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月の蘇る
  1
   近付いてくる顔を見て、燈陰はこの場を去るべきかどうか考えてしまう。
   結局逃げる場所も無く、先方は思い切りこちらに用有りげに寄って来ているのでその場に留まった。
「やぁ、完璧に農夫ですねぇ」
   挨拶代わりにそんな事を言われては睨むより無い。
   尤も、否定はしようが無い。開墾した畑で鍬を片手に一服していた。端から見れば農夫以外の何者でもない。
「何の用だ。藪から棒に」
   ここに顔を出すのは半年振りくらいだろう。他国から時折帰って城に滞在しているのは知っていたが。
「おや、お邪魔でしたか?ご子息の近況をお知らせしようと参ったのですが」
「皓照、勿体振らずに早く言え。燈陰が苛立ってるぞ」
   数歩遅れてきた燕雷が走り寄って来るなり助言した。ご尤もである。
「そうですか?それは失敬」
   相変わらずの、何処か楽しそうな、他人を馬鹿にしているような笑みで言いながら、皓照は書状を懐から出した。
「ええと…ああ、ここですね。朔夜君はどうやら、哥軍との戦の中で記憶を失ったそうですよ。梁巴での幼少期の記憶しか残っていないようです」
「…へえ、それは結構な事だな」
   一言だけ、声を漏らす。
   それ以上の感想も何も無かった。
「お前な…」
   文句も呆れて出て来ないと言わんばかりの燕雷を一瞥して、燈陰は言い訳代わりに付け足した。
「どうせ覚えていてもロクな事が無い記憶だ。無くなったならそれで良いと思うが」
「ところが良い事ばかりでは無いようですよ」
   すかさず皓照が口を挟んで、嬉々として文面を読みだした。
「記憶を失った弊害が出ているようです。…記憶を失う事で自我が無くなり、その代わり悪魔の人格が暴走している。味方の兵を百人以上殺害し、現在は消息不明…と、報告が来ています」
「それを聞かせに来たのか」
   燈陰は大きな溜息を吐いて、鍬を両手に持ち直し、その持ち手の先に額を乗せて下を向いた。
   当然、聞きたい報告では無かった。
「いきなり現れたと思ったら…まるで嫌がらせだな。あいつの事なんか忘れたいのに」
「俺が教えるべきだと言った。こいつに親心なんぞ理解出来ないだろうから」
   燕雷が皓照を指して言う。
   だが、隠した顔で燈陰は自嘲した。
「生憎だがな、俺にも親心なんか理解出来ない。そいつと一緒になるのは癪だが」
「え?何で癪なんですか?」
   相方のすっとぼけは無視して燕雷は言い返す。
「お前は理解出来ないんじゃない、逃げてるだけだろ」
「どっちでもいい…どうせ俺に出来る事は無い」
「分かってるよ!それでも知るべきだろ、親なんだから!」
   鍬から頭を離し、胡散臭げに皓照を見上げる。
「…その手紙、誰が書いたんだ」
「戔の軍部に潜り込んでいる私の部下です。信憑性は保証しますよ」
「お前自身が信じられん」
   言い放って、首を傾げる皓照を尻目に鍬を放り歩き出す。
「何処へ?」
「お前達の居ない場所」
   ただ与えられた屋敷に帰るより無いのだが。
   二人の顔をこれ以上見る気にはならない。そして、あの顔を思い出すのも。
   せっかく、借り物でも己の生活が成り立ってきた矢先なのだ。
   これ以上、己に関係の無い事で掻き回されたくない。
「朔夜がどうなっても良いのか!?」
   背後から燕雷が叫んだ。
   どうなっても良いから逃げてるんだ、と内心で毒付いた。

   強がりも一日持たなかった。
   桧釐に支えられる形で馬に乗り続けたが、日が落ちる前に根を上げた。
   傷が痛むのは当然だが、それを我慢し続けているうちに熱が上がって吐き気がしてきた。
   馬を止めさせ、ずり落ちるように下馬し、嘔吐するともう龍晶には立つ力も無かった。
「致し方ありません、今日はここまでです。この近辺に人家が無いか探してみます」
   宗温が告げて、馬を回し泊まれる家を探しに行った。
   ぐったりと道端に倒れる主人を抱き上げて、桧釐は途方に暮れた。
「やっぱり無茶ですよ。もう少し回復してから戻りましょう?」
   腕の中で、子供が我儘を言うように首を振って否定する。
   体は弱い癖に、その意志だけは強い。周りが参ってしまう。
「全くもう…変わりませんね、そんな所は」
