月の蘇る
6
住民はなけなしの刀剣と、殆どが鍬や鋤、中には箒やただの棒を持って役人達と揉み合っている。
役人の手にはそれなりの装備があるが、何せ数が全く間に合わない。押される事で理性を失い、手当たり次第に民を滅多打ちにしている。
朔夜は眉を潜めてその様を熱の外から見、両手に短刀を抜いてゆっくり踏出した。
「俺が請け負う。腰抜け役人は下がってろ」
くるりと、手元で双剣を回転させる。
刃は、内側へ。
「何!?餓鬼は家に帰れ、邪魔だ!!」
役人の一人が売り言葉を見事に買い上げる。
朔夜は鼻で笑って言い返した。
「邪魔なのはあんた達だって言ってんだよ」
不敵な笑みのまま渦の中に飛び込み、流れる様な速さで暴徒に刀を当て始めた。
当てるだけで斬ってはいない。全て峰打ちにしている。
得物の長さは肘を少し越えるほど。対して相手は農器具とはいえかなりの長さがある。かなり懐に入らねば峰どころか刃の先も届かない。
それでも順に暴徒の動きを止められるのは、相手が素人である故に振りが大きく隙だらけである事、そして朔夜の小柄な体格と動きの速さが為せる業だ。
主に脇腹や腕、可能な限り手首を狙い、相手の得物を落としてゆく。
住民側に、自分達が相対する者がそれまでと違っている事が徐々に伝播していった。
集団の動きが鈍り、やがて完全に止まる。
百を越える視線の先には、一人の少年。
「帰りなよ。大怪我しないうちにさ」
息一つ切らす事なく、涼しい顔で、朔夜は住民達に言った。
その尽くがどこかしら打ち据えられ、痛い箇所を押さえたり摩ったりしている住民達に、怒りと戸惑いが広がる。
動いている時には気付かなかったが、止まっているのを見れば相手は子供だ。
戦いの素人とは言え、住民側は大の男が大多数である。黙って帰れはしない。
「お前、どこの餓鬼だ!?何故邪魔をする!」
一人が声を上げると、同調する声が場を再び喧騒に染めた。ただし痛みが骨身に染みているので動きは無い。
怒号ばかりで言い返す隙が無く、流石にうんざりして、朔夜は小刀を手に取った。
投げる。住民が手にしていた木の棒に、深々と刺さる刃。
場が静まり返った。
「次は首を狙う」
少年の声は静かでありながら、凄みが加わる。空気が凍り付く。
「帰れ」
凍った空気が割れた様に、住民は強張った顔で各々散っていった。
所詮、相手は素人だ。戦場に立った事も無ければ、命のやり取りの経験も無い。
恐怖に敏感で、己の身を守る事が最優先。
やれやれ、と小さく呟く。
今の自分からすれば、そんな覚悟で暴動を起こすなど、怒りを超えて嘲りすら覚える無謀に思える。ただの愚行と切り捨てる事は簡単だ。
でも、恐らく――彼らの感覚が“普通”なのだ。
自分も戦場に出るまでは、彼らと同じだった。命を奪われる事は勿論、奪う事も嫌だった。
それが、経験の中でどんどん麻痺して。
命のやり取りなど、経験して自慢にもならない。それこそが愚行だ。
「お…お前、何者だ」
背後からの声に、そう言えばまだ役人が居るんだったと思い出す。
朔夜は気怠く振り返り、味方してやったのに怯えている連中を視界に入れる。
何だかなぁ、と思いつつも答えた。
「ここの乱を鎮圧するように言われて来たんだけど」
答えてやっても戸惑いしか見て取れない。
「まさか、こんな餓鬼が…」
「帰ろっかな」
「いやいや!!先程は見事な立ち回りだった!!大いに助かった!」
「だから?」
「わ、我々に力を貸してくれ…いや、貸してください…」
背中を向ける素振りで大人を揶愉するのをやめ、朔夜はそこに倒れている一人に近寄り膝を折った。
「これ、あんた達の仲間?」
先程までの暴動の犠牲者だ。数人がそこらに同じように倒れている。
目の前の男は役人の制服を着ている。
「そ、そうだ」
「さっさと介抱してやりなよ。まだ生きてる」
まだ立っていられる役人達は我に返った顔で、倒れている仲間達を抱えて目前の建物に向かい始めた。
恐らくここが役人達の詰める小城なのだ。
朔夜は彼らが構いもしない怪我人、尤も生きているかは分からない人々に視線を向けた。
剣で何箇所も突かれ、見るも無惨な姿となっている者が多い。
眉一つ動かさず近寄り、脈を取る。
顔も分からないほど刺されている者は既に事切れていた。だが、まだ二人、三人と生きている者もいる。
朔夜は一つ息をして、その中で最も深手の傷に触れ、目を閉じた。
――まだ、使えるだろうか。
心の中で、自問する。
長い間使わなかった。その間に、真逆の事を重ねてきた。故に、その方法、そして心を、失っていないだろうか。
本来の、“力”の使い途を。
「…頼む」
誰にともなく、小さく呟く。
その瞬間、手の下で、光が起こった。
まだ周囲は明るく、手で塞がれ、見てもそれとは判らぬ程だが、確かに。
数十分そうした後、まず藍の眼が開き、次いで手は離された。
傷は、消えていた。
他人の傷、病を癒し、生命を繋げる。それが朔夜の本来の力。
梁巴の中で繰り返し起こした奇跡。神の子と言われる由縁。
殺しとは違い、月が無くとも、己の意思で操れる。
