9 帰りに、前に鞄を買った街に行った。 少し街をぶらついた後にコーヒーショップに入った。水落に先に席についているように言われ、一番安いコーヒーを頼んで、彼の鞄の換わりにその分の小銭を渡して奥の席に向かう。 高校生には少しだけ高く感じるその店の中には、ノートパソコンで仕事をするサラリーマンや、文庫本を広げた女の人がまばらにいるだけだった。 俺が腰を下ろしてからまもなく、トレイを手にした水落がやってきた。 テーブルに置かれたトレイを見ると、コーヒーが二つと、チョコレートのかかったクロワッサンが一つのっていた。 てっきり水落が食べるのかと思ったら、彼はクロワッサンののった皿を俺の前に置いた。 「食えよ」 「え、な、なんで」 「俺が嫌がったから成田の誘い断ったんだろ?」 そう言われて、俺は迷って視線を下に向けた。 どう答えたものか。はじめから俺は断るつもりで、別に水落が嫌がるからとかそんな考えは全然なかった。でも背中を押したのはたしかに水落のらしくない表情だったわけで、このあたりをどう説明したらいいんだろう。 ちらりと視線をあげると水落は俺の答えを待つようにじっと俺を見ていて、俺はもう最初から正直に言うことにした。 「あ、あの、もともと断るつもりだったんだ。だって、知らない人と遊ぶのちょっと嫌だったし……」 言いかけたところで、水落は俺の言葉をさえぎった。 「わかったよ。まあ、いいから食え。……ところでさ、少しは慣れた?」 「慣れたって?」 「俺に慣れた?」 そう言って水落はまた、じっと俺を見た。綺麗な澄んだ瞳に見つめられて、たまらなくなって、俺は曖昧な返事をして再び俯く。 やっぱり、彼に対して萎縮したり緊張したりしていることに気づかれていたようだ。しかし水落には戸惑うばかりで、慣れるなんてとんでもない。いまだに彼が何を考えているのかすらわからないのに。 不意に、休み時間に成田と話したことが思い出された。 もしかしたら俺は彼のことを知らないから、彼に対して必要以上に臆病になってしまうんじゃないだろうか。好みとか趣味とかそういう背景を知れば、多少は気負いなく彼と接することができるようになるかもしれない。 だって、正体の知れないものに対して、恐怖を抱くのは人間として当然の本能だ。 考えるうちになんだか、だんだんそれが正解のような気がしてきて、俺は意を決して尋ねてみた。 「あ、あの、水落、コーヒーが好きなの?」 「……。そういえば、珍しいな、お前がコーヒー飲むの。あまり見たことがない」 「あ、うん。そんなに飲まないんだけど、ここの店あまり入ったことないからコーヒーくらいしかわからなくて、とっさに」 答えながら、やっぱり逸らされた、と思った。 いつもこんな調子で、彼自身の話を聞けたことがない。話すのが嫌なら触れない方がいいと思っていたし、踏み込んで気を悪くさせるのも怖かった。だけど彼とつきあっていくつもりなら、彼のことを少しでも知るべきだと俺はわけのわからない使命感のようなものにとらわれてしまっていた。 「水落は休みの日とかって、何してるの?」 なおも食い下がると、水落はクロワッサンを指差し、言った。 「お前のことを考えてる。それ、早く食えよ」 また逸らされたとは思ったが、さらりとすごいことを言われてどうにも返す言葉がなくて、俺は諦めて言われたとおりクロワッサンを手にとった。 「……あの、半分食べる?」 「いい。お前が全部食え」 いただきますと言って、かじりつく。たぶん俺がよく学校の購買で、チョコレートの入ったデニッシュ風の菓子パンを買うから、それに似たものを選んでくれたのだろう。 「うん、うまい。ありがとう」 礼を言うと水落は嬉しそうに笑った。 こんな風に俺の些細な言葉や行動で水落が感情を揺らすのをみるのはどうにも落ち着かない。水落は俺のことが好きらしいから理屈では理解できるが、俺自身がそれを当然のことだと思ってしまうのはどうにも怖かった。 食べ終わって、指についてしまったチョコレートを行儀悪く舌でなめ取ると、水落と目があった。 すぐにはずされた視線に、果敢にも俺は三度目の試みに挑んでみることにした。 「あ、あのさ、水落は好きな食べ物とかってあるの?」 「…もしかして、俺に興味がでてきた?」 「えっ」 いつもと違う逸らされ方に言葉に詰まった。 「さっきから俺のことをききたがるから」 興味があるかないかで言ったら、もちろんあるから質問しているわけで、戸惑いつつ頷くと、水落は呟くように言った。 「もう一押しだな」 「…一押し?」 聞き返しても水落は笑うだけで何も答えてくれなかった。 その後、旅行の自由行動の話になってしまい、それ以上水落については聞けなかった。 電車に乗って、学校のある駅で乗り換え、その電車では二人揃って座れるところはなかったので、ドアのところに立った。 「ああ、そうだ。俺、明日は一緒に行けないから」 「え、なんで?」 「集合時間が早すぎてさ、うちの方、まだ電車ないんだよ。親に話したら直接車で送ってくれるって言うから」 午前中に現地に着くようにと設定された集合時間は、俺の家からは始発でいくほどのものでもなかったが、さらに遠い水落は間に合わないそうだ。 明日は一人で行くことがわかって、不思議と少し寂しいような気分になった。 入学式の翌日以来、学校へ行くときは水落といつも一緒だったから、どうにも不安になってしまうのかもしれない。 窓の外に目を向けると、流れる景色の中に武道具店の看板を見つけた。ふと、以前近藤に水落を剣道の大会で見かけたことを聞いたのを思い出した。 「そういえば、水落、中学の時剣道やってたの?」 何気なく訊いたつもりだった。どうせまた逸らされるかやっていたの一言で済むことだと思ったのに、少しの間の後、水落から返ってきたのは、いままで俺に向けて発せられたことのない感情のない冷たい声だった。 「……誰にきいた?」 その声に肝がすっと冷えた後、心臓が鳴りはじめた。自分のことを話すのが嫌いだって知っていたのに、なおも尋ねてしまった自分の愚かさを悔いた。とうとう気を悪くさせてしまった、そう思った。 「あ、あの…こ、近藤。中学のとき、県大会とかで水落を見たことあるって」 「あいつ、家、どこ?」 必死の思いで記憶のかなたから近藤の住んでいる市を探り当てて告げると、水落は軽く頷いただけで何も言わなかった。 そのまま水落は何も言わず、重い沈黙が降りた。 突然変わった空気に俺は言葉を必死に探す。 「……あ、あの、ごめん。なんか、まずかった?」 おずおずと謝ると、水落はちらりと俺を見てすぐに視線を外に向けた。視界にいれてもらえたのには安心したのに、すぐに逸らされたことに胸が痛む。 「……いや。たいしたことじゃない、な。うん、やってた」 「……そうなんだ」 どうして高校ではやらなかったのか、話が繋がった時に用意した疑問は飲み込むしかなかった。 そのまま水落と会話は途切れ、降りる時に挨拶を交わしただけだった。 その挨拶の口調はいつものように優しいものだったが、電車を降りて振り返ってみても、水落はあの日のように俺のことを見てはいなかった。 [*前へ][次へ#] [戻る] |