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月の蘇る
  10
 瓦礫と砂塵の向こうに立っていたのは、あの医者だった。
「先生…!無事だったんですね!?」
 祥朗に倣って走り寄ってから、朔夜は驚きを隠さずに問うた。
 医者は頷いて静かに教えた。
「匿ってくれる人がおりましてな。この街を離れておりました。…その間に、見殺しにしてしまった多くの犠牲が出てしまいました…」
「先生のせいじゃない!それに先生が生きてるだけでも本当に良かった。じゃないと、あいつも…」
「龍晶様は、ご無事なのですね?」
 言いかけた事を遮っての問いに、朔夜はまず頷く。
「だけど身も心も襤褸襤褸だ。佐亥さんも死んでしまったし。先生が居てくれて良かった。俺には治せない所もあるから」
 医者は頷く。そして祥朗に向き直った。
「お前の故郷を守れず済まなんだ、祥朗」
 少年は緩く首を横に振った。
 そして、城に来て、と唇の形を読ませる。
 龍晶を診せたいのだろう。
「済まんが、それはまだ出来ない。戦の犠牲者を治療していてな。今やっと、ここにまだ生存者が居るかどうか見に来れたんだ。龍晶様は私より相応しい者が診る事が出来よう。私とて寂しいがそれが良い」
 祥朗が悄げた顔をする。
 朔夜は少年の頭を軽く撫でて言った。
「仕方ないけど、もう少し落ち着いたらあいつの方からここへ来るだろうから。その時はお願いします、先生」
 老医師は頷いた。
「今からこの街を建て直す故、以前のような支援をお願いしますとお伝え下され」
「うん。前よりずっと手厚い事をする筈だよ、今のあいつなら」
 医者は何度か頷いて、ところで、と話を変えた。
「朱華様の行方、分かりましたか」
 朔夜は言葉に詰まった。
 だが今更だ。祥朗はもう知っている。
「居場所を知る人が見つかったそうです。今から確認するつもりだったけど…でも…先生」
 思わず縋る目を向けて問う。
「龍晶に言うべきですか…?」
 彼もまた、一つ息を吐いて間を置き、考えつつ答えた。
「いずれお知らせせねばならぬでしょう。それが一つの区切りとなられましょうから。しかし、今すぐでなくとも良い。否、今知ってはならぬ事かも知れません。今全て知ってしまったら…精神が持たぬでしょう」
 それは朔夜も同感だ。
 全てが落ち着き、いつか事実を受け入れられる時が来たら、教えてやれば良い。
 考えていると、祥朗が朔夜の裾を引っ張った。
 見下ろすと、泣きそうな目。
「…お前」
 察しは付いてしまった。
「教えたのか」
 肩を落として、微かに頷く。
 そして足の先で土に字を書いた。
 母さまは死んだの?と。
 息が詰まる。が、こうしては居られなかった。
「祥朗、急いで帰ろう」
 小さな肩を両手で掴んで、言い聞かせるように告げた。
「お前らの母さんは生きてる。そういう事にするんだ。じゃないと…あいつが壊れる」

 牢屋番から教えられたのは、城の東側に聳える塔の、上階にある座敷牢だった。
 鍵も預かった。が、これが果たして役に立つのかという程錆びている。
 桧釐は一人、冷え冷えとした階段を上がり切り、その空間に立った。
 空気が淀んでいる。そう感じるのは気のせいだろうか。
 龍晶に教える気は端から無かったと言って良い。あの人には永遠に夢を見ていて貰う方が良いかも知れない。
 もう戻って来ない、幼い頃の幸せな夢を。
 例えそこから動けなくとも、有るか無いかの希望を捨てさせるよりは。
 それが優しさだと、そう思っている。
 桧釐の中では幼く無力な、あの頃の龍晶のままで、そんな子供に何も期待していないと言っても良い。
