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月の蘇る
  5
   思えば、輿というものに初めて乗った。
   当たり前と言えば当たり前だ。本来これは高貴な人が乗るものだ。自分のように何処の馬の骨とも知らぬ、それも人か化け物かも分からぬようなモノが乗る物ではない。
   他人の力によって持ち上げられ運ばれる感覚が不思議でならず、全く落ち着かない。
   こいつは日常茶飯事だった筈だと、横で眠る龍晶に目をやる。
   二人で乗っても、それも寝かせたままでも乗れる、大きな輿だ。
   幕を捲り外を伺えば、街行く人々が皆足を止め頭を下げている。輿に付いている紋章で王のものと分かるのだろう。
   香奈多は前を行く別の輿に乗っている。女の子らしい、華やかな装飾だ。
   王の使いと言いつつあの幼さで、しかし立ち振る舞いは大人びていて。何者なのだろう。
   そしてこれから何が待ち受けているのだろう。
   哥王とは、一体どんな人物なのか。
   緊張と不安。そして微かな興奮。
   何かが待ち受けている。予感。
   何かが。
   二つの輿は城門を潜った。龍晶らが入った王宮へは進まず、道を逸れる。
   そこからがまた長かった。いくつもの門と、道と、建物を通り抜けて。
   厳重に兵達に守られる、厳重な門を潜る。
   そこに開けた世界は、以前龍晶に入れられた後宮を思い出させた。
   ここが砂漠の国である事を忘れさせる、草花の咲き乱れる庭園。
   その中に輝く白亜の宮。
   先に輿を降りたらしい香奈多が幕を捲り顔を覗かせた。
「お疲れ様でした。到着でございます」
   輿から直接、白亜の宮へと入る。
   龍晶は衛兵達によって布に包まれ運ばれる。
   香奈多は長く難解な道を先導する。
   何もかもが白昼夢のようにふわふわと見えて実感が無い。
   まるで天国を散歩しているような。
   ひょっとして、今から俺達に裁きが下されるのではないか。これまでの罪全ての裁きが。
   その扉が開かれる。
   思ったよりもずっと華奢な、趣味の良いものだ。
   室内の調度も同じように整えられている。その可憐な花園のような場所に、その人は居た。
「我が陛下でございます」
   香奈多の言葉に目を見開く。
   哥王、明紫安は、若く美しい女性であった。
   彼女はふっくらとした笑みを一行に向けた。
「お待ちしておりました。殿下はその寝台へお運びしてください」
   衛兵達は言われた通り、龍晶を天蓋の付いた寝台へと寝かせ、その場を去った。
   室内には朔夜、哥王、香奈多そして龍晶のみが残された。
「ご足労感謝します。私が哥王明紫安です。信じられないでしょうけれど」
   朔夜に向けて、香奈多と同じく流暢かつ丁寧な南方語で話しかける。
   朔夜はやっと我に返った気分で、名乗らなければと気付き、しかし名乗る肩書きなどある筈もなく逡巡した。
   そんな形式は無用とばかりに哥王は笑う。
「あなたの事はよく存じております、朔日のお月様。しかし思いの外可愛らしい方で安心致しました」
「あの」
   こんな口を利いても良いものかと迷いつつ。
「どうしてそういう呼び方をされるのですか?俺の事をどうして知っているのです?今まで国を跨ぐ程の悪事は働いてきましたが、その悪名は月夜の悪魔と皆が言います。朔日のこと、一体どこから知ったのですか」
   明紫安は白く長い袖からすっと細い手を出し、椅子を勧めた。
   自らも対面に座り、香奈多にも横の席を指して座らせた。
   折良く、女官が茶器を持って入ってきた。
   王と客人に茶を注ぎ菓子を出して退室するまで明紫安は香奈多に目配せして喋らせた。
「南国の茶でございます。良い香りがしますよ」
   確かに、今まで嗅いだ事も無い花のような芳しい香りだ。
「あなた様の知っておられる繍よりも、もっと南の国から来た茶葉です。我が国は東西南北の様々な国と交易しております」
「えっ…そうなんだ」
   思わずそう呟いてしまうくらい、それは意外な事だった。
「国というより私個人の趣味ですけどね」
   王がにっこりと笑いながら訂正した。
「大臣は他国との交わりを嫌いますので。私だけが文句を言われぬ程度に、こっそりと」
「へえ…」
   言い振りは若い女性そのものだ。王である事を忘れさせる。
   そしてふと、この人に政が出来ないから、全てを大臣に任せているのだろうかとも考えた。
「海を渡ればこの茶のように良きものは沢山あるのです。それを知って生きるのは楽しい事ではありませんか」
「はあ…?」
