい思いをするもんだろう?なぁ?」 千虎に問いかけられて、己の心の底を見られたような。苦笑いしながら朔夜は頷く。 「そうかも知れないね」 「何も覚えてなければ、父親と言えど他人だ。お前に石を投げる必要は無いだろう」 「そうかなぁ…」 疑わしげに朔夜は空を仰いだ。 偽物の月は、まだそこにある。 「悪魔が目の前に現れて歓迎する人は居ないよ。いくら優しいお前の家族でも」 この白々しい月がここにある限り、月夜の悪魔は消えないのだろう。 「全く、せっかく腹を括れないお前の為にわざわざ出てきてやったのに。そんな所は相変わらずだな」 恩着せがましく言われて朔夜は吹いた。 「勝手に人の夢に出てきてそんな事言う!?」 「お前が呼んだんだろ」 憎まれ口を叩きながらも、声音を優しくして千虎は言った。 「俺はお前の笛が好きだからな」 笛の音が千虎の魂を呼んだ。 国境も、時も超えて。 「なんか、家族に伝言でもある?俺に出来る事ならするけど」 会いたくても会えぬであろう彼の為に、せめてもの贖罪のつもりで朔夜は訊いた。 「お前がそんな事したって、怪しまれるばかりだろう」 何年も前に死んだ人の伝言など口にしたら、石を投げられるだけでは済まないかも知れない。 「確かに。でも、俺はどう思われても良いから」 「良くないからうじうじ悩んでるんだろ。まあ良いや、そんな事よりお前だ。お前に伝えたい事ならある」 「何」 てっきり、また根性なしだと叱られるのだと思った。 だが違った。千虎は顔色を深刻なものにして、噛んで含めるように問うた。 「俺がお前にあの刀を渡した理由、忘れていないだろうな?」 「…生きろって」 「そうだ。だが近頃のお前はどうだ?」 「何でだよ?俺は今、普通に生きてるじゃねぇか。そりゃ、お前と別れてから何度も死にかけたし実際死んで生き返ってきたけど、最近そんな事も無いし。それも知ってるだろ」 「じゃあこの先もずっとそうなんだな?決して死を望む事は無いと言えるんだな」 「望む…って」 続く言葉を失った。 腹の腑を鷲掴みにされたような気がした。 「言ったろ、これはお前の頭の中だ。本心なんて手に取るように解る。お前は近い将来、己の身が滅べば良いと思っている。だから彼女を遠ざけたんだろ」 「そんな事無い…現に、今も側に居るだろ…」 「物理的な距離の問題じゃないだろ。自分で分かっている癖に」 千虎は溜息と共に空を見上げた。 偽物の月は地平線に近付き、対角の空が白んでいた。 「もうお前は大事な人をその手で傷付ける事は無いよ。俺が保証してやる。側を離れて遠くに行こうなんて思うな。そうしているうちに失うものは、有るぞ」 「何を…?」 驚いた顔で問い返したが、暁光が彼岸の人の姿を掻き消した。 あとはただ、変わらぬ山中の冷たい空気と、新たな日を告げる朝焼けだけが残った。 誰もがまだ微睡みの中に居る朝の空気を突っ切って、龍晶は老人の作業場へ向かった。 以前この人と邂逅した、同じ時間帯だろう。だが夏至に近いだけ今日の方が日の光は早く白んでいた。 誰かに見つかる前に行動したかった。王という立場になると一人にさせて貰えず、必ず誰かがべったりと付いて来る。 天幕の中で共に眠っていた華耶はそういう心情を察してくれたらしく、もう少し寝ておくねと何も見なかった振りをした。 兵らが土の上に雑魚寝する前庭を横目に、小屋の裏側に回る。 作業場に近付くと、水音と、刃を研ぎ澄ます鋭い音が繰り返されている。 気配を潜めて入口の筵を潜った。 「出来ましたぞ」 老人は背中で言って、肩越しに顎で示した。 古ぼけた椅子の上に磨き込まれた虎の鞘に収まる短刀が置かれていた。 「有難い。あいつも喜ぶだろう」 「そういう事は、刃を改めてから言うて下され。儂は刃を研いだのですから」 尤もだと思い、鞘から抜いてみる。 美しい刃文が姿を現した。錆は勿論、一欠片も見当たらない。 鈍い銀が、朝の光を吸って静かに発光しているようだった。 