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◆ナヴァールの烙印◆
狙われた花
ティアは、しかるべき位置に枕を置き、息を吐いた。開かれた窓の向こうに見える、湖のかがり火に目をやる。
カイザーの側付きになってから、細かな気配りを要する仕事を絶えず強いられ、気を抜く暇がなかったが、ようやく、長い一日が終わった。もう一度掛け布を整えると、ティアは窓際に寄った。
 
夜のセフォアは静かだ。昼間のきらめきがうそのようだった。しかしこうやって湖を見ていると、重苦しい気持ちですごした船上での一日を思い出す。身を裂かれそうな痛みが襲った。

シュリは、やるせないまなざしでティアを見つめていた。なのに何も告げることができない。針の筵に座らされているようだった。

夕べ、カイザーやその従者たちに額の烙印を暴かれた後、見世物のように扱われ、さげすまされ、ティアは自分を消したいくらい暗い穴底に落ち込んだ。
そんなティアに、カイザーは、ここにいる間、侍女として仕えることを命じた。
断る余地は無かった。ティアには、ほかに詫びるすべがなかったのだから。

(もう行かなくては…)

母のハンカチで涙をぬぐい、ティアは顔を上げた。

ティアはハンカチを目頭に当てたまま、寝室の扉に向かった。すると、いきなり扉が開き、ぶつかりそうになった。

「もうしわけございません」

扉を開いたのは、カイザーの従者、シュアラーだった。

「お支度は済んだのか」
「はい」
「カイザー殿下はもうお休みになる。さっさと控えの間に戻れ。御用があったら、いつでも来られるようにしておくんだぞ」
「かしこまりました」

そっと立ち上がり、失礼します、とつぶやく。ティアは、この従者が苦手だった。早くこの場を去りたい。逃げるように扉をくぐった。


ティアが去った後、シュアラーは部屋を丹念に改めた。

仔細な点検が終わったころ、カイザーが入ってきた。

「寝酒のお支度をしてまいります。今日はどうなさいますか?」
「あぁ、どうしようかな」

カイザーは寝台に腰掛け、足を組んだ。

「カシスタ姫をお呼びになりますか? 離宮のほうでも紹介はありましたが…お気に召した娘はおりましたか」
「いや、今日はいい」

珍しく、カイザーはそっけなかった。

「そうですか。では、酒の支度だけしてまいります。しばらくお待ちを」

シュアラーは丁寧に礼をした。

扉まできたとき、カイザーの声が背に飛んできた。

「酒はティアに持たせてくれ」

シュアラーは扉に掛けていた手を止めた。

「まさか殿下、あの娘にお役目を」
「いけない?」
「感心しませんね」
「ここは王宮じゃないよ。たまには…」
「戯れに奴隷娘をお抱きになるくらいなら許されるでしょう。しかしあの娘は穢れ人です。触れれば殿下まで穢れてしまう。やはり、カシスタ姫を…」
「彼女には彼女の仕事がある」

意味ありげな声で言い、カイザーは薄く笑った。

「ではほかの娘を」

端正な眉を寄せ、シュアラーは主人を見つめた。

「いいや、ティアに酒を運ばせてくれ」

強い口調でさらに命じられ、シュアラーは手に力をこめて扉をあけた。

「わかりました。しかし今回ばかりは、毒見はごめんつかまつります。それでもよろしいですか?」
「いいから早くティアを呼べ」

投げつけるように、従者に命じる。そして立ち上がり、窓辺に大またで近づく。カーテンをつかみとるようにして両側に開いた。

「お前は僕に忠実であればいいんだ」

自己を鼓舞するような声は、シュアラーにはなんの痛手も与えなかった。

「かしこまりました。しばらくお待ちくださいませ」

皮肉に響かないよう慎重に声音を選び、シュアラーは必要以上に丁寧に頭を下げた。


◆◆◆


「失礼いたします」

カイザーは、怠惰にソファにもたれながら寝酒が来るのを待っていた。
低いノックと共に声がかかり、それがティアのものだとわかって目を細める。

「入れ」

扉に向かって命じると、小さな盆を不安げに捧げ持ったティアが、顔を伏せて小さくなりながら入ってくる。

「お酒をお持ちしました」

間近までようやくたどり着いたティアが、慎重にテーブルの脇にひざをついた。
手も足も震えている。カイザーに熱い酒を浴びせてしまったことで、給仕に関しては極度に緊張しているのだ。

ティアはうやうやしく盆をテーブルに載せ、ひざをついたまま後ずさり、床に額をこすりつける。
かすかな花の香りが、鼻腔を打った。

「失礼いたします」

そのままティアは、下がろうとした。一刻も早くこの場から逃げたいという気持ちが、ありありと見える。

「寝酒は、運んだものが酌をするのだと教わらなかった?」
「は…?」

顔を上げたティアは、迷子の子供のように眉根を寄せていた。
が、カイザーは無言で杯を差し出した。ティアは戻ってきてひざを突き、つぼをしっかり抱えた。少しずつ丁寧に注いでいく。
その間、カイザーは注がれていく酒とティアを代わる代わる凝視し、すべて注ぎ終わると杯をティアの前におき、そのまま待った。

