月の蘇る 6 昼間は軍隊の行進で踏み固められた道も、この時間となると人の気配も無い。 燕雷の持つ小さな灯り、その外は闇に塗り潰されている。今宵は曇天だ。 「月が出ないと、やっぱりまだ力に差があるのか?」 燕雷に問われ、朔夜はうーんと空を仰ぐ。 今は月の有無も時間帯も関係無く、破壊の力は使える。それでも月の有る夜の方が心強いのは確かだろう。 「比べた事は無いから、何とも」 「実験してみるべきだろ。それで一番襲撃に有利な時が選べる」 龍晶が口を挟んできたので、訝しげに隣を見る。 「実験って、どうやって」 「さあ?」 実戦あるのみだ。 「ま、力の大小よりも、お前とこうして夜道を歩けるようになったのが何よりだな」 燕雷が気楽に言って、後ろを振り返り二人に同意を求める。 「そうなのか?確かに、最初の頃は散々脅されたが」 龍晶にとっては朔夜と夜道を行く事が度々あったので、特に感慨は無い。 朔夜本人も笑いながら否定した。 「燕雷も大袈裟だよ。灌から繍に向かった時に夜道も歩いたじゃん。野宿もしてさ」 「その道中で俺は斬られたけど」 「あ。そうだった。ごめん」 思わず立ち止まって謝り出したので燕雷も歩を緩めて苦笑する顔を向けた。 「ごめんで済む事かい。しかも忘れてたのかよ。ま、良いけどさ」 「えー…それ絶対まだ怒ってるよな?全然良くないって言ってるのと同じだよな?何回謝ったら許してくれる?百回?」 ごめんなさいの呪文を唱え出しそうな勢いを、頭を押さえ込んで止めた。 「餓鬼みたいな事を言ってんじゃねーの。それより、同じような状況で謝りもしてない御仁がもう一人居るだろ。お前に自覚があるのか知らないが」 「へ?」 全く自覚は無い。 被害者の当人は迷惑そうに燕雷の言を否定した。 「自覚無いなら謝罪される意味も無いだろ。尤も、こいつのごめんは聞き飽きた」 それでも気まずそうに見てくる顔に、龍晶は言葉より拳を向けた。軽く額をこつんとやる程度に。 そして言い聞かせた。 「お前のした事じゃないんだ。お前が気にする事でもないし、それについて謝られるのも筋が違う」 「え、でも……うん…」 睨まれて悄気た顔で頷く。 龍晶は顰めていた表情を一笑に変えた。 「本当に餓鬼だよな、そういう顔」 「だからもう…良いよ餓鬼で…」 ついに認めた。 「流石、王子様は俺なんかより寛大な事だ。俺はまだまだ怒ってるからな?」 「えっ!?ちょ…燕雷、勘弁してよぉ」 ついでとばかりに弄り倒されて。 一頻り笑った後、声色を変えて龍晶が切り出した。 「先刻訊こうと思ったんだが」 「ん?」 「繍の事だ。と言うより、桓梠の事と言った方が良いか」 朔夜の顔色が変わった。 殺したいとまで言わせる相手なのだ。それも当然だろうと思いつつ、龍晶は問うより先に説明した。 「面会した事がある。お前が記憶を無くしている間、共に」 朔夜だけではなく、燕雷も足を止めた。 「兄に引き合わされた。悪魔の扱いを知る者が居ると言われて。それで初めて俺はこの国が繍と繋がっていると知ったんだが…」 自分はお前を騙していた訳ではないと、言外に説明したが、本題はそれではない。 「あの男は何者だ?繍の要人だという事は判るが、国に忠義を持ってはいないようだ。」 「だろうな。あんな屑にそんな立派な精神は無いだろうよ」 足音も荒く一人先々歩きながら、ここぞとばかりに詰る朔夜に龍晶は眉を顰めた。 「お前はあの男に何をされた?」 「何…って」 「悪魔を作り出したのはあの男なんだろう?」 言うのも悍ましい気がしたが、龍晶は訊いた。ずっと疑問には思っていた。 桓梠は、梁巴を滅ぼしたのは苴だと嘘を吐いた、それだけで悪魔は作られたと言った。本当にそうなのか、本人の言葉を聞きたかった。 だが朔夜はただ顔を顰めて吐き捨てた。 「奴は悪魔と名付けただけ。