月の蘇る
2
春の長雨が花を散らす。
闇夜にも地に広がる花弁は白く浮いて見える。
いつかの夢の景色のように。
「殿下、そろそろお休み下さい」
後ろに控える黄浜がおずおずと声を掛ける。
曖昧な返事だけ返して、視線は窓の外に投げたまま。
そしてふと、外の空気の冷たさに気付いて我に返った。
「先に休め。俺も適当に寝るから」
はあ、と困った返答を聞き、苦笑いして視線をくれた。
「病人のお守りも骨が折れるな?分かった、寝るよ」
やっとの事で窓を閉め、充てがわれた部屋へと動く。
もう一人で歩くのに支障は無い。無いが、何度か急に倒れたので放っておいては貰えない。
いずれも貧血や目眩などの軽い症状なので、深刻になる周囲に申し訳ないやら煩わしいやら、複雑な所ではある。
部屋の扉を開け、黄浜に向き合う。
「お前もしっかり休めよ?」
振り回しているのは自分なので、やっぱり申し訳なさが勝る。
「あの、殿下、お言葉ではありますが」
「何だ?」
「矢張り明日の出立、もう少し待たれてもよろしいのではないかと…」
龍晶は壁に体を凭せ掛け、視線を投げて押し黙った。
黄浜は言及せぬが、彼が何を心配しているのかは朧げに分かる。
「…お休み」
それだけ返して扉を閉めた。
明り取りの細い窓しかない、土壁の重苦しい部屋。
唯一と言っても良い家具である寝台に腰を下ろし、暫しぼんやりと虚空を見つめる。
蝋燭の灯りが一つだけ。それも、窓から入ってくる風雨で心許無く揺れる。
ふっと灯りが消えた。
雨音だけの世界。
何も無い。誰も居ない。
自分の存在すら感じられない。
ここに居るという感覚が無い。
視界が揺れ始める。目に映るのは鉄格子。
牢屋。たった一人で。
居る筈の人が居ない。
耳の奥で声がする。
お前は罪人だ。処刑されるのももうすぐだ。
死んで己の愚かさを悔いるが良い。
この罵声に、何の反論が出来ようか。
無に帰して全てを忘れられるなら。
否。
忘れたいものは何だろう。
汚辱に塗れた過去か。今のこの痛みか。
閉ざされると分かった未来か。
この絶望は。
まだ掴んでいたい何かがあるから。
鉄格子を潜って余りにも厳しい世界へと出た、あの時から積み重ねた歳月は確実に存在する。
今そこに戻された訳ではない筈だ。
全てが消された訳では。
だけど。
今この手は何処へ伸ばせば良い?
闇と雨音ばかり。
道は閉ざされている。
朧げでも見えていた光は、この目には捉えられない。
この足元を照らす灯火は何処へ行った?
昏い夜道を照らしていたあの光は。
まだ雨模様の朝。
厚い雲で覆われ、薄暗い大地を無視して出立の準備をする。
『出るのか?』
旦沙那に問われ、何を言わんやとばかりに振り返る。
『嵐でもあるまいし、雨宿りが必要か?』
『何を焦っている?』
龍晶は眉間に皺を寄せ、皮肉混じりの丁寧さで答えた。
『俺の国では今、内乱が起きようとしている。それを起こす俺の仲間の為に、一刻でも早く朗報を持ち帰りたい。雨だろうが何だろうが道を急ぐのは当然だろう?お前達は家路につくだけの旅だから急ぐ必要も無かろうが』
『失恋の痛手のせいだな、苛立っているのは』
心底呆れた顔をして龍晶は宙を仰ぐ。
もう何も言う事は無いと背を向けた。
『その待ち人は来ないのか?』
構わず背中に向けて旦沙那は問うた。
『は?彼女がこんな旅に加わる訳が無いだろう?何を言っている』
口は利かないと決めたのに、真に受けて返してしまう。
旦沙那は笑いながら更に返した。
『お前こそ何を言っている?お前が待っているのはあの銀髪の坊主だろ?』
「馬鹿言うな…どいつもこいつも人の気も知らないで…ったく」
分からないように毒付いたつもりだが、旦沙那もここまで異国人と付き合うと言葉の意味も分かり始めていた。
