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月の蘇る
  3
   山並みを包む空へ、壁にもたれて視線を投げている。
   手元には先程まで虚空を裂いていた刀が投げ出されている。刃は鞘には収まっているが、そこから先の事は忘れられているように。
   その刀の必要性すら忘れてしまいそうな平穏。
「お疲れ様。おやつ作ったよ」
   華耶が縁側に出てきて朔夜の横に皿を置いた。
   中には芋で作った団子。
「…ありがと」
   上の空で一つを手に取り、そのまま口に運ぶ事を忘れてしまう。
   華耶は急かす事なく、共に座り空を眺める。
   本当は何処を見ているのか、分かっているから。
「哥の国ってあっちにあるの?」
   視線の先は山の向こう、見知らぬ土地。
「ううん。方向は真逆だよ、北だから」
「そうなの?こっちは?」
「苴。その向こうは繍」
「ふうん。繍の方が北なのかと思ってた。なんだか暗かったから」
「うん、それは分かる」
   尤も自分は殆ど夜と地下牢しか知らないから、華耶の感じる暗さとは別物だとは思うが。
「早く無くさなきゃな、あんな国」
   呟きに華耶は目を丸くする。
   朔夜は目を逸らして口を噤んだ。
「…でも、ここは明るいね。そう感じるだけかな?朔夜が居るから」
   華耶が無理にでも言葉を継ぐ。
「繍でも俺は居たけど」
「うん。でもこうやっていつも穏やかに一緒に居られる事は無かったから、その違い」
「…まぁ、それは…うん」
   いつもなら耳まで赤くする所だが、迷いと罪悪感が頭を冷やす。
   その胸の内を知ってか知らずか、華耶が駄目押しとばかりに言った。
「ずっと一緒に居ようね?」
   朔夜はいよいよ黙ってしまった。何も答えられなかった。
   ただただ空ばかり見ている。
   華耶は気にする素振りを見せず、自ら作った団子を摘み頬張る。
   それでやっと、朔夜も自分の手にしているものを思い出して口に運んだ。
「龍晶さん、ちゃんと食べれてるかなぁ?」
   一口分を飲み込んで、華耶が問うでもなく呟く。
   朔夜は咀嚼するばかりで何も言わない。
「元気になってると良いんだけどな。哥に行っても大変なんでしょ?」
「さあ…俺もよく知らない」
「そう?でも、そもそも旅ができるような状態でもないのに…」
   慌てて言葉を切る。
   朔夜の所為だと取られたくなかった。
「…大丈夫だよ、今は」
   もう遠くに行ってしまった存在だから。
   俺から離れたから、もう安全だ。
   そう思おうとしている。だが同時に、もう手遅れだとも考えてしまう。
   出逢わなければ。
「そうだよね、お付きの人だって居るし…私なんかが心配しなくても大丈夫だよね」
   華耶は彼女なりの解釈で声音を明るくして返した。
「華耶はどう思った?あいつの事」
「え?」
   突如、思いもしない質問に目を丸くする。
「いや…誤解されやすい奴だし、どうだったかなと思って」
   我儘で身勝手で尊大だと見られても仕方の無い御仁だ。その根底にどうしようもない優しさがあるのだが、敵も多く作れば強い味方も出来得る。
   華耶は殆ど即答した。
「良い人だと思ったよ?」
   さらりと、当たり前の事だがそれがどうかしたのかとばかりに。
「ほんと?」
「うん、だって…」
   華耶は言葉を切ってその根拠を探した。
「とても誠実な人だと思った。それが第一印象かな。最初に謝って下さったの。そんな必要無いのに」
「謝る?」
「記憶の無い朔夜を騙してしまった、その所為でおかしな事になっちゃったんだって事を、隠さずに説明してくれた。あんな身分のお人がだよ?私なんかに頭下げてくれて」
「あいつ、身分なんてちっとも気にしないから」
   言いながら、龍晶の謝罪の中身を考える。
   悪魔が現れたのは自分の所為だと、本気でそう思っているのか。
   だからこそ地下牢に入れられ極限状態となるまで黙っていてくれたのか。お前は悪くないと言い続けて。
