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月の蘇る
  3
 正装の襟元を緩めて、龍晶は椅子の上に仰向いて深く息を吐いた。
「一度脱がれますか」
 特に感情を込めず桧釐が訊いた。
「いや…」
 今度は俯いて龍晶は答えた。
「それとも灌の謁見は明日に持ち越しましょうか」
「それには及ばない。待たせ過ぎてしまう」
 尚も事務的な問いに、龍晶は机へ突っ伏しながら答えた。
 朔夜は手を伸ばして、黒髪の間から覗く細い首に触れた。熱い。
「少し休んだら?次は昼からだろ?」
 問いを受けた桧釐も同意だった様で、席を立つなり従弟の体を子供のように抱き上げた。
「おい…!?」
「服が重いなぁ。着てる人間の方が軽い」
「悪かったな」
 肩の上でむくれる顔に、桧釐は小声で囁いた。
「だけど、軽いのは体重だけですよ。あなたの命は一国を左右する重さだ」
 隣室の暖炉の前に長椅子を動かさせて、そこへ主人を寝かせる。
 長椅子を引っ張ってきた朔夜はそのまま肘置きに凭れて、龍晶の顔を覗き込んだ。
 目の焦点が合わないのは、高熱のせいばかりではないだろう。
「昼時だな。なんか食うか」
 後ろから桧釐に問われて、朔夜は振り返って頷いた。
 桧釐は朔夜の上から龍晶を覗いて、言い聞かせるように告げた。
「粥を持たせますから、食わなきゃいけませんよ」
 肩を引かれて朔夜は桧釐と共に部屋を出た。
 厨房目指して歩きながら、声を落として話す。
「苴はそんなに繍を滅ぼしたいのか」
 朔夜は気負い込んで頷いたが、桧釐は自らの言葉を否定した。
「いや、そうじゃないな。確かに繍は目障りだろうが、それならとっくに攻め込んでいる筈だ」
「何か待ってるって事か?繍が弱るのを?」
 桧釐は頷いた。
「半分はそういう事だろう。ただし、放っておいても弱るものではない。寧ろ、戦力を整える時間を与えてしまう。苴が睨んでいるのは、繍よりも寧ろ、俺達だろう」
「何で?どういう事」
「俺達が兵を挙げるかどうかを試しているんだ。前王時代のツケを払わせる為に」
「それは、龍晶の兄貴が実は繍と繋がっていたから?」
「ああ。その繋がりが今もあるかどうか、苴は試しに来ているんだろう。この国の秘密裏の支援があったからこそ、繍は今まで軍備を整えられた。今となっては苴だけでも簡単に捻り潰せる筈だ」
「それをしないのは俺達の出方を試しているから、って事か」
「だから、お前一人やった所で何の意味も無いって訳だ。分かったか」
 話が思いがけず自分の事になって、朔夜は一瞬言葉と思考を詰まらせた。
「それは…そんな事無いと思うけど」
 直感的に否定して、後から理由を捏ねる。
「だって、苴は月夜の悪魔の怖さを何処よりも身に染みて知っている国だぞ?それが自分達の物になるなら、喜ぶと思うけどなぁ」
「自分で言ってりゃ世話無いな」
 桧釐は馬鹿馬鹿しいと言わんばかりに話を切り上げ、厨房への扉を開けた。
 昼食前の慌ただしい音と、食欲を誘う匂い。
 手近に居た者に、粥を王の元へ運ぶよう頼み、自分達は食堂へと向かった。
 城で働く数少ない役人や、畑仕事をしていた子供、女官の一部などが広い食卓の所々に輪を作っている。
 それを横目に、小麦を練って蒸した饅頭と、野菜を煮込み味と瀞みを付けた餡を皿に取っていく。
 人手が無い為に、配膳は自分達で行う。更に経費削減の為、豪華な食事は出されない。
 だが不満は出ない。並の食事が三食きちんと食べられるのは、この国では有難い事だ。
 米飯は庶民の暮らしでは滅多に食べられない。
 南部の国境沿いでは稲作が出来るが、あとは他国から金と引き換えに入ってくるものだ。
 その他国というのが主に苴と灌だ。
「だから、飯を食いたいなら苴には逆えんという訳さ」
 この国の食料事情と苴の関係を説明して、桧釐は饅頭を頬張った。
