[携帯モード] [URL送信]

遙か
20
 篠井に言われたことは、澱のように俺の中に暗く留まった。
 彼女の名前を忘れていたことを言外に無神経だと責められた気がして、確かにその通りだと自分が嫌になる。その後の友達とのやりとりの方を忘れたくて、彼女のことについても考えないようにしていたからだと自分に言い訳をしてみても、篠井に言われたことがどうしても忘れられなかった。
 引越しは俺の終業式の翌日に決まり、学校も以前通っていた所に受け入れてもらえることになった。学校のみんなに転校が決まったことを話すと、お好み焼き屋で送別会らしきものを開いてもらった。この学校に来たばかりの頃のことを考えるとどうにも感慨深いものがある。
 篠井はあの日から口数が少し減って、よく考え込むようになった。元気がないというのともまた違っていて、その小さな変化にはみんなもすぐに気づいたが「なんだか最近渋くなった」の一言で済まされていた。
 図書室で篠井はまた勉強するようになった。そのせいで自然と俺と交わす会話も減っていたが、視線を感じて顔を上げると何かもの言いたげな篠井と目があうことが時々あった。何かと問いかけるとなんでもないと返されるだけで、その意味はわからないままだ。
 引越しの日を聞かれて答えたきり、篠井との間に俺の転校の話題が出ることはなかった。
 会話が少し減ったのと、時折意味深な視線を向けられる他は篠井との間は特に変わりもなく、終業式の日もいつものように普通に別れた。
 バイトがあるから送ってやれないと言って教室を出て行く篠井の後ろ姿に、あの日の彼の動揺ぶりが夢だったようにすら思えた。

 俺は最後の学校からの帰り道、独りで歩きながらこんなものなのかもしれないと思った。
 篠井は子供みたいな奴だから、あの時は一時的に感情が高ぶっただけなんだろう。彼にとって俺は大勢いる友達のうちの、もしかしたらちょっと毛色の変わった一人にすぎず、俺がこんなに彼との別れを寂しく思っているなんて考えもしないに違いない。きっと日常や新しい出会いに紛れて篠井は俺のことをすぐに忘れてしまって、そういえばそんな奴もいたとふとした瞬間に思い出すくらいで、もしかしたらその時には篠井の隣には遥ではない女の子がいるのかもしれない。
 篠井を泣かせることも、篠井との約束を破ることもない、篠井をありのままに受け入れてくれる女の子が。
 このままずっとここにいれば、きっといつかそれを目の当たりにすることになるんだから、離れることになってよかったんだと俺は無理に思うことにした。
 
 
 
 引越しの当日は曇り空で、雨の降る気配はなさそうなものの、冷たい風が吹く日だった。
 荷物は前日の夜にすでに引越し屋によって運びだされており、後は三人分の布団と身の回りのものだけ車で運ぶことになっていた。それらを小さな車になんとか押し込めて、最後に忘れ物はないかと確認すると、使っていないと思い込んでいた床下の収納から、父の古いゴルフバッグがでてきた。
 それを車に積むと一人が乗るスペースがなくなってしまい、家族3人の中で、おそらく一番引越しに不必要で足手まといになる俺だけ後から電車で向うことになった。
 電車賃をもらって両親を見送り、俺はもう一度家の中を見回ってから自分の部屋だった離れに戻った。ガランとした部屋の中は外よりも冷え冷えとしていて、俺はコートをうっかり車にいれたままだったことを思い出した。荷物を積み込んでいる時に暑くなって、邪魔になるからとトランクにいれたのが失敗だった。
 もう両親が出発してからしばらく経ってしまっているから、今更戻ってきてもらうのも申し訳ない。
 電車の時間まで少し早いが、それまでコンビニか本屋にでもいればいいと、俺は家を出ることにした。篠井に電話してみようかとも考えたが、余計に別れを辛くするようなものだとその考えは頭の中から取り払う。
 離れと母屋の戸締りを終え門の閂をしめると、誰もいない家はいよいよひっそりと静まり返っているように感じられた。
 母が庭に植えた苗木が春に花を咲かせるのを見られないのが惜しい気がする。おそらくもうここに来ることはもうないのだと思うと、いっそう名残惜しくなって、俺はふと思い立って家の周りを歩いてみることにした。
 
