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◆ナヴァールの烙印◆
姫君の涙
「放して下さい。この野蛮人!」

わめき続けるカシスタの腕を乱暴につかんだまま、シュリは王子宮の廊下を駆け抜ける。

「シュリ殿下! 放して!」

叫びは次第に懇願するような響きを帯び、シュリは広大な庭に出てやっと止まった。

「なんて無礼なことをするんですの! 信じられない。カイザー殿下に失礼ではありませんか!」

腕を取り返したカシスタは、乱れた胸元を整えながら、美麗な面をゆがめてシュリをにらみつけた。

「信じられぬのは俺のほうだ。どうしてあんなことをする? あんな男の前になど跪くのはやめろ」

「あなたに命令される筋合いはございません。わたくしが好きでやっていることですわ」

あくまで勝気で気位が高い姫の言葉に、シュリは怒りを通り越してあきれてしまった。

「ああそうか、そいつは失礼した。戻って続きでも何でもやってくれ。俺は帰る」

「馬鹿っ」

突き放してきびすを返そうとすると、冷静さを欠いた金切り声がたたきつけられた。

「ほっといてくれればよかったのに! あのまま黙って帰って下さればよかったのに! あなたなんて最低! …大嫌い!」

突然泣き崩れ、シュリに寄りかかってきた。
あわてて受け止めると、何事かと周囲の女官たちが寄ってきた。

「どうなされましたか?」

「いや、なんでもない」

不審な顔をする女官を追い払い、辺りを見回す。
庭の一角に、東屋があった。
シュリは泣きじゃくり始めたカシスタを、その屋根の下に押し込んだ。

「うっ、うっ、あっ、うわぁあああ…っ」

椅子に腰掛けさせると、カシスタはハンカチで顔を覆い、堰を切ったように泣きはじめた。
簡単な屋根がつき、壁はないものの四方を衝立で囲われたその空間は、外から誰がいるのか伺うことはできない。

「困ったな」

気位の高い姫のご機嫌取りなどしたことがなく、シュリは途方にくれた。

「俺がしたことは、そんなに悪いことだったのだろうか」

こちらこそ、何もかも投げ出したかった。

「うっ、くっ、ううっ…」

しかし時間がたつにつれ、少しは落ち着いてきたようで、泣き声は弱々しくなってきた。
数分後、カシスタは涙を収め、赤い目のまま、口元を引き締めた。

「やっと収まったか」

「なによ、その言い方。目の前でたおやかな貴婦人がしおれているっていうのに」

「今はそういう話じゃないだろう。少しは素直になったらどうだ。泣くほど辛いなら、なぜカイザーに媚を売るようなまねをする。一国の姫ともあろう者が」

なるべく優しく諭すように言ったつもりだが、それがかえってカシスタの気に障ったらしい。

「あなたにはわからないわ」

切り捨てるようにカシスタは言い、白い面をそむけた。
その、どことなく拗ねた様子に、シュリは気づいてしまった。

「お前、まさか本当にカイザーが好きなのか?」

ぶしつけに問うと、彼女はそむけた面を震わせ、肯定をするかわりにくちびるを軽く噛んだ。

「ふぅん、そうなんだ」

物好きだな、という言葉は抑えた。

「ならばあんなふうに振舞うのは、あいつのためにならないと思うが」

「なんですって?」

当たり前のことをシュリは言ったつもりだったのだが、カシスタは信じられぬ、というふうに目を瞬かせた。

「もっと堂々としていたらいい。何か無理難題を言われたら、俺のときみたいに睨みつけて言いいかえしてやればよいではないか。だいたい周りのものがチヤホヤするからあいつもつけ上るんだ」

「まあ、なんて…なんて無茶なことをおっしゃるの」

「俺はただ、あいつが許せないだけだ。自分に思いを寄せている女を、人前で弄ぶなど信じられない。俺だったらぜったい…」

言い募っている間に、嫌な記憶が次々によみがえった。
父王に祖国を滅ぼされ、無理やりパルヴィアに連れてこられた母。

そして…奴隷村で番人たちに見下されていたティア。
番人の地位を振りかざし、ティアの体を弄んで思いのままにした長。
シュリの中にさまざまな記憶が絡み合い、怒りがたぎった。

