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月の蘇る
  1
 封じていた記憶の蓋が開いて、亡き人の声がする。
ーー仲春(チュウシュン)よ、お前に新たな名を授けよう。
 これからは龍晶と名乗りなさい。そうだ。この父、龍宸(リュウシン)の龍の一字をお前に譲る事にした。
 父だけではない。我が父も、その父祖も、この戔という国を支えてきたお前の祖先は皆、この龍の字を持つのだ。
 これがどういう事か賢いお前には解るだろう。
 お前は王となる。ならねばならぬ。もう、お前の他にこの尊い仕事が出来る身は無い。
 良いか、龍晶よ。
 今は学べ。よくよく学ぶのだ。
 今は我が手にあるこの国を、お前の手に渡すその時の為に。
ーー龍晶だと?生意気な。
 俺にはお下がりのような名前を寄越しやがって、あの糞親父が。
 いいさ。どうせ龍の字を持つ祖先達は、この国を腐らせる事しかしてこなかった。その愚かな伝統を覆すには丁度良い。
 俺はこの国をぶち壊し、建て直してやろう。
 いつまでも生き永らえて、龍の字を持つお前の出る幕も無くしてやろう。
 俺はお前など生涯認めない。
 兄と呼ぶな。虫唾が走る。
 お前の名など、呼ぶに値しない。
ーー龍晶殿下!今日よりお仕えする、小奈(サナ)と申します。
 お困りの事が有れば、何でもお命じくださいませ。
 え?お勉強を?私も共に、ですか?
 哥の…この言葉が読めないから、お困りだと…?わあ、どうしましょう。私、安請け合いし過ぎてしまいました。
 いえ、お調べします!殿下の為なら!
 こんなに美しくて賢い王子様とお勉強出来るなんて、私は幸せ者です。
 きっと、未来の戔は、あなた様のように美しく賢い国となるのでしょうね。
 私、とっても楽しみです。
ーー仲春、こちらへいらっしゃい。
 あなたに弟が出来ましたよ。祥朗といいます。あなたより三つ歳下です。
 祥朗はことばを話すことができません。だけどあなたに似て賢い子です。一緒に遊んだりお勉強をして、共に立派な大人になってくださいね。
 どうしてお話ができないか、お尋ねになるのですね。
 それは、この子がとても悲しい目に遭ったから、ことばが胸につかえて出てこなくなったからです。
 本当のお父さんは、祥朗がまだ赤ちゃんの頃に鉱山で岩に潰されて亡くなったそうです。
 本当のお母さんは、つい先日、貧民街で飢えと病気にかかって亡くなったのです。
 仲春、あなたは父も母も居ます。言葉も自由に喋れます。他にも、たくさんの物を持っているでしょう?
 だからと言って、祥朗より優れているという事は無いのです。あなたの父母が、祥朗のお父さんやお母さんより偉いという事は無いのです。
 あなたはこれから兄として、祥朗の言葉にならねばなりませんよ。
 その心をしっかり思いやって、己が何をすべきか考え、そして行動していくのです。
 それが、王となるあなたの勤めです。
 この国の全てを持つあなたは、その全てを持たざる人々に捧げねばなりません。
 そうしてあなたの手元に残るのは、この可愛い弟だけで良いでしょう?そう、この子はあなたの宝です。
 仲春…いえ、龍晶様。
 大丈夫です。
 あなたなら、何だって出来ますよ。

 戴冠式を終えたは良いが、待ってましたとばかりに上がった熱のせいで、何も出来ずぐったりと床に横たわっている。
 それでも手には目を通すべき書類。その束を抱いて寝ているのだから世話は無い。
 唸り声を上げながら重い腕を上げて字面を目に入れるが、目に溜まる涙が邪魔をして文字が溶ける。
 溜息と共に上から書類を取り上げられた。
