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◆ナヴァールの烙印◆
光とともに

水底に沈んでいても、水面に顔を出しても、変わらぬ息苦しさがティアを覆っていた。ついに、恐れていた嵐がやってきたのだ。

捜索を始めてから二時以上が経ち、シュリの安否がさらに気遣われた。

(若様…)

冷え切った手足で闇雲に水を掻き、さらに深く分け入って行く。息をする暇も惜しむように、命を削るかのように。

(お願い…キーリアの女神様。ナヴァールの神様。私をあの方に会わせてください。もう一度。もう一度だけ…)

もし再びシュリを捉えたら、二度と離れない。離しはしない。こんな思いをするくらいなら、たとえ理由があったとしても、ほかの人の元に仕えたりしない。それがシュリの弟であっても、シュリの母であっても。

そしてもし出会えたら、そのあとは抗えない運命であっても、抗ってみせる。乗り越えてみせる。

シュリがそばにいてくれさえすれば、どんな困難にも耐えてみせる。だからどうか。

そんなティアの祈りが通じたのだろうか。あるとき、薄い光が遠くに見えた。

(あれは…?)

そのかすかな光は、ティアを誘っているように思えた。かなり遠く、深い場所だ。もう、手足も肺も限界に達していたが、ティアは藁をもつかむような思いで、その光を追った。

必死の思いで光を追うと、やがて金の光は、細かなかけらとなって撒き散らされていった。まるでティアに、道しるべを作っているようだった。その光とともに、透明で不思議な調べが流れ、耳を、心を打った。

ファイスの言葉が思い出される。

『金の魚は、泳ぐときに不思議な音を出して自らを追うものを惑わせる、と言われています。シュリ様は以前、それに惑わされておぼれかけたのです』

あの言葉が本当だとしたら、シュリはこの近くにいるかもしれない。きっとそうだ。

(若様…どちらに)

ティアはつぶれそうな体に鞭打つように、さらに水を掻いた。奥深く、潜っていく。

そのとき、金の光のかけらとともに、不吉な色が混ざって落ちてきた。ティアは水の中で目を見開く。

(これは…血!)

とたん、息苦しさを思い出した。

しかしティアは水面に上がる時間を惜しんだ。金のかけらを振り払い、髪を激しく水にたなびかせながらうねるように泳いで行く。不吉な予感とともに、目指すものが近いことをティアは知った。

(若様…!)

泳ぐ先に、金の光が見えた。大きく尾を振り、水を縫うように進んで行く。かもし出される音は幽玄の彼方から響くようだった。めまいと陶酔を覚えた。

(金の魚…?)

そして、ティアの目は捉えた。大きな人ほどもある金色のうろこを持つ魚が、誰かを背に乗せてゆったり泳いでいるのを。それは、ティアの探していたいとおしい人に他ならない。

(若様)

シュリは、魚につかまったままその泳ぎに身を任せていた。どうやら半分気を失っているようだ。その体から血が流れ、ティアのほうにたなびいては消えていった。

(待って…!)

やっと見つけた。しかしシュリを乗せた金の魚は、ティアのいる場所から、どんどん遠ざかって行く。

(お願い、待って…)

ずっと息継ぎをしていなかった体は空気を求め、思うように動いてくれなかった。もどかしさのあまり、涙があふれた。それがさらに視界を奪う。

「うっ…」

ついに、ティアの体が反転した。空気を求めて、むなしく手が水を掻く。重く体がしびれ、自分のものではないようだ。

「わ、か…」

叫んだとたん、肺に水が入り込んできた。身をそらし、ティアは初めて湖で自分を失う恐怖を知った。こんなに近くに求めていた人がいるのに。もう少しで会えたのに。

絶望に覆われ、ティアは、暗い水底を漂った。



(ティア…)

温かな光が、沈んで行くティアを包む。こんなに安らかな気持ちは初めてだった。自分は死んでしまったのだろうか。

(ティア…)

大きな手が伸ばされて、沈んで行くティアの手を包む。ティアは目を閉じたまま、その手にすがった。

(若様…)

(ティア)

そのまま広い胸に引き寄せられた。ティアもまた、手を回して、いとおしい人を抱きしめた。

(私たち、やっと会えたのね…もう、離れなくていいのね)