「あの」

その空白の意味がわからず、ティアはカイザーの顔をうかがった。

「毒見」

言葉を落とすと、ティアは再び眉根を寄せ戸惑った。

「早く」

躊躇する余裕は与えない。畳み掛けるようにせかすと、ティアは両手で杯を挟み、息を止めるようにして少し口に含んだ。
吐息をもらしながら杯を下ろしたときには、ティアの頬はうっすら赤く染まっていた。

そのあと、同じ動作が延々と続いた。杯に酒を注ぎ、ティアが毒見し、その後カイザーが口に運ぶ。
カイザーのペースは早かった。わざと早めているのだった。

思惑通り、しだいにティアはふらついてきていた。酒を口にするのが辛そうだ。
明らかに、ティアは酒に慣れていない。もしかしたら初めてなのかもしれない。

頬ばかりか、小さな耳朶や、結われた髪からのぞくうなじや、指先までもが桃色に染まってきていた。杯を持つたびに肩がふらつき、必死で立て直そうとしている。

その様子を、内心舌なめずりしながらカイザーは見守った。
ティアの痩せたからだに興味は無かったが、シュリの寵を受けている女というだけで、抱くには十分な理由になる。

穢れ人を抱くことへの禁忌は感じなかった。王宮の者たちに知られなければいいことだ。
この階はシュアラーに命じて人払いさせてあるし、離宮のものたちは、リレイに害が及ぶことを恐れ、余計なことはもらさないだろう。
ティア自身も、誰にも言わないであろうという確信があった。

ティアにとっては耐え難い、カイザーにとってはじれったいがしかし胸のしまるような期待の時間がつづいた。
外は風が強くなってきて、枝がうなっているのが不気味に響いている。
枝が窓に当たり、大きな音を立てた。ティアははじかれたように顔を上げ、腰をひねって浮かした。そのまま窓の外に何かさがすように視線を吸いつかせている。

「なにやってるの」
「は、はい」

あわてたティアは、つぼをかたむけようとして手を滑らせた。

「あ…」

つぼが落ちる寸前、ティアの手を、つぼごとカイザーが包んだ。
ティアの手は燃えるように熱かった。熱くてしなやかだった。

「申しわけございません、そろそろ残りが少なくなってきましたので、お代わりをお持ちいたします」

カイザーの手におびえたのか、ティアは腰を浮かそうとした。
酔いのせいか目が潤み、大きく瞬いていた。
その奥に戸惑いと激しい怯えが見え、カイザーは残酷になった。
今度はつぼではなく手首を直接つかむ。細い手首が折れそうなほどの力だった。

「手を」

放してください、とティアは言おうとしたのだろう。
しかし声がつまり、それ以上言葉がでないようだ。カイザーの手を振り払っていいものか迷っている。
おびえてはいるが、またカイザーに無礼を働いてしまうことのほうが、ティアにとっては恐ろしいようだった。
  
カイザーはティアの腕をさらに激しくつかんだ。つぼがティアの手を離れ、柔らかなじゅうたんに落ちていった。

「お待ちください、あの、どうかお待ちくださいませ!」

はじめて、ティアが抵抗の意をしめした。つかまれた腕を引こうともがく。それにかまわず、無言でさらに引き寄せる。

「お待ちを」

カイザーに害をなすことを恐れているティアは、もがく以外、カイザーを払うすべは無い。かごの中の鳥同然だった。
あとは料理法を考えればいい。
最高とはいえない素材でも、料理の仕方しだいでいくらでも美味に食べられるだろう。

「お待ちを!」

いよいよ逃れられぬと知ってか、ティアが必死の声で叫んだ。カイザーは苦笑し、いったん手を離す。

「はぁはぁ…」

強く抵抗していたところを急に手を離され、ティアは床に倒れこんでしまう。
カイザーは立ち上がり、ティアの背後に、かぶさるようにひざを突いた。
結われた髪にくちびるを当てる。髪がゆれ、清楚な香りが漂った。

「やめてください」

肩に置かれた手を振り払うことはしない。だが受け入れることもできない。ティアはただ、体をかばい震えている。
眉がかすかに寄せられ、受け入れられない現実を懸命に否定している。
カイザーは、そんなティアのあごを捉えて引き寄せた。
逃げる暇を与えず、くちびるを重ねる。

「…やめて…っ」

すぐに突き放されたが、初めて味わった兄の寵愛する奴隷の唇は、たとえようもなく甘かった。

「なかなか綺麗な肌をしてるじゃない。たとえ奴隷でも、磨けばそれなりになるもんだね。それとも、さんざんシュリに可愛がられたからか?」

頬からきゃしゃな首筋を、感触を味わうようになぞっていく。

「やめてくださいっ」

再び身をかぶせてくるカイザーを振り払い、ティアは、部屋の端までまろぶように逃げた。壁に背を当てて怯えている。逃げ場を探して視線を泳がせているが、その顔はすぐに絶望に変わる。