「だから無理するなってのに」
 朔夜が紙の束を卓上でとんとんと纏める。
「無理じゃねぇよ」
 切れ切れの息で反論する。が、倍以上で返ってきた。
「じゃあ一体何が無理って言うんだよ?大人しく寝ろ。数日寝ればいくらでも仕事出来るようになるから」
 不服そうに息を吐き出す。
 それを聞いて、呆れつつ心中で呟いた。
「ったく、頑固者め」
 つい声に出ていた。
「どっちがだ」
 大人しく寝る気など無く毒付き返す。
「はぁ?俺は全然頑固じゃねぇよ。見習え、この柔軟さを!」
 くにゃりと身体を折り曲げて見せる。確かに尋常ならざる動きを作り出す身の柔らかさだ。
「そういう事じゃねぇよ馬鹿」
 ごくごく当然の突っ込みを入れて、龍晶は床から身を乗り出して卓上に手を伸ばした。
「うわ、油断も隙も無いなコイツ!」
「お前は隙と馬鹿話ばかりだ!」
 子供の喧嘩の如く書類の取り合いをしていると、扉が叩かれた。
「陛下、お客人をお連れしました。入りますよ…て、何やってんだ」
 入ってきた桧釐が一番の呆れ顔をしている。
「ああもう!桧釐!状況を見ろよ!何でまたこんな病人に仕事させようとしてるんだ!?客なんて…!」
 弁えぬ朔夜の口ごと、顔面を桧釐の大きな片手が塞いだ。
 その背後の扉から、一人の少女がひょっこりと顔を出した。
「龍晶陛下、ご機嫌よう」
「これは…香那多殿!」
 驚き姿勢を正そうと起き上がる龍晶を、哥王の最側近は駆け寄り肩を抱いて止めた。
「どうぞ、楽になさって下さいませ。どうせ私の訪問は陛下のお忍びの代理ですから。このような折にどうしてもお会いしたいと我儘を言った私が悪いのです。お詫びに、また看病しましょうか?」
「いえ、それには…」
 苦笑いして龍晶は上体のみを起こした。
 北州ではとんでもない人に看病をさせてしまっていた。
「では改めまして。龍晶陛下、御戴冠、まことにおめでとうございます。非公式ではございますが、我が哥王よりの祝いの品を持って参りましたので、どうぞお改め下さいませ」
 香那多が振り返ると、彼女に従う女官がそれに似合わぬ物を捧げ持って入ってきた。
 緑の茎葉が立つ、鉢植え。
「これは…?」
「あ、俺知ってる!」
 朔夜が嬉々として横から割って入った。
「高黍だ!梁巴で食ってた!懐かしい」
 龍晶は理解が追い付かず、きょとんと香那多を見上げる。
「乾燥し痩せた土地でも根を張る穀物です。戔の気候にはぴったりでしょうと我が陛下がお勧めされました。まずはあなた様の民に、お腹いっぱいになって頂きたいという、哥王の願いです」
 説明に、やっと龍晶は笑みを見せると、深々と頭を下げた。
「有難い…!私が考えるべき、この国の長年の苦悩を、哥の陛下が解いて下さるとは…。どんな金品より価値のある品、心より感謝致します」
 あまりの有難がりように、故郷で当然のようにこの植物に接してきた朔夜は不思議がった。
「高黍って戔には無いの?」
 香那多はにこりと笑んで朔夜に答えた。
「元々は梁巴を始めとした南方高山の集落の産物なのです。それを山の民が密かに伝え、陛下の知る所となったのです。ですから南方諸国ではまだ知る者は少ないでしょうね」
「へぇ。確かに繍と苴に畑は全部燃やされたからな…」
「朔夜」
 暗い記憶を蘇らせた友の顔を見上げて、龍晶は希望に満ちた声で言った。
「お前の故郷のような豊かな畑を、この国に作ろう。俺は梁巴を見た事は無いけど、お前の理想郷はきっと、この国に作れる。見届けてくれるか?」
「…梁巴を…この国に…」
 いつか帰るべき遠い故郷は、今や跡形も無く風雪の下に眠っているのだろう。
