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小説(R指定なし)





彼はどうやらご機嫌のようです。
「何か良い事あったの?」
そう聞くと、特に何もないですよと言いながらも、嬉しそうに笑顔を向けてくる。
だからそれ反則だから。また両隣のOLやおっさんまで見惚れてるじゃん。

「たまに赴く喫茶店があるんですけど、そこのマスターが渋くて素敵な方なんです。さっき癒されてきたからですかね。」
手に持っているビールジョッキに目線を落としながら、その癒しの空間とやらを思い出しているのだろう。
目がとても優しい。

「そっか。じゃぁ、このケーキもそのお店の?」
さっき貰ったケーキを目線の高さに持ち上げ尋ねると、えぇ。と極上スマイルで応えてくれた。

あぁ、店員さん見惚れて盛大にグラス割っちゃったじゃん。
可哀想に怒られるな、あれは。

はぁ。と溜め息をついていると相変わらず不思議そうにこちらを見てくる。
「あんまりジロジロ見ないでくれたまえ。」
イケメンに不細工な顔を見られる恥ずかしさを考えてくださいと、八つ当たり気味に思えば、何故か顔を真っ赤にしてたじろいでいる。
なんだ。またひん曲がった思考回路がおかしな答えを導きだしたのか。

「すみません。女性をジロジロ見るなんて不愉快でしたよね。別にやましい気持ちとかじゃないんです。本当にすみません。」
蚊の鳴くような小さな声で言われ、思わず驚きで仏頂面になってしまった。
たぶん新伊に疚しい思いで見てもらえるならと喜ぶ女は居るだろうけど、それで気持ち悪いと思う人は居ないんじゃないだろうか。

街を歩けば上から下まで視姦されているかの如く見られ、電車に乗ればフェロモンにやられた痴女共に満員電車を良い事に身体を触られ、社内の飢えたメス共からは涎を滴らせて狙われる。
正直、女でも早々そんな目に遭わないだろうに、新伊は大学からずっとそんな状態で、若干潔癖というか人に触られるのがダメらしい。

この前知ったのだけれど、この男26歳で童貞らしい。
しかし、それを恥じらう事もなく普通に言ってのける辺りが他とはやはり違う。
彼女も今迄3人は居たようなのだが、押しに負けてなんとなく付き合ったため毎回1月と持たないらしい。

「新伊。私は初めて美形が必ずしもヤリチンではないと知ったよ。」
突然の私の言葉に何を言ってるんですかと厭そうに顔を歪められたが、賑やかな店内では私の言葉など新伊にしか聞こえていないだろう。

「誰の事言ってるのか知りませんけど、僕は女性に慣れていない冴えない男ですよ。」
もうその言葉は卑下してるのか自慢しているのか。
「もうそこまでくるとわざと言ってるのかと疑いたくなるよ。新伊はイケメンなの。これは事実。」
ムスッと納得していない表情をしているが、逆にイジリ倒したい気分になってきた。
「しかも奇跡の童貞イケメン。」
ははは。と笑いながら言うと、流石に隣りのOLに聞こえてしまったのか驚きの表情で新伊を見ている。

「はぁ。興味もない人とは出来ないだけです。とにかく、恥と思った事はないので気にしませんが、女性が大きな声でそういう事を言うのはあまり頂けませんね。」

溜め息まじりで、心底飽きれた様子で返されて、さすがにやり過ぎたと反省。

「ごめん。お酒が回ってるのかな。今日、ちょっと仕事上でも色々あって八つ当たりしたかも。」

反省してます、と頭を下げると、困ったように眉尻を下げられる。
「女性に頭下げられるのは良いものじゃありませんね。何かトラブルでも有ったんですか。」

僕でよければ聞きますよと優しく言われれば、やっぱり自制の聞かない口が動き出す。
正直4つも年下の子に仕事の愚痴を言ってる私ってどうなんだろうと思うけれど、一番話しやすいのだから仕様がない。

「今さ、後輩の子と先輩と3人で共同で任されてる記事が有るのね。でも、最終チェックで上げた筈のデザインが印刷会社に回った時に一つ古い物で渡してたみたいで、もう先方大怒り。なんとか、刷る前に気付けたから大丈夫だったけど、編集長から何してるんだって怒られちゃった。」

グラスを揺らすとカランと氷が音をたてる。
無意識にカランカランと揺らして遊んでいたら、グラスを新伊に止められた。
「そういうミス、良く有りますよ。それで、何があったんですか。」