作り出したのは実の父親だ」 「その…お前が燈陰と呼ぶ人か?」 「何だ。俺、何か喋ってたんだ」 「餓鬼の頃のお前に刀を仕込んだんだろ。確かに良い父親では無さそうだが」 それでも子供に返ったお前はとても父親を慕っていた、とまでは言わなかった。嫌な顔をされるのは目に見えている。 「父親ですら無いよ」 朔夜が不貞腐れた子供のように言って口を噤む。 それ以上は燕雷が引き継いだ。 「こいつらはお互いに不器用なだけだよ。それよりも知りたいのは桓梠の事だろう?」 「ああ。そうだが」 これ以上燈陰の事を話していると、否応無くあの夜の話が出て来る。そして朔夜の燈陰への憎しみに拍車が掛かる。燕雷はそれを避けた。 龍晶にしてみれば、何か肝心な事をはぐらかされたような気がしている。踏み込むべき事では無いのだろうが。 それも見越して燕雷は話を逸らした。 「奴は繍の軍事全てを掌握する立場の男だ。実質的に繍国内に奴に逆らえる者は居ない。確かに、王ですら口を出せない状況ではあるだろうな」 「成程、それ程の権力者ならば己の勝手で戔と結び、自国を傾けてまでこちらに出兵させる事も出来るという訳か」 「奴は繍を見限るつもりだろうか?」 逆に燕雷に問われ、龍晶は迷う事なく頷いた。 「己の保身しか頭に無い男だった。間違いなく国を売って己は逃げるだろう」 「ほんっとに屑だよな!」 苛々とした朔夜の言葉を挟まれて、龍晶は燕雷に問うた。 「で、こいつは何があったんだ?何でここまで沸騰してるんだよ?」 本人に問うてもまともな答えが返りそうにない。 「そんなの決まってるだろ。大事な大事な華耶ちゃんを危ない目に遭わされたから」 「あー」 「あーって何だよ!?ってか勝手に喋るなよ燕雷!」 「勝手も何も俺も当事者だもんね!ま、何も出来ずに見てただけではあるけど」 「ああー、もう!」 最早何に腹を立てているのか分からない。 龍晶は笑って、この何故だかほのぼのとしてきた話の流れを戻しても良いものか迷いつつ問うた。 「それでもお前は奴の命令に従っていたんだろ?何故だ?」 やっと餓鬼っぽさを幾分か引っ込めて、それでも厭な物に触れるような顔で朔夜は答えた。 「そうするしか無かったから」 「脅されていたとか?」 「梁巴の人を人質にされていたのは確かだけど、それは離反する直前だけの話だ。俺は馬鹿だったんだよ。考えるのを怠けてた。自分は人を殺すしか能が無いって…実際そうなんだけど、そう思い込んでて、そうするより生きる術は無いと思ってた。他の生き方なんて想像も出来なかった」 「…それは、分かる気がする」 戦場で人の命を奪う事だけを繰り返してきた朔夜。城の中で王やその取り巻きに暴力を振るわれる日々を送ってきた龍晶。 世界の広さを知る前から、二人に用意された狭い世界。 その世界の外が存在し、逃げても良いのだと知る事など出来ずに。 「今は馬鹿だったって言えるけど、俺が桓梠に逆らった事で多くの犠牲を出したのも確かだ。どうすれば良かったなんて答えなんか出ない。だから、俺は奴に復讐する事で蹴りを付けたいんだと思う。犠牲にしてしまった多くの人の無念も一緒に」 「…それが後回しになっても良いのか?」 「それはそれだよ。その議論はおしまい。蒸し返しても変わらないからな」 「でもな…」 苦虫を噛む気分で、それ以上の反論は矛先を変えた。 「お前は繍でどうやって戦ってきた?この状況はそれに近いんだろ?」 「まあ、当たらずともって感じだけど」 自信を持って大丈夫だと言える根拠はその経験によるものだろうが、詳しい状況は何も分からない。 「大軍を一人で瓦解させるのが繍の悪魔だという話だが」 「うん。まぁ、そうだけど」 「何だよ、歯切れが悪いな」 「だって、全部無意識でやってた事なんだから、どうやってって訊かれても答えられない」 「ああ…」 それもそうかと納得はする。 