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月の蘇る
  1
   河の流れと同じく下流へと道を下る。
   灌へと繋がる橋を渡る為に。
   龍晶、燕雷、黄浜の三人が馬の背で揺られる。
   あとは黄浜の馬に繋がれたもう一頭の馬。
   そこに括り付けられ乗せられているのは屍。
   不思議なほど綺麗なまま、その血色だけが抜け落ちたかのような水死体。
   必ず再び血の流れを取り戻すと信じて、今は日の光の下を進む。
   別れ際に村人達は、上流から来たと言うのに下流へと帰ろうとする一行を不思議がりもせず言った。
   ご無事をお祈り致します、と。
   別れてからやっと気付いた。彼らは分かっていたのだ。
   自分達の正体を。
   あれだけ名前を叫ばれたら仕方ないかと龍晶は思い返す。
   この名を持つ者は、この国に他には居ない。
   それでも軍に告げ口する事も無く、また厄介者と煙たがりもせず、最後まで協力してくれた村人達を有り難く思った。
   守るべき民に、今は守られている。
   いつか恩を返せれば良いのだが。
   まずは再びこの地を踏める事を祈って。
   生まれ育った国を初めて離れる。
「ああ、あれだ。あの橋」
   燕雷の言葉に前方へ目を凝らす。
   大河に渡された、大きく頑丈そうな石橋が見えてきた。
   近付けば近付く程、その大きさに感心する。
   よくぞこのような橋を掛けてくれたものだ。
   お陰でこの河を渡り、最初の目的地へと辿り着ける。
「流石に只では通れないようだがな」
   国境に繋がるのだから当然だが、橋の袂に軍人が居座り見張っている。
「どうする」
   肝心の戦力は死後硬直中。
   口八丁で切り抜ける事も出来ないだろう。
   燕雷は意味深に目配せしてきた。
「待ってろ」
   言い置いて。
   馬に鞭を入れ、速度を出して走って行った。
   物凄い速度で迫ってくる馬に、軍人達は慌てた。
「止まれ!止まれ!!」
   叫ぶのが精一杯の彼らに燕雷は叫び返した。
「止まれねえんだよ!」
   逃げる事も出来ず、あっ、と叫んで馬に蹴られる。一人は橋から河に飛び込んだ。もう一人は腰を抜かしている。
   燕雷は馬を橋の中程で止め、大きく手を振り仰いだ。来い、と。
   龍晶達も馬を駆る。さほど慌てずとも、もう止める者は居なかった。
   河を越え、山道へと入る。
「この辺が国境だな」
   燕雷に教えられ、へえ、と小さく声を漏らしながら辺りを見回した。
   ただの山道でしかないのだから、目新しい物など何も無いのだが。
   だけどこの先は知らない国である事に間違い無い。
   自分と何の所縁も無い国。そう考えると不思議な心持ちもする。
   何が待っているのだろう。
   その何かに期待しても良いのだろうか。
   足元が浮くような不安と。
「先行隊は船の着いた港町で待つとの事でしたので、まずはそちらへ向かいましょう。都に程近い町だそうです」
   黄浜の言葉を受け、燕雷は頷いた。
「佳梨(カリ)の事だろう。了解した」
   燕雷の先導に従い道を行く。
   やがて山の頂上に着き、そこに開けた光景に龍晶は目を見張った。
   平地が続き、山が囲む大地。川が流れ、その周囲には田畑が拡がる。
   こんな光景は戔で見た事が無い。
   否、自分が見た事が無いだけで存在しない事は無いのだろうが、その広い国土の割に殆ど無いのは確かだ。
   戔に於いて鉱山が多いのは恵みだが、代わりに岩山が多く田畑を耕しても石が多く出て来る。その土地自体が巨大な岩盤の上にあったという事も少なくない。
   どうしても大地を耕すには不向きな国なのだ。
   それに対して今、目の前に広がるこの光景。
   兄がこの国を欲しがる理由も分かる。
   この土地があれば、戔に不足な物は無くなるだろう。
「良い国だろう?」
   自慢気に燕雷が問うてきた。
   龍晶は迷う事なく頷く。
   言葉など出なかった。生まれて初めて大地の美しさに感動を覚えたのだ。何と表現して良いか知らなかった。