 還るには途方も無い時と労力が要る。そして、もう帰らぬ人への寂しさを噛み締めねばならない。
 だが、在りし日の故郷をそっくりそのまま、友の建てたこの国へ持って来れたなら。
 それも、悪くは無いと思った。
「うん。楽しみだ。やろう、龍晶」
 友は微笑んで頷いた。
「さて、作物を植え育てる為には耕さねばなりませんね」
 香那多が仕切り直して手を叩くと、別の女官が長いものを捧げ持ってきた。
「これは、鍬…ですか」
 意外な場所で出てきた農具に龍晶の顔が曇る。
 彼にとっては、凶器だ。
 香那多はその鍬の刃床を指してにっこりと笑った。
「陛下に頂いた鉄鉱石で作りました。鉄の鍬です。貴国に多く使われる木製や青銅製のものより、ずっと多くの土地を耕す事が出来ますよ」
 龍晶は驚いた顔をし、桧釐に確認した。
「農民は皆、鉄の鍬を使ってはいないのか?」
 従兄は肩を竦めて答えた。
「鉄は農民には買えないんですよ、陛下。前王が金を掘る為に鉄の採掘を殆ど止めてしまったし、採れた鉄も全部武器に回されましたからね。北州の俺の仲間達だって青銅の錆びた鍬を使ってたし、下手すりゃ木で自作するしか無かったんですから」
 龍晶は呻いて額を押さえた。
「俺は何も知らな過ぎる…。お恥ずかしい限りです。哥の陛下は俺にそれを知らせる為に、これを?」
 香那多はそれには答えず、今ひとつ、と指を掲げた。
「これは陛下ご自身に。明紫安(メイシア)陛下のご趣味のものです」
 彼女は自ら懐より小さな木箱を取り出し、龍晶に差し出した。
 受け取った龍晶は、掌に収まるほどの箱を礼儀に則って恭しく頭上に掲げ、香那多に確認した。
「開けても?」
「勿論です」
 木箱の中から、輝く繭が三玉現れた。
 薄黄、薄桃、薄緑の宝石のような玉が、柔らかな綿の中に眠っている。
「蚕ですか?」
「ええ。我が陛下の愛玩物なのです。それを龍晶陛下にお分けしたい、と」
「書物では読みましたが、このように美しい物だとは知りませんでした…」
「そうでしょう?我が陛下は哥の民にこれを愛でて欲しいと密かに願っているのですが、如何せん遊牧の民には合わなくて」
 哥王の願いは読めた。龍晶は笑みを深くして頭を垂れ、もう一度遠い哥の王へ感謝を示した。
「こんなにも早く…私の願いを聞き届けて頂き、感謝の言葉もありません」
 北州で香那多に語った。
 貧しい土地の民が他国で売れる品物を作り、富めるようにしていきたいのだと。
 その品について、よい案があれば哥王に尋ねたいと願っていたが、直接尋ねる前に答えがやって来た。
 香那多は改まって龍晶に向き直った。
「昨日の戴冠式を拝見させて頂きましたが、実に見事なものでした。哥への良き土産話となりましょう。我が陛下の事ですから、龍晶様の美しいお姿は、きっと遠くから見ていらしたのでしょうけどね」
 くすりと笑って香那多は付け足した。
「陛下は龍晶様が可愛くて仕方ないのです。お歳がお歳ならば一目惚れと言っても良いくらい。毎日私にお尋ねなさるのです。龍晶様に何かしてあげられないかしら、って」
 子供のように顔を赤らめて恥じる友を、朔夜は自分は棚上げでにやにやと見詰めた。
 香那多は幸せの溜息を漏らして、噛み締めるように呟いた。
「良かった。本当に良かった。あなた様の晴れ姿を無事この目で見る事が出来て、長年の苦労が報われました。私も、明紫安様も。どうか、これからも良きお付き合いをさせて頂けますように」
「それは、こちらからお頼み申し上げます。哥と戔の友好関係があればこそ、この国も私自身も生きておれるのですから」
「ええ、微力ながら協力させて下さい。しかし龍晶陛下、私がこのように不調法を犯してまで謁見を急いだ理由、聞いて頂けますか?」
