月の蘇る
6
城塞特有の回廊と階段がもどかしい。心ばかり急いて、そう長い距離でもないのに恐ろしく遠く感じた。
その道々には壁に血飛沫が飛び、息絶えた兵が倒れている。悪魔の仕業だ。
それがこの先の光景の予感を悪いものにしてゆく。嘘だと何度も打ち消しながら。
桧釐はやっとの思いで龍晶の居る部屋の前に立った。
数時間前、薬は飲まないと散々ごねて当たり散らして、本当に手のかかる主人だと溜息混じりに出た部屋。
居る事が当たり前の筈だった。
否、これからもそうだと考え直して。
扉を開ける。
「…殿下」
道々麻痺しかけていたのに、更に濃くなった血の臭い。
夜目にも寝台が赤く染まっているのが分かった。
呪いに掛かったように動けない桧釐の横を擦り抜け、宗温が駆け寄った。
見るも無惨な姿。
「…来ない方が良い」
冷静な忠告に、桧釐は我に返った。
「ふざけるな。俺の主だ」
数歩、近寄って。
流石に平常心のまま見れるものでは無かった。思い切り顔を顰めて、しかし目を逸らす事は出来ない。
全身が血に濡れている。何処に傷があるのか分からない。
躊躇いながら、そっと顔に触れる。
まだ温かい。ーー否。
「明かりを…!」
宗温がさっと動く。燭台に火が灯る。
明かりの中で改めて見ても無惨の一言に尽きるが、桧釐が確かめたかったのはそれではない。
口元から吹き出る血の泡が弾け、また作り出されて。
息が、ある。
「医師を!」
桧釐が叫ぶ前から宗温は駆け出していた。
無論、まだ息があるというだけの状況で、瀕死である事には間違いない。
「殿下…しっかり…!」
血に塗れた手を両手で握る。
生きている。どうか、このまま。
ーーまだ死ぬ訳にはいかぬ。
そうだ。まだ、やるべき事が沢山ある。
否、そんな事は無くとも良い。ただ生きていて欲しい。
存在している、それだけで十分だ。
この世界がこのままであるために。
「どう?生きてる?」
急に声を掛けられて、度肝を抜かれた。
声の主は、窓に腰掛けて笑ってこちらを見ている。
足音もしなかったのに。
「いつの間に…」
「今の今だよ。まさか、俺が階段上って来たとでも思ってんの?」
ここは石垣の上に立つ城の、五階に相当する。
城の中からでなければ、この部屋に入る事など出来よう筈が無い。
だが、神出鬼没という言葉もある。悪魔にそれが当て嵌まるかは知らぬが。
今はそんな事は後回しだ。
その笑みにまた込み上げる怒りのまま、桧釐は口を開いた。
「朔夜…お前、こんな事をよくも…」
「俺は生きてるかって訊いたんだけど?」
窓枠から降り、近付いてくる。
桧釐は咄嗟に刀の柄に手を掛ける。
その手を見て朔夜は言った。
「だから、やっても無駄死にするだけって分かったろ?黙って見ておけよ」
「何をする気だ」
無視して朔夜は龍晶を覗き込む。
そして、口許の血を手で拭った。
「生きてたな。よしよし」
拭った血の付く指先を、舐める。
「でももう死ぬね?」
桧釐に向けて笑顔を浮かべながら問う。
もうそれに怒りを覚える余裕も無かった。
刀から手を離す。
「…頼む。助けてくれ」
跪く桧釐を、小首を傾げて朔夜は見下ろした。
「俺は死んでも良い。…殿下を生かしてくれ。お前はそれが出来るだろう…!?」
朔夜は。
自らも膝を付いて、視線を桧釐と合わせた。
そして微笑んで言った。
「最初からそのつもりだった。お前を殺す気は無いけど。ほら、悪魔に二言は無いから」
立ち上がって、龍晶の体に触れる。
「だって、こいつはまだ殺す程の悪い事はしてないし?ま、何より殺しちまったら本気で悲しむ奴がいるから、ちょっと脅してみただけ」
「何だと…!?」
「怒る?でもお前もお前だよ。敵兵なら虫けら同然に扱っても良いと思ってるだろ?俺は何度も考え直す機会を与えてやったのに、聞かないからさ。二人揃ってお灸を据える方法をやってみた。でも次は脅しじゃ済まないからね?」
