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月の蘇る
  7
   闇夜に包まれて歩く。
   猛獣が獲物に狙いを定め近寄るように、一切の気配を消して。
   木立の向こうは篝火が昼間の明るさで燃え盛っている。
   酒気が空気に溶けて鼻を突く。そこここで馬鹿笑いが起こる。歌を歌う声も。
   輪の中が明るければ明るい程、その外の昏さには気が付かない。
   張り巡らされた幔幕。そこに映し出される影。人数は把握した。
   そして、一気にその幕を斬り裂いた。
   わっ、と近くに居た者が声を上げる。
   その余韻の消えぬうちに斬り伏せ、次の獲物へ飛び寄る。
   刀を抜こうとする手首を斬り飛ばし、もう片手で傍に居た者の喉元を裂いた。
   事態に頭が追い付き始めた輩が敵襲だと叫ぶ。が、まさかその敵が今この時、この場に出て来るとは夢にも思わなかった筈だ。誰もが泡を喰って右往左往している。
   それも、襲撃者がただ一人だとは思わない。幔幕の外へ探りに出る者まで居る。
   しかしその勘違いで命拾いしたのも確かだ。事態を正確に把握し、刀を抜いた者から命を落としてゆくのだから。
   振り下ろされる刀を躱し右手で胴を突き、右か襲ってきた別の刀を左手で受けて、抜いた右手で相手の懐に入りながら斬る。
   一度止まって己を囲む敵を見る。互いに隙を窺って。
   すっと、足を後ろに引く。
   それを合図とばかりに一斉に包囲網が狭まる、が。
   的の姿はそこに無かった。
   自分達の頭上にその姿を確認した時には既に遅い。
   包囲の背後に着地しながら一人を斬り降ろし、立ち上がりながら脇から斬り上げ、その刃が弧を描いてまた一人を斬った。
   混乱する刀を鼻先で避け、その持ち主は見えぬ刃がとどめを刺し、自身は逃げようとしていた残る一人の背を裂いた。
   その幕の内に、静けさが訪れる。
   また新手の波が押し寄せるだろう。その前に闇へと戻る。
   血に満たされた杯を踏み付けて。

   どうやら敵が奇襲を仕掛けてきているようだ、と一報が齎された。
   それを直ぐに了解出来る者など居ない。
「敵?灌軍か?」
「有り得ぬだろう。一兵たりとも来た様子は無いぞ」
   敵軍の到着はまだまだ後の事になる筈だ。
   何せ、戔は今まだ『自国内で兵を移動させているだけ』の状態で、戦をするなどとは何も告げていない。
「先手を打たれたのなら調度良いだろう。我々が灌を攻め滅ぼす口実になる」
「そんな事知るか。俺達は命令通り従うだけだ」
「確かにな。しかし何処から敵が湧いて出たんだろう。川を渡る舟など無いのだろう?」
「それは…物見の連中が怠けてたんじゃないか」
「泳いで渡ったとか」
「まさか、あの大河をか?」
「そう流れがきつい訳でも無いし、有り得ぬ話ではないだろう。もしやお前、金槌か」
「何を!?いくらでも泳いで見せてやるわ!」
「よっしゃ、勝負だ」
   意気揚々と、そして囃し立てながら歩き出した男達の前に。
「…子供?」
   白金の髪を夜陰に光らせて。
   そしてその髪は、赤く真鱈に染まっている。
   深い碧眼は、何か言いたげにこちらを見て。
「何者だ!?」
   怒鳴るように問いかける。
「一つ訊いても良い?」
   鈴の声で子供が問い掛けてきた。
「何者か答えろ!」
   怒声が畳み掛ける。
   子供はにこりと笑って頷いた。
「分かった」
   刹那、地を蹴り瞬時に男達の間合いへ入って一人を袈裟懸けに斬り伏せ、背後の男の腹を後ろ手に突き斬り、回転する勢いのままもう一人を蹴り飛ばした。
   血に濡れた二つの刀をそれぞれ一人ずつの喉元に突き付ける。
「これが答えだよ。こっちの質問良いかな?」
   刀を突き付けられた二人は声も出ない。
「ふざけんな!」
   背後から蹴られた男が切り掛かってきた。
   それを身動きせぬまま、首だけを傾けて一瞥して。
   見られた男は、上半身と下半身に別れていた。
   なす術も無く崩れ去る仲間の体を、血の気の引いた顔で見る二人。
