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月の蘇る
  7
 薄暗く黴臭い牢獄のような部屋に薫る紫煙。
 ここに来てどれだけ時間が経ったかも分からない。尤もここが何処なのかも分からないし、それら全てがどうでも良いというのも本音だ。
 宮殿で吸わされた、或いは自ら使ってきた薬とは比べ物にならない程安っぽい、荒い精製のその煙は、効き目も酷く正気を奪う。
 お陰でずっと夢と現の境のものを見る。もう還らない人を、還らない時を。
 恐らくこのままでは死ぬ。が、それもどうだって良かった。もう死んでいるも同然だ。
 こうなる事になった過ちを後悔する事も出来なかった。薬が欲しいかと問われて肯いた。友の事も何もかも全て、その一瞬忘れてしまった。ただ楽になりたい一心で。
 ここに連れて来られて友の事を思い出した。帰ると言ったが聞き入れられなかった。
 死ぬ事はどうだっていい。殺すなら殺せと言った。ただ、この煙を吸う事はあいつを裏切る気がして、それだけは嫌だった。
 あいつのお陰でやっと人に戻れそうな、その小さな希望を抱けそうな所だったのに。
 自業自得だ。俺は己を破滅させねば気が済まぬ宿命のようだ。
 幼い頃、毎日のように嬲ってきた男が近寄って、下卑た顔で見下ろしてきた。
 抵抗など出来ぬが、恐怖が体を強張らせる。
 声を聞かせようと男が膝を付くと、それはもう見知らぬ別人の顔になっていた。
「薬のお代を頂かなくちゃならねぇが、残念な事にお前の持ち物に金目の物が無くてなぁ。家はどこだい?俺達が代わりに行ってやるから」
 そうやって強盗同然に金を稼ぐ連中なのかとぼんやりと理解はした。
「家など無いと言ったら?」
「嘘はいけないな。お前は無宿人には見えない」
「そうだろうよ。帰るべき城なら有るからな」
 男は笑った。狂人の戯言と思っただろう。
 しかし薬に狂った者がそんな冗談を吐く訳が無いと思い直したのか、ふと真顔に戻った。
「お前、城って…使用人か何かか?」
「さてね。王城に行って確かめれば良いだろ。行方不明の次期国王を預かっていると言えば、はした金くらい出してくれる」
「は…酷い妄想野郎だな」
 矢張り妄言だと思われた。無理も無いが。
「現実の話をしよう。お前の為に金を出してくれる親兄弟は居ないのかね」
「居ない。みんな死んだ」
「そうかい。気の毒なこった」
 男は金の得られない残念さを顔に出して言った。
「それでも金は払って貰わなきゃならねぇ。お前の体を売らせて貰う」
「こんなもん売れるか。屍を買う奴なんか」
 男はにたりと笑う。
「居るんだよ、これが。繍くんだりじゃあ有難がられるらしいぜぇ?人の子の肝を百食えば、不老不死になるってな」
 思わず目を見開いた。
 繍。月の悪魔を生んだ国に、その悪魔の特性である不老不死の妄言が拡まっているのか。
 それが何を意味するのか、霞んだ頭では考えきれない。
「だからお前、食われたくなければ金蔓を思い出した方が良いぜ。もう少し待ってやるからよ」
 男の足が遠ざかっていく。
 不老不死。そう言えば俺も望んだな、とぼんやり考える。
 悪魔に鼻で笑われて蔑まれた。死ぬ覚悟も無い癖に、と。
 その一方で朔夜は、出来る事なら不死にしたい、と。そしてもしもの事があったら手段を選ばなくなるから、その方法は知らないでいると言った。
 酷い我儘を言ってしまった。
 こんなどうでも良い命の為にあいつを悩ませる事など無かったのだ。
 こんな、虫けら同然に消える命の為に。
 誰も彼もが。
 虚しい期待を寄せ、何の意味も無い俺を守ろうと、死んでいった。
 目は再び亡者を捉える。
 そろそろ楽にしてくれないか。
 誰かの命になるなら、食われるのも上等だろう。