   一行は山道を下る。緩やかな道だった。
「その佳梨とかいう町までどのくらいかかる?」
   龍晶が訊くと、燕雷はうーんと考え、答えた。
「夜には着けると思うんだけどな。この先邪魔も入らないだろうし」
   戔のように襲われる心配は無い筈だ。
「その町で宿を取るか…。だが、朔夜の事はどう説明する?」
   流石に死体を泊める事は出来ないだろう。
「そうだなあ…月明かりに晒さなきゃならないし、俺は宿を遠慮してどこか適当な所で野宿するよ」
「お前がそのつもりなら宿を取る必要は無い。町に入らずに人目に付かない所で泊まれば良いだろう」
「いやいや、お坊っちゃんは宿でしっかり休みな。お連れさんも探さなきゃならないだろう?」
「別に明日で良いだろ。焦る事は無いし」
   燕雷はにやにや笑いながら振り向いた。
「愛しい朔と離れたくないのは分かるけどな、冷や水浴びて風邪気味のお坊ちゃんは野宿なんてせずにちゃんと休んだ方が身の為だぞ」
「な…!」
   言葉を詰まらせて怒りと恥ずかしさで顔を赤くする。
   燕雷は意地悪くけらけらと笑って更に続けた。
「だってもうお前、朝から声がおかしいもん。明日はまたお熱かなあ?」
「また言うな!」
   怒っても『また』は『また』である。
「悔しかったら卵酒飲んで早く寝ろよ!絶対重篤化させるなよ?」
「爺いじゃないからそんなもん飲まねえし!」
   不貞腐れる横で黄浜が堪え切れず笑っている。
   因みに夜を待たずぐったりしてきたので笑い事ではなくなったりする。

   燕雷とは町の手前の山道で別れ、黄浜に支えられながら龍晶は佳梨の町に入った。
   先行隊が居るとしたら、恐らく町の中でも一番大きな宿だろうと黄浜は考え、人に尋ねながらその宿へ辿り着いた。
   そこに居ないとしても、取り敢えず龍晶を早く寝かせたい。抱えながら人探しをするには大き過ぎる荷だ。
   部屋に案内され、やっと寝台にその荷を下ろして、黄浜はふうと一つ息を吐いた。
「余計な世話をさせて済まない」
   殆ど出ない声で情けなさそうに言うのを、黄浜は首を振って否定する。
「何か召し上がられますか?」
   いや、と口が言葉をなぞったきり、瞼が閉じられる。
   これが限界だったかと頭を掻いて、取り敢えず水をと思い、立ち上がった。
   宿の者に盥を借りるついでにそれとなく尋ねてみる。
「ここに異国の言葉を喋る一行は来ていませんか?」
「ああ、来ましたよ」
   過去形なのを訝しむ。
「今どこに?」
「どうも胡散臭くてこちらは御遠慮願いました。隣も宿屋ですからね、そっちにでも行ったんじゃないですか」
   それだけ言うと、井戸の場所だけ言い添えて立ち去られてしまった。
   とにかく後回しだと思い直し、井戸から水を汲み盥に満たして部屋へと戻る。
   龍晶の目が僅かに開き、入って来た顔を確認するなり再び閉じられた。起きてはいるようだ。
   水に晒した手拭いを額に置きながら、黄浜は今聞いた事を説明した。
「どうやら一行は隣の宿屋に居るようですよ。そこも断られているかも知れませんが。いずれにせよ、近くに居るのは確かです。朝になったら探してみます」
   口が開いたが、何か言葉を発する事は無かった。
   黄浜は様子を見ながら少し考え、躊躇いがちに口を開いた。
「龍晶様、この国に居るうちに医者に診て貰った方が宜しいのではないですか?本当にただの風邪だけならば良いのですが、失礼ながら初めてお見かけした時も随分お具合が悪そうでしたし、何か悪い病でないとも限りません。今後、哥に向かうとなればそんな機会も無いでしょうし、戔に帰れば尚更…」
   何も返事は無かった。答えられないと言った方が正確かも知れない。
   諦めて、自分も休む為に準備を始める。
   外からはまだ夜を楽しむ旅人の声が漏れ聞こえる。
   良い国だなぁ、と黄浜もまた改めて思う。
   誰もが自由を謳歌している。他所者からすれば、少し眩しい程に。
   反乱の事を忘れる訳ではないが、龍晶が望めば少しこの国に留まっても良いのではないかと。
   ほんのり無茶な願いを想い、甘苦い気分になった。

   また、あの暗い河の流れを見ている。