   海すら知らない朔夜には、どうにも分からない話だ。
   女官らはとっくに退室している。明紫安は話を区切るように片手を上げた。
「あなたの事でしたね。朔日の月ーー私には、あなたが産まれる様が見えたのです」
「え?」
「私はあなたと同じ永遠の命と、世に起こる様々な事を見通す力があるのです」
「…え…?」
   理解が追い付かない。口をあんぐりと開けたまま、その人を見やる。
「ある朔日の夜、星のみが光る夜空に突如現れた望月を見ました。それがあなただったのですね。それからずっとあなたの事は注意して見ていました。梁巴の悲しい戦も、繍での苛烈な生き様も、戔で龍の玉たる殿下と運命の出会いを果たした事も、全て」
「見えるのですか…?」
「ええ。こうして目を閉じれば見る事が出来ます。私の見たいものも、私の意に反して天が私に見せるものも」
「天が?」
「私達が存在するのは天の意思ですから」
「…俺も、その天の意思で、生きてるって事ですか」
「そうです。我ら力を持つ者は皆、天帝に遣わされ世を陰ながら動かす者なのです」
「天帝って?」
「天の意思の事を私はそう呼びます。人ではありません。大きなもの、宇宙そのもの」
   うーん、と唸って額を押さえる。話が飛躍し過ぎて頭が痛くなりそうだ。
   その様を笑って明紫安は菓子の皿を取り朔夜に勧めた。
「甘いものでもお食べになって落ち着いてください。今のは私の戯言と思って」
   花を形どった砂糖菓子を一つ摘んで口に放ると、頬が溶けそうな甘さに驚いた。
   こんなもの、今まで食べた事がない。
「俺が食うの勿体ないなぁ…」
   出来る事なら、華耶をここに連れて来て、この優雅な茶会を味合わせたいと考えずにはおれなかった。
   明紫安は朔夜が菓子というものに驚いている間、席を立っていた。
   龍晶の眠る寝台へと足を向け、天蓋から下りる紗を潜る。
   枕元に跪いた彼女は、生きる事に疲れ果てた若者を慈しむように頭を撫でて。
   そっと頬に手を添えて、唇を重ねた。
   薄絹越しにそれを目撃した朔夜は、危うく茶を吹きそうになった。
   両手で何とか口を押さえて粗相は回避し、慌てて目を背けながらも動いてしまう目を自制すべく葛藤し、他人事なのに耳まで赤くなって、迷い迷った挙句やはり龍晶に何かあってはならぬと考えおずおずと近寄って声を掛けた。
「あの…王様…あのー…えーと…」
   濃厚な接吻はまだ続いている。なるべく直接見ないようにするという涙ぐましくも無駄な努力をしながら朔夜は真後ろまで来た。
   そこまで近寄ってやっと分かった。
   龍晶の体が薄く光っている事に。
   目の前の事が理解出来たのと、香奈多がそっと隣に来たのは同時だった。
「今、陛下は治療をしていらっしゃいます」
   朔夜は口を開けたまま、彼らから目を離せず頷いた。
   自分が治癒の力を使う時と同じ光。それを他人が起こしているのを見たのは初めてだ。
「凄いな」
   他に言葉が見つからなかった。
   本当の凄さが分かったのは、明紫安がやっと口を離した時だ。
   龍晶は軽く咳をして、目を覚ました。
「大丈夫か!?」
   思わず叫んで、王がそっと避けた枕元に駆け込んだ。
   血の気の無かった顔に、生気が戻っている。
   明紫安の力は本物だった。
「朔夜…?ここは…?」
   声は出ず、息だけで龍晶は問う。
「哥の王様の家」
   なんともとぼけた答えしか出なかったが、龍晶を驚かせるには十分だった。
   慌てて体を起こそうとしたが、上手く力が入らない。
「そのままで。まだ動く事は無理です」
   明紫安が朔夜の横から手を伸ばし、胸の辺りを抑える。
   訳が分からず、怯えた目を朔夜に向けて説明を求める。だが、朔夜とて全てを言葉に出来るほど冷静に事態を理解していない。
   代わりに明紫安自身が答えた。
「あなたは哥王の宮に招かれた数少ない賓客です。殿下は生きて故国の土を再び踏まねばならぬお人です。体の毒は今、全て取り払いました。あとは今少し養生なさる事です」
「あなたは…」
   問おうとした口を指先で押さえて。
「口を利く力も惜しんでください。今は何も考えず、休んで」
   正体の知れぬ女性の不思議な魅力に圧されて、言われた通り口を噤む。
   明紫安は更に、額の上から顔を撫で、瞼を閉じさせた。
   そのまま何事か呪文のようなものを耳元に落として手を離す。
   龍晶は再び眠りに落ちていた。今までに無い安らかさで。
「…この方には私の力の事を告げぬ方が良いでしょう」
   朔夜に顔を向けて彼女は言った。
「どうしてですか?」
   隠せという事だろうか。何の為に。