「これも美味しいけどな」
 饅頭を餡に浸しながら朔夜は呟く。
「小麦だって毎年取れるとは限らない。凶作の年もある。ここは本当に食い物に恵まれない国なんだよ」
「だから、龍晶の兄貴は堂々と苴を裏切れなかったって事か」
「ま、そうだろうな。繍も貧しい国なんだろ?」
「うん。繍の奴らは戦にしか興味が無いから、土地は良くても耕す人が居ないんだ」
「農民の立場が苦しいんだろうな。それは戔も同じだったけど」
 それを今から変えてゆく。龍晶が命を削ってでもやりたい事はそれだろう。
「そう言えば、朝の喧嘩は決着が着いたの?年貢を取るか取らないか」
 あー、と面倒そうに声を溢して、桧釐は饅頭で餡を掻き混ぜた。
「俺だって農民の暮らしを楽にする事には賛成なんだがな…」
「それは知ってる」
「あの人の、理想の為の暴走を止めるのは俺の役割だろう?」
「昔は逆だったのに」
 出会った時、道場で理想論を顔色変えて留めていた時は立場が全く逆だった。
「それは、あの人を焚き付けなきゃならなかったんだよ」
 燃やすか消し止めるかを制御するのは自分だという事だ。
「で?どうなった?」
「城にある金目の物を片っ端から売るんだと」
「へえ?」
「自分達の食い扶持は自分達でどうにかすれば良いってさ。あの人曰くな。何なら俺も畑を耕して働いてやるって言い出したから、出来るもんならやってみて下さいって捨て台詞吐いて終わらせた」
「駄目だよそれ。本当にやるぞ」
「出来ねぇだろ。立てもしないのに」
「今はね。でも治ったら本当に畑仕事しだすぞ。邪魔にしかならないから駄目だろ」
「言えてるな」
 軽口に笑った顔はそのまま固まった。
 朔夜も桧釐の視線を追い、驚きの余り椅子から立ち上がった。が、立った所でどうしようも無く、佇んで問うより無い。
「皓照…何で居るんだよ」
「これはまた、随分ですねぇ。戴冠式の見物と、灌王のお使いですよ?当たり前じゃないですか」
 言葉通り当然のように、二人と同じ卓に着いて、朔夜が割っていた饅頭の一欠片をひょいと取って齧った。
「他の公使達はご馳走が出てるのになぁ」
 子供のように咀嚼しながら喋る。
「あんたが来るなんて全く耳に入ってないぞ」
 桧釐が言うと、皓照はまた当然のように答えた。
「それはそうでしょう。灌王と私しか知らない事ですから」
「気まぐれで来られてご馳走を強請られても困る」
 苦笑いしながら桧釐は自らの饅頭はさっさと口に運んだ。
「気まぐれとはまた随分な。私はとっても重大な話を持って来たんですよ。後で公使から喋らせるのも何なので、先にお二人の耳に入れておこうと思いまして。ほら、私はこうして親切心でここに来たんですから、昼餉を下さい」
「皓照も腹減るんだ」
 さも意外そうに言っている朔夜にも目眩らしきものを覚えながら、桧釐は仕方なく席を立って皓照の昼飯を用意してやった。
「次は自分でやれよ」
 言いながら膳を出してやる。
「あ、私は出して頂いたものは食べますが、自分でやるほど空腹は覚えません」
 それは朔夜への答えなのか、ものぐさの言い訳なのか。面倒臭くなって桧釐は一蹴した。
「知るか。話って何だ」
 嬉々として饅頭を割りながら、皓照は言った。
「灌王の御息女を嫁して頂こうと思いまして」
「…は?分かるように言え」
「ですから、灌の姫君をこちらにお嫁さんとして迎えて欲しいのですよ」
「嫁?は?誰の?」
「もう、決まってるじゃないですか。龍晶陛下のお后としてご婚姻頂くんですよ!」
 食堂中が静まり、全ての耳がこちらに向いた。
 混乱の果てに固まった頭が、これはまずいと警鐘を出す。
 とにかく聞き耳を散らさねば。
「無い無い無い!どういう例えだよ全く!そんな話は有り得ないだろ」
 わざと大声を張り上げ、手を大仰に振って、そのまま朔夜の首根っこを掴んで皓照から逃げた。
 まだ朔夜は表情を凍らせたまま、桧釐の成すがまま。