 口では焚き付ける事を言うが、心の底では何も出来ないだろうと達観している。
 軽蔑している訳ではない。
 ただ、守るべき人だという義務感が、無力な人だという認識になって、変わらないだけ。
 だから、恐らく彼が超えられないであろう壁は、さっさと始末するに限る。
 何も無かった事にする。
 そしてまた、夢を見て貰う。
 終わらない、幼い夢を。
 石造りの通路を進み、一番奥の牢。
 鉄格子の向こうは障子が嵌められ、中は見えない。
 人の気配は無い。否、生きている者の気配は無いと言った方が良いだろう。
 錆が手に付くほどの錠前を手に取り、細い窓の明かりを頼りに鍵穴を合わせて。
 なかなか厄介だったが、苦心の末に鍵が回る。
 牢は開いた。
 障子を開く。
 その向こうにあったものに、流石に桧釐も衝撃を覚え、足が引いていた。
 自分にとっても血縁者で、しかもその生前の姿をよく覚えているだけに。
 耐えられず、そのまま逃げた。
 とにかく外に出たかった。今見たものを忘れようと。
 階段を駆け下りて、その中ほどまで来て。
 鉢合わせた人影に、心臓が止まる思いだった。
「…どうして」
 それ以上の言葉が出なかった。
 息を荒くして、壁に頼るように、一段一段を震える足で登ってくる、龍晶が居た。
 彼は一度足を止め、従兄の姿を認めて、そして言った。
「そうだと思った…」
 龍晶はもう一段二段進み、桧釐に近付いて、そして言った。
「もう見たのか?」
「何を…何の事でしょうか」
 動揺しながらも桧釐は誤魔化した。
 そんな従兄の考えなど見通して、龍晶は返した。
「分かってたよ。母はここに居ると」
 確信は無かったが、予感はあった。
 朔夜がここに入れられた時、そんな気がして。
 でも今まで確かめられなかった。それは無理だった。
 否、必ずしも不可能ではなかったろう。兄の目を掻い潜って牢を開ける事は出来た筈だ。
 だけど、自分で自分を制していた。
 知るのが怖くて。
「気のせいですよ…俺はここが何なのかを見て回ってただけで…。ほら、お体に障りますから戻りましょう。こんな階段転げ落ちたら大変だ」
「何の為に誤魔化してんだよ?」
 睨み上げる顔に、幼い頃の面影は無い。
「もう良い、桧釐。俺はもう子供じゃない。況してや、お前に良いように使われる為に生きてる訳じゃない。俺は俺のやるべき事がある。出来る事は限られていても理想はある。だから、俺が知る事を邪魔するな。お前の都合の良い事だけを俺へ知らせるようになるなら、この国は本当に滅ぶ。また戦にしたいのか?俺はもう懲り懲りだ…あんな事」
 乱れた息を整えようと、一度下を向いて呼吸を繰り返して。
 そして顔を見れぬままに言った。
「やっと覚悟決めれたんだ…頼むよ」
 桧釐は一歩、主人に近寄った。
「本当にそれは覚悟ですか?ただ焦っているだけでしょう?」
「…だとしたら?」
「絶対にここを通せませんね」
 今見たものを、この目に映させる訳にはいかない。
 自分だって耐えられなかったのに。この人は、どうなる。
 無理だ。
「ええ、ええ、何とでも言って下さい。俺はあなたの邪魔をする。あなたの為に、いえ、朱華様の為にも邪魔をしますよ。何故か?こんなに危うくて脆い人に、世の非情さを見せてしまう訳にはいかないからですよ。あなたをこれ以上壊す訳にはいかないからですよ!朱華様もそう望んでおられますよ!?あなたを失う訳にはいかないから!」
 怒鳴り付ける勢いのまま、こうなったら力尽くでも良いと思い体に手をかけた。
 触るだけで壊れそうな、そこまで痩せ細っている。
