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月の蘇る
  8
 三年前、大雨に打たれながらこの道を辿った。
 多少の困難は予想出来たが、全てが壊れる程の苦難がその先に待っているとは、あの時まだ考えもしなかった。
 それでも、再びここに辿り着いたのだ。
 必ず帰ると約束した、母なる地に。
 あの時もそうだったが、その倍以上の笑顔に迎えられて龍晶は北州の地に降り立った。
 紛れもなく王となって帰ってきた故郷の子を、人々は在らん限りの歓迎で迎えた。
 楽器が吹き鳴らされ、人々が舞い踊る。道の横から子ども達が花を投げた。
 そして皆が言うのだ。「龍晶陛下、お帰りなさい」と。
 帰ってきたのは、人としての自分だろう。
 以前は人を捨ててここに来た。
 兄の傀儡。若しくは、他人の屍の上に生きようとする鬼畜だった。
 生き延びて、絶望の淵に立たされ、それでも生きる方に手を引いてくれた友が居て。
 今またこうして慕ってくれる人たちが居る。
 故郷のある有難みを噛み締める。
 この故郷を与えてくれた人は、もうこの世には居ないけれど。
 きっと見ている筈だ。やっと会いに来たのだから。
 同じ面影を見つけて龍晶は微笑んだ。
 またも世話になる州侯の屋敷の前に、伯母と従姉妹が並んで待っていた。
 漸く我が家で生活を始めた二人の表情は穏やかだった。
 目的地を前に下馬すると、伯母である黄花が早速横に立ち玄関へと誘った。
「長旅ご苦労様でした、陛下。むさ苦しい屋敷ではございますが、どうぞごゆるりとお休み下さいませ」
「ありがとうございます。ですが、その前に」
 玄関前の階段を昇って、くるりと体を反転させる。
 集まった北州の民を見渡して、龍晶は言った。
「ここに居る皆のお陰で王となる事が出来た。これからは、皆の為に尽くす事を誓う。これからも、この北州の子として見守って頂きたい」
 歓声に手を挙げて応え、馬車から降りた華耶の手を取り並ぶと、察した人々の更なる声を背に扉の向こうへ身を翻した。
 先に入っていた桧釐の妹、朱怜は初めて見る女性に目をぱちくりさせている。
 龍晶はまず黄花に丁寧に頭を下げた。
「改めて伯母上、母の葬儀の件では大変にお世話になりました。こちらは何も出来ず申し訳ない。しかし恙無く送って頂けて伯母上にお頼みした事は間違い無かったと思っております」
「陛下、勿体のうございます。お顔を上げてください」
 伯母に肩を撫でられて上げた顔は、思いがけず青白い。
 社交辞令は述べられても、本心は隠せなかった。
「お母上には、お会いになりましたか」
 頷く。言葉にはならなかった。
 あの瞬間を、光景を、思い出すのはまだ苦しい。
 黄花もまた、実妹の遺体を目にしているだろう。そして同じ苦しみを抱いている甥を抱きしめて言った。
「朱花はまだ生きています。私やあなた様の心の内に。その姿を忘れぬ限り、ずっと生きています」
 母に似た懐の中で、頷く。
 出来ればこのまま全てを夢にしてしまいたい。
「伯母上、もう一つご挨拶が」
 懐から一歩退いて、詰まる感情を振り切って笑みを見せた。
「申し遅れましたが、妃を娶りました。灌王のご息女で、華耶と申します」
「お妃さま!」
 素っ頓狂な声を上げたのは朱怜である。
 龍晶に嫁ぎたいと言った彼女は開いた口が塞がらぬ体で華耶を見ている。
「申し訳ございません、締まりのない娘で」
 母が慌てて身を挺して視界を塞いだ。
 華耶は戸惑いつつも微笑んで返した。
「とんでもないです。可愛らしい娘さんで安心しました。これからは親戚となりますから。どうぞよろしくお願い致します」
「こちらこそ。美しくお優しい王妃様で私も嬉しゅうございます。ねえ朱怜?」
「はいぃ…」
 悲しげな子犬の鳴き声のような返事を母の背中から返す。
 その理由にやっと思い当たって龍晶は苦笑いした。
「済まん、朱怜。だけど俺は断った筈なんだが。まさか待っていた訳ではないだろう?」