桧釐はそれ以上言い返せなくなった。悪魔の言が耳元で反芻していた。
悪魔の行動に理由があるとは思わなかった。そしてそれが自分の言動に起因しているとも。
「このくらいでいっか」
一瞬、己の考えに飲まれていた、その僅かな時間だけで朔夜は手を離した。
「…治したのか?」
「死なない程度にね。表面だけだから出血多量で死ぬ事は無いけど、中身はまだぐちゃぐちゃってくらい。全部治したらこいつ反省しないし、何より俺が今から愉しめない」
「愉しむって」
「まだ下に兵がうようよ居るんだよ?こいつの治療なんかで眠くなってたら勿体無いじゃん?」
「お前…!」
言っている事とやっている事の矛盾も甚だしい。
「俺達が人命を粗末にするからこその行動じゃなかったのかよ!?悪魔様は例外だとでも言うのか!?」
「知らないよ、動機なら朔夜に聞け。俺はあいつの受け売りを言っただけ。そんで俺は悪魔として生きてる者の命を頂くだけ」
「は…!?」
「じゃ、そういう事で。またな」
ひらひらと手を振って、窓枠に飛び乗るなり外へ飛び降りる。
「待っ…!」
桧釐が窓へ飛び付いた時には既に、闇の中にその姿は消えていた。
この高さから落ちたとなれば確実に命は無いが、そんな気はしなかった。
あいつは本当に悪魔だった。
今更何が起きていたのか信じられない気分で、愕然と真っ暗な谷間を見下ろす。
廊下から走る音がして、医師を連れた宗温が戻ってきた。
桧釐が今の出来事をどう伝えたものか迷っている間に、医師が龍晶を診察する。
血塗れの服を剥ぎ、その傷を探して、医師は戸惑いの声を上げた。
「傷がありませぬ…!」
「何?」
宗温が医師の怠慢を疑うより先に、桧釐が口を開いた。
「お前が戻ってくる前に、朔夜が治した」
「は…!?」
「最初から殺す気は無かったんだと。それも本当かは怪しいが、とにかくあとは安静にするより無さそうだ。…それより」
窓の外へ視線を投げる。
嫌な予感しかしない。
「奴を探して止めなきゃならん」
宗温が眉を寄せる。
俺も同じ顔がしたい所だが、と小さく笑って桧釐は教えた。
「ここから飛び降りて下でぺちゃんこになってなければ、あいつは兵を殺しに行っている。これ以上、悪魔の被害者を増やす訳にはいかんだろ」
「…止める…術はあるのか」
桧釐は刀を軽く持ち上げた。
最早こんな物は無いも同然だと分かってはいるが。
「とにかく行こう。なるようになるだけだ」
信じない顔の宗温を動かして、二人は廊下へと出た。
小走りに進みながら、宗温は口を開いた。
「朔夜…いや、悪魔に刀は意味を成さぬと思う」
「そんな事は分かっている。あれに勝てると言える程、身の程知らずじゃない」
「いや、そうではなく。悪魔は殺意を持って向かえば、殺意を返すのではなかろうか?」
「は?」
「悪魔に限った話ではないが、刀を持って向かってくる相手は必然的に斬り捨てねばならないでしょう?」
「…まぁ、確かに」
そうせねば自分が死ぬ。
刀を持って生死を渡り歩く者の、基本的な大原則だろう。
「悪魔に刀を使っても自分が死ぬだけとなれば、刀を抜かずに止めた方が効果的だ」
「それこそ、どうやってって話だな」
「悪魔には言葉が通じる。それが私の得た感触です」
多禅に刃を向けた彼を止められた。説得という程のものではないが、それは言葉による制止が効いたからだと思われる。
刃で制止しようとしていれば、恐らく多禅も宗温自身も死んでいた。
「殿下も言われていました。武は人を圧するが、文は人を和する。そういう事だと思うのです」
「お前、生きるか死ぬかって時に…図太い肝してるなあ」
言われて宗温は、ふふと笑って言った。
