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◆ナヴァールの烙印◆
瑠璃石の夜
「あぁ…」

開け放たれた窓からそっと室内をのぞき見た途端、ティアは小さくため息を漏らした。
明かりの落とされた室の中央に、一人の女性が腰掛けている。
つややかな緋色の髪を背に流した、線の細い貴婦人だった。
ティアが見たこともないような衣装に身を包んでいる。

魚のうろこのような輝きを持つ、体の線に沿った衣装。
その上に透き通るレースがまとわりつく。
彼女の緋色の髪に似合った。

侍女らしき影がその隣に控えているが、貴婦人の放つ輝きに消され、まるで目立たなかった。

音色の音源は、彼女が掻き抱くように鳴らしている楽器だった。
複数の弦をもち、女性の身長の半分より少しあるほどの大きさだった。
大きな涙のような形をしている。

指輪のはめられた指で弦の上部を押さえ、つけ爪をした指で、下部の弦を滑るようにはじく。
紡ぎだす音色は震えるように、しかし滑らかに流れ、心の深部に刺さる。

愁いを帯びた表情で、目を閉じ、心のままに奏でられているその音楽に、ティアは胸を打たれた。

『望郷』

その音をひとことで表すなら、まさにその言葉がぴったりとくる。
ティアにはわかった。
奏でられる旋律は、ティア自身の母を思い出させた。

(帰りたい…あの頃に)

ティアの頬に、涙が落ちた。

「誰です」

不意に問われ、心臓が止まった。
息を詰めてその場に凍りつく。

演奏をやめた貴婦人が、こちらを見すえている。
表情のない、しかし美しい顔だった。

(もしかしてこのお方が、若様のお母様…?)

まばゆいばかりの高貴な光を放つこの貴婦人が、使用人であるはずがない。

「ごめんな…さい」

「…………」

淡い茶色の目が、こちらを射抜いている。
沈黙が流れた。

やがて貴婦人は視線をそらし、目を閉じて楽器を構えた。
叱咤の言葉は飛んでこず、貴婦人はそのまま演奏に戻った。

ティアは詰めていた息を吐く。

その代わり、やってきたのは、貴婦人のそばにはべっていた侍女だった。
ティアより、ひとつふたつ年上の、赤毛交じりのこげ茶色の髪を持つ、顔立ちのはっきりとした少女だ。
 
少女は結った髪を控えめに揺らしながら、足音を忍ばせて、ティアのほうにやってきた。

「ちょっと外へ」

ティアの目の前まで来た少女は、目をきつく光らせながらティアの肩を押し、バルコニーの外へと押し出した。

◆◇◆

「あなた、シュリ様に連れてこられた奴隷ね。シュリ様のところでは何をしようとかまわないけど、ここはリレイ様のお住まいよ。勝手に入り込まないで」
 
「ごめんなさい…音色があまりに綺麗だったもので…」

「とにかくここからは出て行って。ここは高貴なお方のお住まいなんだから。あなたみたいなのにうろうろされると迷惑なの」

「わかりました。本当にごめんなさい。あの、あのお方にも、謝っておいてください」

ここにきて初めてさげすむような言葉を投げられ、ティアは硬くなってその場を逃げるように去った。

◆◇◆

「ティアちゃん、どこにいってたの!」

庭を歩いていると、カデナが心配そうにティアの部屋のバルコニーから身を乗り出していた。

「ごめんなさい。眠れなくて、ちょっと庭をお散歩していたんです」
 
「ああびっくりした。シュリ様のいない間に何かあったらと思うと…」

「ご心配をおかけしてすみません」

カデナに肩を抱かれ、ベッドに入れられながら、ティアはもう一度頭を下げた。

「あら、ティアちゃんなんだか顔色悪いわよ。まだ熱がでちゃったのかしら?」

「いいえ、だいじょうぶです。ちょっと疲れただけですから」

「そうですか。では今度はティアちゃんが眠るまで、おそばにいさせていただきますよ」

カデナはベッドの脇にいすを持ってきて、どっしりと腰を下ろした。

「子守唄でも歌いましょうか?」

「うた…?」

うた、と聞いてティアは先ほどの一幕を思い出してしまった。

「あの、訊いてもいいですか?」

「なんでしょう」

「今、庭を歩いていたら、うっかり、その……シュリ様のお母様のお部屋に……」

「まあティアちゃん、リレイ様のところにいっていらしたの」

「はい。綺麗な音色が気になって……とても悲しい、胸が切なくなるようないい音でした。それでつい、お部屋を外から覗き込んでしまって」

「リレイ様はチャーダの名手ですからね」

「チャーダ…あの楽器はそういう名前なんですか」
 
「カラハンの民族楽器なんですよ。リレイ様は十二・三の年から、いずれお国一番の名手になると称えられていましてねぇ…あんな戦争さえなければ、今頃は」

カデナは初めて目元に憂いを見せた。
その、目じりに刻まれたしわが悲しく見え、ティアは何も言えずに黙り込む。
シュリの母があの曲に込めていたのは、祖国に対する望郷だったのだ。

「シュリ様はまだ、ティアちゃんをリレイ様にご紹介なさっていないんですよね。先ほどはリレイ様にご挨拶なさいましたの?」

やがてカデナはそっと目元を手でぬぐい、何ごともなかったように、口元をほころばせた。

「いえ…私、御側付きの方に追い出されてしまったんです」

少女のきつい表情と冷たい目を思い出し、ティアは身を縮めた。

「あぁ、シマキラね」

カデナはなぜか嘆息した。

「ごめんなさいね。たぶんそれ、私の娘ですよ」

「は?」

「シマキラ・リエン。私の娘です。今、十七でね、リレイ様の弟子にしていただいているんですよ。恐れ多くもシュリ様の乳兄弟として小さいころからおそばにいたせいか、リレイ様にあこがれていてね、もう母親の私より崇拝しているんですから」