「私の力を使って、何よりも知りたい事を見て欲しいと懇願するでしょう。それは禁忌です」
   何よりも知りたい事ーー母親の行方だろう。
「駄目なんですか?」
「ええ。私は人の子の行く末に関与すべきではないので」
「…それって…」
「故に私は政にも口を出さぬのです。人の子の運命は、彼ら自身で決めねば」
「あなたは…俺も、人の子ではないという事ですか」
   寝台から離れ、己の席に戻ろうとしていた彼女は動きを止めた。
   思わず朔夜は、あ、と声を漏らして口を押さえた。とんでもなく失礼な問い掛けだった。
   彼女は微笑んでいた。しかし哀しい笑みだった。
「ごめんなさい。あなたはそれを信じているのですね。私はとっくに諦めていた…その心、忘れていました」
「いえ…俺も…分かっています。自分が人ではないと」
   何とか答えた言葉に彼女は微笑んだまま首を横に振った。そして朔夜の肩を抱いた。
「無理に否定する必要はありません。あなたがあなたの信じたいものを信じれば良いのです」
   朔夜は言葉を失ってしまう。抱かれる手の温かさに。
   その手に誘われて部屋から出た。
   暖かな日の降り注ぐ、花の咲き乱れる庭。
   眩しさに目を細める。日の光の所為ばかりではないだろう。
「あなたにはこの庭、どう見えますか?」
   明紫安は問う。朔夜はその問いの意味も考えず即答した。
「とっても綺麗です」
   彼女は微笑んで朔夜に視線を落とし、ありがとうと言った。
「南の国の木や、北の国の花を取り寄せてここに植えているのです。環境が合わなくて枯れそうになったら、力を使って生気を与えています」
   はっとして朔夜は彼女を見上げた。
   この庭の美しさは、自然のそれではない。
「この草花達は私と同じ、ここでしか生きられない、この庭が世界の全てであるもの達です。人の子の運命を私は曲げてはならぬと決めていますが、草木を私の我儘に付き合わせる事くらいならば天帝もお許しになるでしょう」
「…永遠を共にする者は、人であってはならないという事なんですよね」
   何故今ここに居るのか、やっと解った。
「王様は人の心まで見えるのですか?」
「まさか。しかし考える事は出来ますよ。多くの人間と同じように」
「俺があいつを不死にしたいと…王様には解ってしまったのですね」
   明紫安は微笑むだけで何も言わなかった。
   朔夜はこの話の延長線上に、己の罪を考えねばならなかった。
「不死を…消す事は出来ますか?」
「あなたが不死にしてしまった娘を?」
「なんだ。それも知ってるんですね」
   王は笑って、胸の高さ程にある朔夜の頭にぽんと手を置いた。
「あれを己の罪と思わなくとも良いのですよ。なるべくして成った事です。それも天帝の意思です」
「…してはいけないことではないのですか?」
「ならば問いましょう。延びた命をあなたは終わらせる事が出来ますか?その手でもって」
   総毛立った。恐ろしい問いだった。
   脳裏に稲光のように閃く光景。母の末期。血に染まる花弁。
   わっと叫んだ時、母のような手に抱き止められた。
   変わらぬ、花咲く楽園がそこにある。
「大丈夫。あなたは同じ過ちを繰り返しはしない。絶ってはならぬ命を絶つ事も、延ばしてはならぬ命を延ばす事も」
   恐怖に震える心臓の上に置かれた手は、矢張り心の内まで掴み取るような。
   しかしそれで何故か、否それ故にか、彼女の寂しさを知らずには居られなかった。
「…あなたはここにどれだけ居たのですか?」
   己を抱える手に手を重ねて、朔夜は問うた。
「さあ、この国が出来て間もなくですから、もう三百年にはなりましょうか。ああ、そこにある紅葉…あれはここを作ってすぐに植えたものです。最初はあなたのように小さく生き生きとした木でしたが、今はあんなに堂々とした古木になってしまいました」
   庭の中心にある巨木。仰ぎ見る程の高さで青々とした葉を繁らせて、大きな木陰を作っている。
   この木が紅葉すれば、さぞや壮観だろう。
   巨木を中心に、見た事もない木や花が庭を彩る。ここが砂漠の国だとは思えない。
   全て、彼女の持つ不思議の力で生き永らえている草花たち。
   ここに彼女の小さな世界は形作られ、無限の世界はこの庭に集められている。
「あなたはその足で世界を見、草木ではなく人と共に生きれば良いのです」
   明紫安は言った。
「あなたに定められた生き方をすれば良いのです。そして疲れればここに帰って来てください。ここは私達の、永遠の秘密基地です」


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