ティアは幸せだった。たとえ生きられなくても、美しい湖の底で結ばれるなら本望だった。

(お会いしたかった…もう思い残すことはありません)

(だめだ、ティア。俺たちはまだ死ねない。幸せにならなくては。生きてもっともっと幸せにならなくては)

シュリの声は、あくまで力強く生き生きとしていた。

ティアはその声に勇気付けられた。そして力を振り絞り、泳ぎ始めた。生に向かって。明日に向かって。希望に向かって。



「うっ…」

堅い岩が、体を擦った。何もかもが、水を吸って重くまとわりついていた。

うっすら目を開けると、降りしきる雨の中、いつの間にかティアは岸に近い岩に身を寄せていた。

そしてティアは、ついに求めていたものを得たことを知った。捜し求めていたいとおしい人と固く抱き合い、一つになっていたのだ。心地よい重さだった。

その重さを抱いたまま、ティアは岩を伝い、何とか岸辺にたどり着いた。

「若様、しっかりしてください」

岸に横たえたシュリは、全身ぐっしょりと濡れ、青白く呼吸も弱かった。上半身は何も身につけておらず、裸の胸には古傷や、新しい擦り傷が多数あった。ティアはあわただしく全身を改め、背に深い傷があることを知った。

ティアは萎えそうになる心を絞り、雨の中、辺りを見回した。森に近い岸だった。遠くに小屋が見える。ティアはシュリを背負い、足を引きずるように、それに向かった。

やっとの思いで小屋にたどり着く。倒れこむようにして、扉を破った。中は暗いが、藁もあり安全そうな場所だった。普段漁師たちが休む場所なのだろう。

藁をかき集め、布を敷き、その上にシュリを寝かせた。ありったけの布を集めてシュリに巻きつけ、火種を探した。体が濡れているので、なかなか火がつかない。

ようやく火をおこし、かまどらしき場所に、集めておいた薪に火をつけた。いつも奴隷村でしていたように、息を吹きかけ、扇いで大きくする。

外はまた雨が降りしきっている。屋根を、壁を、激しく叩く音がひっきりなしに響いた。

その音を不安に感じながら、あわただしくシュリの元に戻った。藁の寝床ごとシュリをひっぱり、火のそばに移動させる。青ざめたシュリの横顔を、炎がちらちら照らす。その目は開かず、体はがくがく震えていた。

「若様」

愛する人を失う恐怖に覆いかぶさり、自らも細かに震えながら、冷たい体を精一杯さすった。

「死なないで…死なないで」

傷を手当てするすべも知らず、ただ消えそうな魂にすがって抱きしめた。

しかし、シュリの体はいつまでも冷たく、意識を取り戻すことはない。このままシュリは、ティアを呼ぶことも、抱きしめることもなく、消えてしまうのだろうか。

「そんなのだめです!」

ついに、ティアは着ていたわずかな下着を脱ぎ捨てた。生まれたままの姿になり、シュリの肌を直接包む。強く、強く抱いた。頬をこすり合わせ、手と手を絡め、愛撫するように、命を吹き込むように抱いた。

こんなにいとおしく思ったのは初めてだった。この人のためなら死んでもいいと思った。しかし今は、命を与えるのではなく、分け合いたいと思った。ともに生きたいと思った。ティアはありったけの熱を、シュリに注いだ。



「…っ…」

どのくらいの時間がたったのだろう。雨は小降りになり、不規則に屋根に落ちるほどになった。ティアはうめく声を間近で耳にし、顔を上げた。

「…ティ…ア」

「若様」

ティアの下で、シュリが薄く目を開いている。掻き抱くからだに、かすかなぬくもりが戻っていた。

「ああ…」

間近でささやく声を聞き、胸が熱くなる。最後にこのささやきを聞いたのは、いつのことだったろう。遠い昔のように思えた。

「ティア…」

「お怪我の具合は…?」

シュリは、弱々しく手を差し伸べた。ティアの乱れた髪に触れ、そのままそっと抱きしめた。胸が熱く締まった。

シュリはそれ以上、言葉が出ないようだ。また、何もかも失ったかのように目を閉じてしまった。しかし体には温かさが戻ってきている。ティアの心もぬくもりで満たされた。再び、シュリの傷を負った体を抱きしめた。

