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月の蘇る
  10
 馬車から抱きかかえられて降ろされた主人を見て、桧釐は顔を顰めた。
「ひでぇナリだな」
 頭から血を被ったようなどす黒い汚れ。衣服は切り裂かれ襤褸屑を纏っているかのようだ。
 意識は無いが、命に別状は無いと言う。
 続けて出てきた宗温が、馬車に向き直って誰かを呼ばわった。
「ほら、あなたも出て来て早く治療しないと。手が動かなくなっても良いのですか?」
「勝手に治るから大丈夫…!」
「まだ血を流しながら言えた台詞ですか。龍晶様の治療を優先してくれた事には礼を言いますが、それであなたに後遺症が残っては誰も喜びませんよ!」
 それで誰が居るのかは分かった。何故出てくるのを渋っているのかも。
 桧釐は苦笑を浮かべて馬車の奥を覗いた。
「さっさと出て来い。隠れてても仕方ないだろ」
 馬車の椅子の下で、血の流れる右手首を逆の手で握りながら、朔夜は明らかに「げっ!」と声を漏らした。
 こちらもかなり酷い身なりだ。美しい銀髪は汚く血に固まり、服は血染めと言っても良いほどの染みがこびり付いている。よく見れば細かい傷や痣が無数に認められた。
「この二日間、ずっと闘い通しだったんです。お陰で多くの反体制組織が消滅しました」
 宗温が取り成すように説明した。
「そりゃ、ご苦労だったな。良いから早く出て来い。働きに免じて縛り上げるのはよしてやるから」
 漸くのろのろと朔夜は這い出てきた。
「今から灌に帰るよ」
 悲しげに言い訳する。
「別に、俺はそんな事言ってない」
 苦々しく桧釐は返した。
「とりあえず治療を受けろ。で…龍晶様の事はお前に任す。良いな?」
 否も応も言えず、見開いた目だけを返して朔夜は宗温に肩を抱かれ連れて行かれた。
 桧釐はやれやれと月夜の空を仰ぐ。
 今日も一日が終わろうとしている。
 新たな世を迎えるまで、あと七日となった。

 軍の治療室には子供が溢れ返っていた。
 朔夜が救出した子供達が、とりあえず治療目的でここに留め置かれている。
 衛生兵に包帯を巻かれていると、一人の子供が近寄ってきた。
「あの」
 少年は何を言えば良いかと一瞬まごついて、朔夜に頭を下げた。
「助けていただいて、ありがとうございました」
 顔に付いた血飛沫がまだ生々しい。朔夜はそれを見て思い当たった。
「ああ、こっちこそ。さっきはありがと」
 彼が斬られる寸前の所で敵を倒した、あの少年だ。
 礼を返すのは龍晶を抱えて泳ぎながら、手が痺れて力尽きそうな所を引き上げてくれたからだ。
 まだ痺れる右手を握ってみる。やっと指がぴくりと動く程度だ。筋を斬られた。
 後で月光に晒そうと開き直りながら、まだ何か言いたそうな少年を見上げる。
「あなたが助けた人…無事でしたか」
 知りたかったのはそれなのだろう。恐々と訊いてきた。
「ああ。そのうち目覚めると思うよ。こんな所で死んで良いヤツじゃないから」
「良かったぁ…」
 少年は力が抜けたのかその場に座り込んで笑顔を見せた。
「お前、なんて名だ?」
 こんなに心配させたなら、後であいつ自ら謝らせようと思った。
「呂枢(リョスウ)と言います。あ、でもあの人に名前は言ってません。名前を聞いたら酷く嫌がられたので、そのままになっちゃって」
「ああ…そっか。だろうな」
 そこで仮の名も言えない不器用さが彼らしい。
「俺は朔夜という。後で王宮を訪ねて来ると良い。あいつに名乗らせてやるから」
「王宮…?」
「ああ。明日にでも俺を訪ねて来いよ。約束だ」
 不思議そうな面持ちのまま、彼は頷いた。

 寝台の横の窓から右腕を突き出して、そのままうたた寝をしていた。
 飲まず食わず眠らずでぶっ通しの闘いに、流石に疲れ果てた。
 龍晶の胸の傷を治したら、もう余力は一つも残っていなかった。だから自分の傷すらこの通り治せない。
 でも良かった、と意識を溶かしながら繰り返す。
