月の蘇る 6 降り頻る雨粒が窓を叩く。 時折重い空を走る稲光が、昼間にも関わらず暗い部屋を照らした。 元々白い横顔は、益々青白さを増して浮き上がる。 「よく降るな」 ぽつりと朔夜が声を掛けた。 龍晶は微かに頷いたか否かで、細く開けた雨戸の隙間から雷光を見ている。 まだ遠い。 「燕雷たち大丈夫かな」 大人二人は、近場の川で堰が切れたと言うので作業を手伝いに行った。旅人の癖に首を突っ込まずには居られないお人好しだ。 ただ、この宿でかなりの日数を世話になっているのも事実で、その恩を返す為もあるだろう。 朔夜も手伝いに行こうとしたが、お前は濁流に巻き込まれて流されるのが落ちだと一笑に付されて連れて行っては貰えなかった。 確かに経験者ではあるので何も言えない。 「天には逆らえないからな」 やっと、龍晶が言葉を発して手を伸ばし、雨戸を閉めた。 「…どういう事?」 意味深な一言を問い返す。 龍晶は何も応えず寝具に横になった。 雷鳴が閉め切った部屋に篭った音で響く。 少しずつ間隔が短くなってきている。 一層、雨音が激しくなった。 「こうも降られたら何も出来ないだろうよ」 龍晶が投げ気味に言葉を付け足した。 「でも、どうにかしないと下流の町が流されるって言ってた」 「ああ。それは分かる。だが、これ以上は作業する方が危険だ」 「うん…」 激しい雨に打たれながら、川辺で働く人々を想像する。 既に視界の効く雨量では無かった。一歩誤れば命を落とす。 「…みんな他人の為に命懸けれるんだよな」 すごいな、と朔夜は呟いた。 市井の名も無き人々が、誰かの命を救っている。当然のように。 「何言ってんだよ、お前は…」 龍晶が言い返そうとした事を遮って、朔夜はきっぱりと言い放った。 「俺は誰も救えてないから。傷付けるばかりで」 「馬鹿。お前には先があるだろ。どうとでもなるだろうが」 間髪入れずに龍晶は言葉を投げ付け、そのまま押し黙った。 自分に絶望していた。何も出来ない自分に。 それを黙って受け入れるより無い自分に。 「…ごめん」 悄気た声音が返ってくる。 ああ、と苛立ちを声にして龍晶はもう一言口にせねばならなくなった。 「誰もお前を責めてる訳じゃない。お前に与えられた時間を有効に使えって言ってるんだ。それが出来ないなら俺は本気でお前を怒りに来てやる。あの世から」 「…あの世って」 「俺が早く死ぬのも、お前が永遠に生きるのも、何か意味があるんだよ。天命って奴かも知れない。俺が何も出来ない分、お前に託すしかないんだ。そういう運命なんだ。そう思うしかない」 益々泣きそうな悄気た顔をする。 「…まあ、逆もあるかも知れないけど」 逆効果だと漸く察してもう一言付け加えておいた。 未来は分からない。何があるか。 閃光が走り、どん、と大きな音が響き渡る。 雨音と雷鳴以外、何も聞こえない。 このまま世界が壊れかねない空模様だ。 「…死なさないよ」 騒音の合間に朔夜が呟いた。 聞こえない振りで龍晶は外の音に耳を澄ませていた。 ざんざんと降り頻る雨音に混じり、漸く人の声がした。 燕雷らが戻ってきた。そう気付いて朔夜は立った。 迎え入れようと扉を開ける。 「…え?」 拍子抜けした。 そこには、余りにも予想だにしない面々があった。 「やあ、悪魔君。お元気そうで何より」 真っ先に目に入ったのは溟琴だ。これは何となく理解出来る。寧ろ、今まで現れなかったのが不思議なくらい。 問題はここからだ。 「…こんにちは」 視線を合わそうと下に下ろせば、何処か気まずそうに挨拶する。 苦笑いして朔夜は返した。 「どうして箱入りの王子様がこんな所に」 鴇岷は困ったように見上げてきて、背後に助けを求めた。 知らぬ顔が答えを告げる。 「我々があなた方を訪ねるのなら、どうしてもご一緒したいと仰せられたので、ここまで同道する事になりました」 そういうお前は誰だと問おうとした時、後ろから聞き慣れた声がした。 「取り敢えず中に入れてくれ。ぐっしょぐしょでどうにもならん」 燕雷と黄浜がずぶ濡れの泥塗れで待っている。 うわぁ、と驚きながら朔夜は道を開けた。 一行が中に入り、濡れ鼠の二人は一旦湯屋に向かおうと着替えだけを取って出て行った。 去り際、燕雷が朔夜に言い置いた。 「あいつは俺の知り合いの孟逸(モウイツ)だ。