   だがその我慢がふっつりと切れたからこそ、彼は別れを選んだ気がした。
   否、それだけではないだろう。
   矢張りこのまま共に居ても、互いに不幸だと判断したのではないか。
   必然の別れだった。
「華耶、あのさ」
   今は自分の事ではない。華耶に言わねばならぬ事がある。
「なに?」
「どのくらい先になるかは分からないけど、この先戔が落ち着いたらさ、行ってやってくれない?あいつの所に」
「…え?」
「あいつは王様になってるから、悪いようにはしないと思う。ずっと、戔って国が存在する限りは」
「…どういう事?」
   朔夜は少し考え、何の誤魔化しも無く答えた。
「どうやったら華耶が幸せに生きていけるかって考えたら、龍晶の力を借りるのが良いんじゃないかって。あいつもきっとそれを望むだろうし。恩を仇で返すような奴じゃないから」
「そこに朔夜は居るの?」
   まっすぐに見て問われる。
   口籠ると、彼女もまた誤魔化しようの無い思いを口にした。
「何処だって良い。朔夜が居るなら」
   彼女の言う事は一貫している。
   それを叶えたいのは同じだ。だけど。
「…うん」
   結局、頷く事しか出来なかった。
   いつか。
   来ないかも知れない、いつか。

   早朝。
   誰にも見つからぬように厩へと向かった。
   ぼんやりとした薄暗がりに霞がかかっている。伸びた青草はたっぷりと露を含んで裾を濡らした。
   ここは本当に梁巴に似ている。故郷もしばしばこのような深い霧に包まれていた。
   こんな霧の朝は華耶と隠れんぼをする。何も無い、だだっ広いだけの原っぱが、いつもの何倍も楽しい場所に変わる。
   このまま見つからないんじゃないかと思ったり。
   心細くなって、長く伸びた草を掴んで振る。玉露が雨のように降ってくる。
   そうするとすぐに、華耶が覗いて「みーつけた」と笑うのだ。
   白い大きな紗幕が天に収まると、日の光が注いでくる。
   蜘蛛の巣に散りばめられた宝玉がきらきらと七色に輝くのを、二人で飽きる事なく眺めて。
   花の蜜を吸いながら家路に着く。また後でね、そう言い合って。
   また。
   いつか。
   それすら言えない今。
   厩に入り、自分の馬の手綱を取る。
   荷を括り付け、自らも乗り、外へ。
   ぶるる、と馬は鼻を鳴らした。
「朔夜」
   紛れたその声を、気の所為だと思おうとした。
   でも、駄目だった。
「朔夜、こんなに早く何処に行くの?」
   もう一度、今度はくっきりと聞こえた声に、振り向かざるを得なかった。
「…何でも無いよ。ただちょっと…出掛けるだけ」
「私に言えない所に?」
   悪戯っぽく華耶は返して、ごめんね、と続けた。
「本当は黙って行かせてあげれば良いんだろうけど…。虫の知らせってやつかな、目が覚めちゃった。朔夜を止めなきゃって気がして」
「…そんな事あるんだ」
   暗殺の経験も多い自分が、華耶に気付かれるような下手な移動をしたとは思えなかったが。
   彼女の勘に負けたのだとすれば仕方ない。
「やり残した事をやりに帰る」
   諦めを込めて朔夜は告げた。
「帰る?」
「繍に」
   帰る場所ではないとは自身も思う。
   だけど敢えてそういう言い方をせねばならなかった。
   悪魔だと自覚せねばならなかったから。でなければ、このまま華耶に止められてしまう。
   繍は悪魔の生まれた場所。悪魔の帰るべき呪われた国。
「ねえ、朔夜」
   華耶は一歩距離を詰めて見上げた。
「この前、朔夜は私に龍晶さんの所に行くように言ったけど…。本当は自分が行きたいんでしょう?」
   靄の掛かる道の向こうを見詰めたまま。
   思わず脳裏に浮かべる姿、声。
   そして、あいつの夢。
   その言葉。
「…俺には行けないから」
   己に向けて言い聞かせる。
「行ったら駄目だ」
「そんな事無い!」
   叫ぶ声に目を見開く。
