◆ナヴァールの烙印◆ 輝く冠 「お加減はいかがでございますか…?」 ベッドの前までくると、カシスタは顔を上げ、シュリに見舞いの言葉をかけた。 「なんだかお前のほうが病人みたいだぞ。具合でも悪いのか…?」 「いえ…」 カシスタは、言葉を詰まらせた。 「…まるで、俺が何かお前に悪いことでもしたみたいだな」 「いいえ…ではわたくしはこれで失礼しますわ」 カシスタは耐え切れぬ空間を破るように、一歩下がった。そのとき、 「お待ちください。ちょっとお伺いしたことがあるのですが」 張り詰めた声でファイスが言い、カシスタの背後に立ちふさがった。 「わ、わたくしになにを」 「医者の調べで、シュリ様は、泳ぐ前に、何か薬を飲まされていたことが分かりました。泳ぎに出る直前、シュリ様のそばにいらしたのは姫だけですよね? たしかあのとき、飲み物をご用意されていたように見えましたが」 「いきなり何を言い出すんだ…?」 シュリはベッドから立ち上がろうとする。が、すぐによろけで膝を突いてしまう。 「わたくしは…何も存じません。ただ、皆様にご用意したものとまったく同じものを、シュリ様にも差し上げただけですわ」 いきなり核心に切り込んできたファイスの言葉に、カシスタはよろけそうになる。すると、とつじょ鋼のような言葉が落ち、 「できれば、このようなことはしたくないのですが」 「あっ」 ファイスは、カシスタの腕を背後にねじり上げた。 「あなたのしたことは、パルヴィア王国第二王子に対する暗殺の幇助です。しかしそれは、あなた自身の考えではありませんね? あなたにそれを命じたのが誰なのか、素直に言ってくだされば、公にはしません」 「ファイス…」 シュリが、ベッドの上で息を呑む気配が伝わってきた。 「カシスタが俺に薬を…?」 「シュリ様はいろいろありましたから、そこまで考えが及ばなかったのでしょう。しかし、状況が状況ですから、姫がシュリ様に一服盛ったとしか考えられません」 「無礼な…わたくしは何も知らないと言っているでしょう!」 「シュリ様は、私が陛下からお預かりした大切なお方です。そのシュリ様が何者かに斬られ、溺れさせられ、誘拐されそうになったのです。知らないではすまされませんよ」 鬼気迫る重い声だった。 「…放して! 放しなさい!」 ファイスの、腕をねじり上げる力が徐々に強くなっていく。カシスタは悲鳴を上げた。 「痛…っ」 「ファイス、やめろ」 シュリが、まろぶようにベッドから降り、ファイスとカシスタの間に割って入った。不意に放され、カシスタは床に伏せってしまう。 「だいじょうぶか…? 乱暴をしてすまなかったな」 助け手を伸ばすシュリの目は優しく、静かないたわりと同情に満ちていた。 「ファイス、もういい。俺は事を荒立てる気はない」 いいながら、倒れているカシスタの肩を抱き起こす。カシスタは、放心したように起こされるがままにまかせた。 「私も事を大きくするつもりはありませんでした。ただ、はっきりとさせておきたくて」 「お前の言いたいことは分かる。だが、カシスタを責めても何も解決しない。元凶は他にあるのだから」 「シュリ様…」 カシスタの目が潤む。 しかし。 「いい。何もいうな。それより頼む。早くカイザーとともにここを去ってくれ」 シュリはきっぱりと言い放った。 カシスタは、瞳を揺らし、シュリを見つめたが、やがて、しびれる腕をさすりながら立ち上がった。 そのとき、侍従があわてて駆け込んできた。 「シュリ様、大変です。金の魚が」 外は、よく晴れ渡った午後だった。ティアは庭園に出ると、大きな南の木々の合間から、光る湖面がよく見えた。ぼんやりと、それを見つめる。 あのときのように、たくさんの漁師たちが小船で行きかっている。時を忘れたかのように、ティアはただ湖を見ていた。 湖面からの風が吹き渡り、ティアの髪をちらした。背後に人の気配を感じて振り返る。 「ティアちゃん」 そこにいたのは、大きなかごを持ったナゴナとイエだった。 「ちょうど、着替えを持ってお部屋に行くところだったの。そろそろ起きてもだいじょうぶかと思って」 「いつまでも寝衣じゃ落ち着かないでしょ?」 言われて初めて、ティアは自分が外にはふさわしくない格好だということに気づく。 