苴の高官だからな、粗相の無いように」 「…なんか説得力無いなぁ」 あいつと呼んでいる時点で十分に粗相な気がする。 とは言えぐしょぐしょに濡れている相手をこれ以上引き止める事は出来ないので、それだけを聞いて部屋に客人と共に取り残された。 龍晶はと言えば、唐突過ぎる闖入者に驚くでもなく、探るような視線を送っている。確かに用向きは読めない。 それでも横になっていた姿勢から、床に座り直して迎え入れる辺り、事の重大さは悟っているようだ。 「龍晶殿下、お久しぶりです!」 弾んだ声で鴇岷が寄って行く。 龍晶が何を言う間も無く、嬉しそうにその横を陣取った。一度会っただけで随分懐かれている。 それをにやにやと眺めながら、溟琴が皮肉っぽく言い放った。 「お元気そうで何より、王子様。顔の傷も綺麗に治って。折れた腕も元通りですか?これは悪魔君の活躍ですね?」 ぺらぺらと喋る怪しい男に、睨むように目を細める。 何をどこまで知っているのか、一体どこから見ていたのか。ハッタリかも知れないが、少なくともこの男がそれを知っているという事は、皓照にこちらの行動は筒抜けだと言う事だ。 「用件は?」 言葉少なに龍晶は問うた。不要な情報は与えたくない。 「僕の悪い報せと彼の良い報せ、どっちを先に聞く?」 溟琴が孟逸を指しながら問い返す。龍晶は苛立ちも露わに顔を顰める。 「好きにしろ」 じゃあ、と溟琴は孟逸に目配せする。 彼は龍晶の前に進み出て一礼し、口を開いた。 「龍晶殿下、お初にお目にかかります。私は苴の孟逸と申す者です。此度は陛下より書状をお預かりして参りました。こちらを」 差し出された書状を受け取りながら、流石に驚きを隠せずに龍晶は問うた。 「苴の国王陛下の書状ですか?」 孟逸は頷く。 「皓照殿の提案により、陛下が御自ら筆を取られたものです。是非に、これを哥へとお届け頂きたい」 とにかく文面に目を通す。 書状は二通あった。一つは哥王へ宛てたもの。残りは龍晶自身へのものだ。 そこには、皓照から此度の哥への交渉の事を知らされ、苴もそれに乗る事にし、龍晶へこの書状を翻訳した上で哥王へと手渡して欲しいと書かれている。 そして、戔国内の内乱について、苴は反乱軍を支援する、と。 龍晶は苴王の署名を暫し見詰め、ふっと視線を外し行間に視線を漂わせた。 「哥へとお持ち頂けますか?」 孟逸が念を押す。 即答せず、書状を元通り丁寧に畳み、恭しく捧げ持ち、それをそのまま孟逸へと向けた。 「お約束は出来ません」 当然、孟逸は驚いた顔で声を大きくした。 「何故に!?その為に殿下は…!」 「見ればお判りでしょう。もう殿下とは名ばかりの身。近く朽ち果てるのみの身です」 言葉を失う客人に、自嘲混じりの柔らかな笑みを向けて。 「もう何が出来る訳でもない。そんな者にとって国境の壁は高過ぎました」 書状を持つ手を更に相手の方へ伸ばす。 「陛下には、戔の愚か者は既に亡き者であったとお伝え下さい。無駄足を踏ませてしまい申し訳ありませんでした」 孟逸は突き返される書状と言葉をどう受け取ったら良いものやら、判断しあぐねているようだった。 受け取る事も出来ず、難しい顔で相手の手元を見ている。 「じゃあ、こっちの用件も聞いてくれるかな?」 溟琴が割って入り、龍晶は一旦手を下ろし睨み上げた。 「邪魔をするな」 「邪魔かどうかは話を聞いてから決めてごらんよ」 軽く溟琴は前置いて、一言で本題を片付けた。 「哥は戔に侵攻する予定だよ。近々、壬邑(ジンユウ)にね」 すぐには言葉も出なかった。 一度、多くの犠牲を払いながら泥沼の闘いを繰り広げたあの砂漠に、再び哥は進軍すると言うのか。 「…嘘だ」 信じられないし、信じたくは無かった。 今、壬邑を攻められたら、そこから程近い北州はどうなる。 反乱は。仲間達は。 「本当だよ。ま、信じなくても良いけど、そうなると皓照さんも君達への肩入れは考えると思うなぁ」 「不利になるなら逃げるのか」 厳しい問い掛けに、溟琴は不敵な笑みだけで応えた。困るのは誰だ、と。 龍晶とてそれは痛いほど分かっている。皓照が居るからこそ決断した反乱だ。翻せば、皓照が居なければ反乱は成し得ない。 協力して欲しければ哥を止めろと、皓照は言ってきているのだ。 故郷を人質に脅しをかけられているも同然だ。 