 横から健やかな寝息が聞こえる。生きている音が。
 こんな所で失う訳は無いと信じてはいたけれど。
 だけど怖かった。怖くてずっと探していた。
 動きを止めたら、永遠に会えない気がして。
 静まり返っていた空気が衣擦れの音と共に大きく揺らいだ。
 目を覚まして振り向くと、上体を起こした龍晶が荒い息を吐いでいた。
「大丈夫か?」
 動く左手で肩を支える。
 龍晶はゆるゆると友の顔を見、深く息を吐いた。
「水中でお前が斬られた…夢だったんだな」
 朔夜は笑って返した。
「夢だよ」
「また俺のせいで死なせてしまったかと…」
「夢、だってば」
 無意識にだらりと力無くぶら下がる右手を隠した。
 朝になれば、全て元通りなのだから。
 震えながらも筋のある声で龍晶は言った。
「朔夜…悪かった。お前を裏切ってしまった。許してくれ」
「なんでだよ?何もそんな事無い」
「もう薬はやめる。しっかり…生きるから。お前に余計な世話かけさせないように」
 思わず朔夜は笑って、左手で友の頭を抱えて黒髪を撫で、はにかんで返した。
「世話なんていくらでも焼くからさ。生きろよ。ずっと…俺、独りになりたくないから」
 朝日が昇る頃、右手は僅かな痺れを残すだけで、主の指示を受けるようになった。

「まだそんな無茶言うのかよ」
 横で聞くだけにしようしていた朔夜が思わず口を挟む。
 龍晶の寝床にやって来た桧釐は、七日後に戴冠式を行うと告げた。
 床で上体を起こすのがやっとの病人に、よくぞ言えたものである。
 その龍晶は、じっと己の手元に視線を落として動かない。
「無茶でもやる。もう限界だ。お前もそれは分かったろ」
 王が定まらないから賊が蔓延る。
 早く政の体制を建て直し、民の期待に応えねば取り返しのつかぬ事になる。
 それは身に染みて理解した。だが冠を戴くその人が自力で立つ事も出来ない、そんな目の前の現状がある。
「…準備を頼む」
 手元を見詰めたまま龍晶は呟いた。
「出来るだけの事はやろう。俺を王に封じてくれ」
 まるで人柱にでもなるかのように。
 朔夜は何も言えず、友の視線の先を追った。
 震える手を必死で抑えていた。
 そこに自らの手を重ね、俯く表情を覗き込む。
 悲壮なまでに青白い顔に、力強く頷きかけた。
「では…決定事項に目を通して下さい。随時持って来ますから」
「桧釐」
 背を向けようとした従兄を止め、龍晶は頼んだ。
「筆と紙、あとここで書ける卓を用意してくれるか」
「…またですか」
「もう繰り返しはしない」
 ちらりと正気を疑う目を向け、それを朔夜に向けて、言外に頼んだぞ、と。
 桧釐が出て行く入れ違いに、衛兵が彼らに告げた。
「朔夜殿、客人です」
 ん?と首を傾げ、すぐに理解して扉へ駆け寄った。
 思った通り、廊下の隅に控えていたのは昨日の少年、呂枢だった。
「よく来たな!入れよ」
 笑顔を弾けさせて手招きする。
 少年は自らここに来た理由が分からず、おずおずと足を踏み入れた。
 その姿を見て、龍晶はあっ、と声を漏らした。
「お前…」
 礼を言わねばと息を吸った時、先手を打ったのは相手だった。
「ごめんなさい、ごめんなさい!俺はあなたがどんな人だか知らず、失礼な事ばっかり…!」
 土下座して頭を下げる呂枢を、朔夜は笑いながら手を引いて立たせた。
「どんな人だかって、これが誰か分かったのかよお前?」
「分かりません!」
 おっと、と転けかけて。
「でも王宮にいらっしゃる、高貴な方だとは一晩考えて分かりました!」
 ははっ、と朔夜は少年を小突いて、その手で龍晶の頭を軽く叩いた。
「お前が名を言わなかったせいだよ。ちゃんと教えてやらなきゃ」
 龍晶は五月蝿そうに朔夜を見上げ、呂枢に視線を移し、言い辛そうに名乗った。
「亡き前王硫季の弟、龍晶という。…お前のお陰で一命を取り留めた。礼を言う」
「えっ」
 呂枢は絶句して、まず朔夜に視線で助けを求めた。
「えぇっ…」
