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月の蘇る
  4
   好き放題に伸びた雑草を掻き分けると、闇の中で更に黒々と口を開く洞穴が現れた。
   桧釐がずんずんと中に入ってゆくので、龍晶も仕方なく後に続く。
   橋を落として追手を巻きはしたが、恐らく別の場所から川を渡り、また追い付かれるのも時間の問題だ。
   確かにこの洞穴ならば一時的に身を隠すには持って来いだろう。
   それにしても暗い。光の一筋も入らない、完璧な闇だ。
   桧釐の僅かな影と、足音を頼りに歩き進む。
   が、足元など到底見えない所為で、僅かな段差に躓いて転倒した。
   流石に桧釐も足を止め、跪いて起き上がる手を貸してくれたが、何ぶん見えないのであまり役には立たない。
「ここらで止まりましょうか」
   そのまま座り込んで、岩壁に身体を預けた。
   座ると、体が鉛のように重く感じた。
「寝ても大丈夫ですよ。奴らもここは気付かんでしょう」
   長い長い洞穴。多少の物音も外には漏れまい。
「ここは…坑道か?」
   北州の山々に多く掘られた、金を採掘する為の坑道。
   龍晶は入った事は無かったが、恐らくこのような物だろうと思われる。
「ええ。昔の道ですよ。今は誰も入らない。せいぜい北州の悪餓鬼が親父からの隠れ場所に使うくらいです」
「成程な」
   道理でこんな場所をよく知っている訳だ。
「あの橋も、いつか親父の目の前で落として笑ってやろうと思ってたんですが…全く、おかしな親孝行をしちまいましたよ」
   愛想程度にしか笑ってやれない。
   心まで鉛のようだ。
   子供の時分の桧釐を想像していたら、自分も子供だった頃に戻りたくなる。無理な願いに胸がひりつく。痛い。
   とにかく、時間を戻したい。一日でも良い。
   猛烈な後悔に吐き気がするのだ。
   己の判断は間違っていた。
   あの瞬間、死ぬのは自分であるべきだった。
「お休みください殿下。俺が見張ってますから。万一の時は叩き起こしてあげますよ」
   深い息を吐いて、膝を抱えて横になる。
   眠りたい訳ではないが、疲労感と体内の痛みが酷く、体を起こし続けるのは限界だった。
   それでも罪悪感が目を冴えさせる。
「桧釐」
「はい?」
「俺を売っても良いからな」
   寧ろ、そうすべきだと。
   これ以上、巻き添えにはしたくない。
「有り得ません」
   きっぱりと桧釐は言った。
「俺をそんな薄情な男だとお思いですか?」
「だが、このままではどうなるか…」
「俺があなたを見殺しにするとでもお思いですか!そんな疑心はお捨て願いたい」
   怒鳴るくらいの気迫で、しかし声を抑えて桧釐は言った。
   追われる身でなければ大声で叱り飛ばしたい所だろう。
   心を疑われた桧釐の怒りを知って、龍晶は小声で謝った。
「すまぬ」
   だが、ここで甘えて黙ってはならないのだ。
   どうにか、伝えねば。
「お前を、俺の愚行の巻き添えにする訳にはいかぬのだ。俺が死んでも自業自得だが、お前には何の罪も無い。伯母上達を悲しませるような事は出来ぬ。今ならまだ、俺を奴らに差し出す事でお前は許されるだろう。そうして欲しい。俺の願いだ」
   途中で何度も口を挟もうとする相手を敢えて無視して、龍晶は言い切った。
   ただの猜疑心や自棄で不忠を勧めている訳ではないと知った桧釐は、一度口を閉ざして。
   静かな口調で、言い返した。
「言ったでしょう。俺は間違いは間違いだと言いたい男です。己の正しいと思う事しか出来ない、馬鹿な男です。例えそれで身を滅ぼすとしても」
「桧釐…」
「殿下、あなたは何ら間違った事はしていない。だから俺はお助けする、それだけです」
「人を殺して己が生き延びた…それが間違いではないと言えるのか。悪魔の言う通り、俺はただ自分が可愛いだけで選択した…これは正義とは言えぬだろう」
   石を吐き出すような苦しい重たさで龍晶は言った。
   ぽん、と。
   桧釐の手が、頭の上に覆い被さった。
「あなたにとっては生き抜く事が何より正しい事の筈ですよ。爺さんも朱花様も、それだけを願ってあなたに託していったのですから」
   幼かった自分の助命を願って命を捧げた祖父。罪の疑惑を一人背負って闇に消えた母。
   生きなさい、と。
   最後に言われた言葉は、それだけ。
「あなたはあるべき選択をしただけです。何も罪に思う事はありません。それに、奴らのやっている事が悪政である事には間違いないのですから。それを口にしただけで追われる身となるこの国がおかしいんですよ」
「だけど…それで捕まって処刑されては…」
「捕まりません。大丈夫、俺は人間相手なら最強ですから」
「…はぁ…?」
   それは言い過ぎだろうと喉まで出掛けたが、口にする事は辞めておいた。
   根拠の無い自信でも、それに縋っているのは事実だ。
   それで少し落ち着いてきたのも。
   意思に反して重たい瞼が閉じられる。
   冷たい岩肌の上に、露で湿った衣服だけで寒くて堪らない筈なのだが、桧釐の手が触れているだけで温かく感じられた。
   意識が夢の中に滑り落ちる。
   母の腕の中で温かく包まれていた、あの頃に。

   近寄る足音に瞼を上げる。
   闇の中から現れた複数の影。
   鋭く息を吸って、逃げねばと身体を起こそうとするが何処も動かない。
   闇と同化するかのように息をも殺して、目だけを動かす。
   何も見えない。
   影が、覗き込む。
   手が延ばされて。
   もう逃げられない。
   胸倉を掴まれ、動かない身体を引き上げられ、声も出せず。
   相手が言った。
   殺してやる、と。
   その声が、自分の殺した男のものだと判ると。
   血走った眼が。
   恐怖が全身を駆け抜け、大きな息を吸って飛び起きた。
   呼吸を繰り返す。
   辺り一面、闇。誰の気配も無い。
「夢……」
   声に出さねば現実になりそうで。
   この場所では、夢と現実の境界があまりに曖昧に思えた。
   一人で無ければそうでもないのだろうが。
「桧釐」
   近くに居る筈の、今唯一頼れる存在を呼ぶ。
「桧釐…?」
   返事が無い。気配も無い。
   居ない。
   消えてしまった。
   置いて行かれた?