 宗温は正午近くなってやっと、一晩かけた捜索が空振りに終わった事を告げに来た。
 朔夜は予想通りの報告に笑顔で頷いた。
 疲れた顔の宗温には悪いが、それで良いのだ。
 彼らがしていたのは桧釐が遠回しに命じた『遺体の捜索』だからだ。それで見つかる筈が無い。
 龍晶は生きている。それを朔夜は探しに行く。
「軍としては引き続き捜索しますが、他の任務や都の警備、地方への巡回もせねばなりませぬ故、あまり人員を割く事はできないかと…」
 無念そうな宗温の言う事は尤もで、朔夜は深く頷いた。
「大丈夫だよ。必ず俺が見つける。お前は休めよ、寝てないだろ」
「こんな時に…」
「お前が倒れたら代わりは居ないんだろ?ただでさえ人手不足なのに。大丈夫だよ、あとは俺とお前の優秀な部下が何とかするから」
 宗温は諦めたように一度俯き、顔を上げた時には既に吹っ切れた表情を顔に貼り付けていた。
「では…後の事は頼みます。何か不便があれば我が軍の者にお命じ下さい。必ず朔夜殿の助けとなるよう働きます、桧釐殿には知られぬうちに」
 悪戯っぽく笑って、宗温は自室へと去った。
 朔夜は再び街へと繰り出した。
 見た目は昨日と同じ貧しい農民の子だが、その下にいくつか刃を仕込んだ。
 龍晶が消えた辻へと赴く。
 人口の運河を背に店が並ぶ。水上の舟から盛んに荷が下ろされる様も、内乱以前には見られなかった。
 朔夜は本当に一瞬しか以前の都を見ていないが、こんなに活気溢れるものでは無かった。前王の圧政は、都の人の生活をも息苦しくしていたのだろう。
 人々が戦いを通し手に入れたこの自由を、龍晶はどう守ってゆくだろう。
 そこまで考えてはたと気付く。矢張り俺はあいつに王になって欲しいのだと。
 それは出逢った当初から確かに願い続けてきた。
 ただ、今はそれを、龍晶自身の命に代えてまで願えないでいるのだ。
 あいつは良い国を作る。皆が自由なまま、安心して明日を迎えられる国を。
 それをこの国の殆どの者が信じている。この街の人々も、戦に加わった地方の農民達も。宗温、そして桧釐も。
 数多の希望を一身に背負って、私人である龍晶は、一欠片の希望をも全て国の為に奪われてしまった。残るは時期国王としての玉体だけ。
 その姿も、今や消えてしまった。
 まるで必然のように。
 思わず運河を覗き込む。
 川の水は深く、横幅は広い。流れは緩いが、泳ぎが達者でないと助からないだろう。
 否、落ちている筈など無い。この口でそう言ったではないか。
 だけど、この心臓を掴まれるような感覚は何だ。
 心の中にある闇が口を開いたような不安感は。
 水中に白い何かが翻る。心臓が痛い程に早鐘を打つ。
 目を凝らすと、何のことは無く大魚の腹だった。
 溜息を見上げた青空に吐き出す。憎いような小春日和。
 冬が近い。去年の凍てつく牢を思い出す。
 いざとなると結局、あいつに何もしてやれない。
 こっちは大変な傷を負わせ、それも許して貰い、こうしてずっと居場所を貰えているのに。
 何も返せないまま、それどころか傷付けてばかりで。
 今回だって、本当は自覚の無いまま何か酷い事をしていたのかも知れない。だから龍晶は消えてしまった。
 だとしたら、そんな自分があいつを見つけようというのは間違いなのかも知れない。
 矢張り、側に居るべきなのは自分ではなく華耶なのだ。
 龍晶も本当はそれを望んでいる。
 二人が一緒になったら、自分はそっとここから去ろう。
 この世界のどこかで、戔という国が豊かに幸せになる報を聞けば、それで十分だ。
 月夜の悪魔は、戦場に戻らねば。
 まだ決着の付いていない戦がある。
 自分一人で闘わねばならぬ戦が。
――心配してやってんだよ。俺が居なくなったら、お前はどうするんだろって。