もう、大丈夫。このまま朝までシュリを抱き、温め続けよう。そして朝になったら助けを呼びに行こう。今はこのまま、二人だけでいたい。ティアは目を閉じた。

「やっと見つけたぞ!」

しかし静かな時間は唐突に破られた。木の扉が荒々しく押しあけられ、数人の漁師たちがなだれ込んできたのだ。ティアは身を隠すことも忘れ、生まれたままの姿で跳ね起きた。

「あ…」

入ってきたのは、漁師の格好をした男五人だった。息を乱し、ずぶぬれである。

漁師というからには味方であるはずなのに、ティアの心は冷たく絞られるようになった。なにかがおかしい。

その違和感に、ティアは気づいた。その中のひときわ体格のいい男に、引き寄せられたのだ。

間違うはずがない。それは、ティアに深い傷を与えた男、奴隷村の長、ロウだった。


「そんな…どうして」

突然闖入してきた五人の男。五人とも漁師の格好をし、顔半分が濃いひげに覆われている。

その中に知った顔を見つけ、ティアは狼狽した。やっとシュリに熱が戻り、救われたと思ったのに。よりにもよってこんなときに、この男がここに現れるとは。

「さぁ、どうしてかなぁ?」

漁師の格好をした奴隷村の長、ロウは、野卑な笑いを浮かべ、じりじりとこちらに近寄ってくる。二の腕にぼろ布を巻き、そこから血がにじんでるのが不気味だ。

ほかのものたちは冷たい目をしていた。ロウだけが崩れた相好をしているのが、ティアの目には余計におぞましく映った。

「考えてみな。どうして俺がここにいるのか。何のためにいるのか」

言いながら、ロウは、炎に照らし出されたティアのからだを見回している。ティアは身を固くした。自分の姿を思い出したのだ。いっさいの衣服を着けていない、冷えたからだを。