   怪訝な顔をされて、桧釐は口元を緩めて言ってやった。
「どれだけ俺に竹刀で打たれても、周りが全員もうおやめなさいって止めても、あなたは絶対辞めるとは言わなかったでしょう?仕方ないから俺が参りましたって降参して止めるしか無かった」
「…昔の話だな」
「今も同じですよ」
   はぁ、と溜息し、そのまま笑って。
「振り回される身にもなって欲しいものです。ま、良いんですけどね」
   相手は運命に振り回されている御仁だ。そんな人に付き従っているのだから仕方ない。
   蹄の音に顔を上げると、宗温が戻って来た。
「この坂の上に一軒、人家があります。殿下、もう少しご辛抱頂けますか?」
   龍晶が小さく頷く。
   桧釐は大きく頷いて、彼を再び馬上に乗せた。
   細い横道に入り、山の方へと道を上がってゆく。程なく、人工物が見えた。
   殆どあばら家と言っても良いような家だ。
   宗温が先に行き、家の前で下馬して戸を叩いた。
   少し離れた所で二人は様子を見る。
   宗温は扉を挟んで家主と話をしているようだ。どうも交渉は難航しているらしい。
   見兼ねて桧釐は馬を寄せた。
「どうした」
   馬上から宗温に尋ねる。
「この家の主は我々が怪しい者ではないかとお疑いなのですが、どうやって害は無いと証明しましょうか」
「そんなもの…」
   困り顔の宗温に、桧釐は懐から財布を出し銅貨を渡した。
「これをやれば物盗りではないと言えるだろ?」
「成程、ならば私が。これはお返しします」
   銅貨を桧釐の手に返し、不満顔で見られながら宗温もまた懐に手を入れた。
   そして出されたのは銀貨だった。
「さすが、国軍にお勤めの方は持ってらっしゃるな」
   舌を巻いて桧釐は銅貨を収める。
「使い途が無いのでね」
   言いながら宗温は扉の隙間に銀貨を差し込む。
「これで信用下さりませんか。せめて病人だけでも宿を取らせて貰えれば」
   家の内に呼び掛けると、やっと扉が開いた。
   中に居たのは、山男のような風貌の大男。
   獣の匂いが家の中からむっと外気に混ざる。
「厩は裏だ。繋いで入れ」
   それだけ言い置いて、また扉は閉められた。
   桧釐と宗温は、目を丸くして互いに見合う。
「…家の裏に回ってみましょうか」
   とりあえず指示に従う事にした。
   確かにそこに厩があり、そこへ馬二頭を繋いで、龍晶と荷を抱えていると、家の裏口が開いた。
   家主は戸を開けるだけ開けて、さっさと中に引っ込む。
   入れという事なのだと解釈して、その裏口から屋内へと足を踏み入れた。
   中は炉があるだけの一間。
   土の上に炉を囲む形で四枚の筵が敷いてある。
   端に荷を置き、男が顎で示すままに、一枚の筵の上に龍晶を寝かせた。
   その顔が随分不安そうで、抱えていた桧釐は肩頬で笑った。
「大丈夫ですよ。あなたにとっては城より安全な場所の筈です」
   それを言われると不承不承といった風に寝転ぶ。如何に不遇の彼でも、筵に寝かされた事は無いだろう。
   とは言え、落ち着けないのは桧釐も同じだった。
   家主たる男の異様な威圧感がどうにも気になる。只者ではない。
「一晩よろしく頼む。名は何と?」
   とにかくこの岩の様な男の態度を何とか崩そうと問うてみるが、睨まれて返された。
「名乗る必要は無い。さっさと寝て、朝になったら出て行け」
   取りつく島も無い。
   桧釐は思わず苦笑いで、壁に張り付くように立ったままの宗温と目を合わせた。
   こちらもまた、参りましたと言いたげな困った笑みを浮かべている。
「ならば好きにさせて貰うぞ」
   桧釐は居直って筵の上に胡座をかき、家族の作った弁当を広げた。
「宗温、さっさと食って寝てしまおう。殿下は食べられますか?」
   筵の上の頭を小さく横に振る。
「では我々で頂きます。少し残しておくので熱が引いたら召し上がって下さい」
   二人で食べている間も家主の男はむっつりと黙ったまま、ふいと裏口から姿を消した。
   特に気にする事も無く、三人並んで筵の上で眠った。

   真っ暗な室内に、黎明の光が一筋、裏口から差し込む。
   薄ぼんやりとした空間がぐにゃぐにゃとかき混ぜられるかのような錯覚に、龍晶はもう一度目を瞑った。
   しばし目を落ち着かせて、もう一度開く。
