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◆ナヴァールの烙印◆
暗殺者たち

シュリが立ち上がり船尾へ姿を消したとき、ティアは腰を浮かしかけた。が、思いとどまった。カシスタが優美に立ち上がり、『ご一緒させていただきます』といって、茶の支度を籠に詰め始めたからだ。

カシスタは、日傘を差しかけついてこようとする侍女を断り、ただ一人でシュリの元へ向かっていった。ティアはただ、潤んだ目でそれを見ているしかない。

太陽が高くなっても、二人は戻ってこなかった。

「二人が気になる?」

ティアに酌をさせながら、カイザーが目を細めて聞いた。

「いえ」

ティアは目線を何度も船尾に送った。が、シュリの姿はない。時間も空間も失ったかのように、胸が痛んだ。

一時ほどして、ようやくカシスタが戻ってきた。籠を提げ、ただ一人である。

「シュリ様はまだあちらですか?」

ファイスが、軽い調子でたずねる。

「いえ。シュリ様は泳ぎに出られましたわ。漁を見ていたら、自分も泳ぎたくなったので、漁に参加すると。お召し物をお預かりしておりますので、よろしくお願いします」

それだけいうと、カシスタは、籠の中に入れてあったシュリの衣服を取り出し、ファイスに渡した。そしてあいている席に着き、少し疲れたように扇で口元を覆う。

「また、姫を置いて一人で勝手気ままなことを」

サーチェスは呆れ顔だ。

「いいえ、じゅうぶんお相手していただきましたわ。それから、今日は漁師たちと行動を共にするので、船には戻らないそうです」
 
「漁師たちのほうに行かれたのですね? ということは、金の魚を獲る手伝いを?」

「はい、そうおっしゃっていました。しかし心配せぬよう、とのことでした」
 
「なら、僕たちはもう館に帰らない? なんだか湖にも飽きちゃったよ」

カイザーは、物憂げに椅子に寄りかかった。

「何だお前、もとはといえば、お前が漁の様子を見たいといったんじゃないか」

兄弟そろって自分勝手な、と、サーチェスはつぶやく。

「カイザー様、申し訳ありませんが、館に戻るのは、一度あちらの様子を見に行ってからでもよろしいでしょうか」

ファイスが、漁が続いている湖の隅を目で指し、カイザーに向かって丁重に頭を下げたので、ティアは祈るような思いで、カイザーの返事を待った。

「兄上は勝手に船から出て行ったんだろう? こっちが振り回されるのはいい迷惑だ」

「そうだな。待つだけ無駄というものだ。昨日だってさんざん小船でカシーを待たせて」

怒ったように言い放つサーチェスは、さきほどからカシスタの顔色の悪さを気遣っている。

ティアは沈んだ顔で船べりに寄り、漁の行われている水域を見回した。
水面に浮かぶどんな些細な波紋も見逃さぬよう、注意深く観察している。もしかしたらどこかに、いとしい人の痕跡が浮かんでいないかと思ったのだ。

そんなティアの心の琴線に触れたものがあった。

「あ」

「ティアさん、どうかしましたか?」

突然低い声を上げたティアを見て、ファイスが寄ってきた。

「なんだか不思議な音が聴こえたんです。あちらのほうから」

「音?」
 
「こんなときに何を言ってるんだ」

動きを止めてしまった二人の後ろで、サーチェスがいらだたしそうな声を投げてくる。

「きっと空耳ですね。申し訳ございません、おかしなことを言って」

「いえ、それは大きな手がかりかもしれませんよ」

ファイスはうなずき、カイザーを見た。

「申し訳ありませんカイザー様。ティアさんを少しお借りします。それから、私たちがいなくなったあと、船を戻して先にお帰りいただけますか」

丁寧に礼をすると、カイザーの返事も、ティアの同意も得ずに、ファイスはティアを抱えた。

「ファイス様」

とつぜん体をすくい上げられ、ティアは反射的にファイスにしがみついた。

「何をする気だ」

背後で、カイザーが声を上げる。しかし、ティアはその続きを聞くことはできなかった。
ティアを抱きかかえたまま、ファイスが船べりを軽々と越え、水面へと身を躍らせたからだ。

