通夜 女の子は、その暗い廊下が好きではなかった。 かび臭く嫌な匂いが、壁や床に染み付いている気がして、そこを通るときには、どうしても息を殺してしまう。 その廊下の先には、おじいちゃんの部屋があった。女の子が生まれたころから、ずっとそこで寝ている。 足が悪いのだと聞いたけれど、どうして悪くしたのかは知らなかった。 昔は大工の棟梁をしていたと、自慢げに話してくれたことがあったから、 きっと高いところから落っこちたんだろうと、勝手に思っていた。 部屋を訪ねると、おじいちゃんはいつも喜んでくれて、お話をしてくれたりお菓子をくれたり、 時にはお小遣いをくれることもあった。 そんなことがお母さんに知られると、怒られるのはおじいちゃんだった。 「近ごろの嫁は、口の利き方がなっておらん」とぶつぶつ言いながらしょげえり、 そんなことがあった夜には、痛い痛いと大げさに騒いでお父さんに気の済むまで足を揉ませた。 「あてつけ」という言葉を知ったのは、そんな時にぼやくお母さんの口からだった。 その日も女の子は、ミシミシと音を立てる暗い廊下を通って、その奥にある襖に手をかけた。 おじいちゃんと言いながら中腰で襖を開け、膝を擦るように部屋の中に滑り込む。 薄暗い室内は、空気が逃げ場もなく淀んでいて、外の廊下よりも嫌な匂いがした。 部屋の真ん中に布団がある。女の子が覚えている限り、そこに布団が敷かれていない時はなかった。 おじいちゃん。 ここに来ると、自然に甘ったるい声が出る。その語尾がひくりと掻き消えた。 うっすらと膨らんだ掛け布団から顔が出ている。 その顔の方から、いつものかび臭さではない、異様な匂いが漂ってきていた。 唾を飲み込みながら目を凝らして近づいていくと、蝋のように白い、それでいて光沢のない顔が天井を仰いでいた。 口元には、なにか液体が垂れたような跡があった。嫌な匂いはそこからしているようだ。 おじいちゃん。 もう一度呼びかけてみたが、反応はなかった。 膝が震えた。 眠りが浅く、いつもは誰かが部屋に入って来るだけで起きてしまうのに。 吐いたものが喉に詰まったんだと思った。すぐに掻き出してあげないといけない、そう思っても身体が動かない。 部屋の中は冷え切っていて、視線の先には、生きている者の気配はまったくなかった。 布団の端から手が出ていたけれど、皺だらけのそれは、力なくだらんと伸びている。 恐る恐る触れてみるが、そのあまりの冷たさに息を飲んで指を引っ込めた。 まるで、吹きさらしの大根を触るようだった。 どうしよう。おじいちゃんが死んじゃった。 女の子はうろたえて、部屋の中をキョロキョロと見回した。 大人を呼ばないといけないという、あたりまえのことが思いつけなかった。 どうしようどうしよう。 彷徨う女の子の視線の中に、背の低い箪笥が映った。おじいちゃんと同じくらい年を取った、黒っぽい箪笥。 煤けたその木目を見ていると、自分の胸が高鳴り始めていることに気づく。 その箪笥の一番下の引き出しには、綺麗な色の巾着袋が仕舞ってあるはずだった。 そしてその袋の中には、大粒の真珠をあしらった指輪が眠っている。 女の子が今よりもっと小さかったころ、おじいちゃんが一度だけ見せてくれたのだ。 死んだおばあちゃんの形見だといって、照れたように笑いながら。 おばあちゃんが死ぬ少し前に、ずっと欲しがっていたその指輪を、こっそり買ってあげたのだという。 今際のきわに指に嵌めてやると、おばあちゃんはただぽろぽろと涙を流していたそうだ。 「お父さんもお母さんも知らないんだ」といった時の、いたずら小僧のような顔は今も忘れられない。 一度見せてもらってからというもの、女の子はその指輪が気に入ってしまい、何度も欲しい欲しいとせがんだ。 でも、こればかりは遣れんと、おじいちゃんも譲らなかった。 「お嫁に行っても?」と訊くと、少し困った顔をしたあとで、「お嫁に行ってもだ」と答えた。 また見せてといっても、「もういかん」と怒ったように首を振り、 こっそり見ようにも、おじいちゃんはいつもこの部屋にいて目を光らせているので、箪笥を覗く隙もなかった。 