   幾分かまともになった視覚を頼りに、部屋を出た。
   酷く喉が渇いていた。井戸が無いだろうかと思い、夜明け前の青い光に包まれた屋外へ。
   目当ての物はすぐには見つかりそうに無かった。その代わり、物音を聞きつけてその方向に向かった。
   厩の横にある小さな小屋から、しゅ、しゅ、と軽い音が繰り返し発せられている。
   どう考えても人間が故意に出している音だ。扉代わりの筵を押せば、案の定そこには家主が居た。
   蹲るように座り丸まった背中の向こうで手にしているのは剥き出しの刀身。それを砥石に擦り付けている。
   狭い空間には新旧、大小も様々な刀がいくつも転がっていた。
「何用か」
   背中を向けたまま、作業を止めず男は問う。
   我を忘れて作業に見入っていた龍晶は、急に声をかけられた事に驚きながらも答えた。
「水を頂けませんか?」
   男は砥石の奥に置かれている甕から、柄杓にざぶりと水を汲み、先ず砥石の上にいくらか水を落としてから背中越しに龍晶へ突き付けた。
「ありがとうございます」
   柄杓を受け取り、礼は言ったものの、すぐに口を付ける気にはならない。どう見てもこれは作業用の水だ。
   中身を観察し、まだ綺麗と言える部類かと思い直し、恐る恐る口に含む。
   取り敢えず一口だけ、喉が湿った事で満足した事にして、残りの水は捨てた。
「刀研ぎを生業としておられるのですか」
   柄杓を返しながら問うてみる。この男から特に返事も期待していないが。
   だが意外な事に、問いを問いで返された。
「御身は何者か?」
   龍晶は態度を改め、丁寧に返した。
「これは、名乗りもせず失礼を致しました。私は先の王龍晨(リュウシン)の子で龍晶と申す者です」
「成程、罪人の子か。道理で従者も正体を名乗らぬ訳だ」
   咄嗟に言い返せず龍晶は口を噤んだ。
   今更何を思う訳でもない。罪人の子と指差されるのは常の事だ。
   それでも、言うべきは言わねばと重い口を開いた。
「罪人とは流言に過ぎませぬ。母に罪など無い」
「当人の知らぬ所にも罪は有ろう」
   言われて、いよいよ言葉に詰まる。
   そんな言われ方をされるのは、初めてだった。
「何ゆえそう言えるのですか」
   詰め寄って、初めて相手は肩越しに振り返った。
「そこに座りなさい。まだ無理の出来る身ではあるまい」
   これまでとは違う温かみのある言葉に、龍晶は戸惑いつつも素直に従った。
   古びた椅子に腰掛ける。
「その椅子に、よく息子が座って作業を見てたもんです」
   手を動かしながら、ぼそぼそと男は独白した。
「ちょうどあなた程の歳でした。あいつはこの稼業を継ぐものだと思っていたが…それは叶わなかった」
「何故?」
「死にました。北州の、金山の中で」
   淡々と、男は言う。
   龍晶は何度も同じ様な話を聞いてきた。それはあの貧民街の人々が同じ苦難を背負って来たからだが、今ほど胸に迫った事は無かった。
   貧民街では施す側として話を上から聞いていたに過ぎない。
   今、この男には何も出来ない。ただ淡々と押し出される言葉を聞かされるだけ。
「この稼業は戦が無ければ成り立たない。刀が戦で磨り減って初めて我々は食っていける。だが、あなたの母上は戦を良しとしなかった」
   突如変わった話に龍晶は眉を顰めた。
   確かに母は公然と戦を続ける事を批判した。武より文を重用せよと、龍晶だけではなく周囲に言い続けていた。
「それが母の罪と言うのですか。あなたの稼ぎを減らした事が?」
「息子が北州に行ったのは、これから先、刀を研いでも稼ぎにならぬと考えたから」
「それは…」
「言い掛かりと言われればそうでしょう。だが儂からすれば、息子は失わずとも良い命を失った。あなた方が台頭さえしなければ…或いはもっと早く失脚しておれば、時勢を読み違える事も無かったろうに」
   唖然として、男の背を見詰める。
   俺達を責めるのは筋違いだ、全て自業自得だと、詰るのは簡単だった。
   だが、何も言えなかった。
「雲上のお方に、地を這う虫螻の愚痴など届きやしないだろうが…」
   再び手を動かしながら、男は呟く。
   彼には見えぬが、龍晶は小さく首を横に振った。
   地を這うのは、己も同じだった。
「…俺に何か償えるでしょうか」
   男の手が止まる。
