月の蘇る 9 「勝手な決定をして申し訳ない、伯母上。しかし良かったのですか」 晩餐の席を立ち、寝室に向かう夫婦を追ってきた黄花に、龍晶は思わず問うた。 「新婚のお二人にはお見苦しい所をお見せしてしまいました。しかし、私どもはお陰様で清々しい気分です」 黄花の答えに龍晶は曖昧に笑った。 州侯、桧伊の地位は剥奪された。龍晶自身はその実権が桧釐のものになればそれで良かったのだが、州侯家の血を引く黄花が離縁すると決めれば桧伊にはこの屋敷に居る資格すら無くなる。 だが、その地位の為に妻や娘を追い出した過去のある男なのだから、今となって逆に追い出されるのは当然なのかも知れない。 「華耶様はきっと、私の行動は不思議に思われているでしょう?でもご理解頂かない方が良いのです」 「その…全く分からない訳ではありませんが…。でも、お嫌いになられた訳ではないんでしょう?」 黄花は微苦笑をまだ若い夫婦に見せて、直接には答えず言った。 「お二人にはこんな事、絶対に有り得ませんよね。いつまでもお幸せに」 そんな事より、と前置きして黄花は手に持っていたものを二人に差し出した。 「朱花の遺品です。本当はもっと早くにお渡しするべきだったのですが」 こうして手渡す為に誂えたのであろう木箱。 躊躇いがちに龍晶が受け取る。 「これは俺が受け取るべき品でしょうか?」 「勿論です」 力強く頷いて、一つ重たい息を吐くと、彼女は告げた。 「妹の…朱花の着ていた袷の懐に入っていた、あなた様への手紙です。今際の際に書いたものなのでしょう。誰にも見つかる事なくここまで来て、埋葬の直前にふと出てきたのです。あの子の遺志を感じずにはいられませんでした…。最期まで、朱花はあなた様の事を想っていた」 龍晶は俯いた顔で頷いた。 互いに想い続けてきた。一目会いたいと。それ以上に、無事であって欲しいと。 実は同じ城の中に居たのにそれは実現せぬまま、遺された方は後悔ばかりが募る。 この蓋を開ける事は、酷く苦しい。まだ。 「伯母上、ありがとうございます。おやすみなさい」 呟いて、逃げるように寝室へと向かった。 追ってきた華耶の手に、小箱を押し付ける。 驚きつつも彼女は大事に受け取ってくれた。 「ごめん…手に上手く力が入らなくて」 手先どころか、全身が震える。崩れそうになる身体を何とか華耶に支えて貰いながら、寝台まで辿り着き倒れ込んだ。 「大丈夫?」 問いに答えられなかった。己の状態を端的に言い表せられない程、頭は混乱していた。 もう分かり切っていた事なのに、今初めて母の死を知らされたような。 既にこの目で見たのに、その光景を今やっと現実として捉え、頭で理解した。 そしてそれでも尚、その現実を拒否している。 寧ろ、生きていると信じて永遠に探し続けていたかった。 「…開けて、読んでくれないか?」 自分の力ではそれが出来ない。 多分、ずっと何年も、ひょっとしたら死ぬまで蓋を開けないだろう。 開けてしまったら、その手紙を読んでしまったら、母はもう戻って来ない。 最期の言葉を自ら聞く力は無かった。 でも、向き合わねばならぬ事で。 華耶に託した。 母に代わる、最愛の人だから。 「良いの?」 「頼む」 多くを問わず、華耶は言われた通りにしてくれた。 木箱の蓋はすっと開き、華耶は手紙を取り上げた。 もう何年も経っている紙だろうに、朽ちる事なく不思議な程に白く清いまま残っている。 龍晶様、と表書きしてある封を開き、中の手紙を取り出す。 紙が無かったのか、恐らく欲しても与えられなかったのだろうが、それは懐紙に書かれていた。細かな、美しい字で。 「読みますね」 緊張した声で華耶は前置いて、朗読を始めた。 私の愛しい宝珠へ このような手紙は或いは迷惑なのかも知れません。過去のものにしたい母の存在を無理矢理思い出させてしまうから。嫌な思いをさせてしまってごめんなさい。もしそうであれば、読まずに破り捨てて下さい。 これを書いている私は、必ずしもあなたに手紙が届くとは思っていません。誰に託す事も無く私と共に朽ちていくであろうこの紙は、きっと誰の目にも触れないでしょう。 でももし、奇跡が起こってこれがあなたの目に触れているとしたら。 私の可愛い仲春、あなたは今どうしていますか?今いくつになっているのでしょう。大人になったあなたを想像する事がどうしても出来ないけれど、それは幼いあなたがずっと私の心の中に居るからです。だから一人ここに居ても寂しくありません。あなたのお陰です、ありがとう。 ご飯は食べれていますか?きちんと眠れていますか?寂しい思いをしていませんか?問いたい事はたくさんあります。でもこれは私の勝手な心配ですね。きっと疎ましいでしょう。私のせいであなたが苦しまねばならなくなった事は本当に申し訳なく思っています。 