そのおじいちゃんが死んだ。 どきどきと身体の中から音がする。 今なら指輪を見られる。見ても怒られずにすむ。 いけないことだと分かっていながら、勝手に動く足が、腕が、指が止められない。 息を詰まらせながら箪笥を引き、家の中の微かな物音に怯えながら、巾着袋を探り当てる。 震える指で袋の口を縛っていた紐を解くと、中には色いろ大事そうなものが入っているのが見えた。 紙の類を掻き分けながら探っていると、指先に硬い小箱の感触があった。 ゆっくりとそれを袋から出す。両手を添えて蓋を開けると、見覚えのある指輪が出てきた。 真珠の指輪だった。 悪い子だ悪い子だ。 自分を罵る自分の声が聞こえた。 だって見るだけだから、見るだけだからと自分で自分に言い聞かせながら、 本当の本当はこうするつもりだったんだから。 女の子はスカートのポケットに、指輪をすとんと落とした。 空の小箱を袋に戻し、どうしようもなく暗い気持ちで、目を泳がせながら箪笥の方に向き直ったその瞬間、 女の子の耳は、「ぶぶ」という音をとらえた。 ひやりと背中を冷たい手が撫でていった気がした。 袋を持ったまま首をめぐらせると、そこには布団に仰向けに横たわったままのおじいちゃんがいる。 他には動くものの影ひとつつない。 とくんとくんと脈打つ胸を押さえながら、ゆっくりと布団に近づく。 斜め上から首を伸ばし、その凍りついたような顔を覗き込む。 白目を剥き、口からは吐瀉物を溢れさせたままで、見るも恐ろしい苦悶の表情がそこに貼り付いていた。 ぶぶ。 また音がした。 おじいちゃんの喉が微かに動いた。 悲鳴を飲み込んだ女の子の両手の指が、痙攣するように顔の横で開いた。巾着袋が、おじいちゃんの手の先に落ちる。 足が自然と後ずさり、畳の上を滑るように布団から離れると、女の子は部屋から逃げ出した。 混乱する頭で薄暗い廊下を抜け、自分の部屋に飛び込む。 どうして。どうして。 そんな言葉ばかりがぐるぐると回っている。死んでいたのに。死んでいたのに。どうして。 それから、部屋の隅でうずくまったまま、ガタガタと震え続けた。 脳裏にあの恐ろしい死に顔と、「ぶぶ」という気味の悪い音が何度も蘇り、そのたびに目を強く瞑り耳を塞いだ。 どれほどの時間が経ったのか、やがて家の中の静けさが一筋の悲鳴に破られた。 「おやじが死んでる」 お父さんの声だった。女の子はびくりとして顔を上げる。ついで、「はやく来てくれ」という怒鳴り声。 耳を澄ましていると、ドタドタという家族の足音が、いくつも重なって聞こえた。 女の子はおっくうな重い腰を上げて、自分の部屋から顔を出す。 その鼻の先を掠めるように、布巾を手にしたお母さんが駆けていった。 やがておじいちゃんの部屋の方から、騒々しい声が溢れ始める。 死んでた?やっぱりおじいちゃんは…… なぜか今ごろになって涙が出てきた。悲しいという感情が、ようやく全身に巡り始めたようだった。 のそのそと立ち上がり、廊下に出る。 みんなの声のする方へと足を運ぶと、おじいちゃんの部屋から、お父さんの喚き声が流れてきた。 お父さんは布団に取りすがりながら、「おうおう」と泣いていて、 お兄ちゃんとお姉ちゃんは、オロオロとするばかりだった。 お母さんはおじいちゃんの口元を拭きながら、近所のお医者を呼んでくるようお兄ちゃんに言いつけていた。 襖のそばで立ちすくみながら、その光景を見ていた女の子は、 部屋のある部分に目を遣った瞬間、そこに釘付けになった。 箪笥が閉じている。 思い返せば、巾着袋を箪笥に戻す前に、部屋から逃げてきてしまったはずだった。 そのままにしておけば、自分が指輪を取ったことが家族に分かってしまうかも知れない、 ということにまで頭が回らなかった。 なのにその箪笥が今、目の前で何ごともなかったかのように、おじいちゃんの死を囲む背景に溶け込んでいた。 そうだ。巾着袋は? 女の子はキョロキョロと見回すが、布団の周りには落ちていなかった。 そこにいる家族の手元を見ても、誰も持っていない。 それほど広い部屋ではない。どこにも見あたらないのはすぐに分かった。 