だが、それだけでは何の参考にもならない。 「戦場から離脱する時は?それも覚えが無いのか?」 「それは、まぁ…相手が小隊なら殲滅するまで戦って、その辺に隠れて寝る事にはしてた。味方援軍が来る事もあったし、そしたら混乱に乗じて離脱出来た」 「敵が多くて援軍も見込めない場合は?」 今回はそういう事なのだが。 「…やっぱこの話は止めようよ」 「は?何故?一番重要な所だろ」 「なあ燕雷、まだ目的地に着かないの?」 「まだだな」 「誤魔化すな!何だよ急に」 唇を尖らせて口を閉ざす。 龍晶はその様を見て、桓梠の言葉から思い出した事を問うた。 「自ら首を掻き切るのは…そういう時か」 「…桓梠が言ったのか」 「何度も蘇らせた、と。聞いた時は半信半疑だったが」 実際に蘇った経緯を見てきたのだから、もう信じるしかない。 「だって、死んでしまえばあとは勝手に向こうが蘇らせてくれるんだし。自分で必死こいて逃げるより楽だからさ」 まだ誤魔化すような半笑いで朔夜は言った。 「必ず蘇生出来るとは限らなかったんじゃないのか」 「知らない。良いだろ、それならそれで」 足元に視線を落として呟く。 合わせられない眼の中に、どれだけの闇があるのか、龍晶は追及を辞めた。 苦しかったに決まっている。怖かったに決まっている。そして、抱えきれない絶望。 他に生き方が無いなら、死ぬしかない。 その唯一の逃げ道を、選んでも逃げられなかった朔夜。そして選ぶ勇気も無かった自分。 何が言える訳も無いと思った。受け止め切れる自信も無かった。 「繰り返すが、俺達を死体回収に向かわせるなよ」 今、立ち向かうべき問題は目の前にある。 「うん。善処はする」 やっと顔を上げて返す。 「もうすぐだ。あの崖の下だろう」 燕雷の声に前方へ視線を戻すと、黒々とした木立の陰の、その向こうに微かな明かりが漏れている。 「こう見えても考えはあるんだ。ただ突っ込んでくたばる程、今は無能じゃない」 声を落として朔夜は言った。 「それなら良いが」 同じく低い声で龍晶は返す。 人の声が折り重なったざわめきが聞こえてきた。 薪の煙や煮炊きされるものの湯気が合わさって、そういうものの匂いと共に白っぽい光が眼下に見える。 岩肌と、その間を縫って生えているような樹木に覆われた崖はかなりの高さがあった。 その麓に見えた陣営。 それまでの気配で判ってはいた事だが、かなりの人数が集まっている。人々の頭が黒々とした塊に見える。 武具の金属音、馬の嘶き、怒号、笑い声。独特の高揚感と緊張感。 幾度となく見てきた光景。そして何度も壊してきた。 それで戦そのものが無くなると信じて。 だけど無くならなかった。奪う命だけが増えていった。そして自分そのものが戦の化身となって。 今も、ここに居る。 「何回かに分けて襲撃する。まずは…そうだな、あの辺りが良いか」 朔夜は一方を指差した。 陣営の端で人影は少ない。他より一段高い場所で、木々に囲まれている。 「国境はどの辺?」 燕雷に訊くと、彼は前方を指差した。 「あの辺りに川が見えるか?その川の向こう岸が国境だ」 普通の目ならば闇に溶けてしまう距離だが、朔夜の目にははっきりと大地に畝る大河が捉えられた。 「わりと近いね。そりゃ灌も焦るわ」 「焦っていればまだ良いが。布告も何も無かったんだろうか」 龍晶が疑わしげに言うと、燕雷が肩を竦めて返した。 「さてね。予告も何も無く突如布陣して奇襲、なんて有りそうな国だが」 「悪かったな」 別に龍晶を責めている訳ではないが、互いに立ち位置となる国が違うのでそうなってしまう。 それに挟まれて朔夜は襲撃の段取りを考え続けている。 「あの川はなかなか深そうだね。渡る手段は船だけ?」 「そうだな。水上交通が主で橋は随分遡らないと無い」 「ふうん。あんなに大きい川は初めて見た。