 集落を囲む道をぐるりと周ると、やがて俺の部屋の下を流れる川に沿う道に出た。
 どんよりとした雲は太陽を完全に覆い隠し、田んぼに暗い影を落としている。たしか、ここに来たときは田植えの季節だった。あの時は遠くに青くみえた山も今はその頂に雪を被り、水を湛え稲が植えられていた田んぼは枯れ草に覆われている。来た時とは季節も景色も変わっていて、ただ川だけがあの時と変わらずに流れていた。
 道の端に立って狭い川を見下ろすと、一人で過ごした夏の日と、寒い夜に無謀にもこの川を渡ってやってきた篠井が思い出された。
 いったい、篠井はあの時何を考えて川に入ってまで窓からこようと考えたのか。本当に子供みたいに突拍子もなくて純粋で一途で不安定な奴だと思う。子どものころの他愛もない口約束を信じ続けて、それを守ろうとするなんてそうはできないことだ。あんな奴はそうはいない。
 俺は鞄のポケットから、篠井が遥に買った指輪を取り出した。
 ずっと机の奥にしまっていたその指輪を改めて見つめる。篠井の一途な想いの結晶と言っていいその指輪をどうするべきか俺は今までずっと迷っていた。
 だけどもう、今日ここに捨てて行ってしまおうと思う。持ち続けていたっていつか篠井への恋慕が跡形もなく消えた時、処置に困るだけだ。それにもしかしたら俺にもいつか恋人が出来てこの指輪が見つかってあらぬ誤解を招いてしまうことだってある。思えば俺だけ車に乗れなかったのも、何か見えない力が働いたせいかもしれない。
 ここから川に投げ捨てて、駅へ向ってしまえばそれで終わりだ。
 指輪を投げようと腕をあげたものの結局思い切れずに、俺は自分の往生際の悪さにため息をついた。
 手の平の中の指輪をみると、体温で温まった指輪はそれでも冷たく輝いている。
「馬鹿だな……」
「誰が馬鹿?」
 突然した声に俺は慌てて指輪を乗せた手を握りしめ、それと同時に声の方を向く。すると驚いたような顔をした篠井がそこに立っていた。心臓が止まりそうになる。
「な、なんで…どうしたの」
「…見送りに来たんだよ。今日先負じゃん。だから午前中はまだいると思ってさ」
「う、うちはそういうのあんまりこだわらないんだ。荷物は昨日の夜のうち積み込んじゃったし。…意外に詳しいね。先負とか。ほんと意外だな」
 指輪を見られたのか見られていないのか。そればかりが気になったが、どうであろうとそれに触れて欲しくない一心で俺は話を逸らした。
「やっぱ家が美容院やってると自然とね。…おばさんたちは?」
 そうこともなげに言う篠井に、きっと見られていなかったのだと俺は内心胸をなでおろす。
「もう行った。俺は荷物が多くて車に乗れなかったんで電車で行くことになって」
 拳を握ったままだとなんだか力説しているようで、俺はさりげなさを装って腕を下ろした。
「そっか。おばさんたちにも会いたかったんだけど、まあ、亮くんに会えただけでも良かったよ。…電車何時のやつでいくの?」
「11時2分に快速に接続するやつがあるからそれで」
 動揺が少し治まると、篠井が会いに来てくれた嬉しさがじわりと胸の奥に沸いてきた。
 ふと篠井の髪の色が以前より明るい色になっていて、長さも少し短くなっていることに気づく。篠井は俺から鞄をとりあげ、自分の肩にかけて言った。
「これ駅までもってやるよ。…亮くん、上着は?そんな格好で寒くないの?」
 俺は父の車に自分のコートを乗せてしまったことを話した。
 すると篠井は笑って、俺の前に立ち自分の首に巻いたマフラーを外すと俺の首にかけた。
「やるよ。餞別に。東京までしていきな」
 篠井はマフラーを俺の首に巻きつけながらすごく優しく笑って、俺はなんだか胸が熱くなった。篠井のこんな表情をもう見られなくなるのが、どうしようもないことだとわかっていてもやっぱり悔しい。
 鼻の奥がつんと痛くなり俺は慌てて俯いた。すると微かに篠井のつけているコロンの香りがしてそれに思わず泣きそうになる。
「…ありがとう」
 俺はそう篠井に告げるのが精一杯だった。
「メールするよ」
「…うん」
「亮くん返事しなくてもいいからさ…俺、ずっとメールしてもいい?」
 その言葉に俺は慌てて鼻をすすった。
「な、何言ってんだよ。返事するよ。俺からだってメールするし。…っていうかぜったい俺の方がそういうのマメだと思う。篠井、すぐ飽きそうだもん」
 いつかの篠井のそっけないメールの返事を思い出して言った。篠井はそんなことない、と言って拗ねたように唇をとがらせ、その見慣れた彼の子供のような表情に俺はまた泣きそうになった。
「…亮くん、お願いがあるんだけど」
「うん?」
「…握手してくれる?」
 そんなことかと俺は手をあげかけてはっとした。それは指輪を握り締めている方の手で、俺は逆の手をごく自然に見えるようにあげたつもりだったが、篠井は眉根を寄せて不審そうに言った。
「なんで左手?…てかさ、亮くん、さっきからなんで拳握ってんだよ」
 言われて、思わずぎくりとする。
「引越しがんばろうとか思って…」
 ガッツポーズを作って誤魔化そうとしたが、篠井は余計に興味を引かれたようだった。この時まで篠井が案外しつこい奴だということを、俺はすっかり忘れていた。
「なに?何か見られたらまずいもん隠してんの?見せてみ」
「やめろよ、なんでもないって!」
「なんでもないなら見せられるじゃん」
 俺の手を掴んで無理やり指を開かせようとする篠井に俺は全力で抵抗した。
 そしてとっさのことだったからとはいえ隠そうとした己を呪った。高価なものだから捨てるに捨てられなかったとか軽く言い訳しておけばよかったのに、これじゃこっそりと後生大事に持っていたのがばれてしまう。それは自分の密やかな想いを勘付かせてしまうかもしれず、そうなることを怖れて俺は必死になった。
「なんでもない!小銭だよ!電車賃!」
「えー?小銭で東京まで?一体何枚持ってんだよ」
 誤魔化せば誤魔化すほど篠井は興味を示し、俺はここまで子供ならきっとオーソドックスな手も通用するに違いないと踏んで、大声を上げた。
「篠井!後ろ!」
「えっ?!」
 俺の声に篠井の手が一瞬緩み俺から視線が外れたのを見て、俺はこの隙にと彼の手を振り払って指輪をジーンズのポケットにしまおうとした。
 しかし引っかかった振りをしただけなのか俺の手首を掴む篠井の手にはすぐに力が篭められ、俺はそれに驚いて思わず握る手を緩めてしまう。
 手の中を滑って硬い音を立ててアスファルトを跳ねてから転がる指輪に、そのままいっそ川に落ちてしまえと俺は儚い願いを篭めた。
 
 その思いも虚しく銀色の指輪はすぐに荒れたアスファルトにひっかかり、その勢いを止めた。

[*前へ][次へ#]
[戻る]


あきゅろす。
無料HPエムペ!