 龍晶の声が脳裏に蘇りどきりとした。
 俺は、あいつが居なくなった後の事を考えてしまっているのではないか。
 本音は、心のどこか片隅で、もう逢う事は無いと思ってしまっているのではないか――
 存在が心の重荷だと、認める訳にはいかなくて。
 あいつは俺を許してくれたのに。
 狡いな、と。
 己を罵る。川面に映る顔は歪んでいた。
「おい、身投げする気か?」
「そう見えるか?」
 声の主を見上げもせず朔夜は返した。
 水面には見知らぬ男の顔がある。
 その男は鼻で笑って言った。
「こんな白昼に身投げした所で、ただの人騒がせにしかならないぞ。尤も、下見にでも来たってツラだがな」
 朔夜はやっと振り返った。若干迷惑そうな顔で。
「生憎、俺は飛び込む予定は無い。暑けりゃ泳ぐのには丁度良いだろうけど」
「へえ?お前泳ぎが出来るのか?どこの出身だい?」
 この国では海は勿論、都に河川も少ないが為に泳ぎの出来る者は珍しがられる。必然的に出身は都から離れるという推測になる。
「おじさんが知らない山の中の小っちゃな村」
 朔夜は己の出身地を遠回しに説明した。
 本当の事を言えば当然ややこしくなる。しかし、適当な嘘を吐けるだけのこの国についての知識が無い。
 男は何も察する事なく笑った。
「おい、どんなど田舎だ。南部か北部かも答えられないのか」
 答えらない理由があると言うよりも、それだけの知識も付けられない田舎町の出身だと思われたのだろう。
 それは結局、好都合だった。
「そこまで学の無い小僧は都で野垂れ死ぬか身投げするのが落ちだろう。その前に俺に声をかけれたのはお前、幸運だったな」
 男は朔夜の肩に腕を回し、小柄な体を水際から引き寄せた。
「良い仕事を紹介してやるよ。衣食住全部世話してやる。何も心配する必要は無い、楽な仕事だ。どうだ?」
 当たりだと確信した。垂れた釣竿に魚が食い付いた。
「楽な仕事ってのが良いね。やらせてくれよ」
 酷い皮肉だと思った。
 こう言って騙されて連れ去られた者達は、酷い苦労を背負わされる事になるのが目に見えている。
 そんな疑心なぞついぞ気付く事なく、男は得意気に朔夜を手招いた。
「付いて来い。楽園へ案内してやる」
 そういうお前は、天国だか地獄だかへ俺に引導を手渡されるのに。
 朔夜は腹の中で相手を嗤った。
 八つ当たりの源である苛立ちは、身勝手な己への怒りだ。

 夢か現か、此岸か彼岸かも分からぬ世界。
 そこに現れた人影を見上げる。
「兄上…」
 驚きも、恐怖も無かった。
 来たるべき人が、来たるべき今、現れたのだと思った。
 共に地獄へと向かうべく。
 流石に寝たままでは不敬だと起き上がろうとしたが、体は意思を無視して動こうとしない。
 縛りつけられたように強張るばかりで。
 散々痛めつけられ動く事も出来なくなったあの日々のように力無く転がったまま、肉親を見上げるしかない。
 これはあの時の続きなのだろうか。
 そう思った時、意外な事に兄はその場に座した。
 生前、決して同じ床に座る事など無かった。片や王であれば当然とも言えるが。
 そして更に意外な事に、聞いた事も無いような柔らかな声音で彼は語り掛けた。
「お前が自ら毒を吸うとはな」
 言いながら、龍晶が抱え持っていた香炉を取り上げる。
「味を教えたのは俺だが、味を占めさせたつもりは無い。況してや、こんな無様な姿になるとは」
「…申し訳ございません…」
 呆気に取られたまま謝る。
 兄は鼻で笑った。
「阿呆か。俺が居なければ良かっただけの話なのに、恨みもせず謝るのか?お前は既に死した愚かな兄を罵る度胸すら無いのか」
 龍晶は悲しく笑った。
「兄上が望むその言葉を知りません。お許し下さい」
 今、心に偽り無く思う。
