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「誕生日」異聞ー後編ー

 ◆

教師は放課後の職員室で何度目かの生唾を飲み込んだ。ひどく喉が渇く。
周りの席の先生たちは、そろそろ帰り支度をしている。飲みに行く面子を募っている人もいた。
しかしその数学教師は、そんな周囲の声などまったく耳に入らないように、机の上を一心に見つめている。
机の上には240枚のカードがある。
担当している1年生の6クラスすべての生徒の誕生日が書いてあるカードだ。この2日間の授業で書かせたものだった。
そのどの授業でも、ただの一度として誕生日のパラドクスの不思議を、実感してもらうことはできなかった。それどころか、365分の240という、生徒たちの間違った計算式でさえ65%を越えるはずの現象が、起きなかったのだ。
すべて異なる日付の240枚のカード。混乱する頭で何度も計算した。何度も何度も。
40人の中で、同じ誕生日の人がいる確率は89.12%
80人の中で、同じ誕生日の人がいる確率は99.9914%
そして240人の中で同じ誕生日の人がいる確率は。
99.999999999999999999999……
数えると、小数点以下に9は33個並び、34個目にようやく8が出てくる。ここまでになると自分では正確な計算ができなかったので、研究室に残った大学の同期に頼んで計算してもらった。間違いのない数字だ。
数学的にはともかく、統計上、そして日常生活でも無視してよい確率。つまり、それをくつがえすことは起こりえないということ。
その起こりえないことが、目の前にあった。
240人すべての誕生日が違っていた。
なんだこれは。
寒気がして、体中に鳥肌が立っている。間違っているのは、数学のほうなのか? 自分はこの世の理からはずれて、得体の知れない世界へ足を踏み入れていたのだろうか。
「まだ帰りませんか」
別の教師が声をかけてきて、我に返った。
「ああ、ええ」
「それはなんです?」
机の上のカードを興味深々、という様子で覗き込んできたので、慌てて隠すように机の引き出しへ流し込んだ。
「教材になるかと思ったんですが。なんとも」
そそくさと立ち上がり、ちょっとトイレへ、と言って職員室を出ていった。
教師はトイレで用を足しながら、大学時代に習ったオッカムの剃刀、という言葉をふいに思い出した。同じ事象を説明する2つの理論が存在するならば、単純なもののほうがよりよい理論である、というような金言のことだったはずだ。
起こりえないはずの、0.00000000000000000000……1%のことが起きたとするよりも、もっと簡単に説明がつくことがないだろうか。
手を洗い、トイレを出て廊下を歩いていると、校長室の前を通った。
そのとき、脳裏にある考えが浮かんだ。240枚の異なるカードの、もっと簡単な説明が。
だがそこに飛びつこうとすると、別の恐ろしい闇が口を開けている。とても触れることのできない不気味な闇が。
体に震えが起きた。
なにを考えているんだ、俺は。
教師は眩暈を覚えて、廊下を足早に通り過ぎ、職員室の自分の机に倒れふすように腰を落とした。
学校が、誕生日の違う生徒ばかりを集めたなんて……。
そんなばかな。
自分の属する私立中学校という組織が、なにか隠された意図を持って運営されているとでも言うのか。そんな、ばかな。
あり得ない考えに、自分の頭を叩いた。思いのほか、ごつん、という大きな音がして、残っていたほかの教師が、気味悪そうに無遠慮な視線を向けていた。

 ◆

教師はその日の夜、家にカードを持って帰り、あることに気づいた。たった1枚のカードに、オッカムの剃刀の痕跡を見たのだ。不可解な事象を説明する、最も単純な答えを。
教師はそのカードの日付と、生徒の名前を見て、顔を思い出そうとした。
もやもやと頭の中で、黒い顔が輪郭も定かでないまま揺れている。おかしいな。確かに目立つ生徒ではなかったが。
だが、教師は確信していた。これは、奇怪な出来事ではなく、人為的で、作為的なものなのだということを。