◆◆◆


数分後、二人は漁師たちの小船の上にいた。

「いきなり申し訳ありませんでした。だいじょうぶですか?」

「だいじょうぶです」

侍女のお仕着せはずぶぬれになり、重く水がまとわりついてきたが、水には慣れているので、恐怖はなかった。

「あの方たちに付き合っていたら、時間は過ぎていく一方ですから」

「ファイス様も、ご心配ですか?」

船から目を離し、ティアはファイスに問う。それは深い意味を持っていた。

「はっきりとした理由はわからないんですが、どうもいつもと違うような気がしましてね」

「私もです」

やはり、ファイスも同じ気持ちだった。ティアは心強く感じた。

「実はシュリ様は以前、金の魚を獲るといって一人で湖に出て、溺れかけたことがあるんです」

二人を乗せた船の上では、指示を待つ漁師たちが端に控えている。彼らに背を向けながら、ファイスはささやくように言った。

「だからそれ以来、金の魚には近づこうとしなかったんです。それなのに突然、今回は……」

「まあ」

「私はシュリ様を探しに行きます。ティアさんは、さきほど音がするとおっしゃいましたね?」

「はい」

「今も聴こえますか?」

「いいえ」

「ではとりあえず、先ほど音が聴こえたという方向に行ってみます」

ファイスは、あわただしく剣を外してティアに預け、身に着けているものを、次々と脱ぎ捨てていった。

「ファイス様」

船べりに足をかけるファイスの後ろで、ティアは不安げにささやく。

「ティアさんにお願いがあります」

そんなティアを、ファイスは厳しい表情で振り返った。

「はい」

「金の魚は、泳ぐときに不思議な音を出して自らを追うものを惑わせる、と言われています。私がいない間、その音をたどってほしいんです」

「音を」

「シュリ様は以前、それに惑わされておぼれかけたのです。今回も、もしそのようなことになっていたら」

その言葉の重さに背が凍ったが、ティアは黙って耳を傾けた。ファイスはさらに続けた。

「その音をたどることができる者はセフォアには一人しかいないのですが、その者は病気で今回の漁に参加しておらず……ここにいる漁師たちは、誰もその音を聞き分けることができません。あなただけが頼りです。どうかよろしくお願いします」

「わかりました」

ファイスの言葉の温度の冷たさにティアだったが、震える手を気丈に押さえ、深くうなずいた。

「では」

ファイスは、後は振り返らず、先ほどのように、一気に水に身を沈めた。

そのとき、遠くでかすかに雷鳴が響いた。それはほんのわずかな音だったが、ティアの耳にははっきりと届いた。ティアは山のほうを機敏な動作で振り返る。空は晴れ渡っていたが、西の方角に、わずかに暗雲が見えた。

「これは、あと二、三時で夕立ちが来ますな」

控えていた漁師が、遠くの雲を目でたどりながら、しわがれた声で告げた。

「そんな」

激しい雨に降られたら、大変なことになる。それまでにシュリが見つかればよいが、もし、見つからなかったら。

雨が来れば、船でこの場にとどまることも困難になるだろう。なんとしても、雨が来るまでにシュリを見つけなければならない。
ティアは琥珀を引き出し、強く握り締めた。

「若様は、私がお守りします」

湖に向かって投げられた声は祈りなどではなく、確信に満ちた声だった。

そしてティアは人目もはばからず、身に着けているものを次々に脱ぎ始めた。

◆◆◆

『金の魚は俺が捕まえる』

そうカシスタに啖呵を切って湖に飛び込んだシュリは、泳ぎ慣れたセフォアの湖水の中で、かつてない違和感を覚えていた。水が、重くまとわりつく。こんなことは初めてだった。

しかしそれほど気にとめてはいなかった。おそらく、酒のせいだろう。すぐに慣れる。

漁師たちに向かって、時間を惜しむかのように泳ぎ進めて行く。一刻も早く、漁師たちと協力し合って、金の魚を捕まえねば。そして今日明日にでも、カイザーには帰ってもらうのだ。

『カイザー殿下は、シュリ様の大事な奴隷をいたく気に入って、夕べ寝室にお召しになったようですわ』

カシスタの、信じがたい台詞が、ずっと頭を離れなかった。

もちろん、ティアのことは信じている。しかしまだ、自分は完全にティアをこの手におさめていない。その間に、カイザーがどんな手段に出るかわからない。品を送り、偽りの言葉をささやき……純粋なティアをだますかもしれない。全身の血ががたぎるようだった。

(早く漁師たちのところへ)

緑季真っ盛りの水は心地よかった。からだはだるいが、そんなことをいっている場合ではない。シュリはできる限り力強く水を掻き分け進んだ。

(ん…?)

