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月の蘇る
  3
   篝火が照らす横顔は、何処か青白く見える。
   囲む兵達は炎の色を映して橙がかって見えるのに、これは精神が齎す錯覚だろうかと、桧釐は目を擦った。
   もう一度、龍晶の横顔に目をやる。
   闇の中にくっきりと陰影を付けて、彫刻の様な美しさだ。
   少し悩ましい表情も。
「…何だ」
   流石にじろじろ見られる視線が気になったのか、こちらを睨んできた。
「いえね、殿下のお顔を改めて拝見してたら、朱怜が惚れるのも仕方ないかなーって」
「はあ?何言ってんだこんな時に」
「良いじゃないですか。こんな時だから馬鹿な事でも言わせて下さいよ」
   辺り一帯、それどころか北州全体が異様な緊張感に包まれている。
   その緊張の中心たる彼の側に居るには、的外れな馬鹿話を出来る神経が無いと持たないと思うのだ。
   桧釐はわざと場の緊張を掻き回そうとしている。
「どうなんですか、殿下?朱怜の奴は本気ですよ?殿下はあいつに惚れられますか?」
「問いがおかしいだろそれ。惚れられるかって」
「いやぁ、あなたが本気で女に惚れる時ってのが想像付かないんですよね」
「俺も付かねぇよそんなもん」
「やっぱり」
   睨む龍晶を桧釐は笑い飛ばす。
   並ぶ兵達が白い目でこちらを見る。
   龍晶はその視線を受け取った上で、桧釐の考えに乗った。
「お前はどうなんだよ?所帯持っても良い年だろ?ま、父親に勘当されるような男に所帯なんざ無理難題だろうが」
「ええ、ええ。どうせ俺は気楽な独り身ですからご心配無く。ま、殿下のような堅物ではありませんので、適当に遊んではいますがね」
「お前、立場って言葉を知っているか?」
   兵同様、軽蔑しきった白い目で桧釐を見る。
   だが、相手も相手だった。
「おいたわしい事で。そのお立場では、男として知って然るべき事も知る事が出来ないのですなぁ」
「本気で馬鹿かお前は」
   言い捨てて視界から外す。
   朔夜と一緒にするな。そう言いかけて、やめた。
   その名を出したら、桧釐が壊そうとしたこの緊張感がまた甦る。
   全身を寒気が駆け巡る。恐怖だ。怖い。怖くて堪らない。
   なのに、待たずにはおれない。逃げようとは思えない。
   再会すべき、あいつが来る。
「殿下は、誰でも良いんですけど、誰かと幸せに暮らす事を知った方が良いですよ。俺が言えた事じゃないかも知れませんが」
   先刻までの揶揄う口調とは一転して、訥々と桧釐が呟いた。
   龍晶は少し目を見開いて従兄弟を見やる。
「独りじゃない幸せを思い出して下さい。だからその為に俺は、あなたを生かしたい」
   口を閉ざしたまま、前へ向き直る。
   この闇の向こうに、死神は居る。
「…あんまり甘い事を言うなよ。勝負はこれからだ」
   桧釐は諦めた笑みを浮かべて、頷いた。
「ええ。分かってますとも」
   街の中心に陣を構え、兵を囲ませたその中央で龍晶は待ち受ける。
   悪魔は己を狙って来ると告げた。
   俺を囮にし、必ず捕らえよと命じてある。
   誰もが悪魔への恐怖を抱いている。その恐怖の中で、それに勝たねばならない。
   各々の中で膨らむ恐怖に飲み込まれたら、負けだ。
   桧釐はそれを分かっている。だから周囲の気を紛らわそうとしている。
   怖いのは彼も同じだろう。
「寒くなってきましたな」
   無意識に腕を組んで手を温めている龍晶を見、桧釐が上着を脱いで言った。
   縮こまる肩に上着を掛ける。
「お前、慣れてるな」
   先刻の話の続きではないが、苦笑して龍晶は言ってやった。
「お陰様で、殿下のような朴念仁にならずに済みましたので」
「は?それ本当かよ」
   自分の事はともかく疑いの目を向けてみる。
「年の離れた妹やら従兄弟のお坊ちゃんのお世話やら引き受けさせて貰った経験値ですかね。変な所で役に立つものです」
「やっぱりな」
「やっぱりじゃないですよ。感謝して下さいよ」
「するか、そんなもん」
   鼻で笑って、しかし胸は締め付けられるようだった。
   全てが輝いていたあの頃を思い出すには、今は辛過ぎる。
   それともこれは、走馬灯のようなものだろうか。
