短編集
其の1
音の無い世界が広がる。
耳に届くのは己の心音に、緩やかな水の流れ。
そして、肌を撫でるのは水の冷たさ。それは身体を優しく包み込むような心地よさを感じ、深い眠りへと誘う。
――ああ、このまま時を過ごせれば。
この空間にいることができるのなら、悲しみを知ることがなくて済む。しかし、それはひと時の安らぎに過ぎない。
コポ。
耳元で、何かが弾けた。リゼルはゆっくりと目を開くと、その音の正体を探る。だが、それを調べるほどではない。それは、自身が吐き出した空気の塊であったからだ。そう、此処は水の世界。
リゼルは青の色彩で染められた水の中に身体を沈め、流れに身を任せる。そして抗うことを止め、全身から力を抜き浮遊する。特に、目的などない。ただこうしていることが、気持ち良かった。
(……眩しい)
水面に、光が反射し光り輝く。キラキラと光るそれは幾重にも形を変え、水の底へと消えていく。まるで、宝石を浮かべたようであった。手を伸ばしそれを掴もうとするも、空しく通り抜け掴むことはできない。
伸ばした指先に、小さな魚が身体を摺り寄せる。人懐っこい魚――リゼルは微笑を浮かべると、壊れ物を扱うように魚の身体を撫でていく。自分の害となる相手には、決して見せない行動。だが、この魚はそれを見せた。本能的に察したのか、リゼルが害となる人物ではないことを――
コポ。
再び、空気が吐き出された。今度は先程とは違い、大きな泡の塊であった。するとリゼルに懐いていた魚が、不可思議な行動を取る。それは、吐き出された泡に体当たりをしたのだ。
体当たりをしたと同時に、泡は二つに割れる。するとまた同じように体当たりをし、泡の数を増やしていく。何がそんなに面白いのか、魚はその行動を止めようとはしない。それを見たリゼルは、違う泡を作ってやる。しかし、今度は反応を見せなかった。どうやら、飽きてしまったようだ。
(……面白い)
理解しがたい行動であったが、素直に「面白い」という感情が湧いてきた。今まで物事に無関心であったリゼルであったが、最近では「面白いモノは面白い」と言うようになり、周囲を驚かせている。浮遊することに疲れたリゼルは大きく伸びをすると体勢を変え、水を蹴る。
そして、水面に向かって泳ぎだす。
バシャ。
光の中を突き抜け、水面に顔を出す。
その瞬間、白銀の髪は大きく揺れ美しい軌跡を生み出す。そして飛び散る飛沫は光を吸収し、水面に落ちていく。まるで、夜空を彩る星達が湖面の美しさに誘われ水の中に消えていくようであった。
肩で息をすると、何気なく周囲を見回す。鬱蒼と茂った木々に、若草色が映える下草。それに聞こえてくるのは、鳥達の歌声に木々のざわめき。誰もいない――此処は、自然に生きるもの達の楽園のような場所。
透き通るほどの青さを湛える湖。リゼルは時折この場所を訪れては、水の中の風景を楽しんでいる。そのことを知っている者はいない。ただの気紛れであり、静寂を楽しみたかったからだ。
――青き湖は、竜の涙が溶け込んだ証。
ふと、そのような一説を思い出す。それはとある文献を読んだ時に、書かれていた内容であった。
しかし、竜が涙を流すことは滅多にない。感情さえ表に表すことが少ない種族が、どのように泣けというのか。だからこそ、あの文献は偽りを記していた。そして、その偽りを信じる者は多い。
――何ゆえ、偽りを記す。
当初、リゼルはそのように思った。しかし今となれば、記した理由も理解できる。夢を持ちたかった。そうあってほしいと願った――笑える答えであるが、これを考えた者は真剣だ。
知らぬことを想像で補い、それを後世に残していく。それが人間のやり方であり、生き方。たとえ創造主であろうと、あざ笑う権利はない。だからこそ偽りの答えを聞いても、リゼルは微笑むだけ。
(少し泳ぐか)
額に張り付いた前髪を掻き揚げると、水面を滑るように泳いでいく。リゼルの動きに合わせ水面全体が大きく波立っていき、湖の隅に向かって波紋を生み出していく。すると微かな振動を感じ取ったのか、遠くで羽を休めていた水鳥の集団が一斉に空に向かって飛び立った。
湖の色と同じ青空に消えていく鳥達。そして残ったのは、揺れる水面と取り残された鳥の羽根。
彼等の邪魔をしてしまったと後悔するが、それは遅かった。鳥達は遥か彼方に飛んでいってしまい、リゼルがいる間は戻って来ることはない。創造物に冷たい素振りを見せ付けられ、リゼルは思わず肩を竦めてしまう。少しは敬意があってもいいだろうと期待してしまうが、無理だとわかった瞬間、悲しいものだ。
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