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月の蘇る
  8
   雪原に足跡を付け、地下牢へと向かう。
   昨日から雪は止んでいる。だが自分達のもの以外に人の通った痕跡は無い。
「食料は与えられてすらいないのか」
   体を支える燕雷に龍晶は低く呟く。
「やっても触れもしないそうだ。ならば危険を冒してまで与える必要は無い…そんなもんだろう。誰でも命は惜しい」
   誰も責められない、と燕雷は言った。
   釈然としない表情で龍晶は黙った。
   前方では華耶、そして彼女を先導する溟琴が地下牢に繋がる階段へ足を踏み入れようとしている。
「まずは養生させなきゃな。お前と仲良く寝ててくれれば治りも早いだろうよ」
   燕雷が軽口を叩く。
   龍晶は呆れた視線をちらりと投げ、溜息にして吐き出した。
「早く治して戦地に行けって…そう言えるのか、お前は」
「俺やお前が言わなくても感じ取ると思うよ」
   そういうものか、と龍晶はまた溜息にして吐き出す。
   吐いた息は白い靄となって消えていった。
   先行する二人に続いて階段を降りる。
   降りながら、嫌な記憶が脳裡に渦巻きだす。
   古城の地下牢。
   また、だ。
   また同じ事を繰り返す。
   あの悪夢を。
   ああ、と小さく漏らして龍晶は足を止めた。
「どうした」
   体を支える身としては、急に止まられると危険だ。
   顔を顰めて燕雷が横を見る。
「…俺はここで待つよ」
   虚ろな目で前方を見ながら龍晶は言った。
   その視線の先で、華耶が声を上げる。
   朔夜、と名を呼び、鉄の柵を掴んで。
   その横で、溟琴が鍵をこちらに差し出している。開けるか否かはあくまで龍晶或いは燕雷の責任だと言いたいのだろう。
   朔夜は牢の中に居る筈だが、奥の方に居る所為でよく見えない。闇と同化している。
「じゃあ」
   階段に座り込んだ龍晶に一言言い置いて、燕雷は一人階段を降りていった。
   溟琴から鍵を受け取る。
   朔夜の姿を探して牢の中に目を移せば、確かに奥の壁に凭れる毛布の塊がある。あの中だろう。
   動きは無い。危険かも知れない。
   錠を手に取って、一応龍晶に目配せした。
   相変わらず虚ろな目付きだが、目は合った。
   判断は投げているようだった。好きにしろと言いたげに。
   ならば、と燕雷は鍵を差し込む。
   否応無い。まずは朔夜を救助せねばならない。戦云々は後の問題だ。
   かちり、と手元で音がした。
   錠が外れる。逸る気持ちで扉を開けた。
「朔夜!」
   開いた扉に華耶が飛び込む。
   毛布を捲っていって。
   銀髪が見えた。
   続いて牢にも積もる雪ほどに白い顔が。
   華耶の両手がその顔を包む。
「朔夜…お願い…!」
   必死の祈りにも似た呟き、それに応えるように。
   紫に変色した唇が、最愛の人の名をなぞった。
「華…耶…」
   生きている。
   この極限で、己を保ち続けて。
   華耶は朔夜を抱き締めた。川に溺れたあの日のように、自分の体温を分かち合うように。
「朔夜…よく、我慢したね…。もう大丈夫だよ…!」
   二人の絆の深さに胸を撫で下ろしつつ、牢の外から様子を見守っていた燕雷は。
   ふっと階段に目をやって、あるべき姿の無い事に目を見開いた。
「龍晶?」
   一人で動けない筈だが、行けるとしたら外へ戻ったとしか考えられない。
   慌てて階段を駆け上がる。外に顔を出せば、その姿はすぐに見つかった。
   雪原に倒れていた。階段は壁伝いに登れても、支えの無い場所では転ぶしかなかったのだろう。
「おいおい、大丈夫か」
   呆れ混じりに言いながら屈んで様子を伺う。
   横向きに寝る形で雪の中に埋もれながら、視線はじっと一点を見つめていた。焦点も合わないであろう近さの真白の壁を。