 食堂を出、人目の無い回廊に逃げ込んだ所で、饅頭と碗を抱えた皓照が追い付いた。
「まだ食べ始めたばっかりなのに、なんで置いて行くんですか!?」
「俺は食い終わった」
「俺のはお前に食われた」
「こっちは親切心でここまで来たんですから、待ってくれても良いじゃないですか」
「あの場に居れるか!」
 改めて人気の無い事を確認し、桧釐は皓照に詰め寄った。
「そんな事を、公使から直接あの人に聞かせるつもりだったのか?」
「それを避ける為に私が来てあげたんじゃないですか。公使の知らない情報も教えてあげなきゃいけませんし?」
「何でいちいちそんなに恩着せがましいんだ。頼んでねぇし、陛下だって恐らくその話は受けないぞ!?公式の場で頭下げて断らせる訳にはいかない。さっさと公使にその旨を伝えてくれ。婚姻の話はしてはならない、と」
「こちらは断らせる訳にはいきませんし、そちらも断る理由は無い筈です」
「理由ならある!言う事は出来ないがな!」
「それは知ってますよ。ここに居る誰よりも何があったかは見てきています。だからこそ私が話を持って来たんじゃないですか」
 桧釐は口を止めて疑り深い目を向けた。
 皓照は悠々と話を続けた。
「龍晶陛下には御子を作る事は出来ない。ならば、后となる方も同様に子を成す事が出来ぬ体だとしたら?」
 え、と朔夜は驚いた顔をし、桧釐は更に顔を顰めた。
 そんな二人にゆるりと視線を流して、勝ち誇ったように皓照は言った。
「断る理由は無いでしょう?」

 粥は手付かずのまま卓上で冷めていた。
 長椅子の上で眠る顔もまた、幼い日の面影のままに、頬だけが痩けている。
 幸福の象徴のような、白くふっくらした頬を失くしてしまった顔。
 今も、悪夢から逃げ惑うかのような、不安な息遣いをして。
 桧釐は主人を揺り起こした。
 一体、この人が今から掴める幸福とは何だろうと思いながら。
「済まん…つい」
 駆けてきた後のような苦しげな息で、龍晶は謝った。
「いえ、休めと言ったのは俺ですし。熱も下がっていませんね」
 龍晶は頷き、周囲を見渡して桧釐一人である事を確認し、言った。
「臓腑がまた痛むようになった。多分、あの時の傷が原因だと思う…。朔夜には黙っておいてくれ」
「医師を呼びますか」
「いや、いい。治るものでも無い。これは天罰だから」
「そうは思えませんが」
 不服そうな桧釐を見、龍晶は言い添えた。
「祥朗が貧民街の医師に薬の作り方を習っている。俺はもう、あいつの作る薬以外は飲まない事にした」
 冗談なのか本気なのか、とにかくそれは反省の上での誓いなのだろうと捉えて、桧釐は頷いた。
「それは間違い無いでしょう。坊ちゃんも立派なもんだ。さて、飯は食って下さいよ」
 身体を長椅子の上に起こし、冷めた粥を持たせて、桧釐は床に座った。
 どう話を切り出すか悩む。問題は話の進め方だろう。だからこそ、皓照は使者より先に自分達へ話を持って来た。
「どうやったら繍と戦にならずに済むか考えていた」
 龍晶の呟きを聞いても、一瞬何の事だったか忘れてしまっていた。
 そんな事は思いも寄らぬ彼は、進まぬ匙を手に口を動かした。
「苴を一度裏切っているのは確かだ。代替わりしたから信じてくれというのも通じないだろう。それを証明するには、言われた通りに出兵するしかないんだろうが…」
「その余裕はありませんよ」
 龍晶は頷き、粥を掬って宙に留めたまま、暖炉の火を睨んでいる。
 これしかない、と桧釐は思った。
「灌王に仲立ち頂いて妥協策を探るというのは如何でしょうか」
「灌王に?」
「万一、苴との関係が悪化する事になっても、灌との繋がりがあれば我々は食い凌げます」
 ゆっくりと、龍晶は止めていた匙を口に運んだ。
 この国では貴重な米の味。
 これを、ゆくゆくは全ての民に味わって欲しい。
 その為の、外交だ。