「戻りますよ。拒む事は出来ませんからね?」
 その気になれば担いででも戻せる。だがそれは最終手段だと思い、威圧して告げた。
「昔は俺の我儘なんかいくらでも聞いてくれたのに」
 龍晶は呟いて、ふっと笑った。
「子供の我儘なら聞けますけどね。あの頃とは違う」
「…そうか」
 違うか、と上の空で呟いて。
 桧釐は呻いて頭を掻いた。
 夢を見させたいのに、これでは逆効果だ。
「龍晶様、もう忘れましょう?今日の事は俺が血迷っただけです。それで終わらせて下さい」
「…ああ」
 一段、階段を降りて。
 龍晶は油断した桧釐の脇を潜り、段を駆け登る。
 驚いて伸ばした手を擦り抜け、近い踊り場まで駆け上がって、しかしそこが限界だった。
 咳をしながら手を床に付け、果ては胃液を吐いた。
「ちょっと…もう、いい加減にして下さいよ!」
 悪態付きながら追いかけようとした桧釐の後ろから、城へ戻ってきた朔夜が階段を軽快に駆け上がってきた。
「桧釐!龍晶は!?」
「ここだ!手を貸してくれ!」
 朔夜は段上の状況を見、顔色を変えた。
「遅かった?」
「いや、丁度良かった。ここには何も無いと言い聞かせてたのに、聞いて貰えない」
「いい加減にするのはお前だろ!!」
 突如、龍晶が叫んだ。
「もう何もかも分かってんだよ!俺を舐めるのもいい加減にしろ!それで俺が狂うとでも?それならとっくに狂ってるよ…もう散々、人間の悍ましさ醜さは見てきたんだ…。それでもまだここに生きていられる。正気かどうかは分からないけど、俺は俺で居るから大丈夫だ。なぁ、そうだろ朔夜?俺達はそこまで脆くないよな?お前が証明してくれてるよな?」
 朔夜は、あの日からの己の記憶を呼び起こし、唇を噛んで、出ない答えをそのまま返した。
「お前が今の俺を見てそう言ってくれるなら」
 そして息を吐き、補足する。
「でも、お前はきっと十分に分かってる事だと思うけど…ずっとずっと苦しいよ。苦しくて辛くて悲しいよ。それが何年も続く。それでも良いのか?」
 頷く。そして桧釐に言った。
「お前は俺を守ろうとしてくれる、それは分かってる。でも、俺も守らなきゃいけない人が居るから。祥朗の為に、真実を知らなきゃいけないから」
「あの子の為、ですか」
「祥朗だけじゃない。母を探し続ける自分にケリをつけたい。もう自分の事なんか言ってられないだろ…今からは、この国の為に全てを捧げて生きなきゃならないから」
 桧釐ですら、返す言葉を失って、段上の従弟を見上げる事しか出来なかった。
 その従兄を涙を溜めた目で見返して、龍晶は哀願した。
「頼む。最後に母に会わせてくれ」
 桧釐が微かに頷いた。その瞬間、龍晶は走り出していた。
「お待ち下さい!」
 意を翻そうと叫ぶ。が、満身創痍である筈の身体に追い付けない。この瞬間に全てを懸けていたかのように、予想外の速さで階段を駆け上がって。
 朔夜は本気で追う気にならなかった。止めようと思えば止められたが、慌てて追いかける桧釐を見送ってしまった。
 母に会いたい、その気持ちが自身の心に刺さってしまった。
 単純に、会わせてやりたかった。
「龍晶様!」
 桧釐の呼び声が怒号になった。
 龍晶は例の階に到達し、通路を駆け抜けて。
 急に力を失って、その場にぱたりと座り込んだ。
 桧釐、そして朔夜も追い付く。
 龍晶の目にした、その先の光景を見て。
 桧釐は荒く息を吐いて目を逸らした。
 朔夜は声を失って立ち尽くした。
 そこに居たのは、痛々しい程に美しいまま白骨化した女性だった。
 仰向けに、胸の上で手を組んで。
 朽ちた衣服すら色を失って真っ白に。
