四つの顔―2― そんなことを考えながら家に帰り着き、軽くかいた汗を流すためにシャワーを浴びた。シャンプーをしている時、いつも以上に背中の方が気になった。目を閉じている間、後ろに誰かがいたら嫌だというあの感じ。 シャンプーが沁みるのを我慢してチラチラと薄目を開けながら早めに洗髪を切り上げる。 風呂場から出てしばらく布団の上でまったりしていたが、思いついてパソコンの電源を入れる。 ブラウザを立ち上げ、いつもの掲示板に入り込んだ途端、最新の書き込みに目を奪われた。 『またDがきた。出て行ったあとに取っ手を見たらまた鍵が掛かっていた』 山下さんだ。なんなんだこれは。 一瞬ゾクッとしたが、すぐにその書き込みの意味を理解する。 書き込まれたのは『Dが増えている』という山下さんの書き込みを見てから沢田さんと二人で彼の部屋へ行った後だ。 鍵を掛けて出ていったDとは俺たちのことに違いない。 なんの悪ふざけなんだこれは。 留守に見せかけてどこかに隠れていたのか。あれほど探し回ったのに。 気分が悪い。山下さんが何故そんなことをするのか、理由が思い浮かばなかった。怪談話を真に受けて乗ってきた俺たちにイタズラを仕掛けたということなのか。 『ワサダさんが連絡取りたがってましたよ』 ワサダとは沢田さんのハンドルネームだ。そう書き込んでしばらく待ってみたが反応はなかった。もう落ちていたのだろう。 バカらしくなってパソコンを切り布団に寝転がった。 まったく、心配して損した。 けれど眠りにつく少し前、さっきの書き込みのタイムスタンプがふと頭に浮かんだ。 あれ? その時間って、俺たちがまだ部屋にいた時間じゃないか? まさか。そんなはずはない。たぶん俺たちが部屋を出てすぐに書き込んだんだろう。隠れ場所から這い出てきて。ほくそ笑みながら。 そんなことを思いながら瞼を閉じた。 翌日、バイトが終わってこれから家に帰り夕飯を食べようという時に沢田さんから電話があった。 昨日の山下さんの書き込みを見て、フォーラムの管理人をしているメンバーに連絡をとったのだそうだ。やはり沢田さんも書き込み時間がおかしいことに気がついたらしい。 山下さんが『またDがきた』と書き込んだのは自分たちがまだ部屋にいた時間だった、と沢田さんは断言する。 「部屋にいたとき時計見たから間違いない」 だからあの書き込みは別の誰かがしたものか、あるいは本人が別の場所にいて書き込んだか、そのどちらかだと。 そう思って管理人に問い合わせると、「ほぼ間違いなく山下さんがいつものパソコンで接続したもの」との回答があったのだとか。 アクセス解析で分かるのだそうだ。 「これってどう思う?」 「どうって。さあ。確かに不思議ですけど」 そう答えたものの、頭の中にはいくつかの可能性が浮かんでいた。 ひとつめ。山下さんはいつも自分の家ではなく、別の場所からネットに接続していた。 ふたつめ。俺たちがオフで出会い、山下さんだと認識している人物は、ハンドルネーム『山下』を名乗る人物とは別人だった。 みっつめ。沢田さんが案内してくれたあの部屋は、山下さんの部屋ではなかった…… 現実的なのは、ひとつめか。 どうしてネット環境があるのにわざわざ自分の部屋以外で? という疑問は残るが、ありえなくはない。 ふたつめは気持ちの悪い回答だが、これまでの掲示板やオフでのやりとりなどで同一人物であることを疑う理由はないように思われた。 みっつめは単なる沢田さんの勘違いという線。部屋を間違えて、そこの住民がたまたま留守だったという締まらない話だが、沢田さんは一度ならずあの部屋に来たことがある様子だったから、それもなさそうだ。 玄関のドアの横に表札があり、それが『山下』だったことを俺自身覚えていることからしても。 もし仮に山下さんと沢田さんがグルで、二人して俺をからかおうという腹ならまた話が違ってくるけれど。 そんなことを考えていると、重要な部分を聞き逃しそうになった。 「ちょっと待ってください。鍵が消えてたって、今日も行ってたんですか」 「そう。書き込み時間はなにかの間違いだとしても、あの部屋、絶対どっか隠れる場所があったはずだと思ったから」 なのに昨日帰るとき元の場所に戻したはずの鉢植えの下の鍵がなくなっていたのだと言う。 ドアは施錠されていて入れなかった。ノックしても応答はなし。 