言おうか迷っていたのを見抜かれたのだろうか。
続きを言うとなんだか悪口を言ってしまう気がする。
躊躇いがちに目の前の新伊を見ると、強い光を瞳に宿し私を見ている。
気付けば口は勝手に開いていた。

「私はすぐに印刷会社に連絡を取って先方にも謝罪の連絡をした。だけど、その対応をしている間に後輩がずっと私のミスだって言ってたの。でも、私の送った最終メールと印刷会社に送ったデータを照合してもらっても私は間違っていなかった。でも、そんな事言ってる暇もなくてとにかく状況を改善しなくちゃって。無事片付いていた時には完全に私が悪者ね。」
悔しくて下を見つめる事で込み上げる感情を抑える。

「高岡さんは悪くないよ。」

傷ついている時に優しくしないでよ。泣きそうになるのを堪えながら心の中で思う。

「うん。高岡さんは悪くない。悪いのはぜ〜んぶ他の人。」
あまりにも明るく断言するので、思わず視線を上げてしまった。
ねっ。と爽やかに言われて、なんだか悲しんでる自分がバカらしくなってしまった。

「何言ってるの。チームで動いているんだから私も責任はあるわよ。ただ、編集長までが私のミスだって言われたときは…さすがに辛かったなぁ。」

思い出しながら、涙を飲む勢いでグラスを呷る。
かつんと氷が歯に当たり鈍い痛みが走った。
「もう、痛いなぁ。」
歯を押さえながらまた下を向く。
すると何故か新伊は席を立ちどこかへ行ってしまった。
こういう状態の女性を1人にするなんて意外。
そう思いながら、先程、新伊から電話をもらう寸前の事を思い出していた。


あの時、編集長はなんと言ったっけ。

「私のミスじゃ有りません。先方とも印刷会社にも確認済みです。このメールも見てください。」
そう言い、PCのディスプレイにメールの送信履歴を表示する。
「別に犯人探しをしている訳じゃない。お前のミスじゃないとしても、あんなにあいつらがお前のミスと言うのは日頃の行いが悪いからだろう。後輩の監督不行き届きだ。そこをなんとかしろ。」

理不尽だと思った。
私は今迄大きなミスをしただろうか。
確実に丁寧に仕事をする事に拘ってきたのに。
仕事さえできれば評価してもらえると思っていた。
結果を出せば良いと思っていた。
だけど編集長は人間関係が大事だって言う。
あんな自分のミスを人に擦り付けるような人間が、日頃上司に媚ばかり売っている愛想の良い人間が評価されるというの。

酷く惨めな気がした。
今迄の自分の仕事を否定されたような気がした。

気付いたら涙が眼球全体を覆い、今にも溢れそうだった。
自分ではどうしようもなくて、こういう時ハンカチすら持っていない自分に嫌気がさす。
そう思っていると、急に腕を引かれ、テラス席へと連れて行かれた。
「ちょっとここで待っててください。」
私に告げると彼の黒いコートを肩に掛けられ、店内へと戻っていった。


正直、冬のテラスは寒い。
新伊のコートを首を覆うようにかき抱くと、香水なのか、甘く爽やかな香りがふわりと包む。
ふと、周囲を見れば当然なのだが誰もいない。
まして、ここはビルの5階に位置するので、誰の目にも付きそうになかった。
ガラリと扉の開く音がして振り返ると、新伊がテーブルに残していた食べかけのお皿と飲み物を店員から受け取っている。

「すみません。ちょっと飲み過ぎちゃって席変えてもらっちゃいました。」
そう言いながら、湯気の立つ飲み物を差し出してきた。
カップを持ち上げると、甘いゆずの香りがした。
「暖まりますよ。」
優しく笑顔を見つめながら、熱い液体を嚥下する。
熱い。けれど温かい。
身体がぽかぽかとしてくる感覚。
じくじくと疼いていた心が抱き締められているみたいだ。

「ありがとう。」
そう言うと、本当に困った表情を浮かべて、長く綺麗なその手を私の頬へと持ってくる。
一瞬何事かと躊躇していると、目元を指がなぞる。

「女性の涙ってどうしていいか分からないんです。失敗だったな。泣かせちゃいましたね。」

普段人との接触を酷く嫌うくせに、こんな事されると私は大丈夫なんじゃないかと錯覚してしまう。
止めてと頭が叫ぶのに、心は嬉しくてもっと触れて欲しい。
それが苦しくてまた一筋涙がこぼれてしまった。