「おい、また熱を上げる気か」
   自ら動く気配が無い。仕方なしに燕雷は力任せに雪の中から体を引き上げ、強制的に歩かせて手近な建物へと入った。
   青い顔はしているが、震える事すら忘れているような。
   ふう、と息を吐き、通りかかった下男に頼んで近くの部屋を暖めて貰い、そこを使わせて貰うことにした。
   燃える炉の前に龍晶を座らせて、持って来て貰った毛布を掛ける。
   灰色がちな瞳に炎が映る。
   燕雷はもう乗ってしまった船だと諦めて、彼が自ら口を開くのを待った。
   そうやって長い時間待って、ようやく掠れた声が言葉を形作った。
「あいつも、国も、何もかも…なるようになれば良い。どうせ俺には関係ない」
   流石に驚いて燕雷は見返す。あまりにこれまでの言動とかけ離れている。
   相変わらず視線は炎に注がれている。表情らしきものは無い。
   その本意を問いあぐねている間に、自ら理由を口にした。
「どうせもう…死ぬんだから」
   否定しようと燕雷は口を開こうとしたが、何を言って否定すべきか迷ってしまった。
   相手はその告知を受けたばかりだ。いつか近い将来、その傷は死に至る、と。
   ずっと死という危険と隣り合わせでここまで来た。それを何とか回避しながら、それでも未来への展望は開けていると信じて行動してきた。
   実はその未来は無いと、初めてはっきりと言葉にされたのだ。
   あまりにも一度に色々な事が起こり過ぎた。そして彼の負うものは重過ぎる。
   その結果、感情は置き去りにされていた。何よりも向かい合うべきものが。
   何がきっかけか分からぬが、それが今どっと襲いかかってきたのだろう。
   自棄になるのは仕方ない。ましてや、まだ十代の若者だ。
   普通なら有り余る時間をどう輝かせるか、まだ計算していても良い年頃だ。
「決まった事じゃないだろう?可能性の問題だ。治るかも知れないし」
   やっと燕雷は慰めを言えた。
   陳腐に響くだろうが、こうとしか言えなかった。
   膝を抱える腕に鼻から下を隠して、目だけは炎を睨み据えて。
   静かに頬に涙が伝う。
   腕の中に吸い込まれて。
「もういい…」
   怒り、悔しさ、絶望。
   その果ての、諦め。
   何も得られない。この残り時間では。
   探すべき人が見つからないまま。
   燕雷は暫く並んで無言のまま、龍晶に倣って炎を見やっていたが、痺れを切らせて立ち上がった。
   朔夜もどうなったか気になるし、溟琴がまだ居るのか、今後どう動くのかも見極めておきたい。
   立ち上がってもう一度その小さく丸まる背中を見下ろして。
   気付いた。こいつは孤独なんだ、と。
   孤独故に誰かを欲して、それを朔夜に求め、そして華耶に憧れた。だが、華耶が朔夜に抱き付く様を見るのは辛かったのだろう。
   自分には絶対に手に入らないと、突き付けられたから。
   それは別に華耶が、という話ではなく、普通の若者ならば今後出逢っていくであろう誰かーーこの一人という特別な誰かが、自分には現れ得ないのではないかと感じたのだろう。
   否、現れたとしてももう手遅れだと考えてしまった。彼に残された時間も追い詰められた立場もそれを許してはくれない。
   背中は余りにも寒そうで痛々しかった。
「龍晶」
   何か言わずにはおれなかった。
「長屋に帰ろうか」
   ほんの一時でも、自分の立場を忘れた方が良い。それには城に留まるより、庶民的な長屋の方が良いだろう。
   こくりと、腕の中の頭が頷いた。

   いつかと同じように、目覚めると華耶がそこに居た。
   それがいつの事だったか考えて、思い出す事が出来た。戔に行く前、繍で城から落ちて二年間寝た後の事。
   まだこの辺りの記憶は悪魔に奪われてはいない。尤も、悪魔を他人として考えてはならないのかも知れないが。