この部屋の出入り口は、強固に守られている扉と、三階のベランダだけだ。
ティアはとっさに、窓に向かって走り出した。
ベランダに出るつもりだとわかり、カイザーは先回りして道をふさいだ。腕をつかむ。

「なぜ逃げる?」

今までどんな女も自分から抱かれてきた。狩のように女を追い詰める趣味はない。面倒なだけだ。

「お許しを」
「ぼくに仕えるのではなかったの?」 
「ご無礼を働いたことは申し訳ないと思っています。カイザー様がこちらにいらっしゃる間は、心を込めてお仕えいたします。でも、あの、こういうことは」
「シュリには仕えているのに?」

陰にこもった声で、カイザーはティアを射抜いた。

「いえ…そんな…」

ティアは腕の痛みに眉を寄せ、目を潤ませている。

「ぼくはこの国の世継ぎだ。その僕を拒絶するということは、世継ぎとしての僕の価値を認めないということだね?」
「違います…」
「シュリを受け入れて僕を受け入れない、というのは、シュリのほうが世継ぎにふさわしいと思っている、ということだろう? そうじゃないのか」

話を次第に重いほうへすりかえていく。逃れなれない状況に追い詰めていく。奴隷にとって、決して逆らえない王家の権威を押しつけていく。酔いのせいで朱に染まっていたティアの顔が、みるみるまに蒼白になった。

カイザーは獲物の陥落が近いことを知り、内心哂った。
そのとき、ティアが、つかまれている腕をもぐように振り、平伏した。

「申しわけございません。あなた様のことを認めていないわけではないのです」

床に額を擦りつけ、必死の声で叫ぶ。

「あなた様はお世継ぎにふさわしい立派な方だと思います。でも、でも私は若…シュリ様を心からお慕い申し上げています。たとえどんなお方でも、この身を許すわけには参りません。ですからどうぞお許しを」

肩も髪も指先までもが震えていたが、言葉はきっぱりとしていた。ティアは、完全に自分を拒絶しているのだ。そう感じ、カイザーは屈辱に襲われた。

「奴隷の分際で…」

はじめ、ティアにはさげすみしか感じていなかった。ティアは穢れ人で、この国でもっとも身分の低い存在だ。
なのに少しでも、そんなティアに情欲を覚えてしまった自分に、カイザーは苛立った。
そして一度は、自分のものにできると確信していたのを踏みにじられ、中途半端な泥沼に陥った。

一瞬、この場で手打ちにしてやろうかと思った。しかし思いとどまった。このままでは済まされない。この娘には、それ以上に与えてやるべき罰がある。

「わかった。嫌がる女を無理に抱く趣味はないし、そんな暇は無い」

情欲と憎しみを抑えた声を、平伏しているティアに落とした。

「だが、僕を貶めたお前には、罰を与えなければならない」

その言葉に、ティアは身を震わせたが、拒否することはなかった。

「僕は、妾腹であるシュリよりも下に貶められた。このままでは、周りの者に示しがつかない。世継ぎの誇りにかけて、僕はシュリを葬りさらなければならない」
「え」

ティアは弾かれたように顔を上げた。

カイザーはテーブルに置かれている香料入りの小瓶を取り、ティアの膝元に放り投げた。

「お前には猶予をやる。僕を受け入れる決意をしたならば、明日、船に乗るときその香りをまとってくるように。もし明日も拒むならば、それなりの覚悟を」

それだけ残酷に言葉を落とすと、カイザーは身を翻した。
残されたティアは悲壮な顔で、すがるようにこちらを見ている。

「さっさと出て行け。もちろん、このことは誰にも言うな」

怒りを込めた声を投げると、ティアは瓶を拾ってのろのろと立ち上がり、ふらついた足取りで部屋を出て行った。
その小さな背を見送りながら、カイザーはティアに対する欲の混ざった憎しみを心に渦巻かせていた。このままでは感情が収まらない。

「カシスタを呼べ」

荒々しく呼び鈴を鳴らし、待ちかねていたように入ってきた守人に命じる。
シュアラーは、出て行ったティアとすれ違ったはずだが、そのことについては触れてこなかった。

「かしこまりました」

うやうやしく礼をし、すぐに下がった。
カイザーは寝台に腰を落とし、足を組んで揺らしながら、カシスタが来るのを待った。
例の計画は帰る前日にと思っていたが、もう我慢がならなかった。

シュリを亡き者にするのだ。
そしてシュリを失い悲嘆に暮れているティアを、王宮に連れ帰り、自分のものにする。
シュリだけを見、次の王となるべき自分をないがしろにしたあの娘に、思い知らせてやる。
最低限の奴隷として冷酷に扱い、見世物にしてやる。
奴隷としてさげすんでいただけの娘は、いまや、カイザーにとって、必ず手にするべき獲物に変わっていた。



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