月の蘇る 7 それから三日、月夜を待った。 ずぶ濡れのまま山に戻り、そのまま木々に抱かれ、熱に溶かされる意識の中で。 昼も夜も無く、悪夢に引きずり込まれる。 多くは、かつて一度この眼が捉えているのであろう光景。 しかし記憶には無い。 月に取り憑かれている間の光景だ。 過去に犯してきた罪の再現。 感触も感情もそのままに。 戦いの高ぶる感覚を持ちながら、逃げたい、やめろともう一人の自分が叫ぶ。 絶叫して目覚める。そしてまた朦朧とする。 またある時は、凄惨な己の戦いの跡に立たされ、その向こうに。 華耶の姿が。 冷たい眼で、自分を見ている。 彼女の口が開いて、 『朔夜には誰も救えないよ』 横に首を振る。何かに絞められている首を。 それでも彼女は言う。 『だってあなたは悪魔だもの』 ちがう。心のどこかが否定する。 そうだな。心のどこかが諦めている。 二つの己の声に、心が引き裂かれる。 首は絞まる。本当の声は何も言えない。 『あなたは私を殺す?それとも罪無き人達を?それとも』 骸骨だ。 地面に横たわっていた屍は白骨になり、気付けば華耶の白い肌も硬質なそれへ。 悲鳴をあげたくともあげられない。喉はもう息すら通さない。 『朔夜、あなた自身が死ぬ?』 息苦しさが現実を引き寄せた。 もう呼吸もままならない。何が起こっているかも解らず、とにかく息がしたくて喉に詰まっているものを吐いた。 仰向けに寝ていた為に吐瀉物が呼吸を止めていたと、吐ける物を全て吐き、咳をしながらゆるゆると理解した。 漸く咳が止まり、息をつきながら、再び身体を寝かす。 動ける体力はどこにも残ってはいない。 辺りは暗い。それが夜の暗さなのか、熱が眼の神経を焼いてしまったのか、判別出来ず恐怖した。 これは、闇路だろうか。 いずれ地獄に行き着く、罰の道。 赦される事は永遠に無い贖罪。苦痛の道。 ――華耶。 お前に見限られたら、俺にはもう、闇しかない。 光。光が欲しい。 「……!」 中天に。 月が。 光に向けて手を伸ばす。 何を掴める訳でもない、空を切り落ちる腕。 それでも、再び。 長くは支えられぬ腕を上空へ伸ばし、手を広げ指の隙間からその姿を見。 はたと思い出した。 『暫く待て。月の夜まで』 この光は。 華耶がくれた光じゃない。 俺の放つ、 絶望の光だ。 下草を踏む、足音。 急激に身体を起こす。そこに突き刺さる、苦無。 ――影!? 刀を抜きざまに、続く襲撃を払い、眼はその姿を探す。が、無い。 ――馬鹿な!こんな月夜に…!? 月夜に朔夜の前に出るという事は、自殺行為だと重々知っている筈だ。 それが、よりによって襲撃など。 そもそも、その動機が解らない。利点などある筈が無い。 ――どういう事だ…!? 背後の物音。 振り返る。そこに。 二つの影があった。 「……!!」 言葉など出なかった。 一つの影が、もう一つの影を、殺した。 血も黒く、闇に溶ける姿。 残った影が、黒の仮面を朔夜に向ける。 「お前は…」 無意識に後退りしていた。 身体が震える。逃げたいと、己を脅かす者に対して初めて思った。 怖い。 なんだ、これは。 怖い―― 「お前は――影じゃない…」 不気味な仮面の下が、笑った。 「ああ。勿論そうだ」 次の瞬間、間合いが一気に詰まった。 逃げる事も避ける事も出来ない程に一瞬で。 恐怖が己を縛る。 「私は光だ。お前とは違う、真の光だ」 ――呑まれる!! 呪縛を無理矢理解き、走り出そうとした時には、もう遅かった。 手を動かしたとは思えない、なのに。 