次の日、総務係の職員に頼んで生徒の名簿を確認させてもらった。
やはり。
教師の推測は正しかった。
確率を越えて、起こりえないことが起きたわけでも、なにか想像もつかない理由で、誕生日が違う生徒ばかりを選んで入学させたのでもなかった。
でもまさか。
……まさか、生徒が揃って嘘をついていたなんて。
まったくの盲点だった。名簿で生徒の生年月日を確認しても、まだ信じられない。
すべてのクラスで、誕生日を偽っている生徒がいた。B組とD組ではふた組、C組、E組、F組ではそれぞれひと組の誕生日が同じ生徒がいたが、いずれも片方が誕生日を偽ってカードに書いていた。
さらに、別のクラスの生徒と誕生日が同じ生徒も、数学の授業があとに行われたほうが、嘘の誕生日を申告していた。
偶然同じ誕生日がいなかったのは、最初のA組だけだったのだ。A組の40人は89%にたまたま当てはまらなかっただけだった。
それを、A組の授業でのことを知って、後のクラスの子どもたちが口裏を合わせてひと芝居打ったのだ。見事に騙された。
中学1年生が、こんなことをするなんて。
それぞれの担任に言うべきだろうか。生徒たちにとっては、先生をやっつけた、という笑い話になるだろうが、このままにしてはおけない気がした。授業中、まったくそんな態度は感じられなかったのだ。その統率の取れ方は、一種異様な感じさえする。
けれどまず、休み時間に数人の話しやすい生徒を呼んで、カードのことを訊いてみた。誰も渋っていたが、やがておずおずと答えてくれた。A組の生徒に頼まれたのだと。
どうやらどのクラスもA組の1人の生徒から頼まれて、誕生日の嘘をついたようだった。
教師は、その生徒の名前を聞き出して、納得がいったような、いかないような気持ちの悪い感覚をおぼえていた。
そのA組の生徒は、カードに誕生日を11月31日と書いていた。もちろん11月には30日までしかない。教師は、カードを持って帰った日、その生徒のカードの日付を見て気づいたのだ。生徒たちが嘘をついているのではないかと。
ただ、名簿で生徒たちの本当の誕生日を調べ、また聞き取りをしていくなかで、そのA組の生徒だけが妙な嘘のつき方をしていた。その生徒はA組の誰とも誕生日が一緒ではなかった。なのに、なぜか誕生日を偽っていた。それもありえないはずの11月31日という日付で。
そもそもそんな誕生日のパラドクスの話をしたのは、A組が最初なのだ。それも授業の前日に思いついたこと。その生徒がなぜあの時点で嘘をつこうとしたのか。考えてもわからなかった。
教師は放課後、その生徒を面談室に呼んだ。
面談室に入ってきた時、最初に思ったことは、『ああ、こんな顔だったっけ』という感想だった。
目の前の席についた生徒に、カードをつきつけた。
「どうして他のクラスのみんなに、嘘をつくように頼んだんだ?」
机の上に、嘘の誕生日を書いた生徒たちのカードを並べた。
「それに、おまえだけ、なんだ、この11月31日なんていうふざけた日は。授業がつまらないなら、つまらないでもいい。でも真面目に聞いている生徒たちの、邪魔をするようなことをするな」
教師が強い口調でそう言うと、生徒は無感動な表情で机のカードから顔を上げた。
「どうして、嘘をついたのか、ですか?」
ゆっくりとした、抑揚のない言葉だった。
「嘘ではありません。でも他のクラスの人に嘘を書いてもらったのは、自分が仲間はずれになることがわかっていたからです」
「仲間はずれ?」
「同じ誕生日の人がいるはずだ、なんて、酷い仲間はずれです」
教師は生徒の言っていることがよくわからず、「仲間はずれになるから嘘をついたのか」と確かめるように訊いた。
生徒は頷いた。
「先生。自分の誕生日が本当は違っているのかも知れないと、考えたことはないですか」
「なにを言ってるんだ、おまえは」
「本当は、2月30日が先生の誕生日だったらどうします。いつお誕生日会をしますか」
「ふざけたことばかり言うな。怒るぞ」
教師は声を荒げた。
けれどそれは、目の前の生徒から感じる、正体不明の圧迫感に抵抗しているだけなのかも知れなかった。こんな生徒が本当にこの学校にいたのか。なぜか、それがわからなくなりそうだった。
「先生。11月31日の誕生星座がなにか、ご存知ですか」
ふいに、空洞が目の前にあるような気がした。
生徒の形をしているのに、その向こうにあるのは、底のない穴であるような妄想が頭をよぎる。
「くじら座ですよ」
真っ黒な目と口の穴の向こうから、深遠が覗いている。
表情は無い。
「角南、おまえ……」
本当にこの学校の生徒なのか。いや、人間なのか。
教師は、震えはじめた膝を両手で押さえて、無意識に体を仰け反らせていた。



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