   目が合って微笑む。
   まだ、自分は自分としてここに居る。
   朔夜という名で。
「気分はどう?」
   華耶に訊かれて、夢見心地で口を開いた。
「すっごく良いよ」
「そりゃ目覚めたそばから華耶ちゃんが居るからな」
   横槍を入れられて初めてそこに燕雷も居る事に気付いた。
「おま…居るなら居るって言ってくれよ」
「失敬な。華耶ちゃんしか目に入れないお前が悪いんだ」
「存在感が……いや、何でもない」
   また変にいじけられても困る。
   その辺を察してすぐに華耶が話題転換してくれた。
「痛い所は?無い?」
「うん。無い」
「お前、華耶ちゃんに感謝しろよ?酷い凍傷だったのを、二晩かけて治してくれたんだぞ?」
   燕雷の言葉に華耶は掌を振った。
「私が治した訳じゃないですよ。治してくれたのはお月様で、私は朔夜の隣に居ただけ」
「あれは隣とは言わないよ華耶ちゃん。あれは立派な膝枕って言うものだよ」
「やだ、そんな風に言わないで下さいよ燕雷さん」
   まだ華耶は笑いながらいなしているが。
   二人は朔夜の顔を見てまた吹き出した。
   耳まで赤くなっている。
「おま…いい加減、お子様から成長しろよ」
   腹を抱えながら燕雷が言った。
「いいんですよ、朔夜はこれで。このくらいが可愛いから」
   華耶も口元を覆いながら堪え切れないといった様子で笑っている。
   朔夜は一人、怒っていいのか照れれば良いのかどうして良いのか分からず唸っている。
「ったく、お前はほんっと幸せ者だな。誰かさんに分けてやりてぇ」
「お前にはぜっっったい分けてやらないからな!!」
   意味も分からず噛み付いているが、力の抜けた呆れた笑いで返された。
「お陰様で俺は見てるだけでお腹いっぱいだよ。じゃなくてさ…居るだろ、失意の王子様が」
   はっと朔夜の顔色が変わった。
   牢の中で別れて以来、その姿を見ていない。
「あいつは…無事?」
「だいぶ弱ってはいるけど、喋れる程度に生きてはいるよ」
   まだ自力で動くのは難しい。
「今どこ?」
   問いに、燕雷は開け放たれた戸口から見える向かいの長屋を指した。
「向こうで戔や哥の連中と過ごしてる。どうも通訳が一人居ないと連中も不便らしいしな、賑やかな方があいつも気が紛れるみたいだ」
「…ああ…そっか…」
   何とも気の抜けた応答となった。
   気を紛らわさねばいけない、その要因。それは恐らく自分に起因している。
「ま、しっかり休めよ」
   燕雷はそれだけ言い残して部屋を出た。
   華耶と二人きりになった空間。
「あいつ、ちゃんと食べてる?」
   朔夜は華耶に訊いた。
   何よりもそれが気にかかっていた。牢の中では何かを喉に通す事も辛そうだった。
   炊事をしている彼女なら知っているだろうと思った。少しでも安心出来る情報が欲しい。
「お粥がやっと。他の物は要らないって言われるの。あんまりまだ食べられないみたい」
「そっか…。ありがと、俺もあいつも色々と世話してくれて」
「良いんだよ、それが私の役目だもの」
「役目?」
「朔夜はたくさんの人を助ける為に戦ってる。その朔夜にご飯を食べさせて元気にするのが、私の役目。せめてここに居る時だけでもね」
   にこりと華耶は微笑んで、立ち上がった。
「お粥、持ってくるね」
   うん、と気の抜けた返事をした時には、華耶はもう外へ出ていた。
   自分が戦う事の意味をそういう風に取られているのかと、それが意外だった。
   寧ろそれは龍晶に言える事で、自分は違う。
   たくさんの人を救おうと奔走する友を、傷付けてしまった。
   そう考えれば、華耶の言ってくれた事の真逆に居るのが自分だ。
   程なくして華耶が碗を手に帰ってきた。
「はい。おかわりもあるからね」
   受け取ったが、箸を付けられない。