「来ないで…」

無防備なからだを隠すすべも持たず、シュリをかばい、小さくなる。

「相変わらず貧弱なカラダしてんなぁ」

ロウの忍び笑いが、ティアに思い出させた。かつて親友であるイファのために、自らロウの部屋に行ったときのことを。

「そんな娘のことはどうでもよい。さっさと任務を終わらせるのだ」

そのとき、ロウの隣にいた男が、表情のない声を落とした。ロウは邪魔をされ、これみよがしに舌打ちした。

いつしか男たちの手には、短剣が握られていた。その刃の先は、シュリに向けられている。

この漁師の格好をした男たちは、シュリを狙ってきたのだ。おそらくシュリに傷を負わせたのも、この男たちだ。

「この娘もいっしょに殺しちまうのか。生かしとけばあとで楽しめるぜ」

ロウはまだあきらめ切れない、という口調で、年かさの男のほうを向いた。

「この娘には顔を見られてしまったし、王子には剣の傷をつけてしまった。二人ともどこか遠くに運び、始末するしかあるまい」

「だが待て。カイザー殿下はこの娘をいたく気に入っておられるそうじゃないか。殺しちまったらあとでお怒りになるんじゃないのか?」

「しっ、馬鹿者」

年かさの男が、うっかりもらしたロウを叱責したが、遅かった。ティアは聞いてしまった。カイザーの名を。

カイザーは、ティアが召しを断り、シュリより下に貶められたことを許していかった。シュリがこのような目にあったのは、自分のせいなのだ。

「ああ…」

カイザーの恐るべき執念を見せつけられ、ティアは顔を覆って震えた。

「だが、それもそうだな。確かに命を受けているのは、シュリ王子のことだけだ。余計なことはせぬほうがいいだろう。口をふさぐのは後でも間に合う」

しばらくロウの言葉を思案していた男が、やがてうなずいた。

「この娘のことは、主様に伺いを立ててからにしよう。とりあえず、二人をセフォアの外に運ぶのだ」

「かしこまりました」

命を受けたロウがティアの腕をつかみ、シュリから引き離そうとする。

「ああっ、やめて!」

ティアは裸身であることも忘れ、あらん限りの力で暴れた。が、きゃしゃな身体でいくら暴れても、屈強の男にかなうはずがなかった。

ティアは部屋の端に引きずられ、ロウに羽交い絞めにされた。

「若様! 若様!」

手を差し伸べ、足を振って暴れる。ロウの腕を噛んだが、軽く振り払われた。大人と子供ほどの体格差の前では、ティアはまるきり無力だった。

その間にほかの男が三人がかりでシュリを毛布にくるもうとしていた。シュリの顔は青ざめ、手をだらりと毛布の外に投げ出している。

「お前の殿下は申し死にぞこないだなぁ。この傷の恨みに、もう少しいたぶってから殺ってやろうかと思ったが、あんなに活きが悪いんじゃ、面白くもねぇ」

ティアを抑えこんだまま、ロウはせせら笑う。

「やめて! 若様に触らないで!」

「暴れるな。もう無駄なんだよ。カイザー殿下に目をつけられた以上、命はない。あきらめろ」

楽しそうに言いながら、ティアの腕を羽交い絞めにしていた手を腰に回し、耳元に顔をうずめた。

「あとでたっぷり可愛がってやるからな。あの時逃げられた分まで、たっぷりとな」

間近でささやかれ、悪寒が走る。大きく無骨な手が、胸元を這った。

「…お願いします。私をカイザー様に会わせて下さい。私、カイザー様に謝りますから……ですから、どうか」

からだをまさぐられる屈辱に耐えながら、ティアは哀願した。

「お願いしなくても、お前はカイザー殿下の前に引き出されるだろうよ。殿下はえらくお前に執着してるらしいじゃないか。王子二人に可愛がられるなんぞ、奴隷冥利につきるってもんだ。俺様に感謝しろ」

他の男たちがシュリに集中しているのをいいことに、ロウはますます増長した。ティアの髪ごと頭をつかみ、噛みつくような勢いで、くちびるに迫る。

「やっ、あぁ…っ」

ティアはかつてのおぞましさを思い出し、激しく身をよじった。

「ティアっ」

「ぎゃあッ」

そのとき、シュリを抱えようとしてた男の一人が、腕を抑えて絶叫した。血飛沫が飛び、あたりを染める。

「ティアを、放せ…ッ」

いつの間にかシュリが意識を取り戻し、漁師の格好をした男の短剣を奪っていた。

「ロウ、ティアに触るな! その薄汚い手を早く放せ!」

一人を斬りつけ、一人を抱えて首筋に刃を突きつけて、ティアを拘束しているロウを、炎のような目でにらんでいる。

「こいつ…っ」

男たちは物騒な声を出した。次々に短剣を構え、シュリを取り囲む。

「若様…」

ティアは目をみはった。あんなにも傷を追い、冷え切っていたというのに、シュリは力尽きてはいなかった。

いや、回復したのではない。ない力を振り絞っているのだ。顔色は泥のように悪いし、男に突きつける刃も震えている。ただ、目だけがぎらぎら光っていた。気力だけで立ち上がったのだと分かった。