   悪魔か、一人が声にならぬ声で呟いた。
   紅い唇が釣り上がる。
「分かったろ?だからこっちの質問にも答えてくれって」
   二人は震えながら頷いた。
   とにかく言う事を聞けば見逃して貰えるかも知れない。
「この軍はいつ国境を渡る?」
「い、今は舟を待っている。明日にも揃う筈だ。揃えば、河を渡って灌に入る」
「なるほど。分かった、ありがと」
   朔夜は可愛らしく微笑んで礼を言うと、そのまま喉を掻き斬った。
   二人が倒れる音を聞きながら踵を返す。
   恐らく戔にはここ以外に大河や海は無い。即ち、これだけの大軍を乗せる舟は今まで使われた事が無かったのではないか。
   故に準備が遅れている。つまり人や物資は既に揃っている。あとは舟だけなのだ。
   そしてこの軍は、水上戦の経験は無い。
   尤も、自分だって無いけれど。
   崖のような山道を辿る。敵陣から離れ、また闇の中。
   疲労から意識が混濁する。重たい瞼が視界を遮る。おかげで木の根に躓いてこけた。
   このまま一眠りしようかとぼんやり考える。もう見つかりはしないだろう。
   朝になったら、また湿気た食糧と共に次の命令が書き置きされているだけで…
   ああ、もう違うんだったと朔夜は身を起こした。
   ここは繍ではない。そして、帰還を待っていてくれる人が居る。
   重たい体を何とか立たせて、足を踏み出して。
   俺は、俺自身は、まだあの頃と変わっていないのかと自嘲した。
   他の何もかもが変わったのに、自分だけ。
   人の命を徒らに奪う悪魔。
   何の為に。誰の為に。
   今、誰がそれを望んでいるーー?
   龍晶の為?否、彼はそれを望みはしない。
   皓照に命じられたから?
   やむを得ない状況ではあるが、命令に従っているだけでは本当にあの頃と同じではないか。
   違う。これは、自分で選んだ。
   自分で選んだ、人の命を奪う事をーー
   どっ、と。
   言い知れない衝撃を背中に受けて、咄嗟に抜いた刀を背後に突き出した。
   感触はあった。が、あとは何もかも痺れた。
   押し寄せる痛み。それでも敵を確認せずにはいられない。
   自分の刀に斬られていたのは、先刻陣の外を確認しに行った兵の一人だった。
   共に倒れる。敵は坂を転がり落ちて行った。
   朔夜は木の根を腕に掛けて落下は防いだ。が、力が入らない。
   背中を突かれた。心臓は逸れたのだろう。が、普通なら死に至る位置だ。
   血を吐く。恐らく肺をやられた。呼吸が浅くなる。
   もがいて、木の根に足を掛け、幹に体を預ける。
   意識が遠くなる。死にはしないだろうが、その先が考えられない。
   いっその事、これで終わっても良いか。
   つらつらと取り留めもない思考を空転させ、ふと脳裏に浮かんだもの。
   龍晶に睨まれた。
   怒ったような、不貞腐れたような顔で。
   約束が違うだろ、と。
   ああ、と力無く朔夜は笑う。
   仕方ねぇなあ、と。
   ずるずると体を這わせて、崖を登った。

   囲む敵を無感情に、一人一人斬り殺してゆく。
   勇んで翻る刃が、恐怖に折られ消えてゆくまで。
   月だ、悪魔だ、そう罵りながら異形のものを見る目。
   それらを全て受け止めて。
   そして自らそれを肯定してゆくかのように、また刃を振るう。
   全ての命が消えた時、己の正体を突き付けられ愕然とするのだ。
   望まぬのに異形と成り果てている、自分に。
   だから、全てを消してしまおうと。
   自分という化物を無くしてしまおうと。
   自らに刃を向ける。
   今度こそ消えてくれと願いながら。
「……」
   龍晶は仮眠から覚めて目を開けた。
   厭な夢を見た。以前朔夜に押し付けられた記憶の光景。それに彼の感情が加味されて。
   自分の想像でしかないが、恐らくあのように自死を選んでいたのだろう。
   今はどうなのだろうか。
   あの時死ねなくて良かったと、笑いながら言えるのだろうか。
   同じ状況に立たされたら?
