月の蘇る 2 高く聳える城壁の一角、人目に付かぬ場所に、地下へと続く階段がある。 それを縺れる足で落ちるように降りると、帰還すべき『家』に着く。 元々は牢だった――今もそうかも知れない――鉄格子付きの木の扉を開ける。 開けたまま、固まった。 ここが『家』でなければ瞬時に刀を抜くところだが、尤も今はそんな気力も無い。 誰も居ない筈のこの場所に、人が居る。 それも、よくよく見れば、女らしい。 尤もこの点の曖昧さは目が霞んでいたり、そもそも相手を観察する気が無かったり、何より女という存在を随分長い間見る事が無かったせいで、万人が見れば万人が女だと認知し得る着飾った正真正銘の女である。 「遅い」 どうやら怒っているらしい。そして怒られているのは自分らしい。 どうしたものかと少年は格子に手をかけたまま身体をもたせ掛け、ぎしぎしと音を鳴らしながら考える。 考えても埒があかないと気付くより前に、またぴしゃりとした怒声が響いた。地下牢だけに無駄に響く。 「何なの、その薄汚い格好は!洗いなさい!今すぐ!!」 言われた事の意味も分からずぽかんとする少年を余所に、女はずんずんと家を歩き、風呂場へ入り、水音を発てて風呂窯を満たし始めた。 その間も少年は格子と一体化し続けている。 おかしい。いや、おかしすぎる。 何が? ここに人がいて、それが女で、風呂を沸かしている、今目の前で起きている事実全てが。 「何ボサッとしてんのよ!時間無いのよ!さっさとしなさいっ!!」 風呂場から怒号。きんきんと耳に響く。 耳朶をさすりながら、のろのろと風呂場に赴く。女は隣の土間で火を焚いている。 血糊に固まった衣服を剥ぎ取り、その辺に捨て置いて、恐る恐る風呂釜へ足を付ける。意外と悪くない熱さだ。 「その様子じゃ、あんたまだ何も聞いてないわね、次の任務の事」 窓越しに女が話しかける。否も応も言う暇も与えられず女は話し続ける。 「今日中に苴(ソ)に出発するのよ!場所は禾山(カサン)に作られた陣中。そこに千虎(センコ)とかいう敵方の大将さんがお出ましらしいわ」 そこまで一息で言い、火に息を吹き入れ、また口を開く。 「私達は楽士として陣中に入り、その大将さんを暗殺するって計画よ。私は怪しまれない為の踊り子。ついでにあなたを怪しまれない身なりにしてあげに…って!!」 風呂場からぶくぶくと音がする。 立ち上がって窓を覗くと、水面に銀髪ばかりが浮いている。 「――溺れてんじゃないっ!!」 急いで風呂場に回り込み、風呂に腕を突っ込んでざぶりと救出。 浮上した頭はかくりと垂れ下がる。 遅かったかと肝を冷やしたが、何の事は無い、すやすやと健康的な寝息をたてている。 「……子供かっ!!」 どちらかと言うとまだ子供だ。 女はがしがしと頭を掻きむしり、先の事を考え唸り声をあげ、とりあえず銀髪を引っつかんで沈まないようにしながら洗い始めた。 随分と嗅ぎ慣れない匂いで目が覚めた。 つられて空腹を思い出し、この数日はまともな食糧にありつけなかったと、どうでもいい事を考える。 そして布団の中にいる事、薄手の衣を着ている事に気付き、眠る前の顛末を思い出し―― がばりと身を起こした。 「目が覚めた?」 「げっ…」 夢じゃなかった! あからさまに不適切な反応を示した寝起きの少年を一睨みし、女はつっけんどんに言った。 「作ってさしあげたから、お好きなだけ召し上がって」 円卓の上には粥、煮物、焼き魚、茶。 「…いいのか?」 生唾を飲み込んで、一応問う。 「誰の為に作ったと思ってんの?食うならさっさと食え!」 また怒らせて、小動物のようにぎゃっと悲鳴をあげながらも、凄まじい早さで席につき、掻き込み始めた。 「…ったく…」 夢中で貪る様を見るともなく見ながら女は溜息をつく。 「あなた、いくつ?」 「ん?」 きょとんと見上げる顔に飯粒が付いている。 「歳よ!歳!」 「じゅーさん…か、よん」 「どっちなの!?」 「さあ?」 