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◆ナヴァールの烙印◆
源泉

「着替えがないから、全部ここにおいてくぞ。ティア、服の番を頼む」

シュリは湖に体を向け、上衣を脱いでいる。
まだ新しい鞭の傷があらわになり、ティアの目に刺さる。

「湖の中州の手前に、たくさん貝が取れる場所があります。かなり深いですけど大丈夫ですか?」

「大丈夫だ。この間は暗かったから溺れかかってしまったが…泳ぎには慣れているからな」

シュリは着ている物をすべて脱ぎ、ティアに渡した。

「お気をつけて」

ティアは軽く手を振る。
それを見届けると、シュリは髪をもう一度きつく束ね、壷を小脇に抱えて神秘の湖に足を踏み入れた。


湖畔に真昼のひかりが反射している。
湖を取り囲む木々の、むせるような新緑の香がみずみずしい。

ティアは大きな岩に寄りかかるようにして、湖岸に腰掛けていた。
少し離れた場所に、ファイスが立っている。

「暑くないですか。木陰に入りましょうか」
「だいじょうぶです。木陰に入ってしまうと、若様のお姿が見えなくなってしまいますので」
 
湖の沖では、シュリが先ほどから浮かんだり、沈んだりしている。
漁は順調にいっているらしい。

「泳ぎがお上手ですわ。小さい頃からよく泳いでいらっしゃったんですか」

まるで自分が泳いでいるかのように、ティアは息を弾ませている。
額には汗が流れている。

ときおり、思い出したようにハンカチで汗をぬぐう。
母の形見のハンカチだ。

「それはもう、館の目の前がセフォア湖ですから、泳ぎは得意中の得意でしょう」
「そうなんですか」

湖に目を向けていたティアは、ファイスのほうを向いた。
目が、暑い日差しで乾いているのを感じる。

「よろしければ濡らしてきましょうか?」

ファイスは答えも聞かずにティアのハンカチを取り、湖の水に浸した。

「これを頭にのせていると、かなり違いますよ」

戻ってきて、絞ったハンカチをティアに渡す。

「ありがとうございます」
「いいえ」

ティアは濡らしたハンカチを頬に当てた。
ファイスの心遣いを感じ、うれしかった。

何気ない午後のひと時が、ティアにとって一番の幸せだった。水と戯れるシュリの姿を、ただずっと見ていられる。

手の届かない場所にいるから、自分が崩れる心配もない。ただ、目の中に恋する人を入れておける。

その光景を大事に大事に胸にしまう。この時間を、この一日を、けっして忘れないように。

「もうそろそろ、貝はいいだろう」

午後も遅い時間になって、ようやくシュリは漁を終わりにした。
体を拭き、火をたいて温め、服を身に着けた。

「どうもありがとうございました。イファが喜びます」

いいながら、少し悲しくなった。これで、楽しかった一日が終わる。こんな自由な時間は、今日だけだろう。

「ティア、あちらに小舟がある。ちょっと湖に出てみないか」

すると意外なシュリの言葉がかぶさってきた。

「小舟…?」

「あの岩陰を曲がったところに、使っていない小舟がある。さっき戻ってくるときに見つけた。ティアは怪我で泳げなくてさびしかっただろう? だから舟でその辺を一周してみよう」

