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月の蘇る
  5
   冷たい雨が天井から浸み出して床に水溜りを広げてゆく。
   それを避けるように二人、小さく丸くなっている。
   横たわる龍晶には何重にも毛布で包んだ。それでも地下牢の冷え込みは厳しく、膝を抱えて震えている。
   朔夜は毛布一枚を羽織って鉄格子に凭れ掛かり座っている。
   出入り口を見るともなく見ているが、その目に最早光は無かった。
   期待する事にも疲れてしまった。待てど待てど、過ぎ行く時間に裏切りを告げられるだけ。
   いっそ戔に連れて行かれた方が良いと思い始めた。あの国ならば好きなだけ暴れられる。龍晶を救い出す為に多少の無茶をしても身近な人を犠牲にする事は無い。
   言い換えれば、どれだけ人を殺しても良い、そう考えている事に違いは無い。
   龍晶は怒るだろうなと思う。否、龍晶がどう思うかより、こんな考えは人として間違っていると自分自身そう思う。
   だけど、そんな良心も偽善も最早どうでも良いではないか。
   生きて欲しい人を生かしたいと、そう願うだけだ。その為なら何でもする、そこに迷いなど在ろうものか。
   矢張りそれでも駄目だろうか。
   かけがえのない味方を救う為に敵を殺す、戦さ場ならば当たり前の理論だ。それ以外の理論など知った事では無い。
   ずっと俺を戦さ場にやったお前達が悪いんだろう?
   俺に他の生き方をさせなかったお前達が。
   当然の報いの筈だ。誰も彼も地獄に堕ちれば良い。
   深い溜息。
   今悪魔と化した所で、犠牲にしてしまうのは龍晶その人だ。
   保たねば。自分自身を。理性を。憎しみに堕ちないように。
   世界がどんなに醜かろうと、万人に裏切られても、この良心を抱え続けねば壊れてしまうのは自分なのだ。
   己の全てを悪魔にやってしまいたくは無い。
   自分は悪魔に違いないが、本当は何処かでそうはなりたくないと抗い続けている。
   どんなに傷付き果て、深い悲しみに襲われようとも、それらをも手放してしまってはならない。
   その感情が己を人間として繋ぎ止めるのだから。
「…龍晶」
   手を伸ばし、手を握る。
   生きているとは思えぬ程冷たい。
   雨音はいつしか止んでいた。
   息の詰まるような静けさ。
   水溜りに薄く氷が張り始めている。
   肌を切るような風と共に、白いものが舞い込んできた。
   故郷を包み、また閉ざしてきた、雪。
   梁巴を離れてから目にする事が無かった。繍は気温が高く雪が降る事は無い。
   寒い筈だ、と思い直す。寒さは病人の体力を容赦なく奪ってゆく。
   己が被っていた毛布も龍晶の上に掛けた。遮る物の無い冷たい風に身震いする。
   このまま俺たちはここで死ぬのだろうか。
   今まで幾度も死にかけてきたのに、なんて地味な最期だろうと自嘲した。誰にも顧みられる事もなく、静かに白骨と化してゆくのだ。
   寒い。震えが止まらなくなって、龍晶の横に寝転ぶ。
   少しだけ毛布を拝借して、互いの体温を逃さぬように。
   苦しげな寝息を耳元で聞く。まだ息はある。
   いっそ止めてやった方が優しさだろうかとふっと考え、出来もしない癖にと己に呆れた。
   風が轟々と吹き荒れる。雪が目前まで舞い込み、すっと溶けて消える。
   掴みとれる希望は最早全て消えた。終わりの無い絶望に、ただただ震えている。

   風の音に混じる足音で目を開けた。