「刃を置け、シュリ王子。われらは仲間の一人や二人犠牲にしてもかまわない。無駄なことはよすがいい」

「カイザーの命なのか? そうなんだな?」

絞るような声が、小屋を満たした。小さくなった残り火がはぜ、あたりが暗くなってゆく。

「死にゆくお前には関係のないことだ。殺れ!」

男たちがいっせいに、人質を取ったままのシュリに踊りかかった。

「やめて!」

ティアの悲鳴と、シュリを抹殺せんとする男たちの掛け声が交錯する。

「シュリ様!」


目の前が真っ暗になり、気を失いそうなティアの耳に、力強い声が響き渡った。

戸口にひときわたくましい体格の影が現れたかと思うと、持っていた剣を投げたのだ。剣は空間を裂いて飛び、今まさにシュリを手にかけようとしていた男の背を刺し貫いた。

「うわぁッ」

背を刺し貫かれた男はその場で倒れ、事切れた。戸口に現れた影は風のように突進し、剣を抜きざまこちらを振り返った。それは、全身濡れ鼠で傷だらけのファイスであった。

振り返った勢いで、立ち向かってきた男を下から斬り上げる。そのまますばやくステップを踏んで、返り血を避ける。無駄も容赦もない動きだった。

「シュリ様、ご無事で」

まだ二人の男と対峙しながら、ファイスはうずくまっているシュリを目を細めて見下ろした。

「ファイス…ティア、ティアは…」

シュリはうめき、ただ、ティアの名だけを呼ぶ。

「ティアさんは大丈夫です。動かずこの場でお待ちください。全員始末してもよろしいですね」

再び敵を見据え、ファイスが低い声を吐く。

「殺すな…」

朦朧とした意識の中で、シュリはファイスの足元に手を差し伸べた。

「わかりました。一人だけ生かし、あとは始末させていただきます。そうでもしないと、私の気が収まりませんのでお許しを」

恐ろしき言葉を淡々と落とし、ファイスは剣を水平に構えた。

「うわぁぁぁぁッ」

残った二人はさすが手練らしく、簡単に斬り捨てられることはない。あたりはたちまち修羅場に陥った。

「くそぉ!」

残りの二人が戦っているというとき、身の危険を感じたロウはティアを放し、戸口に向かって逃げていった。

不意に支えを失い、ティアは土の床に崩れ落ちた。

ティアは、何が行われているのかも意識できず、ただ、いとしい人の姿だけを這うように捜し求める。

「若様…どちらに…」

剣を斬り結ぶ音、発せられる奇声、壁に叩きつけられる音がけたたましく響く。ティアはその間を、シュリを求めて這った。

「ティア…」

そのとき、手が燃えるように熱い手に触れた。かと思うと、荒々しく引き寄せられ、壁際に押付けられた。

「若様…」

それは、ティアが捜し求めていた人に他ならない。

「ティア」

必死で這ってきて泥だらけの裸身を、きつくきつく抱き寄せられる。闇の中で、シュリの琥珀色の目が揺れていた。

シュリの身体は、先ほどまでと違って、不自然なまでに熱かった。たちまちティアの冷えた身体も、熱で満たされた。

「申し訳ありません。全員息絶えました」

やがて暗い部屋に、明かりが広がった。ファイスがかまどに火をともしたのだ。

ティアが顔を向けると、小さな空間は、ファイスの持つ剣についた血と、倒れた男たちから発する生臭い血のにおいに満ち溢れていた。

シュリとティアはお互い支えあうようにして起き上がり、歩いていく。

ファイスは男たちの中でも小柄で年かさの男を仰向けにし、顔を覆っているひげを力任せにはがした。どうやら、これは偽者のひげだったらしい。土気色になった男の唇から、血が流れていた。

「どうやら、この男が命を下すもののようなので生かしておきたかったのですが、毒を飲まれました。シュリ様、この男に見覚えは?」

「…いいや」

「逃げた男を追いますか?」

ファイスは扉に目を向けた。

「いい。黒幕はわかっている」

シュリの声は厳しかった。ティアは不安になり、シュリの横顔を見つめた。すると、シュリはこちらを向き、ティアを安心させるように目元をやわらげた。

「ティア…助けてくれて、ありがとう」

いつもの優しい声で呼ばれ、胸が熱くなる。ようやく助かった。すべてよくなった。心からそう思えた。

ティアは何も答えられず、ただ静かに涙を落とした。そのしずくを、シュリの指がぬぐう。

「ティア…本当にありがとう。そして、すまなかった。カイザーのことで意固地になって、心配をかけてしまって、命まで危うくさせた」

いいえ、あなたは悪くない。悪くないんです。ティアは、なんども首を振る。

「だが、やっとティアをこの手にした。俺は、もう二度と…」

そこでシュリは、不自然に言葉をとめた。ティアはシュリの胸の中で目を開く。シュリの鼓動が早い。

「もう二度とティアを…」

シュリはティアを抱えたまま膝を折った。

「若様!」

「シュリ様」

同時に呼び声が響き、ファイスがシュリの体を改める。

「いけない。すごい熱だ。背の傷から悪い菌が入っているようです。すぐに医者に見てもらわなくては」

「そんな…」

やっと救われたのに。何もかも終わったはずなのに。

ティアはシュリにすがったまま、心が崩れそうになった。




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