「ついでだから、浴場でさっぱりしてから着替えない? いろいろ積もる話もあるし」 ナゴナたちの気遣いがうれしかった。 「じゃあ、お言葉に甘えて」 ティアは頷いた。 ティアは、久しぶりに気持ちのいい湯につかり、さっぱりとして着替えを済ませ、ナゴナたちと庭に出て午後の茶を飲んでいた。 「ほんとうによかったわ。一時はどうなるかと思ったもの。セフォア中の漁師たちがシュリ様をさがして」 「ええ、本当に…」 ティアは目を細め、湖を改めて見つめた。さざめく湖面を見下ろしながら、シュリを守ってくれた金の魚を思い描く。 「それにしても、なんだか湖が騒がしいですわね」 シュリの捜索は終わり、日常が戻っているはずなのに、たくさんの小船がせわしなく行きかっているのだ。 「ああ…カイザー様がまた漁を再開されたのよ。なんでも、お母上様の誕生祝が迫っているんですって。もう目の色変えて、船を出させているわ。具合が悪くて臥せっていた漁師まで引きずり出されて」 「え。金の魚を」 ティアは目を見開いた。シュリを救ってくれた金の魚を捕獲するとは。とつぜん立ち上がり、ナゴナとイエを驚かせた。 「ティアちゃん、どうしたの?」 「湖に行ってきます…!」 カイザーを恐れる気持ちはあったが、それよりも金の魚が心配だった。あの美しくかしこい魚が水揚げされているのを想像しただけで、まるでシュリそのものが捕らわれたような心地になる。ティアは衣服のすそをつまみ、足早に庭園を横切っていく。 「あ、待って」 ティアの焦りが伝染したかのように、ナゴナとイエも、後を追ってきた。 ◆◇◆ 湖岸に人だかりができていた。大勢の漁師にまざって、カイザーの配下の騎士らしき姿もあった。ティアはその固まりに向かって、まろぶように駆けて行く。 「はぁ…はぁ……通して…通してください……」 シュリの捜索でティアの姿を知っている漁師たちは、ティアのために道をあけてくれた。 人だかりの中心には、従者を従えたカイザーがいた。投網を持った漁師の足元を見つめている。その前まで来て、ティアは硬直した。大きな投網に捕らわれ、金の魚が激しくうねっていたのだった。 「あ…」 カイザーがそこにいるのも忘れ、足を踏み出す。 「ティア、久しぶりだね」 その腕を、背後からカイザーにつかまれた。 「こんなところにいるのを見ると、シュリの具合はいいみたいだな」 「カイザー様…」 ティアは潤んだ目で、カイザーを見つめた。 「お願いします。金の魚を逃がしてあげてください…金の魚は若様を助けてくださったんです」 「それなら、なおさら逃がすわけには行かないな…金の魚も、そしてお前も」 腕をつかむ手に力をこめ、凍る目で言い放つ。しかしティアはひるまなかった。 「金の魚を逃がしてくださらないのなら、若様のお父上に、全部訴えます。血を分けた弟が、兄を落としいれようとしたと…」 「奴隷のお前が、父上に?」 カイザーは、口元を吊り上げた。 「誰が信じると思う? ここにいるものも、王宮にいる者たちも、みんな権力へひれ伏すものばかりだ」 剣呑な空気が漂い、ティアは一瞬、不安げに周りを見回したが、すぐにカイザーに向き直り、さらに言い放った。 「どんなことをしてでも訴えます」 ティアの周りにいた従者たちが、いっせいに、腰に手を当てた。 「ティアちゃん…」 少し離れたところにいるナゴナとイエが、心配そうに手を祈る形に合わせている。事情を解さない漁師たちも、冷え切った空気に押され、黙り込む。 ティアを見つめるカイザーの目は、憎しみとも悲しみともつかぬ、もどかしい色に満ちていた。生まれた初めて、権力では動かせない固いものを知り、彼の心は傷つけられ、踏みにじられたのだった。射殺さんばかりにティアを睨みすえている。 ティアはどうあっても屈しないという意志を込めて、そんなカイザーを見返す。 「…くっ」 そんな息苦しい時間を破ったのはカイザーだった。唐突に、ティアの腕を離し、投網に向かって一歩ふみだしたのだ。腰の剣を抜き、投網をはぐように命じる。 「あ、なにを」 ティアは、騎士たちに押さえ込まれ、ただ見ているしかできなかった。 「金の魚を押さえろ」 鋭い声で命じられ、漁師たちが滑る魚を必死で押さえる。カイザーは近づき、剣を金の魚に向かって振り下ろした。 「やめて…!」 ティアは顔を覆い、座り込んだ。 「待て!」 