母を恨みなさい。その代わり、他の誰も恨まないで。 一つだけ、言い訳を。 あなたを手離さねばならなかったのは、勿論牢から出さねばならなかった事もありますが、私の病を伝染させたくなかったからです。私の病は労咳だろうと思います。医師に診て貰った訳ではないので、確証はありませんが。 狭い牢の中で身を寄せ合っていては、増してや体の弱いあなたには死の病となってしまう。私はそれを恐れました。 ですから私はあなたの兄上に、弟を救って頂けるように懇願した。辛い条件付きではあったけど、命だけは救って下さった事に違いありません。 あなたの兄上は、病の為に城から遠く隔離された私の後生も聞いて下さいました。最期の時は、会えずとも少しでも我が子の近くに居たい、その我儘を聞いて下さった。だから私は今この城内に居るのです。同じ城の中に居る、あなたの気配を感じながら。 ですから、血を分けた兄上を決して恨んではなりません。彼は本当は優しいお方です。あなたと同じく、その立場から厳しい道を歩まねばならなくなったというだけで。 誰かが悪いからこうなった訳ではないのです。皆、己が生きんが為、誰かを生かす為、そして己の信じる道を行く為に、こうなった。そういう人達を恨んではなりません。他人を恨めば、その分あなたが苦しむ事になる。それを母は望みません。 あなたに戦はならぬと言い続けたのは、これと同じ事だから。恨みは自分に返ってくる。戦ならばそれは自分だけではなく、周囲の人々をも巻き込んで、多くの人を傷付け悲しませます。それは相手も同じ。他人の痛みが解るあなたになら、それがどんなに悲しい事か理解出来ますよね。 だからお願いです。今のまま、他人の痛みをも飲み込める、優しいあなたで居て下さい。 私のせいでどんなに酷い傷を負ったのかは知っています。私の知らない傷もきっと負っているのでしょう。ごめんなさい。でも、その体で生きていって。歩める限り、あなたの信じる道を歩んでください。きっとその道は間違っていないから。母はずっと見守っています。 あなたはもう母の事を気に病まないで。優しいあなたの事だから敢えて書き遺します。お願いだから、親の死の事で自分を責めないで。そして、今目の前に居る人を愛してください。 仲春。あなたが幸せに笑う顔をずっと夢見ています。 読み終えた華耶は、おずおずと手紙を夫に差し出した。 龍晶は受け取って、それを改めて見るでもなく仰向けの胸に押し抱いて寝台の天蓋を無表情に見詰めている。 母の最期の言葉に何を想ったか窺わせないまま、少なくとも読み返して反芻する素振りは無い。 或いは本当に忘れたかったのか、疎ましく思っているのか。華耶にはそれを問う勇気は無かった。 代わりに、箱に入っていたもう一つの遺品を取り出した。 素朴な首飾り。革紐を指に絡めて、龍晶の顔の上に掲げる。 掌から珊瑚の花が零れ落ちた。 視点を定めなかった瞳は、朱い花に吸い寄せられる。 腕を持ち上げて、華耶の掌に己の指を絡めて、革紐を受け取った。 「最期までこれを身に付けてたんだ…」 改めて珊瑚の首飾りを見詰めながら、まるで今初めて知ったように呟く。 本当は既に知っている。白骨の首に掛かっていた首飾りを確かにその目で見ている。 その残像を脳裡に蘇らせる事が出来ない。装身具という細かな所まで、その記憶を見詰める事が。 龍晶は起き上がって、改めて首飾りを両手に持ち、華耶に向き合った。 「嫌じゃなければ、義母の形見として貰ってくれないか?顔も知らない他人には違いないから無理にとは言わないが…」 「嫌な訳が無いよ。嬉しい。私がこれを身に付ける事をあなたが望むのなら、ずっと付けておく」 華耶は軽く頭を下げ、龍晶はその首に朱の花を掛けた。 自らの胸で輝く珊瑚の花を目にして、指先で撫でる。 そんな妻を眺めながら、小さな花に込められた思い出を口にした。 「…五歳の誕生日に母へ贈ったものなんだ。侍女達と計画して、母には秘密で驚かせようって。その花も、俺が絵を描いて、城の細工師に作って貰って。母は俺の誕生日だから祝う事ばかり考えてたけど、まさか自分に贈り物があるとは思ってなかっただろうから、凄く驚いてたし、凄く喜んでくれた。だからずっと付けてくれていて。十歳になったら、また新しいものを贈ろうと思ってたんだけど」 その五年後に、母がまだ息をしていたのかは分からない。 手紙に日付も送り主の名も無かったのは、まだ書き切れぬ思いがあったからだろう。文は永遠に続いている。彼女の胸の中で。 母は死んでいない。少なくとも、その心は。 「じゃあ、二人で新しい首飾りを贈ろう。仲春が二十歳になる次の誕生日に。ね?良いでしょう?」 華耶の提案に頷くと、溜まっていた涙が降り落ちた。 