「悪魔に気付かされました。殿下が命懸けで変えようとしている先の理想は、それなのだと」
「俺には分からん!だが」
外へと通ずる大扉を手荒く開けながら桧釐は宣言した。
「お前の言う事は分かる。刀は抜かずに話をしてみよう」
「ええ、お願いしますよ!」
城外に出て、いよいよ全速力で坂を下りながら、眼下の戦場を確認する。
戦の最中とは思えぬ程静かだった。
既に敵味方混じり合っての乱戦となって時間も経つのに、戦の前のような緊張感で空気が張り詰めている。
死を前にして逃れられない者の悲愴な緊張。
「ぺちゃんこになんかなってなかったか」
予測済みの事だが希望的観測が外れた。
悪魔は言った通りの事を始めている。
坂を下りきり、兵の入り混じる戦地へと足を踏み入れた。
縺れる足で逃げようとする者、棒立ちになって動けぬ者、訳も分からず周囲に斬りかかる者も居る。
そして、夥しい屍。
だが、探す姿は無い。
「何処に行った…?」
焦りを滲ませて桧釐が呟く。
その、背中に。
「殺されに来たの?」
刃を突き付けられる感触。
またか、と桧釐は苦い顔をした。
その気配すら無かったのに、今度は背後を取られた。
刀に手を伸ばす気は無いが、そもそもその隙も与えられない。
「殺される気も殺す気も無い。お前を止めに来た」
「止める?無駄な事を」
笑い混じりの声、と同時に後ろに居たらしい兵の肉を断ち切る音が聞こえた。
「止めろ!」
咄嗟に叫ぶが、また別の方向から同じ音が聞こえる。
そして、悪魔の笑い声も。
「どうして?敵兵ならいくら減らしても良いんだろ?ま、俺にはその見分けが付かないけど」
「お前がしている事は戦じゃないだろう!」
「戦だよ。俺が人間全てを相手取った戦だ」
「人は皆、敵だと…そういう事ですか?」
それまで会話を聞いていた宗温が落ち着いた口調で訊いた。
「そうだけど?」
「何故です?敵とする根拠が無ければ戦にはなりません」
「偉そうに言うけどさ、お前達の戦に理由なんざ無いだろ」
「いいえ。哥は我々の領土を侵略しました。そのような事が二度と起こらぬように、哥の戦力を削る戦です。民を守る為に」
「へぇ。流石は優等生みたいな回答だな。龍晶にそう答えろって教えておけば良かったのに」
「殴られた腹いせか?」
同じ事を龍晶は答えられず、朔夜を殴った。
その怒りから龍晶を半死半生の目に遭わせ、兵を虐殺しているとしたら、決して釣り合いはしないが少しは納得出来る。
だがあっけらかんと悪魔は否定した。
「あいつに殴られた程度の事、俺は痛くも痒くも無い。ま、朔夜には痛かっただろうけど、問題はそこじゃない」
「何だ?」
「無駄に戦を仕掛ける龍晶が許せなかった。そこにあいつが怒るから、俺が出て来て今こうして愉しんでるって訳」
「…あいつって?」
「朔夜だよ。決まってるだろ」
桧釐も宗温も暫し理解し難く押し黙った。
間違いなく朔夜の口から出ている言葉は、朔夜のそれではない。
どう問えば良いのか分からぬままに桧釐は取り敢えず問うた。
「お前、朔夜じゃないのか」
「だから、俺は月だって判れよ。どう見ても別物だろ」
「別…なのか?」
「龍晶は別の人格と言った。それが一番近いだろうな、当たりではないけど」
凝り固まった常識が頭の中で崩れ落ちるようだ。
理解し難い理屈を何とか飲み込んだ事にして、桧釐は話を戻した。
「朔夜の怒りが原因なら、どうすればお前は納得する?」
「俺は納得するも何も、殺したいだけだから関係無いね。説得するなら朔夜にしてやれ」
「どうやって?」
「夜が明ければそのうちあいつも戻って来るから、その時に」
「それまでお前、これを続けるのか?」
「そのつもり。飽きるか眠くなるまでは」
「お前…」
継ぐ言葉を失くした。
矢張り悪魔相手に言葉など通じる訳が無い。
