紫煙の恋人 付き合った人は、煙草の嫌いな人だった。 「煙草なんてさ、煙たいし、第一まず身体によくないし、なんたっていいことひとつもないんだよ」 彼はそう言って、道端の、誰かに遠慮知らずに捨てられた小さな煙草を睨んだ。 週末に彼とふたり、人ごみの街を歩く。この頃は条例とやらが厳しくなって、以前ほど歩き煙草は見かけなくなった。 そうすると、喫煙者は自然と一角に集まることになる。喫煙所だ。どこの公共スペースでも、彼らは小さなスペースにきゅうきゅうに詰めて、狭い空間を紫煙で濁らせている。私はそれを見るたびに、公園の一角に群れて膨れる鳩たちのことを思い出す。 彼はそんな風景を横目で流しては、様々な感情を混ぜ込んで、ひとつ鼻を鳴らすのだ。 「なんで煙草なんか吸うのかね。さっぱり理屈がわからない」 「なんだろうね、きっと理屈じゃないんだろうね」 私が彼の問いにそう返すと、彼はもう一度、例の独特の調子で鼻を鳴らした。 私は煙草は吸ったことがない。両親も吸わない人だったし、近しい人では父方のおじいちゃんが吸う人だった。身の回りでは、それだけだ。 彼は特に、女の人が煙草を吸うのを好まなかった。喫煙所に女性の姿を見つけると、彼は思い切り眉間にしわを寄せた。それを隠そうともしなかった。 古風な考えだなとは思ったけれど、私は別に男女平等を高らかに宣言したいわけではなかったので、彼の口からその手の話が出ると、いつも「なるほどね」なんていかにも無難に流すことにしていた。 「身体への影響なんかはもちろんだけどさ、なんたって絵がよくないよ。シルエットというかさ。見栄えっていうと角が立つかな。とにかく、そういうのって、まずよくないね」 なんたって、というのが彼の口癖のようだった。 「奴らはちょっと気取っているのさ。ボーイッシュだ、女性らしさへの反逆だ、なんてね。まったくくだらないことだ」 「なるほどね」 私がいつものようにそう言うと、彼は満足げに小さく頷いて、再び前を見て歩き出した。私もそれに倣って歩く。 いつものように、と言葉の惰性に気が付いているのは私だけで、彼はそんなこと微塵も気にかけていない、と思うのだけれど、どうだろうか。 彼はふとした時間の隙間に煙草についての意見を言う。口が寂しいのだろう。 それはガムを噛むように、あるいは、紫煙を吐く様に。 私は煙草を吸うことにした。 彼があまりに煙草のことを言うものだから、無意識のうちに意識に刷り込まれてしまったそれを、逆に試してみたくなったのだ。 もちろん彼の目の前で一本取りだして、なんてあからさまなことはしない。 いつもの週末のデートの時、約束の時間よりも早くに出かけて行って、煙草をふかしてさもない風に待っていたのだ。 遠くに彼の形をした点が見えると、どんどん近づいてきて、ある一定の距離で、止まった。視力のあまり高くない彼にしては、少し遠い距離だった。匂いで分かったのだろう。 「それ何?」 「煙草。吸い始めたんだ」 「おれが煙草を好きじゃないって、わかってるよね」 彼はいつものように様々な感情をいっしょくたにした表情を浮かべているのだと思う。それは、紫煙の向こうに霞んでよくわからない。 「ごめん、その話は、もうちょっとだけ待ってもらえる?」 「なんで」 「これ一本吸い終わるまで」 彼はあきらめたように首を振って、歩き出す。目の前を横切る時に、私は見慣れた腕をつかむ。 待ってよ、そう言いかけて、伸ばした手が空を切った。そこに彼の腕はなかった。彼はいなかった。 足元を見ると、くすんだ色の蛇が一匹、するすると音もなく道の向こうに消えていくところだった。 そうか、蛇だったのか。蛇なら煙草が嫌いでも、しょうがないな。 私は周りで唯一の喫煙者だった、父方のおじいちゃんのことを思い出した。 「蛇はヤニが嫌いだでな」 そう言って、吸殻を集めてほぐしたものを、田んぼのあぜ道や家の周りに撒いていた。 決して疑っていたわけじゃなかったけれど、どうやら、その知識は正しいものだったらしい。 それからすぐに、吸っていた煙草は捨ててしまった。煙たいだけで、おいしいものじゃなかったからだ。 週末の予定がなくなったので、たまには田舎に帰ろうと思う。 一本だけ減った煙草のパックは、おじいちゃんへのおみやげにする。 了 [*前] [戻る] |