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月の蘇る
  1
 卓上に頭を寝かせて書類にぼんやりと目をやる。
 書かれた文字はぼやけ、意味を成さず蕩けてゆく。
 先刻まで頭の中を占めていた文字や数字が全て消えてしまわないうちに頭を起こそうと、一時だけと瞼を閉じる。
 眠たい訳ではない。寧ろ眠れない。どうにも頭痛が止まない。
 瞼を閉じると浮かんでくる、あの光景。
 はっと目を開けて頭を起こす。僅かに息が乱れている。たったこれだけの事なのに。
 忘れようと再び書類に集中する。民の暮らしを改善する為、まずはこれまでの年貢を見直している。
 反乱に加わってくれたのは多くは農民だ。つまりそれだけ彼らに不満が溜まっていたという事だ。
 一刻も早く彼らの生活を保障せねば、反乱の意味が無くなるばかりか、更なる不信感を招く事にもなる。
 休む暇など無い。
 無いのだが、肉体の限界を感じて龍晶は立ち上がった。
 仮の寝床としている長椅子に腰掛け、そのまま上体を倒す。
 うっすらと眠りかけた。が、矢張り駄目だった。
 あの光景が、あの一瞬が、脳裡にこびり付いて離れない。
 そしてどうしようも無い後悔に襲われる。
 牢から出ずに、母と共に死ぬべきだった、と。
 目が冴えて、薄く瞼を上げて。
 そこに祥朗が居る事に気付いた。
「帰ってたのか」
 起き上がる事が出来ずそのままの態勢で声を掛ける。
 心配そうに覗き込まれている。眠った気は無いが、また魘されていたのだろう。
 祥朗は声無き声で告げた。
"母さまに会ってきたよ"
 龍晶は頷く。棺越しに会ってくるよう、言い含めて行かせていた。
「お前は今から北州に行って、葬儀が無事行われるよう伯母上を手伝ってくれ。そして最後にお別れをしてくるんだ。大事な役目だ。頼んだぞ」
''兄さまは来るの?"
「済まんが俺は忙しくて行けそうにない。俺の分まで…頼む」
 祥朗は驚いた顔で兄を見返す。
''お別れ、しないの?"
 龍晶は長く息を吐き、そして微笑して、祥朗の頭をくしゃりと撫でた。
 ずっと白骨と化したあの姿が頭から離れない。忘れたいのに、もう何もかも忘れてしまいたいのに、瞼の裏に焼き付いて苦しめる。
 そしてこれまでの怒涛の日々が走馬灯のように思い出されて、あの苦痛は全て無駄だったと思わざるを得なくなるのだ。
 誰を救いたくて、俺は。
 否、会いたい人はたった一人だった。
「もう会えないんだ。会う資格が無いから」
 授かった身体は滅茶苦茶にしてしまった。
 賢くもなれず、手は汚れ、何よりもしてはならぬ事をしてしまった。
「俺は、母上が何より嫌い禁じた戦をした。その罪を持って、母上の前に立つ事は出来ない」
 祥朗は悲しそうに口を閉ざした。
「ごめんな」
 謝ったのは、嘘を吐いているから。
 全くの嘘ではない。でも本音は違う。
 本当はもう、あの姿を目の当たりにしたくなかったからだ。逃げているのだ。現実から。
 生きていた美しい母の姿を、あれで上書きするのがどうしても嫌だった。
 そんな、不孝でしかない理由。
 祥朗は、兄さま、と呼びかけて。
''お休みになりますか?僕、何か温かい飲み物を作ってきます"
 そう言い残して部屋を出た。
 一人になり、ぐったりと身体を横たえて。
 せめて涙でも出れば楽になりそうなのに、あれからずっと、目も心も渇き切っている。
 むくりと起き上がり、再び卓へ向かう。
 無駄な感情は押し殺してしまった方が良い。時間が無いのだ。早く、やるべき事を仕上げねば。
 黙々と文字を追い、修正すべき箇所を書き出し、案を考える。
 祥朗が戻ってきた。物をろくに食わぬ兄の為に、栄養のある野菜や肉を入れた汁を碗に入れて。
 卓上の隅にそれをそっと置く。龍晶は顔も向けず簡単に礼を言った。
 じっと、視線を向ける。
 致し方なく龍晶は手を止め、視線を受け止めた。
「済まん。切りがついたら食うから」