   この美しい思い出を持って、あの世に逝くという事か。
   そんなものは出来過ぎだ。
「終わった事なら、ありがとうございましたと言ってやる。まだ終わらせるな」
   まだ、死ぬ気は無い。
「そうですね。それでは永遠に感謝して貰えそうにありませんが」
   桧釐が笑いながら言った。
   死ぬまでこの人の側におらねばならぬのだろうと思った。
   そう嫌ではないが。
「馬鹿話も大概にしておけ。不謹慎だろ、宗温に対して」
   この状況や真面目に見張りを続けている兵達ではなく、宗温なのかと桧釐は軽く笑った。
   彼は今、避難する住民達と共に居る。
   誰か置かねば万一民に何かあった時に不安であるし、何より宗温と多禅を真っ向から会わせたくなかった。宗温に対し、悪魔を逃した責任を多禅が罵り始めたら面倒だ。
   こんな時に殿下の側に居れないのは、と宗温は街に入りたがったが、龍晶から民の側に居るよう頼んで渋々折れた。
   その悔しそうな顔を思い出して桧釐は訊いた。
「どうしてあの人は殿下の味方をしてくれるんでしょうね。それも、命懸けで」
   何の所縁も無いのに、そこまで龍晶に肩入れする軍人は他に居ない。
「さてな。お前の様に下心があるのかも知れないが、何が狙いかさっぱり分からない」
「下心じゃありませんよ、失礼な。俺のは立派な上心です。そんな言葉があるのか知りませんけど」
「無い」
「…いや、話は宗温です。成り行き上とは言え、殿下と一緒に捕虜になったり、この道中だってさっさと軍を従えて帰るべき所を我々と同行して。先刻だって、殿下を守れないとなると本気で悔しがってましたよ?殿下には失礼ですが、あの人が何故そこまで利点も無いのに殿下を守ろうとするのか不思議で仕方ない」
   龍晶はたっぷりと間を置いて、周囲を見回した後、口を開いた。
「この中に信用に足る人間が何人居るだろう?誰もが俺に殺意を抱いているとは思わないが、命令一つあれば俺を殺しに来るだろう。それが当然だ」
「…宗温は違うと?」
「あいつは恐らく、俺に刃を向ける事は無い。不思議とそう思える。…多分、俺たちは善悪の尺度が似ているんだろう」
「善悪の尺度、ですか」
「この国では貴重な考えの持ち主だろうな。俺の言葉が通じる」
「異邦人ですか。あなた方は」
「…そうやも知れぬな」
   鼻で笑って答えたが、あながち冗談だけではないのかも知れぬと思った。
   もしかしたら、自分も宗温も、異国の血が混ざっているのかも知れない。
   その血が、人間的な正しさを忘れたこの国でものを言っている。そんな可能性もあるだろう。
「もし俺にそれなりの自由が与えられるなら、その異国をこの目で見てみたいな。この国には無い思想に触れてみたい」
   龍晶の若者らしい、希望ある言葉に桧釐は微笑んで頷いた。
「行けますとも。俺もお供しますよ」
「頼んでない」
「またまた。本当は付いて来て欲しい癖に」
「邪魔になるだけだ」
   龍晶が言いながら顔を背けた。何か異質の音を聞きつけたように。
   その顔が、青褪める。
   桧釐は咄嗟に刀を抜いた。それくらいしか出来なかった。
   敵の姿は無い。ただただ、緊迫した痛い程の静寂だけ。
   兵達もその動きを止めて辺りを窺っている。
   桧釐が気のせいなのではないかと疑った時。
   顔面に、ぬるりとした液体が降りかかってきた。臭いでそれが何かはすぐに判る。血だ。
   血の雨の後、重たい音を発てて死体が頭上から落ちてきた。
   兵であったそれから視線を上に向ける。
   人家の屋根に立つ、人影。
   月光を背から浴びて。
「…朔夜」
   龍晶が色を失った唇で呟いた。
   血のように赤い唇が、にやりと嗤う。
   朔夜ではない。解ってはいる。
   だが、龍晶は頭を振って再度呼びかけた。
「朔夜」
   刹那、悪魔は飛び降り、下に群がっていた兵達を斬り伏せ、次の瞬間には龍晶に刃を突き付けていた。
   あまりに一瞬の事で、身動き一つ出来なかった。
「よく来たな、龍晶。歓迎してやるよ」
   喉元から短剣を離さず、悪魔は言った。
   恐怖と驚き、混乱で返す声も出ない。
「止めろ、朔夜」
   横から桧釐が牽制した。
   彼もまた刀を構える事すら出来なかった。