――まだ、使える…
男の目が開き、完全に戸惑って視線をさ迷わせている。
「俺…死んでない…のか…!?」
動いていた視線が己に止まると、朔夜はふっと微笑んだ。
「ああ。生きてるよ」
――まだ、救える。
微笑は瞬時に掻き消え、厳しい声音で男に言った。
「二度とこんな目に合わないように、この街を出ろ。仲間にもそう言え。特に女子供はすぐに逃がせ」
「逃がせ、とは…」
「月夜の悪魔が、来るぞ」
ひぃっ、と高い声をあげ、男は直ぐさま立ち上がり、街の方へ駆けていった。
その背をじっと、見送る。
――同じ力なのだ。
彼を救った力も、あれ程に怯えさせる力も、源泉は同じだ。
この数年、己の傷を治す以外は、殺す方ばかり使ってきた。あの日以来。
その結果だ。
絶望の淵に叩き落とされた――これが、当然の結末だ。
でも、まだ、俺には救う力が使える。
心まで失っていない、証だ。
「まだ覚悟を決めていない様だな、月よ」
影の声。当然だろう。
「測り違えるな。覚悟なら決まっている」
「では何故あの様な甘い事を」
「俺には俺のやり方があるんだ。桓梠の野郎と同じにするな」
「同じでないとあの方は満足されぬ。そんな事も解らぬ程甘いのか、月よ?」
「…ああ。あんな奴の思考、解ってたまるか」
「そうか」
くつくつと、低く抑えた笑い声。
朔夜は虚空を睨む。
「何を…嘲笑っている」
「今からでも遅くない。その覚悟とやら、示せ」
「何…!?」
「今からお前が救おうと考えていたその者共、殺せ」
はっと鋭く息を吸った。
「それとも、女を殺すか?」
じっと、その場に立ち尽くして。
痺れた様に、動けない。
冷たい汗が背中を落ちる。それにまた悪寒を感じて、びくりと身体を震わせた。
殺せない。
覚悟を決めて、殺す気でこの街に来た。
なのに、土壇場で、このザマだ。
殺せない。
殺したくない――
「お前の刀で殺せ。それ以外は認めぬ」
軋んで音を発てそうな指が、刀を握った。
力の入らない手に無理矢理力を入れて、抜刀する。
喉が詰まりそうだが、深く息をして。構えて。
足元に倒れる、まだ生きている人に。
――心など、表に現れなければ。
無いも、同じだ。
心臓に、過たず、突き刺した。
一人やればもう、箍は外れた。
さっと踵を返し、まだ動いている胸を認め、同じ事をする。
――同じ事だ。
月に取り付かれていようと無かろうと。
俺の手は血に汚れる。奪われる命からすれば、殺す者の正体など、人間だろうが悪魔だろうが同じだ。
俺は。
人間の皮を被った悪魔だ。
心の表面でどんなに偽善者ぶろうが、核心は――
この行動が、この光景が、その証明。
生ける者を屍にし、血が、己を囲む。
「お前の覚悟とやら、とりあえず認めてやろう」
五人、刺した。
心臓に、一つずつ。
「だが次、怪しい行動をしたら…」
「…何だ?」
「まぁ、いい。結果は同じだ」
にやり、と。
紅い唇の端が吊り上がった。
「どうせ俺がこの街の全員を殺る。そうだろ?」
血糊を浴びた顔の、美しく凄絶な冷笑。
影すらそれを見て一瞬言葉が出なかった。
「良い顔をする様になったではないか、月」
「それはどうも。ところであんたに一つ訊きたい。朝方のあんたとお前は同一人物なのか?」
「…何を世迷い言を」
「さて、俺が狂ってるとしたらあんた達のせいだぜ?」
「お前の影は一つだ」
「月の影は一つじゃない。天にも地にも無数にある、だろう?」
「何が言いたい」
「あんたならそのくらいの世迷い言を言ってくれると思っただけさ。期待外れだったけど」
「影に戯れ事は無用だ」
「そうか?いつも言ってんじゃん。もしかして、今そこまで余裕が無い、とか?」
冷笑に嘲りを混ぜて、再び笑う。
「ああ…言い過ぎたか?これは失敬」
笑い顔の中にある毒が、空気中に発散されるように。
不穏。どんよりとした雲が、白昼に闇を作る。
「月…余計な事は考えぬ方が身の為だ」
影の声が一段と押し殺した低さになる。
怒りだ。これは。
朔夜の口元が、更に吊り上がる。
「それはもう聞き飽きた。それとも何か?雑談まで恐れるのか、お前は?」
じっとりした空気。
この重々しさの中の気配が、消えた。
影は去った。それを時間を掛けて確かめて。
大粒の雨が頬を打つ。
がくり、と。
膝を地に付けた。
既に口元の毒気は抜け、余裕すら感じさせた笑みは絶望に変わり。
雨が、降る。
地面に叩き付ける。少年の上にも、彼が息の根を止めた人々の上にも。
雫が溜まり、流れになり、血の赤を拡げる。
それを身体で吸うように。
地上の月はまた、赤く紅く染まっていった。
「良い顔になった…か」
片手で顔を被い、頭から流れる雨水を払う。
「お前らと同じ顔だ」
己の生身の仮面は、いつか剥がれるだろうか、と。
考えて、気が遠くなった。
眼を閉じ天を仰いで。顔面に雨粒を打たせて。
そこに僅かに残っていた、通う血の色が無くなるまで、そうしていた。
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