「気を付けなされ。儂の研いだ刀は、斬れますぞ」 鋒まで抜き切る気が挫けた。その言葉だけで血が滲むような気がして、半端に抜いた刃を鞘に隠した。 「一流の技を見せて頂きました。報酬は、如何ほどに」 問いながら懐の金貨を出し返答を待ったが、老人は肩を竦めた。 「儂は国王から金を払われるのか。偉いもんだな」 「今は一人の私人です。友の為にあなたを訪ねた」 「あのぼうずが友と仰るか…因果なものですな」 「あいつが、何か」 眉を顰めて問い返す。昨夜からこの老人の言は、朔夜を忌み嫌っている節がある。 「深い意味はございません。ただ、戦を嫌い人を救うべき宿命のあなた様が、人を殺す戦の権化と共に居るのは、何の巡り合わせかと…傍目には不思議に思うのですよ」 「あいつの事を知っておいでか?」 思わず厳しい声音となった。 そうではないと信じ、何を見聞きしても打ち消してきた朔夜の正体を、何も知らない者から指摘されるのは嫌だった。 老人は動じず応えた。 「昨晩、この鼻が嗅ぎ分けた以上の事は分かりませぬよ。しかし十分でしょう。人ごろしの臭いは、あなた様には似合いませぬ」 「それは…俺への忠告と捉えれば良いのか」 急に乾いた口で問う。 「好きにお聞きなさいませ」 作業を終えた刀を脇に置きながら、事もなげに老人は言った。 「ただ、我々庶民のあなた様への期待は、そういう危険の種をも許さぬと思われた方が良いでしょう。御本人は危険と思われはしないのでしょうが、この鼻は騙されなかったという事です」 「…生憎、既にその危険はこの身で受け止めた。それでも俺はあいつを友としたいと望む…それだけだ」 手の空いた老人が、やっと体ごと振り向いて王と相対した。 以前より、穏やかな相になったと感じた。 それは、互いにだったらしい。 「漸く生ける人となられましたな」 小首を傾げて意味を問う。 老人は言い直した。 「人の形を持ちながら生きる事を放棄したものから、漸く生を望み信じるいっぱしの人となられた。ようございました。これでこの国も生きるでしょう」 お前はやっと、周囲に弄ばれるだけの人形から脱したのだと。 そう告げられた気がした。無論、この老人が己の過去を知る筈は無いと思うのだが。 「あなた様が信じて頼みとする友がらであれば、それなりの事情をお持ちなのでしょう。失礼を申しました」 一旦置いていた短刀を老人は丁寧に捧げ持ち、龍晶の手に戻した。 思わず受け取って、片手に持ったままだった金貨を慌てて差し出す。 老人は首を振った。 「報酬は既に受け取ってあります。一番最初に、共連れの方から銀貨一枚。それで十分」 「しかし…」 「あとは、儂の願いを聞き届けて下され」 「戦を無くせ、と?」 「そう。儂がこの世におる時はもう長くは無いが…その間だけでも、世がこのままであれば良い」 視線を落とすと、彫刻の虎と目が合った。 この虎も、同じ事を言っている気がした。 この世から戦なんか無くしてくれ。そうすれば、あいつは普通の子供になれるんだ、と。 「分かった。必ず約束は守る」 視線を上げ、もう一度真っ直ぐに老人を見て感謝を伝え、踵を返す。 夜はすっかり逃げていった。暖かく眩しい光の中に、龍晶は踏み出した。 作業場を出て小屋を回ると、朔夜がそこに居た。 「何してんだ」 人が居るとも思わず、驚きつつ問う。それが朔夜だったから同時に安堵もした。 「目が覚めたらお前が何かこそこそ動いてるから、様子を窺ってた。お陰で二度寝し損ねたじゃねえか」 「知った事か」 言いながら、受け取ったばかりの短刀を相手の胸へ押し付けた。 慌てて両手で受け取った朔夜は、改めて持ち直し、すっかり綺麗になった遺品をしげしげと眺める。 「抜いてみろ」 言われた通りに刃を抜き放つ。鋼が朝日を反射して煌めいた。 血錆はすっかり落とされた。刃こぼれも無い。その分、刀身は若干痩せた。 