   今も自死を選ぶのだろうか。
   想像は付かないが、一つ分かる。
   今のあいつの強さは、あの頃の繰り返される絶望によって鍛えられた強さなのだ。
   自らの手を汚す事に慣れ、鈍磨してゆき、全てを諦めたそれ故の強さ。
   戦場に迷いは要らない。
   だから自分は戦場には不向きだな、と龍晶は自嘲した。早くこんな所過ぎ去ってしまいたい。
   敵陣が見渡せる崖の上に再び来ている。そこで朔夜の帰りを待っている。
   しかしあまりにその姿が現れない。燕雷は探しに行った。自分も行きたかったが、絶対にここを動くなと釘を刺された。
   その燕雷の姿も無い。
   今は何時だろう。まだ暗い。
   夜明けに近い暗さだろうか。
   朝になっても朔夜が帰らなかったら?
   本当に死体を探さねばならぬのだろうか。だが現実的に考えて、それは相当難しい。
   敵陣の只中に死体はある筈だ。そこに自分が入っていくなどーー否、死体が有ればまだ良い方かも知れない。
   悪魔を恐れて焼き払われていたり、とにかく蘇生不能な状態にされている可能性もある。
   ぞわりと鳥肌が立つ。それが現実となるやも知れぬ恐怖。
   あいつを失う。それが怖い。
   やっと、漸く、取り戻せたのに。
   草の擦れる音。
   誰かが近寄ってくる。
   念の為、用心しながら物陰から窺う。
   それが予想通りの人物で、幾分かほっとしながら迎え入れた。
「どうだった」
   燕雷は一人、手ぶらのまま戻って来た。
「近付ける所まで近付いたが、分からなかった。敵は敵で、襲った犯人を探しているようだが」
「敵の手には落ちていないんだな」
   燕雷は頷いて、手頃な石の上に腰を下ろした。
「だから可能な限り待とう。どこかで寝てるかも知れないし」
「宿に戻ってから寝て欲しい所だな。本当なら一発殴ってやる」
「お手柔らかにどうぞ」
   冗談半分に燕雷が言った時。
   背後に人の気配が現れた。
   はっと、二人が振り向く。
「…貴様」
   溟琴がそこに立っていた。
   片手に朔夜を掴んで。
「山の中でお寝んねしてたから、連れて来てあげたよ」
   言いながら朔夜を二人の方へ放り投げる。
   龍晶が駆け寄った。
「何だこの傷は!?」
   一目見るなり溟琴に怒りを向けた。
「いやいや、僕がやる訳無いでしょ。油断した所を向こうの兵隊さんにぐさりとやられただけだよ」
「そう仕向けたのはどいつだ…!」
   怒りを露わにしながらも脈を取る。
「どうだ?」
   燕雷が傍らに来て問う。
「生きてはいる。傷を治す必要があるな」
「服を剥げ。月明かりが無いから何処までいけるか判らんが」
「とにかく一旦宿に戻った方が良いだろう。ここに居続けたら見つかる」
「ああ」
   燕雷が朔夜を抱え持ち、二人は立ち上がって。
   その時には既に、溟琴の姿は無かった。
   面食らいながら、龍晶が辺りを窺う。勿論、何処にも見つからない。
「何だ…?気味の悪い」
「そういう輩だ。気にするな。害は無い」
「それはそうだが」
   宿に向け歩きだす。向かう東の空は、徐々に黒が藍に、藍が浅葱へと変わっている。
「…これで諦めるだろうか」
   龍晶がぽつりと問うた。
   この深傷で、朔夜が諦めるだろうかと。
   諦めてくれたら、回り道して灌に向かえば良い。灌に入れないのなら苴を経由して哥に向かう。それだけの事だ。
「さてなぁ。こいつもお前と同じで頑固者だから」
「同じにするなよ」
「同じだよ。だから肩入れするんだろ?」
   龍晶は答えず、瞬く間に色の移り変わる空を睨んだ。
「俺はな、この国に来て嬉しかったんだよ」
   燕雷の思わぬ言葉に、龍晶の視線は引き戻された。
「こいつに友が出来ていた。我を失い傷付けても、信じ続けてくれる本当の理解者が」
「そんな事が?」
「親馬鹿かな。親じゃないけど」
   軽く笑って、本物の父親の辛辣な表情を思い出して、苦い笑いに変える。
「俺はこの国を捨てたけど、俺が捨てたこの国で、世の中捨てたものじゃないと思わせてくれた。お前は大した王子様だ」
「揶揄ってるだけだろ、それ」
   顔を顰めて龍晶は返し、目を細めて明ける空を見た。