   動けば、龍晶の命は無い。
「お前らわざと嫌がらせで言ってるのか?俺は朔夜じゃない」
   柳眉を顰めて悪魔は面倒臭そうに言った。
「解っている。だけどお前は朔夜でもあるだろう?お前を止めるには、あいつに戻って来て貰うしかない」
   桧釐の言葉を鼻で嗤って、悪魔は龍晶に向けて告げた。
「あいつは俺が殺したよ」
   嘘だ。
   声にならぬ声で叫ぶ。
「ま、消えたがってたから消してやったんだ。一種の親切だな。昼間だろうともうあいつが表に出てくる事は無い」
「嘘だ」
   やっと、出てきた声で呟いた。
   叫びたくとも、呼気以上の大きさにはならなかった。
「お前すごい間抜けな面してるぞ。美麗の王子様が台無しだ」
   嘲笑って、悪魔は龍晶の胸倉を掴んだ。
「大事なお友達を失くしてそんなに悲しいか?言っておくが龍晶、朔夜を殺したのはお前でもあるんだぜ?」
   言葉が無い。
   そうだ。それが事実だ。
   記憶を無くした朔夜を利用し、追い詰め、この世界から彼の居場所を奪ったのは、自分だ。
   そうせねば、消されるのは自分だったから。
「…俺を殺すか?」
   突き付けられる刃の意味を問うた。
   朔夜の代わりに悪魔が己に復讐すると言うのなら、それで良いと思った。
「お前を今殺しても面白くないだろ。取り引きと行こうぜ、龍晶」
「取り引きだと?」
「お前の大事な物を問うんだ、これは面白いぞ」
   分からない。悪魔の考えに顔を顰める。
「お前の大っ嫌いな野郎が居るだろ。多禅だったか。あいつを呼べ」
「何故」
「良いから。早くしろ」
   桧釐が兵の一人に頷き掛け、その兵が走り去って行った。
「何を企んでいる」
「お前さ、言ったよな。自分一人の命だけで済ませられるなら謀反も躊躇わないと。お前は常々、自分は死んででも他人を救いたいってその口でご立派な事をほざいてた。それがただの虚飾だったから朔夜は死んだ。そう思うだろ?」
   他人の苦しみを、結局自分の命には変えられなかった。
   自分可愛さの為に。
「それをきちんと自覚持って貰おうと思ってさ。お前は自分が救われたいだけで、他人なんて虫螻程度にしか考えてないどうしようもない非道な人間だって」
   兵が駆け戻ってきた。
   後ろからのろのろと付いて来た多禅が、悪魔の姿を見て動きを止めた。
「聞いてない…聞いてないぞ!くそ!嵌めたな!」
   兵に向けて怒鳴り散らす。悪魔の居る事を彼は敢えて告げなかったのだろう。
   当然だ。悪魔が居ると言ったら、多禅は決してこの場には姿を現さない。そうすれば、呼びに行った兵に悪魔の怒りが向きかねない。
「もう遅いよ、おっさん」
   逃げようと踵を返そうとした多禅を笑って、悪魔は地を蹴った。
   かなり距離はあった筈なのに、気付けば多禅が引き返そうとした目前にその姿がある。
   歴戦の将が、ぎょっとして目を剥いた。
「動いたら、斬るよ?」
   言い置いて、悪魔は龍晶へ視線を送った。
「本題はここからだ、龍晶。取り引きだよ。お前を殺さない代わりにこのおっさんに死んで貰う。それともお前が死ぬか、どっちかだ」
   流石に即答は出来なかった。
   自分が死ぬか、自分の代わりに忌み嫌う男が死ぬか。
「迷う事は無いだろ?お前にとってこんなに有利にしてやってるのに」
   悪魔が微笑む。その向こうで、多禅の悲鳴とも怒号とも付かぬ叫びが響く。それはもう意味を成す言葉ではない。
「殿下、決まっています。あなたがここで死ぬ事は無い」
   桧釐が囁く。それすら悪魔の甘い誘いに聞こえた。
   自分が救われたい、それだけ。
   そうじゃない、そんな筈では無かったと心の半分が叫ぶ。
   ならばお前はあの男を救って死ねるのかと、心のもう半分が問う。
   あの男だろうが、誰だろうが関係無い。悪魔は俺が命を賭して他人を救えるか、それを試しているのだと答える。
   その試みに乗って死ぬなんて、そんな馬鹿な事をしてどうする。
   死んだら終わりだ。
   お前は多禅ではなく、朔夜を救いたくて今この場に居るのだろう。
   そして救うべきは朔夜だけではない。もっと多くの人たち。
   この国で声も出せず日々の苦しい暮らしに耐える、たくさんの人たち。
   彼らを救う為に俺は生きているのだろう?