と、そのとき。
漁師たちのいるのとは違う方向に、ふと心を惹かれた。

(これは)

水を通して、くぐもった何かが呼びかけてくるような気がする。人の耳では捕らえられない音源が、あちらにあるのだ。それは、シュリの朧な記憶に訴えかけてきた。

(たしかあのときも)

数年前、やはり金の魚を求めて、奥深くにわけ入っていったときだ。その音に導かれて、奥へ奥へと沈んで行き、そして惑わされ……溺れかけたのだ。

いつものシュリだったら、同じ過ちは犯さない。一人で行かず、漁師たちに協力を求めるだろう。
だが、今のシュリは嫉妬とあせりで冷静な判断力を欠いていた。

(そう簡単に、溺れさせられはしない。一人ででも必ず……)

シュリは方向を変え、音のするほうへ泳ぎ進めた。置いてきた船からも、漁師たちの船からも目が届かない場所へ。

◆◆◆

ファイスがティアを抱えて船から飛び降りたあと、カイザーは、サーチェスと並んで船のへりにたち、ティアを抱えて泳いで行くファイスの姿を見下ろしていた。

「なんて無礼な奴らだ。あんなのは放っておいて、我々は館に帰ろう」

サーチェスは心底から怒りをあらわにしている。

「…いいや」

カイザーは、水面から目を離した。

「兄上が見つかるまで、ここにいよう」

ティアが行ってしまったことで、妙な虚脱感を覚えていたカイザーだった。が、それを振り払うように、きっぱりと言い切り、再び遠ざかって行くティアをにらみすえた。

(どうせもう間に合うまい)

ファイスが行こうと、ティアが行こうともう無駄だ。シュリはカシスタに一服盛られ、今頃湖深く沈んでいるだろう。

それに、実はあらかじめ、漁師たちの姿をさせた騎士たちを、湖周辺に配置してあった。もしシュリが助かりそうになったとき、止めをさす役目を担わせているのだ。シュリが見つかる可能性はひとつもない。たとえファイスが命を賭け、主を守るために飛び込んだとしても。

再び水面に視線を送ると、ティアを抱えたファイスが、漁師たちの小船にたどり着くのが見えた。そのまま二人は小船に上がり、漁師たちに迎えられた。

「ふん」

カイザーはぐったりしているカシスタをちらりとみやり、席に戻った。相変わらず表情のないシュアラーが、主のために椅子を整える。カイザーは落ち着いた動作で椅子に腰を落とした。

「なんだって、残る? 姫の具合がよくないというのに」

サーチェスがへりに立ったまま、声を投げてくる。

「カシスタだってシュリのことが心配だよね?」

サーチェスを視界からはずし、長椅子で休んでいるカシスタに目を落とす。注がれた酒を口に運びながら、意地の悪い言葉を投げつけた。

「はい…」

ぐったりとしていたカシスタは、薄く目を開けたがすぐに閉じてしまった。それ以上言葉が出ないようだ。控えめにカシスタの背後に立っているクラウザが、目を翳らせながら姫の様子を窺っていた。カイザーはそれに気づかない振りをし、姉に手を広げて見せた。

「姫もああ言ってることだし」

カイザーの、心のこもらない返事に、サーチェスが怒りを込めた視線を向けてきた。

「気に入らないな」

騎士らしい気合のこもった瞳で、カイザーの心を見抜くかのように視線をすえてくる。大柄で派手な容姿をしているだけに、そんな彼女の姿には鬼神をも恐れさせる凄みがあった。