「そうなんですか」

「あの子、昔から気が強くて…嫌な思いをさせてしまったわね。ごめんなさい」

「いえ、私が悪いんです。勝手に覗いたりして」

「本当にごめんなさい。じゃあティアちゃん、ゆっくり休んでね」

カデナはティアの頬をそっとなで、立ちあがった。


少し開けられた窓から、かすかにあの旋律が流れ込んでくる。
ティアは目を閉じ、その切ない響きに耳を傾けた。
切なくなると同時に、暗い思いがよみがえる。

あの演奏は美しいけれども、心の中の暗い部分を引きずり出されるような重苦しいものだった。

美しく尊い貴婦人に、あのような演奏をさせるものはなんであるのか。
ティアは、初めて会ったはずのシュリの母の心中を憂い、薄いかけ布で顔を覆った。


そのとき、寝室の扉が開いた。

「ティア、まだ起きていたのか」

穏やかな声を掛けられ、胸が締まった。
弾かれるようにかけ布をはぐと、そこには、外出用のマントをつけたままのシュリが立っていた。

今朝、浴場で熱い思いを告げられ、別れたきリだった。
あのときの熱さがよみがえり、切なさで胸がいっぱいになる。

「若様」

ティアはかけ布をあごまで引き寄せ、両手できつくつかんだ。

「こんな夜遅くにすまない。町まで出る用があったから、ティアに土産を買ってきた。ちょっと見てくれ」

シュリは小さな箱を手に、ベッドに近づいてくる。
 
「こないで」

かけ布を引き上げ、ベッドに深く身を沈めて姿を隠す。

「警戒しなくてもだいじょうぶだ。ティアが許してくれるまでは、決してティアに触れない」

真摯な声が響いたが、ティアは背を向けたままだった。

「もし誓いを破ったときには、その琥珀が俺に罰を下すだろう」

ティアはその言葉でようやく警戒を解き、そっと沈めていた顔を出した。

「瑠璃石でできた耳穴飾り(ピアス)だ。ティアの目の色と同じ、綺麗な青だぞ。ほら、見てみろ」

目の前に立つシュリが身をかがめ、箱を開けてこちらに差し出してくる。

「…私は何も欲しくありません」
 
「ティア」

シュリの沈んだ声が、明かりの落とされた寝室に響く。

「今日、奴隷村の長に会ってきた」

意外なシュリの言葉に、ティアは肩を震わせた。
あの横暴な長の顔が浮かび、どこまでも身が落ちていく気がする。

「安心しろ。長が変わったんだ。今度の男は少しはまともそうだ。村の人たちも、あのような横暴な目にはもうあわないだろう。イファのことも頼んできた。産後すぐに無理をさせるようなことはしないと約束させた」

「本当ですか…? それは、あなた様のお力なのですか?」

ティアはわずかに、心を弾ませた。
残してきたイファや村人たちのことが、ずっと気になっていたのだ。
シュリは朝、ティアの前で誓ったとおり、奴隷村の人々の待遇がよくなるよう尽力してくれたのだろうか。

「いや、今日俺が長に会いに行ったのは、ティアをこの館に引き取る許可を得るためだったんだ」

「そんな」

シュリの言葉に、再び心が翳る。

「私は…私は物じゃありません…誰かの都合であっちに行かされたり、こっちに行かされたりなど…」

「違う。俺は長に言った。怪我が治るまでティアを養生させるために預かると。そのあとは、ティアの意思を尊重すると。長も了解してくれたぞ」

「…私の、意思…?」
 
「そうだ。ティアは好きなときに、好きなところにいけばいい。イファの元に帰りたければ今すぐにでも帰るといい。いつもで馬車を出すから」

ティアは、シュリの言葉の真実を確かめるかのように、琥珀色の目を見つめた。
シュリは目をそらすことはしない。

ティアになにを強制するでもなく、全てをさらけ出し、ただ静かにそこにいる。
しかしそれに対し、ティアはシュリを喜ばせるような答えを告げられないのだった。

「今、答えを聞くつもりはない。とりあえず、この耳飾りだけは受け取ってくれないか」

差し出されたのは、小さな丸い瑠璃石のピアスだった。
耳に穴を開けて埋め込む形のものだ。

「…受け取れません」

まだ、シュリに何を与える決意もできないのに。

「ならばこれは、俺が着けていることにしよう」

シュリは、自分の耳につけられている血の色のピアスを外し、かわりに瑠璃石を身につけた。

「ティアが俺の目の色をした琥珀を。俺がティアの目の色をした瑠璃石を」

「若様…」

「ほら。ティアの輝きが、俺の中で光る」

穏やかな、しかし強い意志をみなぎらせた声が響き、ティアはその声に引き寄せられた。

シュリが、自分の目の色を身に着けている。
ただそれだけのことなのに、すべてを吸い取られそうで怖い。
怖いはずなのに…なぜか心が熱い。

シュリは自分にひどいことをしたのに。
過去の全てを忘れよと言い、友達も村も奪ったのに。
何もかも許しそうになってしまう。

夜のしじまで、チャーダのかすかな旋律を背に、琥珀色の目と瑠璃色の目が見つめあう。

夜を渡る旋律は、真夜中を過ぎても止むことはなかった。

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