   そう、母に託されたから。
   死んだら、それはもう出来ない。
   破れかぶれでも、今、ここを、生き延びろ。
「多禅…済まない。死んでくれ」
   きっぱりとした声で、告げた。
「お前は王の悪政に加担した。その報いだと思え」
「貴様…!!」
   多禅の怒号が続く前に。
   それは断末魔となった。
   その余韻に覆い被さる、悪魔の高笑い。
「よく言ったなぁ龍晶!お見事お見事。正真正銘、お前が殺したんだぜ?」
   屍を足で蹴りながら悪魔は高笑いを続けた。
   耳を塞ぎたかった。が、出来なかった。
   身体中、それこそ指の関節一つさえ、強張って動かない。
   俺が殺した。
   人を、殺した。
   違う。悪魔の所為だ。
   だけど、俺が選んだ。事実だ。
「今あった事、お前の大っ好きな兄貴にそのまんま伝えてやるよ。褒められるぜ?きっと」
   やめろ。それだけは。
   今口走った事があの人に知れたら、俺は、どうなる?
   終わりだ。
「じゃあな。これが今生の別れかも」
   悪魔が闇に溶ける。
   血の匂いだけが残る。
   感覚は麻痺して。
   目前に深い闇が垂れる。
   もう、終わりだ。何もかも。
「…殿下!殿下!」
   桧釐に肩を揺さぶられて、己がそこにへたり込んでいる事に気付いた。
「しっかり!立って下さい!」
   切羽詰まった声に漸く現状を把握した。
   兵達が、皆こちらに迫って来ている。
   じわじわと、包囲を縮め、刃を向けて。
   背筋が凍った。
   俺は、反逆者だ。
「逃げますよ!」
   桧釐の一言を合図に震える足を叱って走り出した。
   兵を斬り伏せ包囲を突破した桧釐に腕を引かれるまま走り続ける。
   何度も追手に掴まれそうになりながら、必死で振り払い、時には自ら刃を振るって逃げた。
   しかし一軍を相手に逃げおおせられる筈が無い。
   満身創痍の龍晶は、そもそも走る事すら難題だった。足が縺れ、腹部は切り裂かれたように痛み、頭は理性を霞めさせた。
「もう良い、桧釐…お前だけ逃げろ」
   膝を地に着けた龍晶を一瞥し、桧釐は片腕に彼を抱えた。
   追手との距離が縮まる。
「もう良いと言っているだろう!離せ!」
「動かないで下さい!邪魔です!」
「邪魔なら離せ…」
   桧釐の腕の力は細やかな抵抗も許さなかった。
   脱力して、なされるがまま、夜露を溜めた下草に全身を撫でられる。
   真暗な山道をずんずんと登る。後ろからはまだ追う足音が聞こえる。
   俺だけ殺させれば良いのに、馬鹿な男だなと心の内で呟いた。その途端、不意に涙が出た。
   一雫、夜露に紛れさせて。
   川のせせらぎ。月光にきらめく流れ。
   桧釐はその上に掛かる橋を駆け渡る。
   渡り終わるや否や、橋を支える綱を斬り裂いた。
   橋が渓谷に落ちる。
   道を失くした追手の足が止まった。
   その隙に、二人は闇の中へ駆け込んでいった。


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