 祥朗は小さく首を横に振った。
 その意が分からず首を傾げる。
 声の出せぬ彼はもどかしそうに唇を動かしたが、伝わる言葉にならず、やがて諦めて部屋を出て行った。
 龍晶は再び手を動かす事も出来ず、置いて行かれた碗を見詰めて。
「ごめん」
 誰にも届かぬ言葉を呟いて、箸の横に置かれた筆を取った。

 都はその日、霧雨に烟っていた。
 父や、その血脈の人々が眠る王家の墓。
 黒紫の光沢のある正装を濡らして、龍晶は埋葬される兄を見た。
 隣には朔夜が付き合っている。その他に数少ない旧臣達、その中に舎毘奈の姿もあった。
 重苦しい沈黙の中、墓穴が掘られる。
 龍晶は改めて棺の蓋を開けてその姿を確かめる。
 目は見開かれたままだった。閉じようとしても開いてしまうのだと言う。
 そっと瞼に手を当てて、確かめてみたが、矢張り駄目だった。
「何を思って死んでいったんだろうな」
 隣へ居る朔夜に溢す。
「無念だったろうけど」
「そういう顔してるよな」
 最期に言葉を交わした朔夜は、あの瞬間を思い出しながら考える。
 改心していた筈だ。だから世の中に対する恨みばかりでは無かったと、そう思いたい。
「多分…初めて現実を見て、驚いたまま逝ってしまったんじゃないかな」
 朔夜は己の考えを口にして、自嘲して付け加えた。
「悪魔が変に夢を見させたから。王サマにとっての心地良い最高の夢からの、最悪の目覚めだったんじゃないか?」
「…まあ、生まれてこの方浮世は見た事無かったろうな。現実離れした世界でずっと誰かに操られるがまま生きてきたんだと思う」
「そこから救い出したかったんだろ、お前は」
「…ああ」
 龍晶はもう一度、瞼を閉じようと試み遺体の顔を撫でながら言った。
「これは俺の姿でもあるから。俺もこの人と何も変わらない。無知なまま何かに操られてその果てに死んでいくんだ」
「でもお前はそういう運命を変えたろ」
「…どうかな」
「自信持って頷けよ、そこは」
 朔夜は苦笑する。それでも龍晶は何も言わなかった。
 棺に蓋をする。
 別れの時が来た。
 穴の底に棺が収まり、土を掛けられてゆく。
 泣く声も無く、思い出を語る囁きも無い。
 誰もが押し黙って、その様子を見詰める。
 嵐が過ぎ行くのを待つ人々のように。
 ここに居る人々にとって、彼は居なければ良かった存在なのだろう。
 彼の存在を喜ぶ人々は多く居た。その存在自体ではなく、彼が居る事で齎される甘い汁を喜ぶ者だが。
 そんな者達も都から追放されたが為に、誰も彼の存在を悼む人が居ない。
 埋葬が終わると、人々は口早に祈りの言葉を捧げ、逃げるように去っていった。
 その流れに逆らって、舎毘奈はただ一人その場に残り、同じくそこに残っていた龍晶と朔夜に近寄った。
「お久しぶりです、殿下。ご無事で良うございました」
「生き残ってしまったというだけだが」
「それが何よりです」
 龍晶は不満げに一度押し黙り、物憂く去り行く人々を見て、ぽつりと言った。
「お前なら単純にこれで良かったとは言わないと思ったが」
 朔夜は龍晶の引っ掛かりを理解出来る。
 今帰ってゆく人達は、王の死を歓迎する人達だ。
 確かに反乱軍は王を倒し龍晶を擁立する為に戦ってきた。目的は達成される。限りなく理想に近い形で。
 だが龍晶本人はそれを全く歓迎していない。出来ない。実兄の死を喜べないから。
 そんな悲痛な気持ちなど知らず、彼らは戦いもしていないのに世の中が変わると楽観している。己の手を汚さず、お祭り気分だけを享受している。
 都は喪に服しているが、それが表面上だけなのは手に取るように分かった。
 これで更に暮らしが良くなるだろうという、過度な期待。人々が浮き足立っている。
 それに加え、国軍が一度崩壊した事で著しく治安が悪くなっている。何をしても取り締まられる事は無いと勘違いした連中が好き放題に悪事を働き、宗温がやっと最低限で編成した部隊でそれを抑止する。が、いたちごっこだ。