「別に悩む事無いでしょう?元々は王子様が哥に行きたくてここまで来たんだし、それを遂行すれば良いんだよ。状況が多少深刻になったってだけ」 あっさりと溟琴は言ってのける。 そんな事は分かっている。ただ、それが出来ないと言う話なのだ。 それとも、成功する確率が極めて低いと分かりながら実行し忠義を見せろと言う事か。 つまり、皓照は戔を第二の灌にしようとしているのではないか。 哥に行く事で命と引き換えに皓照に従ったという事実は残る。彼はそれを利用し反乱を弔い合戦として成功させ現王政を倒すだろう。そして自身は新たな国を創り出し建国の神となる。 穿ち過ぎだろうか。だが、そう考えれば全て納得が行くのだ。 戔に朔夜を送り込んで来た意味も、王になるよう嗾けるような言葉も、一見何の利点も無いのに反乱軍に協力する意味も。 一体いつから仕組まれていたのかも分からないが、全てあの掌の上で転がされてきた結果なのだとしたら。 「…龍晶」 朔夜が隣に来て膝を着いた。 「俺が代わりに行くよ」 「…え?」 耳を疑って相手を見返す。 朔夜は真顔で繰り返した。 「俺が哥に行くよ。それしか無いだろ」 「そんな事…」 「だって、誰かが行かなきゃならないし、お前に無理はさせられない。なら、俺がお前の使者として行けば…」 「お前が哥を止められるか!?」 厳しく問い掛けて、すぐに龍晶は俯いた。 「…済まん。俺が行けば止められるというものでもないな」 混乱した頭を抱え、緩く横に振り、面々に向き直った。 「少し返事を待って欲しい。こいつと話がしたい」 指名された朔夜が軽く眉を上げる。 溟琴はにこりと笑って立ち上がった。 「分かりましたよ王子様。どうぞごゆっくり。ただし、あなたの選択肢は一つですからね?それをお忘れなく」 嫌らしく念押しして部屋を出る。 それに続いて孟逸も一礼して出て行った。 残るは幼い方の王子様だ。 「どうして王子はこんな所まで来てしまわれたのです」 改めて眉を潜めつつ問う。 鴇岷は照れ笑いで答えた。 「あの二人が殿下に会いに行くと聞いて、居ても立っても居られなかったんです。そうしたら父上に、将来の為に国の外を見て来なさいと言われて。だから…殿下、せっかくの助言なんですけど、僕、やっぱり城から逃げることは出来ません」 龍晶は口を閉ざし、暫し何か考える風を見せ、ふっと笑った。 「…それが何よりでしょう。あなたは俺のようにはならない」 鴇岷は目を丸くした。言われた意味を咀嚼し切れなかったのだろう。 今はまだ分からなくても良いと、龍晶はそういう笑みを向け、そして改めて王子に言った。 「ならば後学の為にも、町の様子を見られては如何でしょう。雨足も弱まってきましたし」 先刻まで煩い程だった雨垂れが、ぽつりぽつりと雫を垂らす音だけとなっている。 鴇岷は笑顔で頷いて、外へと駆けていった。 「…あんな風に未来を信じてみたかった」 朔夜だけに呟いて、龍晶は諦めの笑みを消した。 「朔夜」 改めて居住まいを正して呼ばれ、朔夜も思わず背筋を伸ばす。 「俺を不死にする事は出来るか?」 その一言では言われた意味が分からなかった。 「…ふしって…?」 「お前のように死なないように出来るかと訊いている」 目を見開いて、声も出ない。 それを龍晶が問うてくる事が信じられなかった。 その反応も見越していたのか、彼は理由を告げた。 「哥には行かねばならない…。お前に任せる事が出来ないとは言わないが、言葉の問題もある。それに、俺が行かねば皓照は許さぬだろう。奴は俺を自分の駒として動かしたいんだ」 「どういう事?」 「俺を通して戔を支配する気なんだ。全てはその為の布石だった。だから、俺が奴の意のままに動くという事を証明せねば、奴は俺達や反乱軍もろ共あの国を潰しかねない」 また朔夜は驚いた顔をする。その中には、そんな事は有り得ないだろうという龍晶への疑心も覗く。 構わず龍晶は続けた。 「まずは生きて哥に入り戻る事…それすら今の俺には難しいが…。本当の問題はその後だ。俺は皓照の力から仲間と、あの人を救わねばならないだろう。その為には不死の力がどうしても必要だ」 「あの人って?」 一瞬躊躇い、龍晶は囁くように答えた。 「兄上を救うんだ」 [*前へ][次へ#] [戻る] |