◆ナヴァールの烙印◆ 戸惑い 「ど、どう、して…?」 「ここは俺専用の浴場だぞ? いつ俺が湯に入ろうと自由だ」 悪びれもせず、照れる様子もなく、シュリはこちらに近づいてくる。 ぬれた薄衣が体に張り付き、日に焼けたたくましい体の線を浮き上がらせている。 かろうじて下半身は隠されているものの、ティアにとっては裸同然に見えた。 「こっ…来ない、で…っ」 ティアは真っ赤になって、背をそむけた。 シュリはティアの懇願をまるで聞かず、目の前に近寄った。 囲むようにティアの背後の岩に両手をつき、逃さないように封じた。 「ティア、話を聞いてくれ」 「うっ、うっ…いやです…」 湖の奥でシュリに全てを預けたが、あのときは暗かったし、まがりなりにも衣服は身に着けていた。 しかし今は違う。 自分を守るのは湯とわずかな距離だけだ。 その湯も、精一杯肩まで浸かっても、薄茶色の湯が、体の線をぼんやりと浮き上がらせてしまう。 生まれたままの姿を、初めて異性にすべて晒している恥ずかしさで、ティアは小さくなった。 シュリが少しでも動けば、非力な自分は逆らうすべはない。 「ティアに何かするつもりもない。ただ、話がしたいだけだ。こうでもしないと、ティアは俺から目をそむけるだろう…?」 いつものシュリとは違う、元気のない声だった。 意外に思い、ティアは恥ずかしがりながらも、ゆっくりそちらを向いた。 シュリはわずかに陰りを帯びた瞳で、まっすぐにティアを見つめている。 その瞳に吸い込まれそうになった。 彼はいつも、自分を熱っぽい、真摯な瞳で見つめる。 自分の全てを射抜き、けっして逃がさない。 「はぁはぁ…」 湯で朱に染め上げられた肩や、胸や、腕にシュリの目を感じ、鼓動が早まり、体が火照る。 シュリは本気だ。 本気で自分が話を聞くまで、ここから逃さないつもりなのだ。 「わかりました…お話を伺います」 ティアは熱い息を吐きながら、倒れこむように岩に背を預けた。 ◆◇◆ 「ティアには悪いことをしたと思っている。イファのことも、村の人たちのことも」 ティアが逃げないとわかったのだろう。 シュリは囲っていた手を離し、一歩退いた。 ぎりぎりの状態に追い込まれていたティアは安堵し、息を吐く。 しかし体は緊張し、いつでもその場から逃げられる体勢になっていた。 「だが、ティアが友や仲間たちを大事に思うのと同じくらい、俺にとってティアは大切な人になっているんだ」 シュリは何もかもを惜しむかのように、すぐに言葉を継いだ。 「俺はまだ成人前で、何の力もない。だが、烙印奴隷たちの境遇が少しでもよくなるよう、これから力を尽くす。ティアと村の人たちを切り離す代わりに、必ずそうすることを誓う」 シュリは、いつも胸にきらめいている琥珀のペンダントを外した。 「俺の心が真実であることの証だ。これを、ティアに」 ティアの白銀の頭に、そっと被せていく。 「若様」 「これは、父の誕生祝の席でいただいたものだ」 「え、若様のお父上から…そんな大切なものを」 思わず、琥珀を握り締め、見つめた。シュリの目の色だ。 「だから俺のそばにいて欲しい。すぐに受け入れてもらえるとは思っていない。せめて半年、いや五月(ごつき)でもいい。俺から逃げずに答えを考えてくれないか。そのあと、どうしてもここにいるのが嫌だと思うのなら、ティアを村に帰すから」 シュリから出される言葉の熱さが、次第にティアの体と心の温度を上げていく。 「答え…? 答えとはどういうことでしょう」 「ティアがずっと俺のそばにいてくれるかどうか、その答えだ。俺はティアのすべてが欲しい。自分だけのものにしたい。本当は今すぐに」 言葉が形となって襲ってくるような気がして、ティアはぴくりと身を引いた。 