   起き上がり、人気のある方を睨む。
   鉄格子の外に居る誰しもが敵だった。
   現れたのは、兵ではない。官僚のようだが、そんな身分の者がこんな所に来るのだろうかと疑問に思う。
   身なりは良かった。地位の低い文官という風でもない。
   尤も相手が何者だろうがどうでも良い。問題は自分達を脅かすか否かだ。
   問う気にもなれず、相手の動きに合わせ睨む目を動かす。
   男は顔色も変えず、事務的に口を開いた。
「鴇岷様の命により、戔の殿下をお預かりする。これより兵が牢に入るが、抵抗するつもりならばこのまま去る。どうする?」
「それはお前達がこいつをどう扱うかにもよる」
「鴇岷様に約束を取り付けたのはそっちだろう。我々が信じられぬと言うならそれで良い。お前は仲間を見殺しにする事になる」
   信じられる筈が無いだろう、と。
   定かではない理由でこんな所に閉じ込めてろくに説明もしない、しかもこのままでは凍死するか処刑されるかどちらか。
   こんな状況を一方的に作り出しておいて、信じろなどとは世迷言も良い所だ。
   それでも朔夜は重々分かっている。
   抵抗など出来よう筈が無かった。してはならない。龍晶を生に近付けようと思うのならば。
   ここにはもう置いておけない。本当に死んでしまう。
   少しでも可能性に賭けるならば、ここから連れ出させた方が良い。
「…王子様は?」
   少しでも信じる材料が欲しかった。
   あの幼い王子は嘘は付かない気がする。
「鴇岷様にこんな危険な所へおいで頂く訳にはなるまい。城でお待ちだ」
「そっか」
   案外大事にされているんだな、と見当外れな事を思った。
   結局、何の判断材料にもならない。
「良いよ、連れて行ってくれ。俺は何の抵抗もしないと約束する」
   ただし、と朔夜は剣呑さを増して付け加えた。
「こいつに何かあれば俺は容赦しない。悪魔の力でお前達もこの国も滅ぼし尽くしてやる」
「心得た。そうはさせまい」
   男は兵に合図し、牢の錠を開けさせた。
   三人の兵が入り、龍晶を運んでゆく。
   朔夜はそれを鋭い眼で見ていた。ただし指一本動かさなかった。
   再び、錠は閉まる。
   一行は去った。
   鉄格子の内側は独りきりとなった。
   冷たい膝を抱える。
   雪のひとひらが舞い降り、溶ける。
   またひとひら。いつしか溶ける事も無くなって。
   真白になる。白に包まれる心も、空っぽだった。


   生きなさい、と。
   そう言われて出された鉄格子の向こうの世界は地獄だった。
   出たくは無かった。離れたくなかった。でも、嫌だと泣く事は許されないのも分かっていた。自分はこの国を継がねばならぬのだから。
   そう、それだけの理由であそこから出てしまった。
   そんな実現もしない絵空事で、彼女を見殺しにし、終わりの無い苦しみを味わい続けている。
   この牢の中で終わらせれば良かったものを。
   鉄格子の中は白い雪に覆われていた。
   そこに横たわる体も、白く染められている。
   名前を呼べない。これは。
   ここに死んでいるのは、誰だ?
   白いのは雪ではない。
   肉が全て削げ落ちた、白い、骨ーー
「ーーっ!」
   叫ぶ事も出来ずに噎せた。
   咳をしながら目を開く。明るい光に刺されてぎゅっと一度目を閉じた。
   もう一度ゆるゆると瞼を開ける。
   牢の中ではない。
   明るい部屋だ。柔らかな寝具の中に寝かされている。
   全て夢だった?
   一体何処からが?