「お願いだから、そうやって自分で自分を苦しめないで。朔夜が辛そうな顔してる時は私も辛い。だから分かる。あなたが本当に望んでいる事が」
   手綱を握る手を取って、華耶は続けた。
「大丈夫。今の朔夜なら出来るよ。必ず、私の信じる朔夜のまま、龍晶さんを守る事が出来るから」
   じっと、重ねられた手を見。
   確信に満ちた彼女の目を見て。
   「守れない」、その自身に長年突き付けられたあまりに困難な呪縛。
   それが出来ると断言する。
   どちらを信じようか。
   己にこびり付いた後悔と、誰より信頼する彼女の言葉と。
「ねえ、朔夜」
   華耶は尚も続けた。
「今、繍に行ってしまったら、きっと未来は無い。そんな気がする。私達三人の未来が」
「…何故?」
「朔夜はもう帰って来ないつもりなんでしょう?分かるよ」
   面食らいながらも黙って彼女の言葉を聞いた。
「そうしたら…例え龍晶さんが無事に哥に行って帰って来れたとしても、朔夜と仲直りしてくれなきゃ…。私はもう彼と会う事も出来ないし、そのつもりも無い。ううん、きっと朔夜が居ないと龍晶さんも無事では済まないよ。そのくらい大変な事を彼がしているのは私でも分かる。それを達成する為に二人は出会ったんだよ。神様がそう導いたんだよ、絶対に」
「神様が?」
「うん。朔夜は信じないだろうけど、私はそう思う」
   朔夜は空を仰いだ。
   靄に透けて、青空が見えてきた。
「…俺が思うより、もっともっと大きくて透明な、空のような神様は居るのかも」
   そんな大きな存在が、一つ一つの運命と、この世界の運命を、少しずつ操っているのかも知れない。
   多くの偶然によって。
「華耶の言う通りだよ。俺、繍に行って全てを終わらせるつもりだった。だけど、今こうして華耶が俺を止めてくれたのも、神様の思惑なのかも」
   全て信じ切れる神は居ないけれども。
   全て信じ切れる人は居る。
「いつか、三人で楽しく過ごしてみたいしさ」
   華耶が微笑んで頷いた。
   その未来を見たいから。
   賭けではあるけれど。
「行ってみる。そもそもまた出会えるかも分からないけど、出会えたら神様が居るんだって思う事にする」
「うん。きっと…居るよ」
   頷き返して、馬の向きを変えた。
   進み出した背中に、華耶の声が届いた。
「私、祈ってるから。全てが上手くいくように、祈ってるから…!」
   霧が晴れてゆく。
   抜けるような青空が広がってゆく。
   春の木漏れ日が降り注ぐ。
   爽やかな風と共に駆ける朝。
「おーい」
   後ろから呼ぶ声に振り向くと、燕雷が馬で追い掛けてくる。
   流石に馬を止めて、驚いた顔で迎えた。
「なんで」
   追い付いた燕雷は、並足に変えて前へ行く。
   それに釣られるように進む。
「朝っぱらからあんなに賑やかにされたら気になって仕方ないだろ」
   どうやら聞かれていた。
「でも、ま、流石は華耶ちゃんって所だな。あとは俺がお目付け役を引き受けるよ」
「えー…!?」
「満更でも無いんだろ、おい」
   笑って、更に燕雷は朔夜の顔を歪ませる事を口にした。
「燈陰は、『上手くいく訳がない、甘い』なんてぼやいてたけどな、俺は甘くて結構だって叱り飛ばして出てきてやったよ。寧ろ、若い二人の言う事が甘くなくてどうするって話だよ、なぁ!」
   良い大人が二人して立ち聞きしていたという事だ。
「ジジくさ…」
   燕雷の言葉を受けた当然の感想に、齢八十を超えても十分青臭い爺は大仰に顔を顰めた。
「なんか言ったか!?」
「なんでもなーい」
   棒読み。
「まぁ良い。これでおあいこって事にしてやる」
「は?」
   燕雷の言っている事が本気で分からず、まともに見返す。
   何かされたから『おあいこ』なのだろうが、それが何を指すのか。
   燕雷はにやりと笑って何も答えなかった。
   青い空がどこまでも続く。その下を、北へ。
   未来に向けて、駆けてゆく。

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