朔夜は胸に猛烈な痛みを感じ、次いで何もかもの感覚が消えた。 ――死… 暗い。 ただひたすら、暗黒―― 村の混乱の度合いは、日増しに子供の目にすら見えるようになった。 近隣から逃れた人々が集まり、村のあちこちにひしめき合う。 数里先に作られた防衛壁。そこから嫌でも聞こえてくる戦いの音。傷付き運ばれてくる大人達。 疲弊と不安が村を覆う。壁を突破されれば、次は自分達が戦の業火に曝される。 陰欝な空気の増す村で、二人は久しぶりに顔を合わせた。 あまりにも顔を見ないから、華耶の方から家を訪ねたのだ。 見たところ誰も居なさそうな家の門に立ち、恐る恐る中へ声をかける。 「こんにちは…?朔…」 刹那、何か大きなものが足元へ飛んできて華耶は短い悲鳴をあげた。 それは転がったまま小さな呻き声を発している。 「朔夜!?」 「お、華耶ちゃんか。怪我は無かったか?」 横から朔夜の父、燈陰が笑いながら近寄ってくる。手には木刀。朔夜の手元にも。 「大丈夫です。でも、おじさん、朔夜は…?」 「大丈夫、すぐ目は覚める。ちょっと休むから上がって行きなさい」 華耶は頷き、小脇に息子を抱えて屋内に入る燈陰について行った。 「あの、おじさん」 後ろを歩きながらの問いかけを予測していた様に頷き、燈陰は説明した。 「こいつから言い出した事だ。村の皆の為に戦いたいって。だから修行してやってるんだ」 「…そうなんですか」 「心配かけて済まないな。何せひ弱なもんだから修行の後はばったり寝ちまう。大好きな華耶ちゃんに会おうって余裕も無いみたいだ」 「えっ…えーと…」 華耶は顔を赤くして返す言葉を探していたが、通された部屋で座るように促され、有耶無耶になった。 敷かれている布団に朔夜を寝かせ、燈陰は奥へ引っ込む。 そして二つの湯呑みを手にまた出て来ると、せわしなく動き回りながら華耶に言った。 「済まんがちっと朔を看ててやってくれるか?俺は壁を見てくる」 「おじさん…戦いに行くんですか…!?」 恐れと不安の見え隠れする少女を安心させる様に、燈陰はにっこり笑って言った。 「見るだけさ。敵を知らねば戦いようが無いからな」 ほっとした様なまだ不安が残る様な曖昧な笑みで、華耶は頷いた。 「済まんな。行ってくる」 「はい」 燈陰が去ってしまうと、晩秋の虫と鳥の声、そして風の音。 遠く、雄叫びと鋼の擦れ合う音。 朔夜の母親は怪我人の治療に出向いているのだろう。華耶の母親も同じだ。 村の小さな診療所に、戦の怪我人が続々と運ばれ、最早入りきらなくなっている事は聞いている。 これからどうなるんだろう。 小さな胸の中で華耶が自問した時、横から伸びをする時の様な声がした。 「朔夜!!」 ぱちりと開いた目は、視界に入った人物を見て、更にくるりと丸くなった。 「あれ…?華耶?」 「良かったぁ」 嬉しそうに華耶は湯呑みを朔夜に回す。 受け取りながら彼はきょとんとし続けている。 「え?あ、ありがと…。なんで?どうしたんだ?」 「どうしたって、最近見ないからどうしてるかなって来てみたの!そしたら朔夜が伸びてた」 「別に伸びてたんじゃないよ!ただちょっと…吹っ飛ばされただけで…」 「それで伸びてたんでしょ?」 むー、と不服そうに茶を啜る。これ以上言い返す言葉も無い。 「あ、おじさんは壁を見に行くって。さっき出て行った」 「そっか…」 「ねぇ、朔夜」 布団に手をついて、目の前に身を乗り出す。 「戦いたいって…本当?」 じっと、湯呑みの中の藍色の瞳に目を落とす。 まるで自分の本音を探す様に。 「うん。