「…これが誰なのかはまだ不明です。調べた所で分かりやしないかも知れない」
 吐き捨てるように桧釐は言った。
 龍晶はふらふらと、目をいっぱいに見開いたまま彼女の元へ近寄って。
 そっと、震える指先で白い骨となった顔に触れて。
「調べる必要なんか無い」
 不意に、笑いながら。
「紛れもなくこれは母だ。この首飾りも、指輪も、この顔も…間違い無い。間違えようが無い」
 朔夜には座り込んだ背中しか見えなかった。その背中が震えているのは、笑っているからなのか、泣いているからなのか、判別出来ない。
 寒くて冷たくて、それで震えているのかも知れない。心が。
 他人事だが、辛かった。
 この数日ずっと分かち合ってきた辛さの、その何倍も辛かった。
 龍晶は背中を向けて、一人でそれを抱えている。朔夜にも、誰にも立ち入れない向こうで。
 それが何より悲しく、辛かった。
「龍晶様、もう良いでしょう…行きましょう」
 おずおずと進言する桧釐の声を引き金に、笑いも震えも止まった。
 糸の切れた操り人形のように。
「龍晶様」
 もう一度桧釐が呼ぶ。
「…白木の棺を用意しろ。決して豪華な物は作るな。出来るだけ早く、簡素なものを用意して…その上で、祥朗に会わせてやってくれ」
 背を向けたまま、彼は命じた。
「良いのですか」
「それが最善だ。母は贅沢を嫌うだろうし、そんな所に金と時をかけている場合でもない」
 態度とは裏腹の合理的な言に、朔夜は眉を顰める。
 尚も龍晶は桧釐に指示した。
「葬儀は北州で執り行ってくれ。北州の先祖の墓に、祖父と共に埋葬して欲しい。ああ、祖父の名誉回復もせねばならんな。北州の民にはそれを報せてくれ」
「しかし朱華様は都で王族として埋葬されるべきでしょう。この後は王母となられる方だ。あなたの権威の為にも、都で…」
「やめてくれ」
 強い語気ではないが、切り裂くような一言で桧釐の言葉を止めた。
「都では忘れ去られた人だ。それどころかまた罪人だと騒ぎ出す輩も居る。もうこのまま過去の人として…それよりも、故郷に戻した方が母も安らぐだろう。そうしてくれ」
「しかし…」
「伯母上に書状を出し、万事手配して貰う。そうすればお前も俺も手を取られる事は無い」
「何を…仰っているのか…」
「仕事をさせろって言ってんだ」
 立ち上がり、振り返る。
 全ての感情を消し去った強い目で。
「俺はこの国を救わねばならない。それ以外の事をする暇は無い。それがお前の望みでもあるだろ」
 牢を出て、通路を戻っていく。
 堪らず朔夜は叫んだ。
「これで別れて良いのか!?やっと会えたんだろ!?」
 足を止め、顔は見せずに。
「俺の知らぬ所で葬ってくれ。全て事後報告で良い」
 階段を降りてゆく音が響く。
 それを二人取り残されて聞きながら。
「俺のせいかな」
 桧釐が呟いた。
「俺がまた、あの人を追い詰めて、心を消させてしまったのか…」
 記憶を無くした朔夜を戦の道具として使おうとした、あの時を彷彿とさせる。
 その先に待っているのは、取り返しの付かない破綻だ。
「消えやしないよ。強がってるだけで…本当は泣きたい筈だから」
 朔夜は言って、後を追おうと歩みかけて。
 母親だった人を、友の代わりにもう一度目に焼き付けた。
「綺麗な人だったんだろうな。あいつに似て」
「ああ。それはもう」
「やっぱり…見せちゃいけなかった」
 この変わり果てた姿を、結局は受け入れられなかった。
 そしてまた夢の中を彷徨うのだろう。
 希望の無い夢の中を。


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