   母と共に入れられたあの牢も夢であれば。
   全てが。
「龍晶さん」
   優しい声に首を傾ける。
「良かった。気がついて」
   華耶だった。
   彼女の名前が分かるのは、全てが夢では無かった事の証だ。
   そう分かっているのに、まだ頭はそれを受け入れられなくて、ぼうっと彼女を見詰める事しか出来なかった。
「大丈夫ですか?…あ、そんな訳ありませんよね。目が覚めたら奇跡だってお医者様も言ってたのに」
   ごめんなさい、と彼女は一人笑って、水の入った容器を差し出した。
「でも良かった、本当に。これで朔夜にも顔向け出来るもの」
   容器を受け取ろうとして、顔を顰めた。
   まだ体内の痛みは治っていない。
   傷は、己への罰として、永く残ってゆくのだろう。
   それでも堪えて体を起こし、水を一口飲んで口を開いた。
「朔夜は?」
   途端に華耶の顔が曇った。
「まだ、牢です」
   言いながら窓へと目をやる。
   雨戸の隙間から白い大地が見えた。
   雪が降り続く。
「一人で、寒い地下で…辛いだろうな」
   独り言のように華耶は呟いた。
   俺が共に入っていれば良かったのだろうかとも思ったが、どうせ足手まといになるだけだと思い直した。自分だけここに居るのも、朔夜のそういう判断があったからだろう。
「ここは?」
   そもそも、ここは何処なのか。
「お城の中です。こちらの王子様の計らいで、ここに」
「王子?」
「まだ小さな王子様です。龍晶さんと仲良くなりたいと仰せになって、病を治して欲しいと頼まれました。それで…燕雷さんからくれぐれも気をつけてくれと言われているんですけど」
   龍晶は頷いて先を促した。
   疑問点は多いが、それを問う気力が無い。
「私と燕雷さん、それとその王子様以外の人には、目覚めている所を見せてはいけないそうです。目覚めたと分かると、戔へ返されてしまうと…そう言われました」
「ああ…」
   そうだろうな、と頭の中で返した。
   ここに居るのは、死にかけている状態では護送出来ないというだけの理由からだ。
「燕雷さんが何とか上の人たちと話をしようと頑張っています。それが出来るまでの辛抱です」
   小さく頷いて、体を横たえる。
   体を起こし続けるのは辛かった。荒い呼吸を繰り返し、その合間で華耶に問うた。
「朔夜に…会ったか?」
「…いいえ」
   硬い声音で華耶は返した。
   龍晶もそれ以上問う言葉が無かった。
   朔夜の安否は自分も知りたいが、それ以上に華耶の方が切実だろう。
   だが彼女は信じているのだろう。
   朔夜は必ず帰ってくる、と。
   今まで何時もその事を信じ、朔夜もそれに応え、そして彼らの今があるのだ。
   何人たりとも崩せない絆がそこにある。
   自分など、その間に入り込める筈も無い。
「俺が戔に帰れば済む話だよな…」
   それで二人の未来が守られるのなら、自分は邪魔者でしかない。
「そんな事…駄目ですよ!朔夜は喜ばないですから」
「でもあいつは無関係だとこの国の人々が理解できれば、解放され自由の身だ。あなたや燕雷の願いはそれだろう?」
「朔夜も龍晶さんも、二人が無事でないと意味がありません」
   華耶は強く言い切って、龍晶の手を取り両手に包んだ。
「弱気になんてならないで。必ず良いようになります」
   その手の温かさが信じられなくて、龍晶は言葉を失った。
   この温もりを感じる日が来るとは、思っていなかったから。
   いきなさい、と母に離された日から。
「…頼み事をしても?」
   早くその手を離して欲しくて、龍晶は冷静を装って口を開いた。
   勘違いしたくなかった。この思いを自分の中で確固たるものにしては、大切なものが壊れてしまう。
「何ですか?」
   華耶は何も感じていない様で、手を離す代わりに身を乗り出して聞き返した。
「俺の荷の中に皓照からの書状がある。灌王宛てだ。それを探し出して貰えまいか?それが王や重臣に届けば、俺達がただの罪人ではない証明になる」
   出立前に皓照から受け取った、哥王朝への協力を呼びかけるよう要請する書状。
   どんなに襲撃を受けても、これだけはと思い大事にここまで持って来た。
   その一枚で、世界の形が変わると信じて。
   だが龍晶は、皓照が一国に対してどこまでの力を持つのかまだ知らないし信じてもいない。少なくとも一つの証拠にはなるだろうとは考えているが。
   一方で華耶はその重要性を彼以上に察した。