「でもな…俺が世を想う事と、朔夜を友とする事は、矛盾があるだろう」
「ほお?どうして?」
「どうしてって…」
   言ってもいいものか困る。
   だが、いちいち説明せずとも燕雷は解って問うていた。
「こいつの力は確かに世を変える程大きいが、それは人としての朔夜に関わり無いだろう?お前の友は、ただお前の隣で笑っているだけの朔だろう?」
「…ああ。そうだ。そうなんだ…でも」
   そんなものは第三者から見れば詭弁だろう。
   皓照の考えは正しい。この危険な力を放っておいては、この国の民を危険に晒す。その前に消さねばならない。
   それが、統治者としての務めだ。
「また分からなくなってきた。こいつは余りに簡単に人を消してしまう…否、今までに物凄く苦悩してきたのは判るが、それで人の命を軽んずるような答えが出たのなら、俺はこいつの側には居られない。記憶を無くした時に俺はこいつに迷わず殺せと命じていたから偉そうな事は言えないけど」
「全てがこいつの意志でやっている事じゃないぞ」
「それは…そうだと思う…思いたいけど」
   断言出来なくなってきた。
   全てが朔夜自身の意志ではないと。
   最初に襲った兵二人だって、殺さずやり過ごす手はあった筈だ。
   あの時既に月に憑かれていたとでも言うのか。ならば、何故自分達を襲わないのか。
   それにやはり迂回せず、この軍を襲撃する事を積極的に選んだ、その一点が引っかかる。
   それは絶対に朔夜が自分で選んだ事なのだ。皓照の圧力があるとは言え、必ずしもそれを飲まねばならぬとも思えない。
   戦場に立ちたいのか。
   人の命を奪わねばならない何かが有るのか。
   彼があの力を持つが故に。
「やっぱり…何か変わったんだろうか。朔の中で」
   燕雷も同じような事を考えたのか、龍晶の言わんとする事を理解する方向で口を開いた。
「変わってしまったとしたら、きっと俺の所為だな」
   俯き加減に龍晶は言った。
「悪い意味ばかりじゃないだろうよ」
   燕雷は言って、朔夜を抱え直し、続けた。
「例えば、守るべきを守る為に迷いが無くなったのかも知れない。前もそうだった。華耶の為ならこいつは修羅となる。自分を悪魔にしてでも守るべき人を守る。それがより…はっきりとしてきただけかも知れない。お前が逆の立場ならどうする?そう考えてみたら判るさ」
「分かる…それは解っている。だから…俺はやめてくれと言った」
   俺の為、それは。
   俺の所為、でもあるのだ。
「でも朔夜の気持ちは解る、痛いほど。やめてくれって、それ以上は何も言えない。俺の責任でもあるんだ。俺達は出逢わなければ良かった」
「…龍晶」
「俺が一人、あの城の中で兄に甚振られ死んでおけば良かった」
   そうすれば、誰の死も見ずに済んだ。
   そうであるべきだった。
   下手に希望を見てしまったから。
   朔夜が延べた手の中にそれは有った。
   そうと知らず、気付けばその手を取っていた。
   それは、正しかったとは限らない。
   事実、既にこれだけの犠牲を生み出したのだ。
「そんな事言ってても始まらないだろ」
   燕雷が正論を吐いた。
「悪い」
   謝って。しかし蟠りは残る。
   朔夜の罪を共有せねばならない。それは重々解っている。
   これを朔夜だけの罪とすれば、暴走を始めたあの時と同じになる。
   だが、自分にはそれを背負えるだけの覚悟が無い。重い。余りに重過ぎる。
   この同じ重苦しさの所為で、かつての彼は自らの首を掻き切っていた。それならば、悲しい事だが理解は出来る。
   だけど、その重荷をかなぐり捨ててしまったような今の姿は。
   山の端に赤く燃える朝日が覗いた。
   眩しさに目に手を翳して、それでも見ずには居られなかった。
   その冷たい美しさを見ずには居られない、月の光と同じように。
   どちらの光の下で、俺は。
   深傷は治らず、未だ燕雷の腕の中で浅い呼吸を繰り返している朔夜。
   このまま消えてしまえば、など。
   恐ろしい考えが白日の下に晒されぬよう、そっと胸の内に打ち消した。


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