「でもお疲れでは」

「疲れてなどいない。行こう」

返事をするまもなく、ティアはシュリに手をとって引き起こされた。

「ファイス、お前はここで貝の番をしていろ」

そして立ち上がって後についてこようとするファイスを、強い口調で止めた。

「はいはいわかりました」

ファイスは仕方なさそうにいい、そのあと付け加えた。

「でも私がいないからといって安心しないでくださいよ。湖の上でティアさんに何か悪さをしたら、飛び込んで邪魔しに行きますからね」

「まぁ」

舟の上で二人きりになる。そのことがとても重大に思えてきた。

「わかった。お前の目の届くところにいよう」

そして戸惑っているティアの手を引いた。

「日が沈むまでには帰ってきてくださいね」
「わかってるッ」

まだまだ追いかけてくる声に、シュリは朗らかに叫び返す。

「湖に出てしまえばこっちのものだ」

なんと答えてよいのかわからず、ティアは曖昧に微笑んだ。

◆◇◆

「日暮れまではどのくらいだろうか」

シュリは櫂を両手にして、力強く湖の上に漕ぎ出した。

「二時(とき)ほどだと思います」

ティアは、まぶしそうに目の前のシュリを見つめていた。

濡れたまま縛られた赤銅色の髪は、陽光を受けてところどころ金に輝いている。
琥珀色の瞳は、いつにもまして優しげな光を醸している。

「なかなか広いな。どちらへ行っていいものか迷う。ティア、どこか行きたいところはないか」

こうしていられるだけで十分です、と答えたかったが、シュリが自分に何かの答えを期待していることがわかったので、ティアは思案した。

「湖水の注ぎ口を見てみませんか」

「注ぎ口? キーリアの源泉は…」

「キーリアの水は、セフォア湖から来てるんです。注ぎ口の上部は塞がってしまって湖面からはあちら側にいくことはできませんけど…」

「セフォアとキーリアは繋がっているのか。知らなかった」

「ええ」

驚くシュリの顔を見て、ティアは誇らしく思うと同時に、わずかな陰りを感じた。

「行ってみよう。見てみたい。二つの湖が繋がっている場所を。どちらに行けばいい?」
「あちらへ」

ティアは入り組んだ狭い岩場のある場所を指差した。かなり遠い。

「少し時間がかかるかもしれない。体は大丈夫か?」

シュリは、まだ傷の癒えていないティアを気遣うように聞いた。

「私は大丈夫です」
「なら行こう。あとでファイスに怒られるかもしれないが」


二人を乗せた舟は、穏やかな湖から細く狭い水路に入った。木が生い茂り、天然のトンネルを作っている。

「水が澄んでいるな」
 
水路は湖に比べて底が浅くなっており、小さな魚が群れ遊んでいるのが見えた。

「このあたりの水は、ほとんどセフォアからのものですから」

ティアは舟から手を伸ばし、水をすくうしぐさをした。

「流れが速くなってきた」

「注ぎ口からの水流がくるんですわ。お気をつけて」

川の上流に向かって漕いでいるかのようだった。

「ここからは降りて歩こう」

これ以上舟で進むことは危険だった。


シュリに手を取られ、ティアは岸に降り立った。
小舟を岩にくくりつけ、流されないように固定した。
小さな石の敷き詰められた川岸を、注ぎ口に向かって二人は歩いた。

「なんだか別世界みたい」

この場所もこの時間も、神様が一生に一度だけくれた贈り物なのだ。
今までまじめに働いてきた分、神様がご褒美をくれたのだ。

「何か言ったか?」

「なんでもありません。着きましたわ」

ティアは微笑み、前を指した。

「行き止まりだ」

水路の行き先は、流木で埋まっていた。

「ええ。キーリアはここまでなんです。この向こう側がセフォア湖の端です」

注ぎ口は、かなりの高さまで土嚢が積み上げられていて、先が見えなかった。
底ではおそらく、セフォア湖からの澄んだ水が注がれているのだろう。

「このあたりの水はこんなに綺麗なのに、キーリアの水はどうして濁ってしまうのだろう」

シュリはその場に屈み、両手で水をすくった。

「おいしそうだ」

そのまませせらぎに顔を突っ込み、味わっている。

「ティアも飲んでみろ」

シュリは再び水を救い、前に差し出した。
差し出された両手を、ティアははにかみながら見つめる。

「どうした。早くしないとこぼれる」
「でも」

シュリの手に汲まれた水に口をつける。それだけのことが、とても恐れ多く思われた。

「のどが渇いているだろう? 湖の上では暑かったのではないか」

シュリの目は、ティアの頭上に向いていた。

「え?」
「まだ、頭にハンカチが乗っているぞ」
「あ」

ティアはとっさに、頭に手をやった。
先ほどファイスに濡らしてもらったハンカチを、ずっと頭に乗せたままだった。
それはもう、すっかり乾いて髪に張りついていた。

「あぁ…恥ずかしい…」
「ほら、飲め」

心が萎えたところに、不意打ちのように差し出された手。
今度は拒むことはできなかった。

「いただきます…」

ティアはシュリの手のひらに置かれた水を、すべて口に含んだ。


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