自分の体が儚く、すぐにも壊されてしまいそうに感じる。 「もし、そのお話を受けると…私はどうなるんですの…? その、若様のお側にお仕えして、お世話をすることになるんでしょうか…つまり…若様のお言葉に逆らえないような身分に…」 ティアは息苦しそうな呼吸をしながら、自らを守るように抱きしめた。 「村の人たちの幸せと引き換えに…私はあなた様に買われるのですか? お国のために尽くす烙印奴隷から、あなた様の奴隷になるのですか…?」 「買う? 何を言っている。前にも言っただろう。俺とティアは対等だ、と。ティアを買い取ろうとか、奴隷扱いしようとか、そんなことは思っていない。俺はティアとともに生きたい。ティアに、俺の安らぎになって欲しい。そして俺もティアを守る砦になる。お互いがお互いに温かさと勇気と安心を与え合えるような存在になりたい。どちらがどちらを支配する、というのではなく。だからティア。俺のそばにずっといて欲しい」 シュリは、しばし言葉をとめた。 放った言葉が起こした漣(さざなみ)の大きさを、図っているようだ。 「返事は今でなくてもいい。さきほども言ったがしばらくここにいて、ゆっくり答えを考えて欲しい。俺が言いたいのはそれだけだ。ティアもそれでいいな?」 一見、押しつけがましい言い方だが、その奥で、ティアにすがっている。 持てるすべてを、シュリは隠すことなくティアにさらけだしている。 人に知られたくない、心の暗部までも。 そんなシュリの情に、どうして簡単に答えられよう。 浴場に沈黙が渡り、流れるような水音だけが響く。 「少し…」 しばらくのち、ティアから出た声はかすれていた。 「少し…考えさせてください」 ここにいること自体が本意ではないし、意思を無視してつれてこられたことを、簡単に許すわけにいかない。 だが、すべてをかたくなに跳ね返すこともできない。 シュリの気持ちが真実で硬いものだと感じられるから。 ティアはうつむき、くちびるをかむ。 「お気持ちはわかりました。あなたにはいろいろ助けていただきましたし、親切にしていただきました。そのご恩はいつか必ずお返しします。でもごめんなさい…私はまだ、あなたを許せないんです…」 「ティア」 シュリの声がかげり、吐息が切なく広がる。 「ましてや将来のことなど、いますぐお返事できません。ですから、しばらくここでお世話になるかどうか、まずそれを考えさせて…」 やっとのことで、それだけ言った。 「そうだな。俺はティアの気持ちを無視して村から奪った。友達も、仲間も奪った。そのことを、すぐに許してもらおうとは思わない。だがとりあえず、怪我が完全に治るまでは、逃げ出そうなどと思わないでくれ。そんなか弱い体で逃亡などしてもっと怪我でもされたら…心配で、心臓がいくつあっても足りないからな」 ティアは目を伏せたまま、弱々しく頷いた。 それを見て、シュリはようやく身を離した。 「この湯は疲れに効く。ゆっくり入っていろ」 シュリは控えめな水音をさせて、ティアのそばから離れていった。 「ふう…」 シュリが去った後、ティアは湯に当てられて、すっかりのぼせ上がっていた。 心も体も。 (――俺はティアとともに生きたい。ティアに、俺の安らぎになって欲しい。そして俺もティアを守る砦になる。お互いがお互いに温かさと勇気と安心を与え合えるような存在になりたい。どちらがどちらを支配する、というのではなく――) シュリの熱い言葉が心にこだまする。 ティアは胸元の琥珀をにぎりしめた。 もしかしたら、シュリにとってあの言葉は、ティアが感じた以上に重いものなのではないか。 「若様…」 ティアは、その重さに自分が壊れそうな気がした。 [前へ][次へ] [戻る] |