   水が轟々と流れる。何か大切なものをその中に隠して。
   水の冷たさが全身に刺さる。水だけではなく、そこに混じる土砂や漂流物が身体に傷を付けてゆく。
   流れているのは、己自身か。
   息が出来ない。苦しい。痛い。
   死ぬ。このままでは、確実に。
   足掻いても藻掻いても水の絶対的な力に逆らう事は出来ず、一瞬浮き出た水面で叫んでもまた新たな波に飲み込まれて声など誰にも届かない。
   やがて抵抗する力も失って、苦しいとも思えなくなって。
   ただ流される。
   死に向かって。
   流れているのは己ではない。
   これは、朔夜の記憶だ。
   その証拠に、ずっと心で叫んでいる。
   華耶、華耶、とーー
『おい!起きろ!』
   異国の言葉が意識を現実に浮上させた。
   目を開けてもまだ、頭は夢を引き摺って水の流れを聞いている。
   轟音の中に混じる、友の悲鳴を。
   朔夜が死ぬ。
   否、消えてしまう。
「朔夜…!何処だ!?」
   叫んで、寝台を下り、走ろうとして、身体が崩れた。
   目が回る。足が震えて立たない。
「龍晶様!大丈夫ですか!?」
   黄浜が駆け寄って跪き、顔を覗き込む。
   朔夜は、と震える唇で訊いた。
   両肩を抱えて、黄浜は穏やかに答えた。
「大丈夫ですよ。何も心配要りません」
   それ以上問う言葉を無くして荒い呼吸を繰り返す。
   だんだんと頭が現実に馴染んでくる。
   顔を上げて辺りを見回せば、旦沙那を始めとした先行隊の面々がこちらを注視している。
   その奥で、宿の主人が迷惑気に見ているのも目に止まった。
「…早くここを出た方が良さそうだな」
   この大人数が押し掛けてきて、さぞや煩かった事だろう。
「大丈夫ですか?」
   龍晶は頷き、改めて立とうと力を込めた。
   ふらつきはするが、立ち歩く事は出来る。
『心配を掛けた。出立しよう』
   哥の面々に告げると、おおと声を上げてどやどやと部屋を出だした。
   その流れの中で、旦沙那が近寄ってきて一言ちくりと告げた。
『毎度のようにお前に振り回されるな』
   事実だが謝る気になれず、反論も出来ぬうちに彼もさっさと行ってしまった。
   部屋が空き、やっと自分達の事が出来るようになって、黄浜がおずおずと説明した。
「申し訳ありませんでした。彼らを近くの宿で探し当てたのですが、あの旦沙那が龍晶様の様子を見るのだと言いだして、一人ならば良いかと案内したら、訳も分からず大勢付いて来て…このような有様に」
「ああ…俺は別に良いけどな」
   龍晶は苦笑いで応える。
「燕雷は?」
「宿の外で待っています。早朝からこちらを探して下さっていたようです」
「爺さんの朝は早いからな」
   軽口で黄浜を笑わせ、龍晶は更に問うた。
「朔夜は…目覚めたのか?」
   黄浜は一瞬目を泳がせ、他に答えようが無いと諦めると、口数少なく答えた。
「いいえ」
   龍晶にはそれで十分だった。
「ああ、そりゃそうだよな」
   まだ一夜しか経っていないのだ。蘇生するには無理だろう。
   気を取直して龍晶は言った。
「俺達も出ようか」
   荷を纏め、金を払い、宿を出ると。
   先行隊の中に混じって、燕雷。そして。
「これか?」
   思わず燕雷に問う。
   馬に括られているのは昨日と同じだが、丸々菰で覆われているので見ただけでは荷駄と変わらない。
「だって、死体晒して街中歩く訳にはいかんだろ。今日中には都に入るんだし」
「まあ…確かに」
「それよりお坊ちゃんは大丈夫なのか?予想通りお熱出して魘されてるって聞いたけど」
「もう止めろよそれ。大丈夫だ。手綱にしがみつければ良いんだろ?」
「それが出来れば上等だけど」
   以前はそれで結局脱落した。
「良いから行くぞ」
   さっさと馬に乗って、人数の増えた一行は都を目指して出立した。
   道中、どうしても再会した旦沙那に言わねばならぬ事があった。
『少し良いか?』
   馬を隣に寄せ、声を掛ける。
『何だ?丹緋螺の事か?』
   先に言い当てられ、頷いて、重い口を開いた。
『俺の所為で命を落とした。…済まない事をした』
『俺に謝られてもな』
