16
空を見上げると三日月が浮かんでいた。
今日は少し曇っているから、あまりよく星はみえないだろう。
それなのに、雨宮は俺に背中を向けるようにして望遠鏡の調整をしている。こんな曇り空でも観えるものなんだろうか。その背中にちょっと緊張を覚えつつ思い切って言ってみた。
「…あのさ、今度どっか遊び行かない?雨宮が嫌ならいいんだけど。気分転換に」
体よく断られるだろうと思いつつ言った言葉には素早く答えが返された。
「いつ」
「え」
「僕はいつでもいい。君にあわせる」
雨宮は望遠鏡をいじる手をとめ、俺の方を見て言った。
その言葉を頭の中で反芻して、ようやく承諾してもらえたのだと気づく。思いがけない返事だったからか久しぶりに向けられた視線のせいか、急に胸がドキドキしてきた。
「あ、えっと、まず、どこに行くかだよな。雨宮どこか行きたいところない?」
「遊園地」
「遊園地?」
予想外の意見だ。正直、男二人で遊園地はどうなのかと思わないでもないが、雨宮が行きたいというなら別にいい。
しかし雨宮はすぐに考えこむように視線を下に向け呟いた。
「いや…。やっぱりそれはない」
「俺はどこでもいいよ。雨宮の好きなところに行こう」
自分が浮かれているのに気づいたが、どうしようもできなかった。雨宮が承諾してくれたのも、行き先を悩んでくれるのも、ただ嬉しくてしかたがない。低俗で嫌らしい考え方だが、酒井先生に勝ったとも一瞬思ってしまった。
「君はサッカーは好き?」
急に聞かれて、普通だと答える。ひいきのチームは特にないけどテレビをつけて面白そうな試合がやってたら観るという程度で、やる方も授業くらいだ。意外な感じもするが、ひょっとすると雨宮はサッカーが好きなんだろうか。
「酒井先生がチケットを持ってたのを思い出した。頼めば譲ってもらえると思う」
「……えっと、それ、先生と行った方がいいんじゃないかな」
もしかしたら、先生は雨宮を誘うためにチケットを用意したのかもしれない。ならそれを俺が横取りするのも申し訳ないし、なんだか先生に勝ったと思ってしまったことも後ろめたくなってきてしまった。
しかし雨宮は俺の言葉に首を横に振った。
「君と行きたい」
はっきりそう言われて心臓が止まりそうになった。
「それに先生はその日は都合が悪いと言っていた」
続けられた言葉にそういうことかと多少気落ちはしたが、雨宮が俺と行きたいと言ってくれたことに変わりはない。
それから俺はすっかり舞い上がってしまって、雨宮に益体もないことをべらべらと話しかけた。
うるさかっただろうに雨宮は黙って聞いてくれて、少しだけ彼のことも話してくれた。
雨宮は中学の時サッカー部で、しかもキャプテンだったそうだ。聞けばなかなか強い学校だったようで、その意外さに驚いたままにすごいと俺が言うと、もうやっていないからすごくないとわけのわからないことを言われた。
照れたんだということに気づいた途端、余計にからかいたくなって、俺は何度もすごいと雨宮のことを褒めそやした。
それから、すごい、すごくないの応酬がしばらく続いた後、やがて雨宮は臍を曲げたのか何も答えなくなってしまった。
だけど彼の耳が少し赤くなっていることに気づいて、俺はそれが少し可愛いと思った。
無事に先生にチケットを譲ってもらえることになり、観戦当日は叔母の店の前で夕方に待ち合わせすることになった。
俺は約束よりも少し早い時間に着いてしまって、そのままビルの入り口で雨宮を待つ。
観戦の前に軽く食事することにしていたので、待つ合間にファーストフードが嫌いな雨宮のためにいくつか店のあたりをつけておくことにした。
携帯で検索しながら考える。
普通のレストランはちょっと入り難い。雨宮はラーメンとかはどうなんだろう。ラーメンがだめならファミレスとか。ファミレスだったら、雨宮は何を頼むのだろうか。ファミレスもファーストフードのうちだったらどうしよう。
そんなことを考えているうちに約束の時間になった。
しかし雨宮は姿を見せず、そのまま10分ほど待ったが、やはり現れない。
もしかして部屋で待っているのかと思って、ビルの中に入りエレベーターの階数ボタンを押すと、最上階のボタンのランプは点灯した。
やはり部屋にいるのだろうか。エレベーターに乗ったついでだし迎えに行くことにして、俺はそのまま最上階まで行った。
しかし事務所の横のインターフォンに応答はなかった。俺はしばらく考えてから、非常階段への扉を開け、階段を登る。
上に着いて、すりガラスのドアを何度かノックしても誰も出てこなかった。ドアノブを回してみるとどうやらドアに鍵はかかっていないようだ。
どうしようか迷ってから、もしかして雨宮が倒れていたりでもしたらと思い当たって、俺は中に入ってみることにした。
「雨宮?」
一応声をかけてからドアを開ける。
もう薄暗くなってきているのに電気はついておらず、部屋の中には誰もいなかった。それを不審に思いながら足を進めると、ベランダに雨宮の姿を見つけた。
雨宮はこちらに背を向けて、サッシの縁に腰掛けている。
インターフォンに気づかなかったのはベランダにいたせいかと俺は安心して、驚かせないよう中からガラスを叩いた。
しかし、雨宮は俯いて座ったままで、なんの反応も示さない。
具合でも悪いのかと慌ててサッシを開ける。それでも雨宮は顔をあげず、俺はいよいよ心配になって慌てて彼の側によって膝をついた。
「雨宮、どうした?どこか、痛い?」
顔を覗きこむと彼は目を開いていた。少し驚いたが、いつもはまっすぐ人の目をみて話す彼の強い視線は、焦点のあっていない虚ろなものだった。
何度か肩を軽く揺すると、ぼんやりとしたままの目が俺を見た。よしの、とその唇が動いたが、声が音になっていない。
「うん。勝手にあがってごめんな、雨宮下に来なかったからさ、どうしたのかと思って」
言いながらふと雨宮が手に何か持っていることに気づいた。山の写真だ、とはじめは思い、その紙の大きさと質から絵葉書だとすぐにわかった。
目を凝らしてそれをみて、思わず息をのむ。
その絵葉書の右下には「The Blue Mountains」という白い文字が印刷されていた。
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