   確かに敵に自分を売っても良いとは言った。
   本当にそれを実行したのだろうか。
   否、そこまでせずとも、これ以上面倒事に巻き込まれない為にこの場を後にした、そう考えるのが普通だろう。
   誰だってそうする筈だ。
   他人の為に己を滅ぼすような事は、普通あり得ない。
   そう、頭では割り切れるのに。
   心がもう動かなかった。
   全ての感情を忘れてしまったかのように。
   この視界のように、真っ黒に塗り潰されて、もう何色も入り込む余地が無い。
   身体も動かなかった。夢の続きのように。
   もう、動く必要は無かった。
   全ては終わってしまったのだから。
   この世の全てに見放された。もう生きる道は無い。
   あとは、死に方を選ぶだけ。それさえも無駄に思える。
   もういい。このまま、本当に闇に溶けてしまえばーー
   足音。
   全身に戦慄が走る。
   確実に、こちらに近付いてくる。
   殺される。
   逃げるべきか。否、逃げねば。
   身体が強張り、震えて動けない。
   逃げても無駄か。
   とうに諦めた生ではないのか。
   どう足掻いたって、結果は同じだ。
   それでも、死に方を選ぶのなら。
   震える手で刀を抜く。
   逃走時に兵を斬った血糊がそのまま付いている。刃毀れもして、恐らく切れ味は期待出来ない。
   楽な方法なんて俺に残されてはいないんだなと内心で自嘲した。
   足音はすぐそこまで迫っている。
   明かりが岩壁に反射する。随分久しぶりに光を見た気がした。
   その光の輪の中に、人影が。
   のろのろと刀を持ち直す。
   刃を反対に向け、己の喉元へ。
   まだ何か信じられない気持ちもある。ずっと心の何処かで願っていた瞬間。
   まだ、その時ではない気がして。
   まだ、何かをし忘れている気がして。
   もう自分に何も期待されない世界なのに。
「殿下」
   光の輪の中から声がした。
   目が眩む。
   瞬間、暗転して、桧釐が龍晶の手から刀を振り解いた。
   地面に落ちた松明は燃え続けている。
   呆然と、逆光になった恩人の影を見上げた。
   これはまだ夢の続きだろうか?