『だが、一度はお前が救った命だろう。それを無にしてしまった』
『別に、そんな事はどうでも良い。俺達は兵士だ。何度でも死線に立つ。一度は助かっても次は駄目かも知れない。いつどんな死に方をするか分かったものじゃない。そういうものだ。いちいち気に病むな。本当に心を病む事になるぞ』
『その点もう俺が取り返し付かない事は知ってるだろうよ…』
   苦い顔で呟いて、一つ息を吐いて。
『俺が救われたいだけだとしても一つ答えてくれ。お前は俺と共にあいつを行かせた事、悔いてはいないのか』
   迷う事なく旦沙那は答えた。
『丹緋螺はそれで満足していたんだろう?ならば、何も悔いる事など無い』
『…本当に?』
『それが彼の生き方だったんだろう。あとは、お前が彼の生を生かせるかどうかだ』
   終わってしまった短い生でも、そこには意味がある。
   その意味を忘れる事なく、活かしていこうとするならば、その死は生きてくる。
『…どうして俺に付いて行こうと思ったんだろう』
   今更ながら素朴な疑問だった。
   何を期待して、自分に。
『難しい事を考える性じゃない。ただ、お前の存在が眩しかっただけだろうよ』
『眩しいって』
『自分じゃ気付いてないかも知らないが、ある者からすればお前は人を魅了する光を持っている。そうでなければ俺もお前を助けてやろうとは考えなかった。ここに居る大部分の人間が同じようにお前を見ているんじゃないか』
   眉間に皺を寄せ考える。
『…分からない』
『人は損得だけで動かないという事だ。お前もそれはよく知っているだろう』
   損得感情だけならば、自分は朔夜を北州から連れ出そうとは考えなかった筈だ。
   それは正義でもない。ただ、自分がそうしたいと願うだけの意志だ。
   同じものが自分に向けられている。それは信じ難い事だった。
『じゃあ、俺はどうすれば良い?』
   やはり何か期待されているからだと、そうとしか思えない。
『そんな事、俺が知った事か。自分で考えろ』
   突き放されて、むっとして言い返した。
『別に甘えで訊いている訳じゃない。何をすればお前達に報いられるのかと訊いている』
『だからそれは必要無いと言っているんだ。強いて言うならば、お前がその光を失わない事だ』
「どうしてそんなに抽象的な物言いなんだよ…嫌がらせか」
   意味を理解されないよう文句を垂れて、改めて問う。
『それは戔と哥の和解を目指す事と理解して良いのか?それが丹緋螺の遺志でもある、と』
   旦沙那は肩を竦めるだけだ。
「なんだよ、ったく」
   一向に見えない答えに悪態を付く。
   そうしているうちに、先の方から聞こえる小競り合いの声が大きくなってきたのでそちらに注意を向けざるを得なかった。
   言葉の通じない小競り合いは、常にそこここで起こっているのだが。
「おい、聞いてるのか!?二人でこそこそ話しやがって!」
『何だよ、喧嘩売ってるのかこの戔人は』
『喧嘩なら一発殴れば気が済むだろう。あんなひょろひょろの体でよく言うよな』
『吹っ飛んで馬に踏まれなきゃ良いが』
「だからお前ら何を笑っている!?」
   喧嘩の声を聞き、旦沙那は笑い出して龍晶を嗾ける。
『おいおい、このままだと国の和解どころじゃなくなるぞ?』
『…全くだ』
   苦笑して答え、龍晶は割って入る事を決めた。
「どうした」
   聞けば、前を行く哥の二人が話をしながらとろとろと進むので、早く行けと言っても聞かないのだと。
   行列に間隔が開き、確かに前に置いて行かれそうになっている。
   龍晶は彼が喧嘩を売っている訳ではなく、早く進むか若しくは道を譲ってはどうかと哥の二人に提案した。
   二人はあっさりと了承し、道を後続に譲った。
「有難うございます。龍晶様御自ら勿体無い事です」
   自身の知らぬ所で殴られる寸前だった彼は、龍晶にぺこぺこと頭を下げて前に行った。
   それを見ていた者達が、次々と龍晶を呼び出したのだから堪らない。
   彼が喧嘩の仲裁に明け暮れているうちに、一行は灌の都へと入っていた。

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