「分かりました。すぐに探してみます」
   一行の荷は長屋に置いたままだ。それを探すのは容易い。
   華耶は即刻部屋を出て行った。
   取り残された部屋で一人、上手くいかない思考を続ける。
   不安と恐怖で押し潰されそうだった。
   現実の事態以上に不気味に膨らみ続ける恐怖だ。
   あの夢の続き。
   牢の中に残した母の、あの姿。
   否、母はまだ生きている。そう信じようとしても。
   このまま、同じく牢の中に残してしまった朔夜とも、二度と再会の叶う事が無くなるのではないか。
   このまま後悔に押し潰されながら自分だけ生きてゆくーーそれがまた続いていくのか。
   もう嫌だ、と声にせず呟いた。
   もう誰も失いたくない。
   それが如何に難しいのかも、心に突き刺さりそうな程理解している。
   誰かを失わずには済まないこの反乱を決意したのは自分だ。
   扉が軋む音を背中で聞いた。
   起きている所を見られるなという忠告もあったが、それ以前に身体を動かす気にはなれなかった。
   ぼんやりと枕元を見つめていると、背中に近寄ってくる存在がある。
「正気か?」
   問われた声に、積もり積もった不信と怒りが反応した。
   覗き込んできた胸ぐらを掴んで、震える唇で罵っていた。
「何を今頃のうのうと!貴様の所為で…!」
   表情の動かない燕雷の顔を確認して、力が抜けた。
   体力的な倦怠感が優った為だが、敵か味方かも分からない相手に使う体力が惜しかった。
   そんな事より、朔夜救出の為に温存せねばならない。誰も頼れないのだから。
「愚問だったか。悪かった」
   正気を確かめねばならぬ程追い詰められているのは分かっている。
   ただ、龍晶本人にも自信を持って頷ける問題ではない。
   狂気は常に抱えている。
「…監視が厳しくてな。俺は牢に近寄れない」
   ぽつりと燕雷は言い訳した。
「皓照の信を失うとはこういう事だ。この国は奴の神経が張り巡らされている。皆あいつの意で動く…」
「そんな馬鹿な事があるか」
   常識で考えればそんな事は有り得ない。
   一つの国が、王でもない全くの余所者の意思で固められるなど。
「馬鹿かも知れんが、それが事実だ。話しただろう?五十年前、奴がこの国を創り出したも同然だからな」
   あの社で聞いた燕雷の回顧を思い出し、龍晶は口を閉ざして考えた。
   燕雷も朔夜も、勿論皓照も。己の常識を超えた存在。
   有り得ぬ事が何度も目の前で起きてきた。
   龍晶は考えを改めた。
「この国は皓照の意に従うという事か?」
「ああ。それこそ神も同然だ」
「皓照が俺を目的の為の有効な駒だと認めれば、この国の対応も変わる?」
「…それは、まあ…。だがお前をただの駒にしたくは無いぞ」
「お前の認識なんか関係無い。要は皓照に認めさせ、現状を変えさせる事だ」
   燕雷は情けない顔をしているが、龍晶は全く意に介さなかった。
「朔夜の事で裏切りはしたが、奴にとって俺は兄を王座から引きずり下ろす為の重要な駒である事に変わりない筈だ。この国が俺を戔に送り返し処刑させるのは奴にとっても面白くは無いだろう。その伝達さえ出来れば…!」
   そこまで考えて愕然とする。
   一体誰が、その繋ぎを出来るのか。
   誰が、自分達の為に危険を犯して国境を跨いで動いてくれるのか。
   誰も居ない。その上、時間も無い。
「朔夜を連れて来た事を後悔するつもりは無いが…俺は早まったかな。もう少し方法を考えるべきだった」
   燕雷が情けなさを声にも出して呟く。
   その繋ぎこそが本来の燕雷の役目の筈だ。だが、皓照の怒りを買った今それは逆効果ですらあるだろう。
   しかし他に誰も居ない。
「…もう良い。疲れた」
   龍晶がそう告げて目を閉じる。
   投槍のようだが、瀕死の状態から目覚めていきなりこれでは無理も無い。
   燕雷は穏やかに声を掛けた。
「お前はもう暫く休んでおけ。必ず何か方法は考える」
   返答は無かった。
   燕雷は部屋を出、息を長く吐き出した。
   これだけ生きても己の無力を突き付けられる。
   あの瞬間。
   家族を失ったあの瞬間に戻れたらと何度も考えてきた筈なのに、いざ戻されると矢張り何も出来ず終わるのか、と。
   彼女達を犠牲にして建てた国で、また新たな犠牲を作る皮肉を思った。


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