「あなたが罪と言われるならば、俺は償わねばならぬでしょう。どうせ長くはない身です。惜しむものは無い」
   男が身体ごと向き直って龍晶を真正面から見据えた。
   手には刀を持ったまま。龍晶は俯いて、その刃をぼんやりと見ていた。
「命も惜しくないと言われるのか」
   男が問う。
「いずれ失う命です。惜しいとは思わない…怖いけど」
   俯いたまま、ぼそぼそと答える。自嘲も出来ない。
   重たい沈黙が続いた。
   龍晶は、この男の怒りと悲しみを想った。ここで独り、それを抱き続ける人生を考えた。
   想像に難い事は無かった。やり場の無い憎しみを抱え続ける孤独は、自分だって知っている。
   絞り出すように、男が声を発した。
「互いに多くを失ってきました。もう十分です」
   龍晶は男の顔を上目遣いに見たが、すぐに背中を向けられた。
   また、刃を研ぐ。
   戦で人を斬る刃を。
「…戦を止めよと言った母は間違っていないと、俺は信じています。でも、戦は無くなりはしません。…俺自身が戦をやってしまったから」
   今度こそ、自嘲して。
「研がねばならぬ刃は未来永劫絶える事は無いでしょう。誰かを失う悲しみを嫌と言うほど知りながら、俺達は戦を続ける。…皮肉ですらなく、ただもう哀しいものですね…」
   止まる事はなく、男の手元で刀は動き、鋭さを増し続けた。
   龍晶は立ち上がり、戸口を跨いだ。
「仕事の邪魔をしてすみませんでした。出立の際には改めてご挨拶します」
「戦は無くしなされ」
   耳を疑って、動きを止める。
   相変わらず背中しか見えないが。
「戦は殿下が無くさねばなりません。それが償いです。我が息子や、あなたのお母上だけではない。これまでこの国が亡き者にした全ての者への償いです」
   少しだけ振り返り、目を見開いている龍晶の顔を見て。
「息子は戦の無い国を望んだからこそ、金を掘りに行ったのです」
   皆、望むのだ。平穏な日々を。
「しかし、戦が無くなれば、あなたの稼ぎは…」
「この老ぼれが一人食い詰めても、大した問題では無いでしょう。なに、生きておるうちにそんな時代が来るとも思うておりませぬよ」
「……」
「戦は無くしなされ。それが若いあなたの負うべき宿命」
   無理だ、と頭の中では言っていた。
   そんな事は不可能だ。況してこのいつ滅びるかも知れない無力な身で。
   だが、心の内では。
   迷いに烟っていた濃い霧の中に、光が一筋差し込んだような。
   それを希望と捉えても良いとは思えないが、しかしこれを頼りに歩み出しても良い光だと思えた。
   見えぬ母が齎した、教えの光だ。

「へえ?あの爺さんが?そんな事を?」
   信じられないとばかりに桧釐が一々聞き返す。
   結局、彼らはまともに話さずに別れたのだから、あの家主が喋ったというだけで驚きに値するのだろう。
「戦は無くせと言われたが…本心だろうか」
   今日も馬首と桧釐の間で馬上に揺れながら、龍晶は訊いた。
   あの男の言葉が耳に木霊していて、どう解釈して良いのかずっと考えていた。
「さてね。ただ自棄で言ってるだけかも知れませんし。そんなもの爺さんしか分からんでしょう。問題は殿下がそれをどう聞くかですよ」
「俺に何が出来る訳でもない。お前もあの人もそれは解っているだろう」
「俺はそう思いませんよ」
   背後の顔を目尻に捉える。
   余りに至近距離で、見えはしないのだが。
「あなたが思うほど、あなたは無力ではないと、俺はそう見ます」
「…反乱の飾り物くらいにしかならんだろう」
   桧釐にとっての自分の使い途を皮肉ぽく言ってやると、彼は呆れ混じりのような笑い方をした。
「殿下は意地が悪いなぁ。そんな事は言ってませんって」
   笑いを収め、道を見据え、少し考えて。
「あなたが変える事の出来る未来はある筈です。だから早々に諦めて命を投げ出すなと、爺さんはそう言いたかったんでしょうよ」
   龍晶もまた、進む道を見下ろして黙った。
   投げ出そうと思わない。ただ、選べないだけだ。
   選ぶ相手は自分ではない。己の生死はあいつが握っている。その存在がこの先に待ち受けている。
   北州が近付いてきた。

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