代わりに宗温が口を開いた。
「私の質問が途中でしたよ。何故に人は敵だと言うのですか?」
「ん?」
悪魔は首を傾げて考える。
明確な理由など持ち合わせて無かったのだろう。
「こいつらが俺を殺そうとするから」
「ならば、刃を持たぬ相手は敵となりませんね。人間全てとはなりません」
「えー…揚げ足取るような事言うなよ悪魔相手に」
「我々には死活問題ですから」
悪魔は唇を尖らせて、しかしそのまま吹き出すように笑った。
「変な奴ら。疲れた。もうやめやめ」
それまでずっと桧釐に突き付けていた短刀をくるりと回し、鞘に収める。
そして歩きながら大欠伸をかました。
「そうだ」
まだ続く欠伸を噛み締めながら悪魔は言う。
「日のある間、朔夜が死なないように見ておけよ?夜まで俺は何も出来ないから」
「って言うと…」
桧釐が問い返すより前に、悪魔はその場にばったり倒れた。
健康に寝息を立てている。
「…寝やがった」
呆れが苦笑になる。
「要するにつまり…夜になれば悪魔はまた出て来るという事ですか?」
「俺に訊くな」
宗温の素朴な疑問は桧釐の問いたかった疑問だ。
倒れている少年の体を二人で見下ろす。
解らない事だらけだが、それは常識に照らし合わせて理解出来ないだけで、目の前で起きた事と本人の言葉を照らし合わせれば、考えられないでもない。
この体の中には、これまで見てきた少年の朔夜と、不可思議な力を持つ残虐な悪魔と呼ばれる者の、その二つが存在している事。
「どうする?」
桧釐が宗温に問う。
この体を軍としてどう扱うか。
「さて、どうしましょうか。野放しにする訳にもいきませんしね」
「朔夜と会って話をせねばならないしな」
「一先ず、城へ連れ帰りますか」
「大丈夫か?」
悪魔の恐怖を味わった兵達の、混乱の火種とならないか。
宗温は辺りを見回した。
すっかり戦どころでは無くなった兵達は、殆ど城へと逃げ帰っていた。
「人目につかぬよう、地下牢へと運び込みましょう。今度はしっかり錠を掛けて」
桧釐は頷いて、眠る体を持ち上げる。
それが最善とは言えぬが、今は閉じ込めて自由を奪うしかない。
この悲惨な光景を再び生まぬ為に。
「俺が錠を掛けておけばこうはならなかったな」
桧釐が呟く。言わずには居れなかった。
「それは結果論ですよ、桧釐殿。遅かれ早かれ、いつかはこうなっていた」
「ああ…」
それが正論だとは思う。今宵は防げても、積もってゆく朔夜の不満はいつか悪魔を生み出していただろう。
それでも、一歩進むごとに目にする屍に、胸を刺されるようだ。
「夜の内に葬ってやらねば」
宗温が呟く。日が昇れば、高い気温が遺体を傷ませる。
しかし、恐怖に竦む生き残った兵がすぐに働けるだろうかとも思う。
余りにも過酷な戦場だ。
「…陛下に嘆願書を送ります。これ以上、この地に兵を置いて戦をせぬ方が良い」
「そうだが…聞き入れられるだろうか?」
「起こった事をありのままに書きます。どうせ隠し立てなど出来ないなら、少しでも理解して頂いた上で判断を仰ぎたい」
宗温の言う事は尤もだが、声音に自信は感じられなかった。
王はそれでも戦を続けよと命じ兼ねない。
「殿下に責任は問われないだろうか?」
桧釐が案ずるのはそれだ。
これまでの王の挙動からして、龍晶が悪魔の罪を被り兼ねない。
「そこまでは何とも言えませんが…。しかし手は考えます。殿下を犠牲にするなど、この地で戦った誰もが望みはしませんから」
「ああ。頼む」
いざと言う時は、祖父のように己の首を差し出せるだろうかと桧釐は自問する。
そうせよと、そこら中に広がる命を奪われた声無き声が己に命じている気がした。
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