「殿下…龍晶様。馬鹿ですねぇ。俺に捨てられたと思ったんでしょ」
   悪戯ぽく笑う従兄の声で、漸く現実の輪郭が見えてきた。
   夢ではない。きっと。
   まだ、現に居られる。
「ほら、俺は裏切りもせず、ちゃんとあなたの側に居ますよ」
   肩を両手で包まれる。続いて頬を軽く叩いて。
   全身から力が抜けた。
   腕に抱えられ、胸に顔を埋めて。
「……終わったと思った」
   呟きに、豪快な笑いが返ってきて、頭をぽんぽんと叩かれる。
「大丈夫ですよ。仲間を迎えに行っていたんです、ほら」
   視線を上げると、知らぬ顔が。
   否、見覚えがあると言えばある。あの道場で見た顔だ。はっきりとは覚えてないが。
「黄浜(コウヒン)という名です。何かと役に立つ奴でしてね、俺が逃げ込むならここしか無いだろうと探しに来てくれた」
   桧釐よりも若いであろう青年は、龍晶に深々と頭を下げた。生真面目そうな雰囲気だ。
「この灯りと、ほら、飯を持って来てくれたんですよ。気が利く奴でしょ?」
   桧釐が言いながら竹皮に包まれた握り飯を開いて見せる。
   ほら、と鼻先に差し出され、手はそれを取ったが、食べるという行為まで意識が行かない。
   初めて見る物のように、握り飯を見ている。
   それが食糧だという事は理解出来る。
   だがその食糧を己が取るという事に、大きな違和感があった。
   生きる為の糧。それを、何故己が必要とするのか。
   生きていても良いのか。
   死を覚悟したばかりなのに。
「食欲がありませんか?」
   桧釐に問われ、思わず頷く。
   食欲が無いというのは嘘ではない。
   ただ、桧釐が考えているような理由ではないのは確かだ。
   気分が優れないとか、気が動転して食べるどころではないとか、そんな理由ではなく。
   食べるという行為の意味が見出せない。
   生きてゆく意味を失ってしまった。
   全て、闇の中。
   桧釐は握り飯を包み直し、懐に納めて灯りを手に取った。
「さて、少し歩きますよ。いつまでもこんな所に居られないでしょう?」
   少し安堵して頷く。確かにここは敵の目に付かないが、居続けると気が狂いそうだ。
   黄浜を先頭に、彼の持つ灯りを頼りに龍晶が続き、その後に桧釐。
   出口に向かうのかと思いきや、洞窟の奥へと進み始めた。
「何処へ?」
   前を行く黄浜に問う。
「この山の裏側です」
「先人達は、この山の方々に坑道を掘り巡らせているのですよ」
   後ろから桧釐が口を添え、それでも首を捻ると、前から黄浜が答えを出した。
「別の出口があるのです、殿下。決して他所者の目には付かない出口が」
「…そうなのか」
「少し遠いのですが、ご辛抱下さりませ」
   前を行く灯りだけを頼りに歩き続ける。
   時間感覚が判らない。どれだけ歩いているのかも、そもそも今が昼夜どちらかも。
   不意に、遠くから笑い声が聞こえた。
   思わず立ち止まる。
「…殿下?」
   悪魔の声がする。笑い声の中に、己を呪う言葉が。
   お前は逃げられはしない。
   何処へ行こうと苦しませてやる。
   お前は罪人だーー
「殿下」
   桧釐に肩を揺すられ、我に返った。
   声は消えた。
「…何でも無い」
   幻聴だ。この闇の中で、崩れかけた正気が作り出した恐怖の幻だ。
   一つ息を吐いて気を取直し、歩を進めようとしたが。
   動かした視線の先に多禅の末期の顔を見、思わず叫んで腰が砕けた。
「殿下!?」
   二人に抱えられて、だがもう足に力が入らない。わなわなと体が震える。
   顔は消えない。それどころか増えてゆく。これまで見てきた屍の顔が己を睨む。そして呪う。お前もこうなる筈だろう、と。
   目をきつくきつく閉じる。耳元で呪う声が聞こえる。逃げ場は無い。
「どうも熱があるようだ」
「疲れが溜まっておられるのでしょう」
   現実の二人の声が遠く聞こえ、龍晶は縋るように呟いた。
「桧釐…」
「はい?」
   消え入りそうな声に、口元に耳を寄せる。
   その従兄の耳元に、龍晶は懇願した。
「もう、駄目だ……殺してくれ」
   桧釐は目を見開いて耳を離し、真顔で従弟を見下ろした。
   瞼が開き、熱に浮かされた目が己を見上げる。しかし焦点が合っていない。
   すぐにまた酷く怯えた表情を浮かべ、ぎゅっと瞼を閉じる。
「…早くここを出ましょう」
   桧釐は龍晶に告げ、その体を背負った。
   熱い。これは並の熱ではない。
「腹の傷が開いてしまいましたか?その上寒い所で寝かせてしまって、殿下お得意の発熱となりましたかね?」
   わざと軽口にして問い掛けるが、背中の上から何か返る気配は無かった。
   それでも桧釐は続けた。
「俺に朱花様のような看病は期待しないで下さいよ?いえ、殿下がもう少し小さければ俺だってあなたを懐に入れる事も出来ますがね。十年前のようにはいかないや…殿下?」
   荒い息遣いが足取りを焦らせる。
「生きて下さいよ……朱花様の為にも」
   魘される声の中に、嗚咽が混じった。
「お辛いでしょうが、もう少し辛抱して下さい。きっと安心出来る場所がありますから」
   幼子に言い聞かせるように桧釐は語りかけ、龍晶を背負いながらも早足で洞穴を駆ける。
   早く外の空気を吸わせてやりたかった。
   体も相当に心配な状態だろうが、それ以上に精神的に少しでも楽にしてやりたい。その一心で。
   正直、殺してくれと口にしてしまう程に追い詰められる人の心持ちは理解出来ない。
   以前なら何を馬鹿な事を、と内心毒付いていただろう。だが今は、そうやって斬って捨ててしまう気にならない。
   自分の姿が見えないだけで絶望し、彼は自死を選ぼうとした。
   今、彼が手を延べられる相手は、己一人なのだ。
   祖父や叔母、それに未だ知らぬもっと多くの人々が生かそうとした命を己に託されて、捨てる事など出来なかった。
   生かさねば。
   延ばされた手を引いてやらねば。
   彼が己の足で立てるその時までは。
   嗚咽が止まり、荒い呼吸が寝息に変わる頃、闇の向こうに陽の光が見えた。



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