 母親が先にぴしゃりと言った。
「お気になさらないで下さいまし。この娘には縁談が来ておりますから大丈夫です」
「それはもう一回龍晶様に会ってからって!」
「だから気が済んだろ。諦めて嫁に行っておくれ」
「まだ側女になれるかも知れないじゃない!」
 それを正妻の前ではっきり言ってしまうのがこの娘だ。
「なんだ、騒がしいな」
 荷物を運ぶ従者を案内した桧釐が話に入ってきた。
「まだ寝呆けた事を言ってんのか、この娘は」
「兄様は黙ってて!」
 兄には歯を剥かんばかりに怒る。
 その時、玄関扉からひょっこり朔夜が顔を出して問うた。
「俺の部屋ってある?」
 怒りに燃える顔から乙女の顔へ、瞬時に変わる奇跡をその場の者は目撃した。
「こちらです、どうぞ!」
 朔夜は何かおかしいなという顔をしつつ、大人しく朱怜に連れられて行った。
「…そう言えばそうだった」
 桧釐が苦笑しながらぼやく。
 危機を救われた朔夜に一目惚れしてしまった事をすっかり忘れていた。否、朱怜自身も忘れていた筈だ。朔夜の顔を見るまでは。
「一件落着か?」
 龍晶も従兄と同じ苦笑いで問う。
「朔夜を見放して良いのならですがね。ま、なるようになるでしょう。両陛下もどうぞお休み下さい」
 二人の為に用意した部屋へ桧釐と黄花で案内する。
「そう言えば、伯父上は」
 存在を忘れられているが、この屋敷の主たる桧伊の姿が見えない。
「陛下に怯えて隠れてるんでしょうよ」
「まさか」
 過去に脅して閉じ込めたのは事実だ。
「ああ、申し訳ありません。執務の為に役所へ出ております。晩餐までには戻ってきますので、改めてご挨拶をさせて下さいませ」
 黄花の説明に、桧釐がさも意外そうな顔を作って問い返した。
「執務だって?王の出迎えをすっぽかしてまで?大体、この上何が出来るんだよ、あのぼんくらに」
 龍晶が親への不敬を窘めるより先に、黄花は当然のように応じた。
「知らないよ。うちに居場所が無いから仕事だって言い訳して出てるんじゃない?」
 全くこの親子は…と口には出さず、目を丸くしている華耶に苦笑を向ける。つまりこういう人達なんだ、と。
「あ、こちらですよ、陛下」
 いつも使う部屋へ行こうとした龍晶を引き止めて、別の部屋の扉を黄花は指した。
 殆ど勝手知ったる屋敷だが、そこがどんな部屋だったか記憶が無い。
 思い出す暇も無く、桧釐が扉を開けた。
 他とは格の違う装飾に龍晶は目を瞠った。同時に思い出した。
 この部屋で一晩を過ごした事がある。あれは初めて、そして最後に父母と共に旅をした時。
「王の為の部屋ですよ」
 桧釐の言葉に頷いた。全て解った。だから王座に縁の無かった時、この部屋は使われなかったのだ。
 広い部屋に足を踏み入れる。床には羊毛で織った絨毯が敷かれ、調度品には細部に金の彫刻が施されている。その装飾には尽く龍があしらわれていた。
 部屋の奥には間仕切りがあり、その奥には天井から吊り下がる帳が寝台を覆っている。
 記憶が蘇る。初めての旅先で乳母と別室で眠る事が出来ず、結局両親の間で寝かせて貰った事を。
 あれが生涯の中で一番父を近くに感じたひと時だった。
 全てがあの時のまま、再びここに来るか知れない主人を待っていた。
「お懐かしいでしょう、陛下」
 黄花に問われて頷いた。そして問う。
「兄がここに来た事は?」
「ありませんよ。ですから、十五年振りにこの部屋を開けました。お掃除は万全ですからご安心下さいね」
 冗談めかした伯母の言葉に軽く笑って礼を言う。
「どうぞお寛ぎ下さいませ。お茶を持って参りますね」
 踵を返しながら、息子に「あの娘はこういう時に働かない」と愚痴を零しつつ去っていった。
「素敵なお部屋ですね」
 華耶が部屋を見回しながら歩くのを、そっと肩を包んで捕まえる。
「陛下?」
 大きな瞳で見返されて、微笑みで応えると、影のように付き従う十和に言った。
「少し休むから、あとは頼む」
 十和は心得たように扉を閉ざして出て行った。