そのとき、力強い声とともに、シュリが飛び込んできた。鋭い剣さばきで、カイザーの剣を止める。 「若様」 ティアは目を見開いた。 「ふん、死にぞこないめ」 邪魔をされ、カイザーは凍りつくような目で、シュリをにらんだ。 「セフォアの守り神に手を出すことは、俺が許さん」 「どう、許さないっていうんだ」 「お前のたくらみはわかっている」 シュリの合図で、ファイスが進み出てきた。 「いてててっ、放せ!」 髭だらけで薄汚れたロウが、腰の縄を持ってファイスに引きずられている。 「殿下、御許しを」 ロウは哀れな目で、這いつくばったまま、カイザーを見上げた。 「こんな下賤の者の言い条を信じるのか」 「往生際が悪いですよ。証人はもう一人います」 ファイスの後ろから、カシスタがひっそり進み出てきた。 「あなたが、カシスタ姫に命じたことを、ここで繰り返させましょうか。この、みんなが見ている場で」 「カシスタ、お前」 カイザーは射殺すような目で、カシスタをにらんだ。 「殿下…もうおやめください」 カシスタは、カイザーの前でひざまずき、衣のすそをつかんだ。 「あなた様は、王たる者にふさわしい血筋と学識と風格を持つお方。このようなことをなさっては、あなた様自身のためになりません。どうかご自分のためにも、正々堂々と、シュリ様と勝負なさってください」 「カシスタ」 カイザーは、楚々とおとなしく従ってきた姫の初めての進言を、目を見開いて見つめていた。 「シュリ殿下」 カシスタは膝をついたまま、シュリを振り返り、こうべを垂れた。 「あなた様は、間もなく成人されます。どうか王宮にお出ましになり、カイザー殿下と正式な勝負をなさってください」 カシスタの言葉を受け、シュリはティアの手を一瞬きつく握ったのち、放した。 「俺は、王になるなどという野望はない。が、カイザー。お前がどうしても俺が邪魔だというのなら、成人の儀の際、決着をつけよう。堂々と、みんなの前でな」 シュリは剣を前につきだし、大きな声で宣言した。 「ふん」 カイザーは突き出された剣を無視し、踵を返した。 「帰るぞ」 「金の魚はどうしますか?」 シュアラーがたずねる。 「そんなものに、興味はない。カシスタ、来い」 「はい…殿下」 カシスタはドレスの裾をつまんで立ち上がり、去っていくカイザーにすがった。 去っていく一行を、シュリとティアは、寄り添いあいながら見送る。 「金の魚を逃がしてやれ」 シュリが漁師に命じる。ティアは前に進み出た。 「ありがとう…若様を守ってくれて」 金の魚のきらめくうろこを見つめ、ティアはそっと感謝の意をしめした。 水に放たれた金の魚は、大きなうねりを見せて、湖の奥深く分け入っていく。 ティアの耳に、不思議な旋律が聴こえてきた。その旋律は、ティアの心に一つの光景として突き刺さった。 「あ…」 「どうした?」 耳を押さえるティアを、シュリがいぶかしげに見つめる。 「いえ、なんでもありません。湖の風はお体に悪いです。もう帰りましょう」 「ああ。帰ろう」 シュリはティアの肩を抱き、湖畔から離れる。 (確かに見えたわ…金の魚が私に伝えてきた) シュリとともに歩みながら、ティアはそっと、心に刺さった光景を反芻した。 (若様の頭に…光り輝く冠が) それは、神々しい光景だった。 (若様が、この国の王様に…) なのになぜ、こんなにも胸が苦しく、悲しくなるのだろう。 「ティア」 黙り込んでしまったティアの肩を、シュリは強く抱いてきた。 「先ほどの言葉は本当だな? ずっと俺のそばにいると」 「若様」 ティアは立ち止まり、シュリを見つめた。シュリの笑顔が愛しい。 「はい。私はずっと、若様のおそばにいます」 「ティア。本当に?」 「はい…」 ティアは濡れる心を押し隠し、ほほ笑んだ。 「ティア」 シュリはティアをきつく抱きしめた。ティアはシュリの胸に身を寄せ、切なげに目を閉じる。 (これからあなたが歩まれる道がどんなものであろうとも…私はおそばにいて見守り続けます) セフォアに西日が落ち、きらめきが二人を見守るように照らし出した。 【Fin】 最後までお読みいただき、ありがとうございました。 お気に召していただけましたら、ぜひ、PC版をお読みください(詳しくはダイアリーをみてね♪) [前へ] [戻る] |