   じっと碗の中に目を落とす。
   華耶もまた、自分が今し方入ってきた扉の向こうを見ていた。
   そこには、龍晶の居る長屋。
「…ねえ」
   静けさの果てに、二人が同時に同じ言葉で声を掛けた。
   きょとんと目を見合わせて。
「あ…ごめん。俺何でも無いから華耶、言って」
   言いかけた事を言う勇気が挫けた。
   華耶もまた、言うべきか否かを暫く逡巡して。
  本当に聞こうとした事は置いておいて、別の事を口にした。
「ごめん、本当は私も会ってないから分からない。多分、嫌われちゃった」
「へ?誰が?誰に?」
   華耶は長屋の方を指して、悲しそうに微笑んだ。
「きっと私、たくさんお粗相してきたから呆れられちゃったんだよ。王子様って分かっても、朔夜の友達だからって失礼な態度を続けてたから」
「そんなこと、無いと思うけどなぁ…」
   言いながら声は萎む。
   本当の原因は華耶の所為じゃない。分かっている。
「ご飯は黄浜さんが渡してくれてるんだけど、直接は会えないって言われて。お加減が良くないからって理由だったけど」
   ならばこちらの長屋で静かに療養した方が良いだろうに、龍晶はそれを選ばない。
   朔夜は言おうとして辞めた事を、矢張り舌に乗せねばならなくなった。
「華耶、聞いてくれる?」
   大きな目で見て頷く。
   何の事か、薄々彼女も察している。
「それは華耶が嫌われたからじゃないんだ。俺が…。あいつが俺に会いたくないからなんだ」
   彼女を落胆させるのは、気が進まないが。
「俺はあいつを傷付けた。それも、一歩間違えたら死んでいたかも知れないような傷で。でも俺はそれを忘れていた。本当に最悪なんだけど…。それでもあいつは俺を友として付き合い続けてくれて、ここまで連れて来てくれたんだ」
「龍晶さん、事故だって言ってた。王様の前で。自分の所為なんだって」
   朔夜は首を横に振った。
「絶対に俺の所為だよ。俺が悪魔だから起こった事だ。あいつに非は無い」
「朔夜は悪魔なんかじゃない」
「…ありがと、華耶」
   俯いて告げて、でも、と続けた。
「俺は自分が何をしたか、記憶は無いけど分かる。牢の中で意識失いかけた龍晶は俺を見て酷く怯えてた。それが本当なんだ。今まであいつの優しさで隠してくれてたけど、本音はそういう事なんだ。俺は自分を殺そうとした悪魔だって…近付きたくもない存在だって…」
   当たり前だよ、と小さく付け足す。
   自嘲する余裕さえ無かった。泣きたかった。
   涙を落とさないように堪えるのが精一杯で。
   泣く資格も無いとは思う。全て自業自得だ。許されないのは自分だ。
   それでも、唯一の友を失う、それがこんなにも辛い。
   華耶はじっと向かいの長屋を見詰めていた。
   やがて、決意したように視線を戻し、両手で朔夜の頬を包んだ。
「私、確かめてくる」
   え、と朔夜は顔を上げ華耶の顔を視界に入れる。
「龍晶さんが朔夜をどう思っているのか、直接会って聞いてみる」
   情けない顔で朔夜は首を横に振った。
   それは、決定打を出されるだけだ。それが怖い。
「大丈夫だよ。きっと私たち何か誤解してる」
   立ち上がって振り向き、華耶は優しく微笑んで言った。
「でも、何があっても、私は絶対に朔夜の味方で居続けるからね」
   ありがとうも何も返せないまま、華耶を見送った。
   どうして。
   どうしてこんなにも信じてくれるのだろう。
   信じられるべき存在ではないと知っている、その分申し訳無さが先立つ。
   俺は皆を不幸にする悪魔なのに。
   食べられない粥を脇に置き、布団に再び潜り込む。
   我慢しきれず泣いた。誰にも知られはしないのに、それすら罪悪感で胸が切り裂かれそうだった。


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