頭を、肩を、華耶の手が包んでくれる。 「泣いて良いんだよ?我慢する事なんて無い」 あの日から初めて、やっと、子供のように泣きじゃくった。 華耶の胸で、朱の花が、優しく見守ってくれた。 常ならば霞む春には珍しく、抜けるような青い空。 優しい風が吹き抜ける、丘への道。 かつて母と祖父に両手を繋がれて歩いた、その後を辿るように。 あの時は、墓というものが何なのかも分からず、こうして外を歩く事がただ楽しいばかりだった。 山々に木霊する鶴嘴の音と、巌を削る人夫の歌声に耳を澄まして。 これが国を作ってきた音ですよ、と母に教えられた。 今また、同じ音が響いている。 人々は夢を探すように、輝く金を探している。 それは、己の手に託された戔という国の夢でもあった。 「美しい土地ですね。山が綺麗」 華耶が首を巡らせながら横で呟く。 その首には、珊瑚の花が可憐に咲いている。 「ああ。時間があれば鉱山を見に行こう。俺もまだ、どうやって金が採掘されるのか見た事は無いんだ」 言って、後ろを振り返る。 「桧釐、その時間は有るか?」 王の旅の日程調整も担う彼は、難しい顔をしながらも言った。 「しょうがないなぁ。この墓参が終わったらご案内しますよ。但し、今晩は野宿をご覚悟下さい」 「俺は構わんが。華耶はどうかな」 「私も構いません。何も無い所で寝るのは得意です」 「梁巴ではよく草の中で星を見ながら寝てたよな」 横から朔夜が話に入ってきて、華耶は懐かしそうに笑う。 「そうだよね。毎年夏の恒例行事。父さん母さんと一緒に、川べりで火を焚いて」 「俺が捕まえた魚を焼いてさ。俺が魚に間違えられたりして」 「村の漁師さんに、大きい銀色の魚がいるってね。朔夜は川に潜ってばかりだから」 「銛を打たれなくて良かったよ」 仲の良い二人から少し離れて、龍晶は桧釐の隣を歩いた。 「伯父上はどうだった」 昨晩やり込めてから顔を見ていない。 今朝会ったらしい息子は肩を竦めた。 「酷い面はしてますが、それで良いでしょう。肩を落として役所に行きましたが、変な事を考える元気は無いと思いますよ」 「役所には燕雷と宗温を行かせてある。今頃賄いの証拠を調べ上げている筈だが」 「ああ、黄浜や俺の仲間も行かせてあります。家捜しして出てきた金で、この北州に国軍の支部を置くと言ったら皆協力してくれましたよ」 「自衛の重要性を解ってくれているんだな。哥との戦地が目と鼻の先にあるから当然と言えばそうか」 「陛下が自ら戦をするとは誰も思ってはいませんがね。それでも攻められればこの北州で守らねばなりませんから。陛下のおわす都を守る為にもね」 「この街を盾にしてまで生き延びる気は無いが」 「陛下はそれで良くても、周りはそうはいきませんよ。ま、万一の時は俺達は都に落ち延びて再起を図る事も出来ますから」 「そうならないようにする。絶対に」 それがこの丘に登ると新たにする決意だろう。 戦はしない。 それが母の教えの中で最も偉大なものだ。 墓地の周りには既に多くの北州の民が集まっていた。 別に集めた訳ではない。王の墓参の話を何処からか漏れ聞いて、自然に人が集まった。 丘を登る間も護衛兵の輪の外に民が共に歩みを進めていた程だ。話が聞こえた者は、次は王が鉱山に行くと既に噂を立てているだろう。 伯母が案内して、母の墓の前に立った。 「これは…」 感嘆は言葉を飲み込んだ。 そこには、かつての美しい母の姿があった。 「あの者が十年かけて彫り上げた彫像を貰い受けて墓標としました。如何ですか」 黄花は集まった民の中から一人の男を指して説明した。 龍晶もその像の作者を振り返り、述べた。 「見事だ。母の姿をこうして残してくれた事、感謝する。しかし、誰の依頼でこの像を?」 彫刻家は首を横に振った。 「誰の依頼でもございません。私めが創りたいから創ったのです。陛下を前にこのような事を申すのは恐れ多いのですが、朱花様の美しさをこの手で再現しようと思い立ち彫り上げました。何としてももう一度、あのお姿をこの目で見たいという望みがあったからです」 答えに龍晶は微笑んだ。 「ありがとう。俺も同じ思いだった」 改めて彫像を見上げる。 それは母の姿をした女神像だが、手を組み祈る姿は生前の母そのものだった。 「綺麗な方ですね」 初めて義母の姿を仰ぐ華耶が呟く。 「ああ、でも似てるな。そっくりだ」 朔夜が笑いながら龍晶の顔を振り返って言った。華耶もそれに倣って笑顔で頷く。 「当たり前だろ。親子なんだから」 これほど当然の事を、当然のように言えるまでに、何年かかったか。 この身を流れる血に、今は何の悔恨も無い。寧ろ、心から感謝出来る。 母上。 俺をこの世に生んでくれて、ありがとうございます―― [*前へ][次へ#] [戻る] |