息が苦しい。 女の子は胸元を押さえながら、ひたひたと背中の方からにじり寄ってくるような恐怖と戦っていた。 おじいちゃんが元に戻したの? そうとしか考えられなかった。 自分が部屋から逃げ出したあと、布団からむっくりと起き上がったおじいちゃんが、 巾着袋を拾い上げ、箪笥にそっと戻した…… だとしたら。 女の子は震えながら涙を流した。さっきまでの悲しくて出てくる涙とは違う。 スカートのポケットの中の微かな感触が、途方もない罪悪感となって溢れ出してきたのだ。 おじいちゃんが大事にしていた、おばあちゃんの形見の指輪を盗った。 それを思うと、立っていられないほど哀しくなった。 師匠から聞いた話だ。 大学一回生の冬だった。 バイトの帰り道、寒空の下を俯いて歩いていると、闇夜に浮かび上がる柔らかい明かりに気付いた。 提灯だ。 住宅街の真ん中に大きな提灯が立っていて、その周りにはいくつかの影が蠢いているのが見て取れた。 「お通夜だな」 隣を歩いていた女性がぼそりと言う。 加奈子さんという、さっきまで同じバイトをしていた仲間で、その家まで送って帰るところだった。 近づくにつれて提灯の表面に、「丸に桔梗」の家紋が浮かび上がってくる。 その抑えた黄色い光には、なんとも言えない物悲しい風情があって、なんだかこっちまでしんみりしてしまった。 その提灯が飾られる家の門の前で、黒いスーツ姿の人々がひそひそと何ごとか交し合っている。 立派な日本家屋で、門の前を通る時にこっそり中を覗き込んでみると、 門と広々とした玄関の間の石畳に、テーブルが置かれていて、そこにも多くの人々がたむろしていた。 お通夜の受付なのだろう。 目を凝らしていると受付の若い女の人と目が合ってしまい、彼女のどうぞというジェスチャーに対して、 聞こえる距離ではないのに「いや、違うんです」と、小声で言い訳をしながらその場を離れた。 「珍しいか、お通夜が」 「別に」 そう答えながら僕は、最後に行ったお通夜はいつ誰の時だっただろう、ということを思い出そうとしていた。 ざわざわした気配が遠ざかっていくのを、背中に感じながら歩いていると、 加奈子さんがふと立ち止まったのが分かった。 振り向いて、どうしたんですと言おうとすると、 その目が横の暗闇の方へ向けられているのに気づいて、口をつぐんだ。 気持ち足音を殺して近づいて行き、視線の先を追うと、そこには明かりのない狭い路地が伸びていた。 お通夜をしていた家をぐるりと取り囲む塀と、隣の家の垣根に挟まれた小さな空間だった。 街灯から離れていて、夜目にも視界がはっきりしなかったが、 その路地を塞ぐように、なにかの木箱や粗大ごみにしか思えないようなものが、置かれているようだった。 たまたま置き場に困ったものを、ひとまず置いてあるようにも思えたし、 ここを通したくないという、暗黙の意思表示にも思えた。 その木箱の奥に、微かに淡い月光を反射するものが見えた。 なんだろうと思って首を伸ばそうする横で、加奈子さんがゆっくりと近づいて行った。 古ぼけたソファーが斜めに塀に立てかけられていて、道を塞いでいる。 その手前まで来ると、光がその向こうの木箱の後ろに隠れる、誰かの瞳だと分かる。 怯えたように瞬いた光が、それでも僕らがこれ以上近づいてこないと分かったのか、静かにこちらを向いている。 「どうしたの」 加奈子さんが呼びかける。 しばらくして「隠れてるの」という、か細い声がした。女の子の声だった。 「どうして」 その問いには答えは帰ってこなかった。 風が冷たい。誰も動かず、ただ静かな時が流れた。 やがてその空気を切り裂くように、塀の向こうから大きな怒鳴り声が響いてきた。 「サチコッ、どこ行ったの。サチコ!」 その声にビクリと反応して、木箱の後ろにさらに身体を縮込ませる気配があった。 塀の方に目をやった加奈子さんがぽつりと言う。 「今のはお母さん?お母さんから隠れてるの?」 じっと待っていると、やがてほうと漏れるように小さな声がした。 「怖いの」 「怖い?お母さんが?」 かぶりを振る気配。 待っても返事はなかった。