『お前は人の気どころか、自分の気も分かってないようだがな』
流石に言葉を失って相手を見返す。
『誰にも分かっている。お前は今、片翼をもがれた鳥のようだ』
『何処が。俺はやるべき事をやっている』
『心ここにあらずで全く前が見えていないまま闇雲に進んでいるだけだ』
『そんな事…』
否定しようとした口を閉じ、黙って荷物を持ち上げ、旦沙那の横をすり抜けた。
背中を向け、吐き捨てる。
『この状況で、先の事なんか考えられるとでも?』
そのまま、そこを立ち去った。
雨の中外へ出て、厩へと向かう。
全身へ打ち付ける雨粒も気にせず、厩の前にふっと立ち止まって。
ああ、やっぱりあの時と同じか、と。
昨晩の夢現に感じた過去の続きが、今目の前にある。
牢を出され、行く場所も無く、同じく居場所を無くしていた祥朗と、城という狭くも途方も無い世界を彷徨って。
自分達を受け入れてくれる場所なんか無くて、辿り着いた世界の端が厩だった。
また怒鳴られ、殴られ、追い出されるのを覚悟して忍び込む。一時でも安らぎを得たくて。
そこに、幸運にも佐亥が居たから今まだ息をしていられる。本当にそう思う。
厩の中へと足を踏み入れる。
懐かしい匂い。これが自分にとって何より心休まる匂い。
馬房から首を出す馬達がこちらを向く。誰が来たのかとばかりに。
あの時も、馬の大きさに驚きながらも、不思議と怖くはなかった。
蹴られていればそれこそ死んでいてもおかしくなかったが、何故か馬達は自分達を守ってくれると、そんな声無き声を聞いたような気がした。
馬の傍らに眠る二人の子供を見つけ、佐亥はさぞや肝をつぶした事だろう。
そこから全ては始まり、動いていった。
そして繋がる、今。
玄龍と同じ黒馬。
その大きな瞳に映る自分。
生きている。沢山の手に救われて。
それは全て、今この時の為に。
彼らの努力と犠牲を無駄にしたまま終われない。もう時間は限られている。
死ぬ前に、成すべきを成さねば。
「殿下」
背後から黄浜の声に呼ばれて振り返る。
「行くぞ。皆に告げてくれ。明日には国境を越える」
有無を言わせぬ声音だった。
即刻、黄浜は踵を返す。
旅の先導者に消えかけていた目の光が、戻っていると見えたから。
お前はこれから何がしたいか、と問われて。
分からない、そうぽつりと返す事しか出来なかった。
そんな事、考えた事も無いし、考えさせて貰える機会も与えられなかった。
これまで誰かに命じられるままに生きてきただけだから。
その誰かは、燈陰であり、桓梠であり。
「皓照は?」
「は?」
「何か言って来ないの?」
驚きと同時に呆れた顔で燕雷に見下ろされる。
その反応が朔夜にはよく分からない。
桓梠から離れて以来、自分を動かすのは皓照であり、このまま彼に放っておかれるとは思えない。
何せ、この身の内にある危険を彼は熟知し、消そうとしているのだから。
「何か言ってきたとしても、知った事じゃないだろ。どうして奴の掌にわざわざ乗ってやらなきゃならない」
「その掌は、俺たちごと世界を握ってるかも知れないよ?」
燕雷は眉間に皺を寄せて、鼻から息を吐いた。
そんな馬鹿な事は無い、そう信じてはいるが自分が近くに居過ぎたが為に見えていないだけかも知れない、そんな表情。
皓照がどんな人物かは、分かっているつもりだ。
涼しい顔をして、数多の運命を掌で転がす。
その運命が人一人のものか、一つの国なのか、それとも世界そのものなのか。
どこまで可能なのか、その見方はそれぞれだという事だ。
「皓照の事はこの際忘れろ。お前がどうしたいか、だ」
あの男に運命を握られているなんて考えたくもない燕雷は己と相手の思考を遮った。