「何が?」

しかしカイザーは、まるで動じていない。

「いつものお前らしくない。何か含むところでもあるのか?」

鋭い勘を秘めた姉の言葉だったが、カイザーは内面を出すことはなかった。

「僕はただ、兄上が心配なだけですよ」

「シュリが、ではなく、あの卑しい奴隷娘が気にかかっているのだろう」

しかしサーチェスは、もっとも痛い方向から突っ込んできた。

「ティアのことが? まさか」

「とぼけるな。先刻からのお前らの態度。お前はわざとらしいまでにあの奴隷に優しく接しているし、シュリはそれを見てずっと苛々してる。

まるで二人であの奴隷を取り合っているようだぞ。兄弟揃って卑しい奴隷に入れあげるとは……なんてみっともない」

「取り合うだなんて。兄上をからかっていただけなのに」

カイザーは内心を押し隠し、鼻で哂った。

「お前の母御が知ったら、怒り狂うだろうな」

低い声と視線で、再びサーチェスはカイザーを見据えた。

「母上が」

カイザーの中に、母の厳しい叱責がまざまざとよみがえる。激しい息苦しさを覚え、胸元に手をやった。が、ここは王宮ではない。遠く離れた田舎だ。まさかこんなところまで、母の目は届くまい。

カイザーは胸元から震える手を離した。

「ここにいる間だけの戯れです」

何かを断ち切るように言い切り、カイザーは再び船のへりに寄った。


◆◆◆

金の魚の音源を追い、セフォアの深部まで引き込まれていったシュリの周りを、心地よい痺れが取り巻いていた。

泳げば泳ぐほど、手がしびれ、足がもつれて、目がかすんでくる。これが、酒のせいだけだろうか。シュリが自らの異変に気づいたときには、もはや心も体も自由が利かなくなっていた。いつしかシュリは、泳ぐことをやめていた。

遠くに、金の光が朧に見えた。まるで、天上を彩るきらめきのようだった。シュリは、仰向けになり、水面近くに見えるその光からどんどん遠ざかっていった。

不思議と、息苦しさは感じなかった。心地よささえ覚える。

(若様…)

そのとき、遠くで懐かしい声が響いた。誰よりも心に染み入るいとおしい声だ。

(若様…行かないで! 行かないで…!)

その声を聞き、シュリは思い出した。キーリアの奥で、船を取り戻すため流れに飛び込もうとしたシュリを、必死の様子で止めたティアのことを。

(ティア…)

思い出したとたん、息苦しさが襲った。

「う…ッ」

どのくらい息をしていなかったのだろう。肺がつぶれそうに痛んだ。その痛みが思い出させた。自分はまた、惑わされたのだ。

金の光は、どこにもない。シュリは必死で水を掻き、水面を求めた。しかし体が思うように動かない。何度も力尽きそうになり、それでももがき続けた。はるか頭上に、ティアが手を差し伸べる姿が見えた。もう一度、ティアに会いたい。その一心で、普通では出せない力を搾り出した。

「ふ…っ…はぁはぁ…」

ようやく振り切り水面に顔を出したとき、あたりは入り組んだ岩場のそばだった。漁師たちの船も、ティアたちの乗った船も、何も見えない場所だ。

岸に向かって溺れそうになりながら泳ぎ着き、岩にしがみついた。

「げほっ…げほっ…」

溺れかけ、体力が削がれていた。背の立つ場所にも関わらず、岩から手を離すとまた溺れそうだった。しかし助かった。シュリは咳が落ち着くと、なんとか岸辺に上がろうとした。

「…………!」

半分ほど岩に乗り上げたとき、音もなく誰かが近寄ってきた。次の瞬間、からだを背後から羽交い絞めにされ、岩から引き離された。

「うっ…」

相手を確かめるまもなく、再びシュリは、岸辺から湖の中に戻された。
数人に取り囲まれている。浅瀬で体を抑えられ、水から出られないように頭を沈められた。

「…ウッ…ぐっ…誰だッ…」

陸に上げられた魚のように、シュリはもがいた。

「暴れるなッ……ちきしょう、しぶといやつだッ。痺れ薬を飲まされているんじゃなかったのか?」

(痺れ薬……?)