 愛していたし、愛して欲しかったし、愛されて欲しかった。
 その想いが届いていたら。
 『誰か』の存在が生きている彼にあったなら。
 きっと全て違う未来が今あった。
「俺はお前を憎んでいた」
 兄は言った。
 当然だろうと弟は思った。
「俺が北方で泥水啜って生きている間、お前は俺の地位と物を何もかも奪った。本来なら俺の名に付けられていた龍の一字もお前に奪われた。俺は王の資格を持たぬ何者でもない者となって、凍え飢えながら暮らすより無くなった。だが…何よりお前を憎いと思ったのは、親殺しの罪を犯さずにのうのうと生きていたからだ。それが許せなかった」
 初めて龍晶は驚きを表情に表した。
 あの夜の光景が脳裏に鮮烈に蘇る。
 彼の死を留めた、あの時。
 淡々と、硫季は語り続けた。
「母は俺に泣いて頼んだ。都の父にこの茶を飲ませてくれ、と。それが叶えば、俺たちは飢えて死なずに済むと、そう言った。俺は母を死なせてはならぬと思い父の元を訪ねた。素性が割れれば殺されるかも知れないと覚悟したが…あの男は俺を歓迎した。己を殺す刺客となった息子を」
 霊魂のみとなっても尚、魂をあの日に置き忘れてきたかのように、彼は言った。
「俺は茶を飲ませただけだ」
 何も知らなかった。そう思い込まねば、罪の重みに潰れる。
「明日も生きていたいが為に、請われたままに茶を飲ませただけだ。俺を騙したのはあの阿婆擦れの母で、騙された父は王の器ではない間抜けだ。俺は正しかった…」
 力無く呟いた後、硫季は弟の目を見て嘲笑った。
「ほら、お前はそういう目で俺を見るだろう?憐れんでいるのか?己の立場も弁えずに見下しやがって。お前は恵まれ過ぎた。何もかも手に入れ過ぎたんだよ。だから何も分からないだろう、そういう目で見られる側の胸糞悪さが。だから何もかも奪い返してやった。泥水を啜らせてやった。殺すつもりは無いのに己のせいで人が死ぬ苦しみを味合わせてやった」
 なのに、と硫季は苦しげに続けた。
「お前は腐らなかった。理想を抱え続け、貧しき者の為に働き続けた。その様が疎ましくなる程に。だから俺はお前を追い詰めた。いい加減、利己主義に走る俺と同じ生き物になると思ったが、結局お前は変わらなかった。俺を憎まなかった」
 龍晶は兄をじっと見詰め、一言問うた。
「あなたは憎まれる事を望んだのですか」
 硫季は毒の抜けた顔を横に振った。
「これで良かったんだ。お前はそれで良かった。俺が恐れたのは、お前に王の資質のある事だ。だが、今となればそれで良かったんだ…」
「そんなもの…何の意味を成しましょうか。兄上は共に冥土を行く供を連れにいらしたのでしょう?そもそもそんな惰弱な者に、王の資質など無い。資質無き王を避ける事で、これからの世は平穏に治まるでしょう。幸運な事に」
「三代続けばそれは不幸でしかない」
 硫季は言い捨て、弟を見下ろした。
「お前の資質に足りないのは、その自覚の無さだ。奪った俺が言う事でもないが、無自覚のまま奪い返されたと思うと腹が立つからな。わざわざ教えに来てやった。お前はこの国を治め、民を統べる唯一の存在だ。こんな所で腐れ死ぬなど許されない。俺が許さない。お前の始めた反乱で死んだ全ての魂が許さない。覚えておけ」
「しかし…もう手遅れです」
「いいや」
 兄は立ち上がった。前王の威容が光に包まれる。
「お前は生きる。自らの死も他人の死も忘れろ。今生きる者の為に生きて尽くすのがお前の義務だ。それを終えたら――」
 光の中で揺らぎ、消えてゆく。幻の現。
「お前の母に会わせてやる」
 真夜中の暗さが戻ってきた。
 手の届かぬ遠くに、毒薬の灰が火を失って床に散っていた。

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