「とにかく俺は、女をモノのように弄ぶ男は許せないんだ。特に身分や立場を笠に着て、女を思い通りにしようなどというヤツは」

「シュリ殿下」

怒りをあらわにするシュリを、カシスタはため息を吐くような声で遮った。

「カイザー殿下は…本当はお可哀想な方なんです。誰も信じられないんですわ。自分の力すらも。それは殿下のせいではなく、そういうふうに育てられたのだから仕方ないと思います。だからわたくしがそばにいて…おこがましいですけど、教えてさしあげようと思いますの。ご自分が一人の男性として愛されるに値する方なのだということを」

「だからといって」

「跪けといわれれば何度でも跪きます。あのお方のためなら、どんな屈辱だって…」

カシスタはそこで言葉を止め、遠いどこかを見るように目を細める。

「ですからもう…わたくしにかまわないで下さい。またどこかでお会いして同じような光景を見られても、今度はどうか放っておいてくださいませ」

カシスタは涙を拭き、立ち上がった。

「では、ごきげんよう」

シュリは去ろうとするカシスタに手を差し伸べようか迷った。
その背が、迷子の子供のように見えたのだ。

だが、カシスタは行ってしまった。
茶会に戻るのではなく、カイザーの居室のほうへ歩いていく。
それを見ていると、砂を噛むような心地悪さが広がった。

ふいに、ティアに会いたくなった。
あの慎ましやかで、陽だまりのような笑顔が見たい。
柔らかで清らかな体を抱きたい。

このまま茶会をすっぽかして、セフォアに帰ろうかと思った。
そうすれば、これ以上母が、あの貴婦人たちの慰み者にされているところを見なくてもすむ。

が、それを思いとどまらせたのは、ティアだった。
ティアの、どんな運命にも屈しない強さと、他人をわが事のように思い、慈しむ綺麗な心が脳裏に浮かび、シュリを勇気づけ、叱咤した。

(ここで、帰るわけには行かない)

シュリは顔を上げ、まっすぐ前を見据えた。
そして、カシスタが去ったのとは正反対の方向に向かって歩き始めた。

◆◇◆

結局茶会が晩餐会にまでなだれ込み、シュリたちが正妃から解放されたのは、夜も遅い時間となってしまった。

茶会よりもさらに長い晩餐会の間、正妃にさんざんいたぶられ、疲労困憊してしまった母は、もうセフォアに帰る気力を失っていた。

自分だけでも馬で飛ばして帰りたいのは山々だったが、こんな状態の母をおいて帰るわけには行かない。

仕方なく、一晩王宮に泊まることとなった。

「ああ…ッ」

豪奢な客室のベッドになだれ込むと、ブーツを脱ぎ捨て放り投げる。

「帰りたいなぁ…」

離宮においてきたティアが心にかかって眠れない。
母の状態からいって、明日は昼過ぎの出発になるだろう。
セフォアにつくのは夜になってしまう。

『近いうちにセフォアにお邪魔しますよ』

カイザーの言葉が宴の最中、頭を離れなかった。

まさか今すぐ、ということはないだろうが、あの弟のことだから、一度言ったことは必ず押し通すだろう。

シュリの都合なども聞かずに押しかけてくるに違いない。

それにカイザーはティア自身にも興味があるようなことを言っていた。

『気になるじゃないですか。稀代の美少女といわれた姫より魅力的な女が他にいるなんて、ね』

「冗談じゃないッ」

シュリは寝台から飛び起きた。

「あいつにティアを会わせてなるものか」

たまらなくなって寝台からおり、部屋をぐるぐると歩き回る。
今すぐ帰りたい。

「はぁぁぁ…」

そしてまたすぐに、どすんと音を立ててシーツに沈んだ。

こんなに長くティアと離れていたのは、出会ったころ以来のことだった。

シュリは寝そべりながら手のひらを見つめ、開いたり閉じたりした。
この手に、ティアをおさめたい。
一刻でも早く、そして強く。
そして自分のものであることを確かめたい。

誰かの目に触れる前に。
誰かのものになる前に。

シュリは王宮の豪奢な寝室に埋もれ、かつてないほどティアを欲した。




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