「どうしたの、仲春…」
 何も言わずに華耶を抱き締めていた。
 彼女は戸惑いつつも、肩に乗せられた頭を撫でた。
「疲れた?ちょっと眠ろうか」
 頷くと、共に帳を潜って寝台へと入った。
 絹地の布団の上にちょこんと座って、龍晶は昔の記憶を口にした。
「昔、まだ何も知らなかった頃、両親とここに来た。初めて都の外に出ての長旅で、後宮から出る事も滅多に無かった俺には見るもの全てが珍しかった。…いや、怖かったんだな。小心者だから」
「そうなの?いくつくらいの話?」
「四歳か五歳くらい。だからやっと今思い出したんだけど」
 藍色の帳には、星のような金糸の刺繍が施されていた。
「知らない場所で寝るのを泣いて嫌がって、母が見兼ねて一緒に寝かせてくれたんだ。これを蝋燭の光で眺めながら、やっと眠れたのを覚えてる。父も笑ってた。笑う事なんて滅多に無かったから、驚いたし余計安心したんだ」
 華耶は子を慈しむ笑いを見せ、同じように帳を見上げた。
「あの頃が一番幸せだった」
 そう語った口元から笑みが消え、空虚な表情が残った。
 思い出すには未だ傷が癒えない子供時代。
 まだ大人にもなれないまま。
「母上は俺が泣いてるのを知ってすぐに迎えに来てくれたのに、俺は母上が苦しんだ挙句死んで骨になっても迎えに行けなかった」
 懺悔せずには居られなかった。
 母の魂の近くで。或いは、愛しい人の前で。
 華耶に、全て知っていて欲しかった。
 それでも受け入れてくれると信じるから。
「やっと…城の牢で見つけたのに、目を背けてしまった。遺体を二度と目にしたくなくて、棺を伯母上に送って葬って貰った。こんな不孝、許される訳が無いよな。今頃になって墓には参るって…あんなに優しかった人でも怒るよな、きっと」
「そんなこと無い。母上はちゃんと見ていらっしゃるよ。あなたが王として自分の願いを叶えていく姿を。それで不孝だなんて思う筈無い。怒る理由も無いじゃない。きっと喜んでる」
 抱えた膝に顎を乗せて、じっと虚空を見詰める。
 亡き人の声を探すように。
「きっと、ここに居られるよ」
 華耶の念押しに、ぎこち無く笑って、詰めていた息を吐き出した。
「全部見られてるとして、それはそれで考えものだよな」
 冗談で吹っ切って、華耶のうなじを抱えて唇を重ねた。
「…一人でここに戻って来る羽目にならなくて良かった」
 離した唇で言って、笑う。
「一人で寝るには広過ぎるだろ、ここ」
「本当だね。親子三人で寝てちょうど良い広さだよ」
「次は春音を連れて来ような」
「うん」
 もう、次がある事を疑う必要は無い。
 未来はずっと開けている。行きたい場所へ行ける。大切な人と共に、何処へだって。

「いやぁ、殿下…じゃなかった陛下、この度はまことにおめでとうございます」
 揉み手しながら晩餐の席に現れた伯父に、少し皮肉混じりの笑みで龍晶は返した。
「ありがとうございます。伯父上のお陰です」
 この伯父が大人しく閉じ込められて何もしなかったお陰、くらいの意味だ。
「滅相も無い。私など力不足で戦のお役にも立てませなんだ。しかし倅は大いに役立ったようで何より。不肖の息子ながら腕っ節だけは父の自慢の種でしてな」
「どの口が言ってんだ」
 吐き捨てた隣をまあまあと抑えて。
「腕っ節だけではありませんよ伯父上。内政においても桧釐の尽力無しにはこの国は立ち行きません。総務については一手に引き受けて貰っていると言って良い」
「まさか、そんな、こんなに頭の悪い男が。買い被り過ぎでしょう」
 貴様よりマシだと隣で唸っているが、この際無視して。
「他に人も居ないのでやらせてみたら意外に才能があったという事でしょう。流石は戔の要衝である北州を任せられるよう育てられた男です。この性格ですから賄いに塗れる心配もありませんし?」
 その賄賂で地位を守ってきた地方官は、うぐっと喉で噛み潰した声を出して言葉を詰まらせた。
 息子はざまあ見ろとばかりに口元を歪める。
 だが、龍晶にとって本題はここからだ。