まるで意に介さずまた箸を動かす。 言っている事が事実だとしても、いろいろと歳相応ではない。 「本当にこんなお子様が暗殺なんか出来るの…!?」 八つ当たり的に呟いた独り言で、箸の動きが止まった。 「暗殺?」 ぎくりとした。 この物騒な言葉を聞き返した瞬間の眼が、急に鋭くなった。まるで肉食の獣が狩りをする時の様な。 しかし口の横には相変わらずの飯粒。 「…そ、そうよ。次の任務…」 「ふぅん」 他人事の様な返事。一瞬の威圧感は気のせいだったかと女はまた溜息。 「ご馳走さま」 きちんと手を合わせるあたり行儀が良い。 「出発は?」 席を立ちながら当然のように問う。風呂場での説明は全く意味が無かったらしい。 尤も、これは変更されたので、どの道また説明せねばならなかったが。 「今朝中には発つわ。…全くあなた、何様よ」 「ん?」 「上の人達に、『寝ちゃったんですけど、どうしましょう』って報告したら、丸一日も予定をずらして貰えたのよ!ただの寝坊で、よ!どれだけあなた、お偉いの!?」 んー、と真面目くさって考える。考えながら口の横についた飯粒を食べている。 「普通叩き起こせって事になるでしょ?全く、小さい子供じゃないんだから…『寝かせとけ』なんて…」 愚痴愚痴と続ける女に向けて、少年は馬鹿真面目に答えた。 「俺は偉い人間になんざなりたくないよ」 女は咄嗟に罵声を浴びせようと開いた口を、諦めてまた溜息に変えた。 思いっ切り論点が違う。…と言ったところで時間の無駄だ。 「でも、ま」 構わず少年は続けた。流石にこの薄い浴衣のままでは居られないので、まず着るものを探している。 「奴らが俺を恐れているのは確かだけどさ」 「…恐れている?」 「あんた何も知らされずにここへ来させられたんだな」 「…どういう事!?」 少年は淡々と服を取り出し、身につけている。言葉尻には少し呆れが混ざっていた。 「俺に暗殺が出来るかって?」 女が先程独り言として発した問い。 「…そんな事、訊く方がどうかしてる」 「だって…だってこんな幼児みたいなお子様に、そんな事出来る筈無いじゃない!」 「ま、見てりゃ解るさ。…尤も、そこまであんたが無事で居られたら、の話だけど」 「……」 一応一通りの身仕度は整ったらしく、少年は次の探し物を始めた。 「刀より笛、だろ?」 「え?」 唐突な質問の意味が解らず、問い返す。 「楽士なんだろ?刀より笛を持った方が自然だ」 「あ…あぁ、そうね…」 あの説明は聞いていたのかと呆れる。 が、すぐに矛盾点に気付いた。 「刀は持って行かないつもり?目的は暗殺だって、分かってるの?」 「は?今更だろ、そんなの」 怪しみながらも女は黙る。 少年は少ない家財道具から、笛が入っているらしい、古ぼけた錦の袋を取り出し、刀のように腰に差した。 「さて、行こうか」 「もういいの?」 何を云わんやとばかりに肩を竦める。怪しみながらも女もまた扉に向かう。 「あなた、名前は?」 「あんたは?」 問い返されてむっとしながらも、女は答えてやった。 「於兎(おと)」 ふぅん、と少年は呟く。関心があるのか無いのかよく分からない。 「あなたは?なんて呼べばいい?」 「別に、化け物でも悪魔でも鬼でも、好きなように呼べば?」 「はぁ!?ふざけないでよ!?」 「ふざけてないって…本当にそう呼ばれてるんだから…。あとは、まぁ、月、とか」 「月?」 「あんた達にとって月は悪魔の化身なんだろ?…ま、別に俺には関係無いけど」 階段を登りきり、林に囲まれた城の裏手に出た。 「ちょっと…本当の名前は何なの?」 ちらりと振り返る。 藍の瞳が太陽の光に透き通る。 その一瞬に見惚れている間に、視線は逸らされた。 「朔夜(さくや)」 洗った銀髪が眩しいくらいに輝き、風にさらさらと音を発てて。 「…そう、付けて貰った気がする…」 まるで遠い昔の朧げな記憶を口にする様に、少年は名乗った。 [*前へ][次へ#] [戻る] |