 もう一度声を漏らして己の頭を抱え、そして早口に言い訳がましく捲し立て始めた。
「お、俺、饅頭を分けただけですし、その饅頭も悪党のおっさんに買って貰ったやつだし、それもほんの少ししかお分けしてないし、それに、えっと、わああぁ!!」
 扉に向かって疾走しだした少年に先回って、朔夜は彼を抱き止めた。
「落ち着け!あいつはお前に感謝してるだけだ!」
「だだだだって!龍晶様と言えば次の王様なんでしょ!?親父に聞いたもん!みんなその、新しい王様の為に戦ってたんだろ!?そんな大層な人に、俺、俺、うわぁ」
「だーかーら、落ち着けって!よく見ろ、大層な人じゃねぇよ!お前と歳もいくつも変わらない普通の子供だっての!」
「まだ子供扱いかよ」
「餓鬼言わんだけマシだろ!?」
 一頻り暴れ喚いて諦めた呂枢は、へなへなとそこに座り込んで遠目に憧れの王様を眺めた。
「…怪我は無かったか?」
 今度は龍晶の方が恐る恐る尋ねている。その様が朔夜には可笑しい。
「大丈夫です。ちょっと打っただけで…昨日兵隊さんにも診て貰いましたから」
「そうか、良かった」
「お前はこの子の名をまだ知らないんだろ?」
 朔夜が口を挟んだ。呂枢はあっ、と声にならぬ声を出し、慌てて名乗った。
「呂枢といいます!お名前を聞いて名乗りもせず、大変ご無礼いたしました!」
「別に。寧ろ恩人にそこまでご丁寧に詫びられる俺は肩身が狭い」
 龍晶の顔に笑みが戻った。
「そうですか…難しいですね」
 困った風も無く少年は返した。
 その子供らしさに龍晶はまた笑い、それをすっと消して問うた。
「それで、お前はこの先どうする?行く当てがあるのか?」
「いえ、何も」
「じゃあ、ここで農民の為に働くと良い。お前の親父さんが目指したものを、お前が実現させるんだ」
 呂枢の目が見開く。
「俺…そんな…そんな大層なお役目…出来ましょうか…」
「出来るんだよ。今は学べば良い。十年もたてば国を動かせる大人になる。そういう者が集まれば、王など不要だ」
「あの」
 呂枢は意を決したように尋ねた。
「龍晶様は、王様には…ならないんですか?」
 龍晶は憂う目を宙に漂わせた。
 ここまで亡くした人の顔が浮かび、消えた。
 それは全く顔を知らぬ、呂枢の父親でもあり、各地で己を信じて命を落としていった、無数の民の顔でもあった。
 彼らが戦い、命を懸けた己に、何の力があろうか。
 何も無い。彼らにしてやれる事など何も。
 だからこそ、この一命で彼らに報いるしかない。
 国の中央で、その平穏の為に封じられる人柱となって。
「なるよ」
 龍晶は応えた。
「王になる…呂枢、お前の為に」

 その朝、久方ぶりに己の足で立った。
 横で朔夜がいつでも手を出せるよう構えている。そのくらい危なっかしい自覚はある。
「やっぱ、両脇支えて貰おうよ。それ見ても、誰も文句は言わないって」
「嫌だ」
 強がって、一歩進もうとして、均衡を保てず倒れた。
「あーもう、今やっと立ち歩き始めた赤ん坊が、今日の正午には人前に自力で立てなんて、土台無理な話だろ!」
「俺は赤子じゃない!」
「じゃあ生まれたての仔馬だよ!」
「なら一時もすれば走れるだろ。文句あるか!?」
 喧嘩しながら歩行訓練をしているその日が、戴冠式当日だ。
 城の敷地は開放され、王宮前の広場には朝早くから多くの人が集まった。
 時々、多くの声が合わせられて名を轟かせる。『龍晶陛下!』と。
 その声が王宮内の、張本人の耳まで聞こえる。
 彼は何度も緊張の息を大きく吸い込み、時間をかけて吐き出した。
 戔国の正装が、女官によって整えられてゆく。
 朔夜は哥で一度それを見たが、あの時の比にならぬくらい荘厳な着物に、細々とした装飾品が身を彩ってゆく。
 つい数日前には襤褸屑を纏っていたというのに、着るものだけで人は別人になるらしい。
 そこに居るのは雲の上の貴人だった。
 貴人に似合う端正な白い顔立ちに、すっと朱を挿したような唇。長い睫毛は終始伏せられている。