加奈子さんは腰に手を当てながら続ける。 「こんなことにずっといたら風邪引くよ。今、お通夜をやってるよね。行かないの?」 お通夜。 そうか。この子はお通夜が怖いんだ。僕は一人合点した。 自分にも経験がある。 死んだ人間の顔を見たり、そのそばで夜を明かすという風習をはじめて知った時は、わけもなく怖くなった覚えがある。 昨日まで息をしていた肉親が、もう動かない死体になってそこにあるという恐怖。 この小さな女の子の心中を思うと、なんだかこっちまで陰鬱な気持ちになってきた。 「ねえ、なにが怖いの。教えてくれない?」 加奈子さんはその場に屈み込んで、教えてくれるまで動かないぞという意思を示した。仕方なく僕もそれに習う。 本当は早く帰りたかった。寒い。もっと厚着してくれば良かったと今さら後悔する。 やがて木箱の後ろに隠れたまま、ぽつりぽつりと震える声で女の子は語り始めた。 冷たい風に身体を小さくして、仕方なくそれを聞いていると、ふいにぴたりと膝の震えが止まった。 かわりに身体の中から、もっと冷たいなにかが、じわりじわりと沸いてくるのを感じていた。 女の子が語ったのは奇妙な話だった。 祖父の死に出くわした彼女が、それを家族に告げる前に、祖母の形見だという真珠の指輪を盗んでしまう。 その時彼女の耳は、死体だと思っていた祖父の喉から発せられる、「ぶぶ」という気味の悪い音を聞く。 怯えて逃げ出した彼女が自分の部屋でうずくまっていると、やがて家族が祖父の死に気づき大騒ぎになる。 そのさなか、祖父の部屋に戻った彼女は、元通りになった箪笥を目にする。そして忽然と消えてしまった巾着袋。 まるで、死んでいたはずの祖父が片付けてしまったかのように…… 語り終えた女の子が、息を飲むように小さな音を立てる。 ゾクゾクした。思いもかけない話だった。 彼女の話を聞く限り、祖父の死因は吐瀉物を喉に詰まらせての窒息死だろう。 その様子の描写からして、その時点で死んでいたのはまず間違いないと思われる。 その死体の喉から音がして、残されたはずの袋は消え、箪笥は片付けられていた。 このことから導き出されるのは、どう考えても薄ら寒い想像ばかりだった。 もし仮に祖父が生きていたなら、 彼女はその目前で彼を助けようともせず、大切にしてた形見の指輪を盗んでしまったのだ。 その後、ほどなくして本当に息絶えてしまう祖父の死に際に、とんでもない罰当たりなことをしてしまったことになる。 そんな彼女の心中を思うと、胸がしめつけられるように痛んだ。 そしてもし仮に、祖父が初めから死んでいたとすると…… 自分の周囲の暗闇が一層濃くなった気がして、そっと息を吐く。 師匠はこの話を聞いてどう思っただろうと、横目で伺う。 加奈子さんはこうした話を蒐集するマニアで、僕は彼女を師匠と呼んで憚らなかった。 「その、巾着袋は結局箪笥の中に戻ってたの?」 その師匠が、闇に向かって静かに問い掛けた。 沈黙が続いたが、やがてぽつりと返答があった。 「うん」 「指輪は?」 「……戻した。あとで」 「怖くなったから?」 「……うん」 「お医者さんは、おじいちゃんのことをなんて言ってた」 「……ちっそく、だって」 「死亡推定時刻……ううん、死んだ時間は?」 かぶりを振る気配。 師匠は少し黙った。 塀の向こうでは、その死を悼むお通夜が営まれている。吐く息が冷たい。 生きていたのか。死んでいたのか。 そのどちらも、女の子にとって救いのない答えだった。 その子がお通夜に出ることもできず、ここでこうしてうずくまっていることを思うと、どうしようもなく哀しくなる。 きっと、祖父の死顔を見ることができないのだろう。 祖父の死に際して自分のしたことが、彼女をこれからも苛み続ける。 そう思っていた時、僕の中に一筋の光が見えた。 そうだ。祖父は戻したのだ。巾着袋を箪笥に。何ごともなかったかのように。 そう。孫娘の盗みという悲しい行為もなかったようにだ。 他の家族に知られぬように、祖父は今際のきわに最後の力を振り絞って、孫をかばったのだ。 あるいは、すでに息を引き取っていながら、その死体が動き…… その光景を想像し、ぞくりと肩を竦める。 