「実は、灌王より陛下へ御婚姻の話を預かっております」
 口の動きが止まった。桧釐は努めて事務的に伝えた。
「灌王の姫君を、我が国の后としてお迎え下さい」
 そこに選択肢は無かった。決定事項だった。
 火を睨んでいた目が、焦点を失っていた。
 桧釐は更に感情の無い早口で付け足した。
「その姫君は、訳あって子を成す事の出来ぬ身なのだそうです。陛下のご懸念は当たらぬかと」
 碗を持つ手が震えだした。咄嗟に碗と匙を取り上げると、龍晶は子供のように椅子の上で膝を抱えて蹲った。
 何も見たくない、聞きたくないと。
「民の為です、陛下。これは政なのです」
 桧釐の言葉に頷く。顔を膝の中に埋めたまま。
「灌との繋がりを強めれば、苴とも話が出来ましょう。そればかりか、灌王は我々への人材支援や食料の供給も申し出てくれています。あなたが灌に行き、王の信を得た事の成果に他なりますまい。その信を具体化する為の、婚姻です。断る理由はありません」
「断る気など無い!」
 胸の内とは裏腹の言葉を叫んで、震える身を何とか抑えようとするかのように、肩まで抱えて。
「俺はこの国の人柱となったんだ。繁栄の為なら断れる筈が無いだろう。ただ…申し訳ないと思うだけだ。灌の陛下へ、恩を仇で返す未来が…」
「どうしてですか。何故、仇となるのです」
「俺の側に居る者が、幸福になどなれる筈が無い」
 その馬鹿げた考えを、桧釐は鼻で笑ってやる事が出来なかった。
 彼の『家族』は、無残な死に方をした。
「それが、怖い。誰かを巻き添えにするのは」
 それが王ではない彼の本音なのだろう。
 余りにも恐ろしいものを見過ぎた。涙も十分に流せぬまま、今も闇の中で、一人。
 『誰か』を闇の中に入れる事を恐れている。
「もう、終わったんですよ。あなたが一人、誰かの為に傷付く戦は」
 黒髪から覗く瞳は揺れ、従兄を捉えた。
 その怯える目で、己を脅かす者か、己が体を張って守るべき者か、他者を常に見極めねばならなかった。
「これからは、あなたの頭を使って、民を守る戦をして下さい。無論、俺達も、民の多くも、あなたの味方です。恐れる事はありません」
 龍晶は膝を抱え、暖炉の火を見つめた。
 誰の為、何の為に、今日まで生き永らえてきたか。
 体を蝕まれながらも、まだ生きようともがく意味は何か。
 本当は、誰の命も抱えずに生きる事の気楽さにやっと気付いた所なのだ。そのままが良かった。
 生きるも死ぬも、己一人ならば、何でも出来ると思った。
 また、誰かを守り抱えるのは、酷く重荷に思えた。
 家族という、己の幸福を思い出すのは、心臓を焼かれるような痛みを伴った。
 もう嫌だった。喪う事は。
「…お前の子を貰うなら、母親が必要だろう」
「はい。その通りです」
「二人の母に愛されるとは、幸せな子だな」
 薄い笑いを見て、桧釐は鼻の奥がつんと痛んだ。
 理由は分からない。だが、幼い頃の彼の、あの何の曇りも無い笑顔を思い出していた。
 あの頃の全てを失って、しかしそれを、今から生まれてくる子には与えようとする。
「陛下」
 己から削ぎ落ちた幸福を、己以外の全ての者に、掴み直させようと。
 だけど、幸福が何か忘れたままでは、話にならないではないか。
「その子は俺の血ですから、きっと親の言う事を聞けない馬鹿な子です。それでも国が治まる仕組みを作って頂けますか。もう誰も犠牲にせず、民が幸福である国を、あなたの世のうちに作って頂けますか」
 どうして王という人を一人、犠牲に出来ようか。
 皆が笑う国になれば、この人だって、きっとあの日のように笑う事が出来る筈だ。
 思い出して欲しい。温かさを。
 目指す世界を。
「…ああ。俺の世は短い。急務だな」
 どうか思い出して欲しい。
 自分自身も、幸福であって良い事を。

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