海みたい」 頭の中はどうあれ、発言は物見遊山だが。 「ここを下りる道は?」 「ああ、こっちだ」 動き出した二人に、龍晶は動かず言った。 「下りるのか」 「そうだけど?」 「これ以上近寄る気か?」 「道が分からないと下見の意味が無いだろ。怖いならここで待ってても良いぞ」 無論そんな意味で止めたのではないが、これ以上ここで口論など出来ないので溜息一つで収めて龍晶は立ち上がった。 崖から一度離れ、山中の道を下る。 道の下草は踏み荒らされ倒れている。 「軍の連中もこの道を通るのか?あそこに行くにはここしか道が無い?」 「そうだな。陸路ならここしか無い。あとは川からこっちに引き返すか」 「て事は、輸送隊もここを通るんだ」 「そうなるな」 「ここを塞ぐか…」 考えながら首を巡らす。 戦う為に地形を頭に入れておきたい。 ふと、樹上の一点に目を止めた後、急いで目を逸らして苦笑いしながら燕雷に言った。 「目が合っちゃった」 「は?」 「あれだと本当に鳥みたいだな。まだ尾けてるよ」 「あの野郎かよ…」 溟琴が樹上からこちらの動向を窺っているのだ。 「どうする」 嫌そうな顔をして龍晶が問う。 「放っておこう?居てくれた方が良い事もあるだろうし」 「有るか?」 微塵も信じない顔で返したが、反対はしなかった。少なくとも敵ではない。 突然、朔夜が立ち止まった。 気付かず進もうとする二人の腕を掴む。 「何だ?」 問う龍晶に、しっと呼気で返して腕を引く。 茂みの影に身を潜める。 「敵か」 まだ眉を顰めている龍晶への説明も兼ねて、燕雷は朔夜へ確認した。 頷く。力のお陰で視覚だけではなく聴力も冴え渡っているから気が付いた。 二人を物陰の奥へ押しやって、朔夜はそっと道を窺った。 声は近付いてくる。 「こんな時間に酒を調達しろなんざ、隊長も無茶を言うよな」 「全く。使いっ走りにされる俺達の気にもなれってんだ」 愚痴りながらこちらに向かってくる兵は二人。 近寄れば存在に気付かれる。 朔夜は音も無く刀を抜いた。 「殺すのか?」 龍晶が囁く。止めろと、言外に。 一人の兵の目がこちらを向いた。 朔夜は走り出た。声を出させる間も無く喉を掻き切った。同時にもう一人の脈を斬り裂いていた。 噴き出す血は、闇を染めた。 双剣は既に鞘に収まっている。 龍晶が道に出て、呆然とその様を見ていた。 これが答えだとばかりに朔夜は向き合う。 その答えに、返す言葉は無かった。 殺して欲しくは無かった。甘いのは判っている。それでも相手は人間だ。明日がある希望を疑わない、一人の人間だった。 屍を見下ろす。目を見開いている。 きっと何が起きたかも分からないままだっただろう。 命を奪うとは、そういう事だ。 誰かの明日を奪う。 「…もう、止めないか?」 龍晶は呟いていた。朔夜の為でもあり、本音はもう関わりたく無かったのかも知れない。 死、そのものに。 朔夜の目に感情は無かった。 深い湖のような色。吸い込まれる、と。 しかし、朔夜は龍晶に背を向け駆け出した。 「待て!」 追おうとしたが、後ろから腕を掴んで止められた。 「やめとけ」 燕雷が険しい顔で、腕を掴んだまま言った。 「あれは朔じゃない」 「悪魔でもないだろう!?俺を殺さなかった」 「ああ。だから…月だ」 「え…!?」 漸く解放されたが、龍晶はもう後を追う気が削がれていた。 月。あの眼を見た事がある。 初めてその力を見た時。その美しさに魅入られたまま、自分も息の根を止められると思った。 あの時と同じなのだとしたら。 「待とう。自分で言った通り、力尽きる前に戻って来るだろうよ」 龍晶は頷いたが、あれが朔夜ではないのならそんな約束など無意味だろうとーーしかし口には出さず燕雷について行った。 厚い曇天の向こうに、月明かりは感じられない。 [*前へ][次へ#] [戻る] |