ともかく嘘でも何でも、僕はこの想像に飛びつくしかなかった。 これしか、目の前でうずくまる女の子を救う方法が思いつかなかった。 「あのさ」 口を開きかけたその僕を、師匠の片手が制した。黙っていろ、という目つきで睨みつけられる。 なぜか分からず困惑する僕を尻目に、師匠はたった一言木箱の向こうに問い掛けた。 「お父さんは、こう言ったんだね。『おやじが死んでる、はやく来てくれ』って」 それを聞いた瞬間、全身の毛が逆立つような気がした。 質問の真意は分からない。分からないまま、僕はなにか恐ろしいことが始まるという予感に身体を縛られてた。 木箱の向こうから返答がある。 「そう」 「あなたはそのあと耳を澄ましていた。そうね?」 「うん」 「もう一度訊くよ。お父さんは『おやじが死んでる、はやく来てくれ』と、それだけを言ったのね?」 ゾクゾクする。歯の根が合わない。気温の低さだけではない。なんだ。師匠はなにを言いたいんだ。 「……うん、そう」 ふ。という吐息。師匠はなにか覚悟を決めたように一瞬だけ目を閉じ、そして開いた。 「だったらお母さんは、どうして布巾を持って行ったの」 あ。 呆けたように口を開いた瞬間、唇の端がぱっくりと割れ、軽い痛みが走った。 そうだ。母親は布巾を持って行って、祖父の口の吐瀉物を拭いている。 だが、父親は祖父が死んでるから早く来てくれ、という呼びかけしかしていないのだ。 祖父は食事の最中でもなかった。ただ死んでいると聞いただけで、どうして布巾が必要だと分かったのだろう。 答えは自ずと見えてくる。 母親も、祖父の死を知っていたのだ。その死に方を。 なのに女の子と同じく、それを黙っていた。父親が気付いて騒ぎ出すまで。 そのことから導き出される絵は? 「あなたが部屋から逃げたあと、次に部屋に入ったのはお母さんだった」 師匠は淡々と語った。 母親の目に飛び込んで来たのは、吐瀉物を詰まらせた祖父の死に顔だった。 驚いて布団に近づいた彼女は、その祖父の手元に転がる巾着袋に気付く。 祖父が死ぬ間際に中をあらためていたのか、袋の口が開いている。 母親は誰かの声を聞く。心の中の、暗く、奥深い場所から囁く声。 袋の中を覗く。大事そうなものが色々と入っている。例えば紙の類……お札。 彼女はそれを抜き取り、視線の先に一つだけ開いている箪笥の引き出しをとらえる。 巾着袋の口を閉め、引き出しにそっと戻す。 そして祖父を残したまま部屋を出る。廊下の途中で誰かに出会えば、「おじいちゃんが死んでる」と喚けばいい。 けれど、誰にも会わなかった。 それならばそれでいい。一番に死体を見付けなければ、絶対に疑われることはないから。 なにかと言えば、自分にあてつけがましい意地悪をする祖父が、ずっと居座っていた部屋なのだ。 例え大事なものが無くなっていたところで、その目が光っている部屋の物を取るなんて、出来っこないのだから。 そう。祖父の死に出くわしでもしない限りは…… 「おじいさんの喉から音がしたのは、お腹で発生したガスが逃げ場を失って立てたものね」 師匠はあっさりと言った。 「あなたのおじいさんは生き返ったわけでも、まして死んでいながら動き出したわけでもない。だから」 言葉を切った。 続きを待ったが、師匠はそれを口にしなかった。 沈黙。 僕は寒さに両肩を縮めながら、微かな違和感を覚えていた。 師匠の語った真実、それは彼女の提示しただけのもので、けっしてたった一つの確かなものだという確証はなかった。 僕はさっき言おうとして止められた自分なりの真実を、もう一度持ち出して互いを比べてみた。 比べるとはっきりと分かる。師匠の真実は強引なところもあるが本筋は論理的で、他者を頷かせるだけのものだった。 けれどたった一つ、明らかに欠けているものがある。 それはこの、祖父のお通夜にも出られない、思いつめた小さな女の子に対して、もっとも必要なものだった。 「どうして、そんな思いやりのないことを言うんです」 僕は口の中で呟いた。 悲しくなった。僕にだけ、あとでそっと教えてくれれば良かったのだ。 