しばらく涙が止まらず、新伊を困らせたが、無自覚に気を持たせるような彼が悪い。
後半は半ば意地悪のつもりで泣いたまねをしてしまった。
色気もへったくれもない枯れた女如きに四苦八苦している彼がおかしい。
最後は笑ってしまい、若干怒られたのは言うまでもない。

「仕事って難しいわよね。私たち内勤の人間ですら協調性が要るんだもん。与えられた仕事だけこなしてれば良い、なんて訳には行かない。最近ずっと1人で仕事してて忘れてたわ。良い歳して本当嫌になる。」

ビルに囲まれたここでは星はほとんど見えないけれど、なんとなく上空を見上げる。
その視線が気になったのか新伊も吊られるように空を見ていた。

「誰だって同じですよ。僕たちは組織に組み込まれた駒なんです。だから組織の意向には従わないといけない。それが嫌なら1人で生きていくしかないんです。でもそんな事きっと無理で、だから周りと上手くやっていく努力もしないといけない。難しいですけどね。」

自嘲気味に言う新伊に疑問が浮かぶ。

「新伊はそんなこと朝飯前でしょ。」
私の言葉に一瞬驚いた表情を浮かべるも、すぐに不機嫌になる。

「僕この前言いましたよね。社会人になるまで愛想も社交性も欠片もない人間ですよ。今も上手くやろうと必死です。」
それでもやっぱり中々上手くいかないですけどね。

そう言った彼は少し寂しそうだった。
誰もが全て上手くいっている訳じゃない。
当たり前だけど、たまに自分だけが不幸になった気がしてしまうのだ。
そして周りだけ責めて自分は悪くないと叫ぶ。これでは後輩と同じだ。

「私ももうちょっと人間関係頑張ろうかな。」
人を責めるだけより、あいつみたいになんねぇぞって頑張る方が性に合ってる。
なんだかすっきりした気持ちで伸びをすると新伊が優しい笑みで見つめていた。
「本当、そういう無自覚止めてよ。」

ぼそりと言った言葉にさっぱり検討がいかない彼は困ったように首を傾げるだけだ。

「さて、そろそろ身体も冷えてきたし、中に入りますかね。」
新伊を振り向き言えば、はい。と首肯し扉を開けてくれる。

その瞬間、店内の女性(一部男性も)の視線が集まりたじろぐが、この妬みと羨望、そしてすぐに後ろに移る蕩けた視線で何事か理解した。

「ぅわっ、いきなりなんですか。」
扉を締めて振り返った新伊の腕を取り、にたりと笑う。

「へへ〜ん。今日の私はちょいと意地悪よ。」
にまぁ〜っと笑った私に観念したように、好きにさせてくれる可愛くてかっこいい後輩。
どうだ、お前たち。この場所は私だけのものなんだから。
どんなにあんたたちが綺麗に着飾っても新伊の横に居続ける事はできないのよ。と新伊に腕を絡めながら、嫉妬の眼差しを寄越す女たちにしたり顔で見返してやる。

「高岡さん、席に着いたんでいい加減離れてください。」
椅子を引かれ、どうぞと差し出されると座る他ない。
チッ、短い優越感だった。

そう思うも相変わらず羨ましそうにしている周囲にざまぁみろと言いたくなる。

「性格悪い顔してますよ。」
珍しくテーブルに肘を付き、手の甲に顎を置いた崩した姿勢で飽きれながらに言われてしまった。
本当、よく人の表情を見てらっしゃる。

「さて、今日はしこたま食べて飲んでしましょうか。」
先月のインセンティブが出たので今日は僕の奢りです。
そう言いながらメニューを渡してくれる新伊。
めったに私に払わせないくせに変な事を言うなぁ、とおかしくて笑いながらお品書きを流し見る。

良いなぁ。
良いなぁ。新伊。
この空気、良いなぁ。
こんなに居心地の良い場所を私は他に知らない。

だけど好きになっちゃいけない。
付き合いたいなんて言っちゃいけない。
大丈夫。セックスしたい訳じゃない。
ただこうして、新伊と一緒に居られるだけで良い。

そう自分に言い聞かせ、次々とオーダーをして新伊を驚かせたのは言うまでもない。


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