 そういう諸々を含んだ問いだろう。
 これで良かったとは言えないだろう、と。
「あなた様の世が来る事を皆心待ちにしておるのですよ」
 師たる舎毘奈は前を向かせようとした。
 が、彼も子弟の絶望と混乱を知らない。
「罪人の子が国を治める事を誰が望んだ?それとも、都の誰もが我々親子を呪った事など忘れたと?」
「…お怒りなのですか。未だに、自らが受けた仕打ちを」
「呆れているだけだ。酷い掌返しに」
「民とはそういうものです。己の暮らしに利がある方へ縋らざるを得ない。しかし彼らに力は無いのです。せいぜい、囃立てる事しか出来ない。それを受け入れ、彼らの望みに応えてゆくのが統治者の務めでしょう」
「騒ぐ声が出せる連中なんざ放っといても良いんだ」
 問題は、声を出せない人々だ。
 そういう真の民を救済すべく今は不眠不休で働いている。だが。
「言っておくが、俺は王になどならぬ。やるべき事を済ませたらさっさと身を引くつもりで居る」
「何ですと!」
 老人が驚きの余り声を荒げた。
「それは許されませぬ!何の為の戦ですか!何の為の犠牲ですか!?」
「民の為だ。俺の為ではない」
「そうだとしても…誰が民の為にこの国を継ぐのです!?」
「だから兄を殺してはならなかったんだ!」
 叫び返して、真新しい土饅頭の前に身を崩した。
 霧雨はいつしか細い糸となって、しとしととその身に打ち付けた。
「殺したのは俺だ…それは間違いない。だが俺はそれを望まなかった。それを…誰も理解していない。この国を治める為には、生きて貰わねばならなかったのに」
「しかしそれでは…この国は変わらない…」
「ああ、そうかも知れぬ。だが変わる可能性は大いにあった。今はもう…終わりを待つだけだ」
「そんな事は無いでしょう…あなた様が…」
「そうだよ龍晶、養子の話があるだろ?」
 朔夜が舎毘奈を遮った。何も知らない相手にまた一から説明させるのは酷だと思ったから。
「お前はあれ…本気にしてないのか」
「真に受ける訳無いだろ。いや、桧釐は本気だろうが、俺はあの話を受ける事は出来ない」
「どうして」
「どうして?お前はこれまで何を見てきた」
 朔夜は言葉に詰まる。
 これまで龍晶と共に見たもの、そして聞いたものを一言で表す事は出来ない。
 ただ、言いたい事は判った。
「王位は人を狂わせ、壊す」
 龍晶は自ら理由を一言で表した。
 視線は舎毘奈へ。
「その恐ろしさを知らぬ者が論議などすべきではない。況してや生まれてもない子にその重責を押し付けるなど言語道断だろう。玉座は空でも良いと俺は考える。政はやる。それで良いだろう?」
 それでも何か言おうと口を開きかけた舎毘奈を、朔夜は腕を掴んで止めた。
 見上げる目に、今議論すべきではないと意を込めて。
 言えば言う程、龍晶は頑なになる。雪解けを待つ方が良い。
 そんな二人の気など知ってか知らずか、光の無い目を墓へ向けて、盛られた土に掌を当てる。
 彼は何を間違えたのだろう。否、そもそも選べるものがあったのだろうか。
 何かを己の意思で選んでいたら、こんな事にはならなかったのだろうか。
 何者かの意思で仕組まれた運命に気付けていれば。
 雨音の中に足音が混じり、朔夜は山道を確認に走った。
 登ってくるのは桧釐だった。彼は朔夜の姿を認め、問うた。
「もう終わったんだろ?」
 葬儀に加わっていた客も埋葬作業をした下人らも下山したのに、一人戻って来ない主人に痺れを切らして迎えに来たのだろう。
 手には笠。子を心配する親のようだ。
「終わってるよ。でもあいつにとってはまだみたいだ」
 朔夜は返事をして、振り返る。
 まだ龍晶は土饅頭の前に蹲っている。
 桧釐が並んだ。
「やるならお母上をそうやって熱心に供養すれば良いのに」
 皮肉を口にすれば睨む目が向けられる。
「何が言いたい」
「俺には理解出来ないってだけですよ。帰りましょう、雨も強くなってきた」
 自ら腰を屈めて、主人の頭に笠を被せる。