「ですから伯父上、何の心配もなさらず北州をご子息に譲れば良いと思うのですよ。と言うのも、金鉱脈のあるこの地は騒乱の種も撒きやすい。哥を始めとした諸国にとっては喉から手が出る程欲しい地でもある。そんな地を、一地方官が守り抜くなど重荷が過ぎるでしょう?ですから、近くここを王府直轄地として我々が直接統治しようと思うのです。その実務者は、この桧釐として」
 話に付いて行けなかったらしく、桧伊は口を開けたまま固まってしまった。
「陛下、頭の悪い父親で申し訳ない。恐らくきちんと理解するまでには何年もかかるだろうから、沈黙を是として事を進めましょう」
「そうか。致し方ないな。尤も是非は無いが」
 桧伊は机をばんと叩き、立ち上がって、一声お待ち下されと叫んだ。
 とにかく何か言わねばならなかった。このままではこれまで築いたものが全て奪われてしまう。
 が、何を言ったものかまごついていると、息子が鼻で笑った。
「待てって、何を言うか決めてから言えよ。どうせほぼ決定事項だから何言っても同じだけどな」
「お前…!それが親に向かって子の言う事か!」
「あれ?親子の縁を勝手に切ったのはどちらでしたっけ?」
「お前の放蕩が過ぎるからだろう!」
 そこへ料理を運んできた朱怜が兄と父を睨んで甲高い声を上げた。
「もう、いい加減にしてよ!みっともない」
 黙った父子と良い仕事をした従姉妹に口の端を吊り上げて、龍晶は桧釐に言ってやった。
「州侯殿の言い分を待とうじゃないか。このままでは我々が物盗り同然になるからな。ご納得頂いた上で貰うものは貰わないと」
「言い分が悪どいですよ、陛下」
「悪い真似が出来るのは、己が正しいと知っているからだろ」
 さあ、何か言えるものなら言ってみろとばかりに伯父を見上げる。
 唇を震わせながら桧伊は言った。
「この十数年、北州を支えてきたのは私ですぞ。前王から取り潰される寸前だったこの地を私が守り抜いてきた!それを知らぬとは仰せになりますな。その報いがこれとは、あんまりだ…!」
 渾身の叫びに、はあ、と気の抜けきった返答。
 目の前で甥と息子が白い目を合わせたのを見て桧伊は何かを諦めた。
「よくもまあ、守り抜いたって堂々と言えるもんだな。街の惨状を全く目に入れてない証拠だ」
 桧釐の言う事は真実だが、彼に喋らせるとまた親子喧嘩になる。龍晶は従兄弟から言葉を取り上げて伯父に告げた。
「お言葉を返しますが伯父上、前王である兄が北州を取り潰さなかったのは、その必要が無かったからでしょう。それは確かに伯父上の功績と言えばそうだが…それが賄いのお陰である事は周知の事実。金鉱脈で取れる金をあなたは不当に私して、王側近らの懐に入れていた事を俺が知らぬとでも?そういう汚職が常態化しているからこそ、この国を建て直さねばならなくなった自覚はお有りですか。俺だってこんな仕事はしたくなかったのですがね。この国を汚染したあなた方が俺に兄を殺させた!」
 初めて見た王の本気の怒りに、桧伊は席上で縮こまった。
 それでも冷ややか且つ怒りに燃える、刺さるような視線で見据えたまま、龍晶は続けた。
「この北州を守り抜いた英雄は祖父一人です。俺達一族は勿論、北州の民は皆それを知っています。金か名声か、あなたが何を目的にこの家に婿養子として入ったのか知らないが、謂れなき罪を背負いながら戦い続けた我々一族をあなたは理解できないでしょう。この街を去れとは言いません。あとはあなたの息子に全て手渡しなさい。それが王と民の総意です。異論は許されません」
 黙りこくる桧伊の肩を、妻の黄花がぽんと叩いて告げた。
「もういい加減、終わりにしましょ、あなた」
 わあぁ、と頭を抱えて男は叫んだ。
「生きるのに必要なくらいの仕送りはしてやるよ。俺はあんたとは違うからさ」
 かつて母と妹を困窮に追い込んでいた父に、半笑いで桧釐は言った。

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