要は、朔夜の意思を確認したいだけだ。
「知らないよ…分からないって。そんな事」
「自分の事だろうが」
「燕雷には俺が何なのか判るの?」
問いの意味が掴めず面喰らう。朔夜は続けた。
「自分の事って…俺は自分が自分だとも言えないんだよ?ここに居るのが人としての俺なのか、それとも悪魔としての月なのか、自分にも判別出来ないのに…。俺が望む事は、誰かを傷付け何かを壊す事になるかも知れない、それでも問えるのか?俺に、何がしたいかなんて」
「…そんなの…」
「俺は化物だよ、燕雷。否定する必要無い。今お前はそういう目で俺を見てる」
流石に何も言えなかった。
本心は、そういう事だ。
戦で見た姿に恐れをなして、何処か遠くに行って欲しいと、そう願っているだけだ。
それを偽善で包んで問うている。
ここ以外の、何処かに行ってくれないか、と。
「…別に悪いことじゃないよ。それが普通だ。みんなそうなんだから」
朔夜はそう言って顔を背けた。
今までいくつもの『化物を見る目』に晒されてきた。それでも尚、見られる方は普通では居られない。当たり前の事だ。
その無言の侮蔑に、ずっと口を噤んで耐え忍んでいる。
「…済まん」
意味の無い謝罪だとは思った。朔夜は横を向いたまま、小さく頷いた。
「どっか、行かなきゃな」
遠くに視線を投げて朔夜はぽつりと言った。
「俺の中の化物が消えるまで、ここには帰れないよな?それは…分かってる…」
「そんな事は無い。居たいのなら居れば良い。お前の自由だ」
「自由なんて無いよ」
厳しい声音で叩き付けるように。
「この体で生まれた時から、自由なんて無い。この体が消えるまで、ずっと」
何も言えず立ち尽くしている燕雷に向いて、ふっと微笑む。
「でも、俺にとってはそれが普通だから。もっと苦しい思いをしなくて済むように、何とかする。そうやって生きてくしか無いから」
どんな言葉も無意味だと知って、燕雷は開きかけた口を閉じた。
彼の生き方に、想像など追い付かない。そこには自分の経験とは全く懸け離れた辛苦がある。
傷を広げないように、傷を増やしてゆく。
そうするより無い。
本当に?
「なぁ、朔」
訊くのも怖い。だが、真実が知りたい。
「戦の時…人を殺していたあれは、お前自身なのか?」
感情を伺わせない目が向けられる。戦の時の目、そのままに。
「お前じゃないのなら危険もある。だが、お前自身の意思でやっていた事なら…俺はお前を信じるよ。ここに居ても大丈夫だと」
「嘘だ。俺ならその方が信じられないよ。お前の目の前に居るのは悪魔だと証明してる」
「…そうなのか?」
ふっと目を逸らす。
遠くを見て、ぽつりと別の答えを出した。
「繍に行くよ」
「え?」
「悪魔の居場所はあの国だ」
己の立つべき戦場は繍にある。
「蹴りつけないと終われないだろ」
それ以上の問いを留めるように、朔夜は立ち上がる。
視線の先に、畑仕事から戻ってくる燈陰と作物を抱えて笑う華耶の姿があった。
平和な一日の日暮れ。
「終わらせて…死にたいって…そういう意味なのか?」
逃げるように部屋を出、後ろ手に扉を閉められた。
その間際、頷いたように見えた。
暫し呆然とその扉を見て。
はっと我に返る。追い詰めているのは自分だと。
「燕雷さん、ほら、お芋、こんなに取れましたよ!」
縁側まで帰って来た華耶の声に、やっと振り返る。
「…どうかしました?」
顔が余りに強張っていた。いつものように笑う事など出来なかった。
「何かあったら俺の所為だ。俺を恨んでくれ」
ことん、と華耶の腕の中から糧が零れ落ちた。
その音だけが妙に重く、鈍く響いた。
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