こうして己の身を削ぎ落としながら、誰かの悔恨を踏み越えて生きてゆくのだと思った。 それが、千虎の望んだ事だ。 「どうだ」 問われて、落とされた錆の分だけ感想を言った。 「流石だよな。綺麗なもんだ」 「当たり前だ。そんな事は訊いてない」 問うたのはそんな表面ではなく、芯の部分だ。朔夜自身の、心。 「華耶に何も言わなかったそうだな」 「何もって?」 とぼけたのではなく、心底見当が付かない問い返し方。 呆れて龍晶は言ってやった。 「俺には問うてもないのにあれこれ喋る癖に、本当にお前の事を心配している彼女には何も言わないの、変だろ」 「そうかな」 「そうかなって…お前のそういう所が嫌いだ」 「うわ、嫌われた」 そういう所がどういう所なのか、自覚があるのか無いのか、考える素振りも無く。 「だって、お前は何言っても聞き流してくれるだろ。だから言える。華耶は…心配させるだけだし」 「あのな、既に心配はされてるんだろ。だったら、説明しなきゃ余計に心配かけるだけだ。何より何も教えられない彼女が可哀想だろ。ずっと気にかけてるのに」 「じゃあお前が言ってやってよ。夫でもない男の事を気にかけなくて良いって。こんな関係、本当は有り得ないんだろ?みんな言ってる」 「は…?みんなって、誰が」 「みんなはみんなだよ。城の中でみんなひそひそ話してる」 「ああ…」 事情をよく知らない女官や使用人達が、陰口を叩いているのだろう。それを朔夜の地獄耳が捉えたのだ。 「気にするな。言わせとけ。それよりお前がそんな事言い出すなんてな。ちょっと失望した」 嫌われる次は失望された。朔夜はどうしたものか口を噤むより無い。 龍晶は続けた。 「俺と夫婦になろうが関係無い。華耶はお前が責任持って永遠を共に生きなきゃならないんだ。その責任を投げ出すような真似をするなら、俺は許さない」 今度は許さないと来た。朔夜は混乱する頭を抱えて、はたと気付いた。 これは先刻の夢で千虎に問われた事と同じだ。 更に龍晶は一度渡した短刀を奪い取り、朔夜の眼前に突き付けて言った。 「この刀に誓え。お前は命ある限り生きる事を。俺が死んだ後、華耶と共に生きるのはお前だ」 朔夜は口を閉ざしていた。 友がそう迫る理由は分かる。華耶を本当に愛しているからだ。彼女の永久の幸せを心から願っているのは、自分よりも寧ろ彼の方だ。 だが、単純にここで約束など出来なかった。 「…俺は誓えないよ。俺は…バケモノだから」 「はあ!?」 龍晶の怒気を浴びても、朔夜は動じず、真っ直ぐに友を見て言った。 「この先俺がまた悪魔に変わらないなんて言えないから。この世に戦のある限り、俺は人を殺すだろう。だから悪魔は消えない。華耶の側には居れない。彼女に刃を向ける事が何より恐ろしいんだ。だから、ずっとそこから逃げてる。分かるか?そうでなければ、この国にも来なかった」 「じゃあ俺が戦を無くせば良いのか」 当然のように龍晶は言った。 「戦を無くせばお前は彼女の側に居られるんだな?」 「え…」 そんなの無理だろ、と顔が物語っていた。 構わず龍晶は、今度こそ朔夜に刀を押しつけて、怒ったように言った。 「そりゃ俺一人じゃ無理だよ。それこそ、永遠に近い時間が必要だ。だけど、目指すものが無ければ近付かないだろ。俺はお前がその理想を持ち続けてくれれば良いと思っている」 「俺は…戦が憎いだけ…」 「ああ知ってるよ。だけど同じだろ。俺は道筋を作る。その道を、永遠の未来に繋げるのはお前しか居ないだろ。どうせなら自分の自由の為に戦えよ。なあ?それは出来るだろ」 自分より先に、手の中にある虎が諾と肯いた気がした。 その為にこの刃を渡した、と。 戦え。誰かの私利や欲望の為ではなく、己の自由の為に。 明日も生きる為に。 そしていつか、友と夢見る戦無き地平をこの目で見る為に。 「結局、全部俺に押し付けてねぇか?ま、良いけどさ」 龍晶はうるせえなと頭を小突いて、そして満足気に笑った。 [次へ#] [戻る] |