どうしてこの場で、彼女の前で言う必要があったのか。自分の母親のした、救いのない行為を。 師匠は厳しい表情で、暗闇の奥を見つめている。木箱の向こうには息を潜める気配。 その時、塀の向こうから大きな声が上った。 「サチコッ」 さっきの女性の声だ。思わず首を竦める。 けれど、その後に続いた言葉を聞いた瞬間、得体の知れない寒気が走った。 「サチコッ、どこ行ってたのよ、この忙しい時にまったく、あんたって子は」 思わず向いた塀の方から、ゆっくりと首を戻す。ギシギシと首の骨が軋むような音がする。 道を塞ぐソファーの向こう、堆く積まれた木箱の陰にひっそりと隠れる小さなものの気配。 なんとなくこの子が、そのサチコちゃんだと思っていた。 違うらしい。 では、この子はだれ? また女性の声が夜のほとりに響いた。 「ほらほら、早く行っておばあちゃんのお顔見てあげなさい。 ちゃんと綺麗にしてもらってるから、怖いことなんてないのよ」 …… おばあちゃん? ドキンドキンと心臓が波打つ。 死んだのはおじいちゃんのはずでは? なんだ?なんだこれ。 身体が震える。唇の端にプツリと血が膨らむのを感じた。 木箱の向こうに何かがいる。 薄っすらと顔だけが見える。 光に照らされているわけではない。月は雲に覆われ、今はまったく見えない。 ただ、暗闇にそういう色が着いたとでもいうように、青白い、蝋のような、それでいて光沢のない顔が浮かんでいた。 僕はそこから目を逸らせない。 首筋が緊張している。顔も動かせない。 木箱の陰に幼い女の子の顔だけが、凍りついたように浮かんでいる。 そしてそれは、やがてぐにゃぐにゃと蠢き、端のほうからほつれるように段々と薄くなっていった。 そして最後に、完全に消え去る瞬間、それは老婆の顔になって何ごとか告げるように口を開く―― 消えた。 もう見えない。なにも。 けれど僕の頭の中には、デスマスクのようにその最後の顔がこびりついていた。 肩を叩かれ、我に返った。 「もういない。いなくなった」 師匠は立ち上がり、興味を無くしたように狭い路地の奥に背を向けた。 そして、はじめて寒そうに肩を震わせると、軽く屈伸運動をする。 「まあ要するにだ」 ぐっと沈み込む。 「頼朝公、幼少のみぎりのされこうべ、ってやつだな」 伸ばす。 「死んだやつが世に惑うに、死に際の姿で出てくるとは限らないってことだ」 沈み込む。 「相応しい場所には相応しい姿で現れる。彼女自身のお通夜に相応しいのは、あの子どものころの姿だった」 伸ばす。 「なぜって?ずっと心にわだかまっていたからだろう。 ずっと昔、自分の祖父の死の際に起きたことが。それが自分の死の際に蘇ったんだ。 身体は死化粧をされ、棺おけの中に収められていても、魂はこんな場所に隠れていた。 お通夜に参加なんか出来なかったんだ。あの時起こった出来事の意味が分かるまで、ずっと」 そうか。 だから師匠は口にしたのだ。あの思いやりに欠けた真実を。 「じいさんがされたように、あの子も嫁にはいびられたみたいだね」 そう呟いて師匠は通りの方へ足を向けた。 僕はついて行きながら、「どうしてです」と訊く。 「だって、声を聞いた瞬間、怯えたじゃないか」 あ、そうか。サチコという女の子を捜す母親の声だ。 それを聞いた時の反応に、僕は木箱の向こうの女の子が、サチコという名前なのだと勘違いしたのだ。 師匠は塀を横目に来た道を戻り、家紋の浮かぶ提灯が二つ並んでいる門の前まで来た。 「あの」 門の前で煙草を吹かしていた男性に声を掛ける。 「なにか」 「ここのおばあちゃん、亡くなったんですね」 「ああ。俺の叔母なんだけどね。ホントいきなりぽっくり逝ったから、びっくりして飛行機に飛び乗って来たんだ」 「おばあちゃん、お名前はなんといいましたっけ?」 師匠は教えられたその名前を口の中で繰り返した。 「どうもありがとう」 そう言って踵を返すところを止められた。 「あれ。顔みていかないの?お通夜やってるよ」 師匠はかぶりを振った。 「少し、話したことがあるだけですから」 微笑んだあと、僕に向かって帰ろうと言った。 [*←][→#] |