「朔夜」
 髪を整えられながら、目を伏せたまま龍晶は呼んだ。
「うん?」
 斜め前で長い時間かけて変わりゆく友を見守る朔夜は、双剣を提げた相変わらずの格好である。
「人前に出ろとは言わないが…傍に居ろよ?」
 元よりそのつもりだった。
「うん。何があってもすぐにお前を守れる所に居るから」
 夢を見ているようだ。
 どうか覚めない夢であって欲しい。
 ずっと、覚めない悪夢ばかりだったから。
 俺も、お前も。
「龍晶陛下!龍晶陛下!」
 多くの民が呼ぶ声がする。
 その声に寄せられて、玉座の前に立った。
 横に控えるのは桧釐と宗温。朔夜は人目につかぬ紗幕の裏でじっとこちらを見ている。
 目前には、明るい期待に溢れた多くの顔が。
 それだけで体が震えた。屈しそうな足を叱り、何とか立っている。
 王冠が運ばれた。
 それを捧げ持つのは、数日前に母の葬送から帰ってきた義弟、祥朗。
 貧民街の孤児であった彼もまた、美しい正装に包まれて、己の役割を果たしている。
 その冠を、白い手が取った。
 優しく、頭へと運び載せる、その人はーー
 母上、と心の中で呼んだ。
 よく我慢しました。立派になられましたね、陛下。
 その人は褒めて、微笑んでくれた。
 幻はすぐに消えた。
 そこには可笑しい程に緊張満面の桧釐が冠を受け取って、龍晶が頭を垂れるのを待っているだけだった。
 兄の霊の言葉を思い出す。
 全てが終わって初めて、母に会える。
 その時まで、俺は。
「陛下、早く」
 痺れを切らした桧釐が小声で催促した。
 王冠を戴く。
 割れんばかりの拍手と、歓声。
 顔を上げれば、従兄の泣き顔に笑わされた。
「こんな時にっ…」
「済まん。お前の顔が酷くて」
 気を取り直して正面に向き直る。
 桧釐の考えた手順ではこのまま去る予定だった。龍晶の今の体力を考えればこれ以上は耐えられないだろうという配慮からだ。
 だがそれに従わず、龍晶は右手を掲げ、歓声を静まらせた。
 桧釐はぎょっとして王を見た。演説でも始まる雰囲気だが、そんな声なぞここ数ヶ月出してはいない。何より、体力が持たない。
 衆目の前で倒れたらどうするつもりだーーそんな憂慮を他所に、王は声を出した。
「今、王冠を戴いたが…私は皆の期待する王とはなれぬ事、まずは詫びておく。今ここに居るのは、そこの金銀細工と同じ飾り物だ」
 戸惑いのどよめき。桧釐の小さな精一杯の静止の声を振り切って、龍晶は続けた。
「先の内乱では皆が我々に共鳴し蜂起してくれた事、厚く礼を言う。だがそれは、この王の為では無いだろう?皆が自らの暮らしの為、家族の為、手に抱えるそれぞれの幸福の為に立ち上がったものだと信じている。ならば、その為にこれからも戦い続けて欲しい。自分達の幸福を誰かに委ねる事なく、自分達の手で守って欲しい。戦い方は何も干戈を交える事だけではない。己の頭で考え、その術を見出し、それを我々に伝えて欲しい。出来る限りそれが叶うよう奔走するのが我々の役目だ。王は飾り物に過ぎぬが、これも一つの道具だ。使って欲しい。それぞれの、幸福を勝ち取る為に」
 報われぬ日々を生き抜いてきた、一つ一つの顔を見渡して。
 その頭上、青く晴れた、冬の空を見上げる。
 全て忘れよう。全て忘れて、今この目の前の人の為に生きよう。
 あなたが教えてくれたように。
「共に、国を創ってくれるか…?」
 応える歓声。轟音となって、空に吸い込まれる。
 一つ頷いて民に応え、紗幕の後ろへと退いた。
 朔夜の満面の笑顔が迎えてくれた。
 やっぱり夢かも知れない。
 こんな事、有り得る筈ないだろ。
 俺達、地獄の底を這いずり回ってきたんだから。そんな人間に、こんな現実が。
「お前はやっぱ、王様だよ!最高の王様だよ!」
 親友に抱き止められて、龍晶は情けなく笑い、そのまま眠った。

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