…本当」 「何で?前は嫌って言ってたのに!」 「嫌なのは嫌だよ。何もしないで良いならそんな事しない。でも…」 もっともっと俯いて。 「俺には力がある。皆を守る力が。それを持ってて使いたくないって言うのは…皆を見殺しにする事だ」 「でも!朔夜が出来るのは戦う事じゃなくて、皆の怪我を治す事でしょ!?」 「戦う力もある…みたいなんだ。分からないけど、燈陰が言うには」 「でも、あるかどうか…分からない…」 「俺のやる気次第なんだって」 「…やる気?」 「戦う気があれば、その力は引き出されるんだって。だから毎日伸びてるんだけどさ。でもそんな感じ全然しないから困ってる。怪我治すのは元から出来てたし、どうしたら良いのか…」 「…戦わなきゃいけないの?」 顔を上げれば、視線も肩も落とす華耶がいる。 「怪我治すだけじゃ、この村は守れない。…俺は村の皆と、華耶を、守りたい」 「…朔夜」 「なぁ、華耶」 少しばかり笑顔を作って、朔夜は言った。 「俺が今の俺じゃなくなっても、朔夜って呼んでくれる?」 ――名前を呼んでくれる、数少ない大切な人。 唯一の、友達。 華耶は一瞬、質問の意味に言葉を詰まらせた。 自分が自分じゃなくなってでも――そこまで覚悟して、戦いたいと言っている。 でも、本当は、怖いんだ。そして何より寂しいんだ――華耶にはそれがよく分かった。 だから、頷いて、まっすぐ碧い目を見て言った。 「うん、呼ぶよ。勿論だよ。だって…朔夜はどうなっても朔夜だもん」 二人はやっと、顔を見合わせて笑った。 それから数ヶ月後、冬を持ち堪えた壁は崩され、戦は春の嵐と共に村を踏み荒らそうとしていた。 “力”を操る術を知っている筈の燈陰は、いよいよという時に姿を眩ました。 そしてあの夜、散る花と血の雨、そして降り注ぐ月光の元、悪魔と呼ばれ恐れられる存在が生み出された。 戦いの果てに何を守れたのか、彼はついに理解出来なかった。 ただ、散る花びらだけが―― 閉ざされた視覚。聴覚だけが働き、鈍く動き始めた脳に情報を伝える。 「目覚めたか?」 「いんや、まだ」 「一度殺しましたから。そう簡単には目覚めないでしょうね」 三人の男の声。 「本当に…心臓を刺したのか」 「ええ。外してはいませんよ」 「ま、傷はすっかり消えてるから安心しな」 「…そこまでしないとならなかったのか?もし蘇生出来なかったら…」 「本当に、心配のし過ぎですよ。私を誰だと思っているんです?」 「……」 「向こうの目を欺く為にはこれしかなかったんです。流石の私でも気分の良いものでは無かったけれど」 「はは、お前に餓鬼を殺す趣味が無くて良かったよ。もしそんな趣味があったらこの命、返上願いたい所だ」 「酷いなぁ。私はこう見えても子供は好きなんですよ?」 「へーぇ。初めて知った」 「まぁ、私もこれまであんまり子供を見た事は無かったんですけどね」 「…何だそりゃ」 「お父さん、ってのも悪くないなと思いましたよ。君のお陰で」 「どの辺を見てそう言えるんだか…」 「子供の危機に心配しか出来ない頼りない姿を、と言った所でしょうか」 「……あのな」 「冗談ですよ。さて、ちょっと出て来ますね」 扉が開き、また閉まる。 「許してやれよ。羨ましいんだ。ヤツは父親になれはしない。俺もな」 「…ああ、分かっている。でも」 意識に再び霞がかかり、声は離れていないのに遠くなる。 「俺も父親になれてた訳じゃない…」 そういう奴も居たな、と。 薄くなる意識の中で、ちらりと思った。 [*前へ][次へ#] [戻る] |