 昨日参列した各国の使者は王の不調を理由に謁見を待たされている。その中で香那多だからこそ知ったる仲でここまで来たのだと思っていた。
「理由とは?」
「大臣、瀉富摩(シャフマ)は公式の使者を出す事を渋りました。ですから陛下の使者たる私は哥の非公式の使者です。公式の使者は遅れてやって来るでしょう。しかし陛下、その使者の言う事、くれぐれも鵜呑みになさいませぬよう」
「忠告痛み入ります。つまり、大臣は俺を良くは思っていないのですね。あの時のままに」
 哥王の美しい庭園での、身を切るような一瞬を思い出しながら龍晶は問い返した。
「そうです。隙あらば陛下の意に反して兵を挙げようと考えています。その大臣を説き伏せ、或いは失脚させる為に、私は急ぎ戻らねばなりません。お許し下さい」
「分かりました。どうかご無事で。陛下にはご厚情を有難く受け賜りますと、よろしくお伝えください。この宝、一生を懸けてこの地に根付かせます」
 香那多は微笑んで頷き、膝を屈して頭を垂れた。
「名残惜しくは御座いますが、これにて」
 顔を上げた香那多に、龍晶は告げた。
「近い将来、必ず…哥へ参り、あの美しい庭で直接陛下へお礼をさせて下さい」
 少女の顔は、幼い息子を持つ母のようにも見えた。
「明紫安様も、私も、その日が次なる希望となりましょう。哥でお待ちしております。その日まで、どうか、お元気で」
 香那多が去って、気の抜けた風船のように龍晶は崩れた。
「あーあー。そのままで良いって言われたのに無理するから」
 今更言っても仕方ない朔夜の言葉に、最早返す気力も無い。
 大人しく額を冷やされながら、声を振り絞ってそこに要る二人に告げた。
「その…鍬と黍を、あいつ…呂枢に渡してくれ…」
「え?呂枢に?」
 龍晶は頷き、今度は桧釐へと向く。
「子供達に、城内の敷地に畑を作らせて…植えて種を取る…。十分な量にして、各地に配る」
 それだけをまるで遺言のように伝え、ぱたりと気を失ってしまった。
 手にはしっかりと、繭の入った木箱を抱いている。
「全く…そこまで急ぐ話でも無いでしょうに。王となっても相変わらずだなぁ」
 苦笑いで眠った従弟に言って、桧釐は頭を掻いた。
「やる事が多過ぎて、それに体がついて来なくて、もどかしいんだろ。早く役人を増やしてやらなきゃこいつ、全部自分でやろうとするぞ」
「ああ、それは俺も手を付け始めた。使えそうな旧臣を調べ上げて呼び戻そうと思うが、どいつもこいつも腐りきっててな。まともな人間が居ねぇ。居ても隠居の爺さまだ。どうしようも無い」
「当面は爺さまでも良いんじゃないの?」
「はぁ?」
「龍晶は呂枢みたいな子達が大人になったら役人にするんじゃないかなぁ。本人にそんな事言ってたよ。だから城で畑仕事させるんじゃない?」
「いや、それはお前、何かの勘違いと言うか、物の弾みで言った事じゃないのか…」
 信じない顔で桧釐は言うが、だんだん真顔になって口を閉ざした。
 そして呆然と呟いた。
「この人は役人をも一から作り上げるつもりなのか」
「誰も彼も腐ってんなら、それが良いんじゃないのか?俺はよく分からないけど」
「国土も人も、一から作り上げようなんて…そんな途方も無い事、一代で出来る話じゃないでしょうに…あなたという人は全く…」
「良いじゃん。一代で出来なくてもさ」
 事もなげに朔夜は言った。
「こいつの作る国はずっと続くんだろ?未来永劫にさ。俺、ずっと見ててやるから」

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