憎々しい声は、どこかで聞き覚えがある。が、それを思い出す余裕はない。

(暗殺……)

そう悟った瞬間、反射的に、下穿きの中に隠してあった短剣に手が伸びた。いつ何時でも身を守れるよう、叩き込まれていた。その反射神経が、シュリの今すぐ消されそうな命を、寸でのところで救った。水中から手を伸ばし、襲撃者の一人を斬りつけた。

「痛ってぇ!」

先ほどの声の主を、剣は裂いたようだ。シュリを抑える圧力が、一瞬緩む。その隙をついて、水底を這うように離れた。

「待ちやがれ!」

勢いよく、背を鋭く切りつけられた。

「うわあぁッ」

激しい痛みが襲う。岩にたたきつけられ、半分水に漬かったままうずくまった。すかさず、数人に取り囲まれる。

「馬鹿ものッ、剣を使うなといわれてるだろう」

「だけどよぉ…」

薄く目を開け、ごねるような声の主に、目を当てる。驚いたことに、その男は、元奴隷村の長、ロウだった。目立たぬ漁師の格好をし、口ひげをたくわえて変装していが、シュリにはわかった。体つきといい、声といい、確かにあの男だ。ティアに乱暴狼藉を働いた、許しがたい男だ。ようやく離れられたというのに、今なぜ、ここにいるのか。

周りの数人も、似たような粗末な衣服を身に着け、顔を汚している。しかし目配り、立ち振る舞いには訓練されたものの動きが見られる。ただの漁師であるはずはない。彼らは漁師の姿をした暗殺者だ。

(なぜ、この男が…誰の命だ?)

背の痛みをこらえながら、岩場にもたれかかるようにして目を閉じ、シュリは考えをめぐらせた。が、今は逃げるのが先だ。気を失った振りをして、隙を窺う。

「剣はだめだ。傷をつけたら怪しまれる。あくまで溺れさせろとのご命令だ」

隊長と思しき男が、声を潜めながらロウをにらんだ。

「だがコイツには恨みが」

「新入りのくせに生意気だぞ。お前の個人的な恨みなどどうでもいい。我々の使命は、あの方のご命令を必ず遂行することだ」

「なんだって…俺の恨みがどうでもいいだと」

シュリが気を失っていると思い込み、彼らは油断して言い争い始めた。仲間割れが生じかけている。今がチャンスだ。シュリはひそやかに力をため、

「あっ、逃げやがった」

機敏な動きで岩場の後ろに隠れ、その場から逃れた。


背後に襲撃者が追ってくる。シュリは岩の上を、まろぶように逃げた。右側は深い森と切り立った岩場、左はセフォアの深部。前にしか道はない。

まだ夕刻には間があるはずなのに、あたりは暗く、底冷えのするような寒さだった。遠くで、雷鳴が響いた。

「…ッ」

湿った岩で足を滑らせそうになった。

(気をつけねば。下は深い湖だ。落ちればこの傷では失血してしまう)

だんだん岸から離れ、徐々に高い場所になっている。急ぎたいのはやまやまだが、慎重にならざるをえなかった。

幸い、水の中でのからだがしびれるような感じは、かなりよくなっていた。背を斬りつけられたときの傷は深そうだが、致命傷ではない。

それに、セフォアの湖岸は知り尽くしていた。この場所がどこにあたるのか、見当はつく。あと半刻ほど進めば、切り立った崖は終わり、道が開ける。

いっぽう追っ手はシュリほど地形に詳しくないようだ。シュリは抜け道、近道を巧みに使い、なんとか追っ手を遠く引き離すことができた。

(もう少しだ…)

安堵しかけたとき、雷鳴がとどろいた。頬を、肩を、大粒の雨が打つ。緑季の終わりには、よくこういったスコールがくる。傷に雨はよくない。シュリは安全な道を求め、足を速めた。

しかし、その雨が致命的となった。

「……ッ」

濡れた岩で足を滑らせてしまったのだ。バランスをとろうとしたが、無駄だった。体が大きく傾(かし)ぐ。岩壁と空が回転する。

シュリはそのまま、深い湖へと再び落ちていった。




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