 その頭からはもう既に滴が落ちる程濡れている。
 渋々と言った顔で龍晶は立ち上がった。
 その瞬間、立ち眩みがしたのだろう。足元がふらつき、桧釐が支えなければ倒れていた。
「大丈夫…ではありませんね。全く、こんな所で濡れ鼠になって、体を壊しに来たようなものじゃないですか。また熱を出しますよ?」
「…うるさい」
 それだけ言うのが精一杯で、さっさと桧釐の手から離れて歩き出す。
「しょうがないなぁ」
 苦笑いしながら桧釐は後を追う。
 朔夜もまた歩き出した。舎毘奈が並び歩く。
「朱華様のご遺体が見つかったと聞きましたが」
 問いに苦々しい気分で頷いて、もっと声を潜めるように仕草で示した。
 龍晶に聞かれたくない。
「あいつが自ら見つけちまった様なもんだよ。もう骨になってたけど…間違い無いって」
「骨…。どうやってお亡くなりになったのかは判明せぬままですか」
「いや、当時の牢屋番が証言したそうだ。病気だったって」
 雨の向こうに霞む龍晶の後ろ姿を追いながら。
「病気で…ろくに世話もされずそのまま放っておかれたそうだ」
「それを殿下はご存知なのですか」
「いや、桧釐は黙ってる。それに、あいつ母さんの話になると不機嫌になるから」
「あんなにお慕いしていたのに」
「他人に大事な人の死を簡単に口にされるのは良い気はしないだろ」
 老人はまじまじと隣の若者へ目をやった。
「あなたは殿下のお気持ちが手に取るようにお分かりになるのですな」
 朔夜は緩く首を横に振った。
「同じ経験をしてきたってだけだよ。それに、分かった所で何もしてやれない。楽にしてやれるような一言もかけられない。俺がここに居ても意味無いよな」
 実際、この数日感じるのは居場所の無さだ。
 龍晶は仕事ばかりしている。必要最低限の人間にしか会わず、居室にも入れない。
 誰もが忙しく動き回る中、他所者でしかない朔夜には何も出来ない。
 邪魔にならない所で縮こまっているしかないなら、これ以上この国に留まる意味も無いかと思えてくる。
 だが動く気にならないのは、龍晶が余りに気がかりだからだ。
「そんな事を言いなさいますな。今あなたはこの国に必要な方です」
 近頃誰かに愚痴る度に言われる事を、舎毘奈もまた口にした。
「そうとは思えないけど」
「それとも、他国に行かねばならぬ用があるのですか?」
「うーん…」
 あると言えばある。まずは繍で一連の始末を付ける事。そして苴で千虎の家族に詫びる事。
 もう一つ。哥王の依頼を受ける事。
 それらよりも何よりも、灌に帰りたかった。華耶に会って、全てを報告したい。きっと心配しているだろうから。
 でもまだ、報告し切れる所まで来ていないのだ。
 龍晶に立ち直って貰わねば、華耶に何も言えない。
 他の全ての事も、手が付けられない。
「そうだ、舎毘奈」
 朔夜が考えている間に、龍晶が足を止めて遅れる二人を待っていた。
 隣の桧釐はやきもきしているが、彼は意に介す様子は無い。それよりも、今伝えるべき事を伝えねば、次いつこの老人に会えるか分からない。
「哥の城内でお前の兄に会った。大臣の通訳をしていたが、弟は息災だと伝えてきたぞ」
「なんと!」
 意外な報せに暫し言葉を失くして、感慨深げに深く息を吐いた。
「そうですか、兄は息災でしたか…。お知らせ頂きありがとうございます、殿下」
「いつかお前も哥に戻ると良い。じき、両国の行き来もし易くなるだろう。俺もまた陛下に礼をしに行くつもりだ」
 言い切って、少し考え、気弱に言った。
「その日が来ると良いが」
「必ず来ます、殿下。その時私もお供させて下さいませ。尤も、この老体が旅に耐えられればの話ですが」
 それはこっちの事だと言いかけて止めた。
 ふと、墓地を振り返る。
 そこに確かに見、聞いた。
 お前は王家の血を絶やす者だと、己を呪う亡者達の姿と声を。

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