「もうなにがなんだか分かんない」 疲れたような声でそうこぼす沢田さんに「まあ、なにかあったわけでもないし、しばらくほっときましょうよ」と言ってみたが、オカルト仲間とは言え赤の他人の俺と違ってそこそこ親密なお付き合いのあるらしい彼女にとってはそう割り切れるものではないようだ。 「まあいいや、色々ごめんね」 と電話が切られた。 静かになってこれまでの経緯を一人で思い返していると、どうも沢田さんが一方的に山下さんから避けられているだけのような気がしてきた。 確かに掲示板への書き込みが減り、その内容もおかしなものになってはいたが、おかしいと言えばもともとオカルトフリークの集う奇妙な場所なのだし、中には前世がどうとかもっと無茶苦茶なことを言い出す人もいるのだから取り立てて騒ぐほどのものでもない。 ただ沢田さんが個人的に連絡を取ろうとしてそれが上手くいってないだけなのではないだろうか。 痴話げんかの類ならもう関わらないでおこう。 その時は無責任にそう思ったものだった。 「四パターンの顔ねえ。それ面白いな。要は世の中の人みんなが四種類のお面のどれかを被ってるようなものか」 「しかも疲労のピークに入ったら体格とか服装まで区別がつかなくなるらしいです」 「てことは国民総着ぐるみ状態か」 大学の先輩でもあるオカルト道の師匠に会ったとき、たまたまその話をしてみるとやけに嬉しそうに食いついてきた。 「病んでるね、その人」 まあ普通ではない人だけれど、あなたに言われたくはないだろうと思う。 ニヤニヤしながらひとしきり頷いた後で、師匠はぼそりと言った。 「Dは明らかにこの世のものじゃないね」 それは自分も思った。現れ方もそうだが、元々霊感の強い人なのだし。 「実際は三パターンと考えた方がいいかも知れない。大多数のA、次点のB、少数派のC。すべての人間がそのどれかに見えてしまう心の病気。 それに加えて、霊感で察知したこの世のものではない存在を、そのどれにも当てはまらない第四の姿で認識してしまうんだ。だとするならば、その山下さんの霊感はかなり強いね」 「どうしてです?」 「他の三パターンと質的に同じレベルで見えてしまってるからだ。多少見えてしまう人でも、たいていはそれはそれと分かる」 確かに俺も経験上、人間なのか霊なのか分からないものを見てしまうことはあったが、それでもほとんどのケースでは普通の人間と同じようには知覚していない。霊は霊だ。 「そういう、常に霊を視覚的に人間と同レベルに認識してしまう人はごく稀にいるみたい。それの極まったような物凄い例を知ってるけど、そんな人はまずまともに世間では暮らせないね」 「誰です。その人」 「アキちゃん」 知らない名前だった。まだその時は。 「まあともかく、その山下さんに見えているDが霊的なものだとしたら、それが増えているってのが気になるな」 そうだ。最初にその書き込みがあってから彼と誰もコミュニケーションをとれていない。少なくともフォーラムの仲間内では。 「単純にDを霊と置き換えると、目に見える霊が増えているってことか」 「霊感が上がってきてるってことですか」 「いや、とは限らないよ。そのまんま、実際に霊が増えているのかも」 あっさりと師匠は言う。 「彼の周囲で。それとも雑踏の見ず知らずの人々の群れの中で。あるいはテレビに映る無数の人間たちの中で……」 この人はまた嫌なことを言って俺を怖がらせようとしている。咄嗟に心の中の眉毛に唾をつける。 「そもそもこの街に何人の人間がいるかなんて、誰も正確な数を把握していない。役所? 役所が把握しているのは形式上住所を置いている人の数だけだろう。特に大学生なんて住民票を移さずにこの街に住んでる代表格だ。その住民票がない人間だっている。 本当にこの街にいる人間の数を知りたかったら、時間を止めてひとりふたりと数えていくしかない」 その結果、少々人間の数が多すぎたところで。と師匠は続けた。 「本来誰も気づきはしない」 なにを言っているんだこの人は。 「まあ、それはさて置いて、その山下さんの見ているDが増えてきたってのは、どかかから湧いてきたというわけじゃなさそうだ」 「なぜです」 「またDがきた、っていう書き込みは部屋を訪ねた君らのことを言ってるように受け取れるけど、二人とも前のオフ会の時点ではAだったはず」 そうだ。本人がそう言っていた。 「ということはAに見えていたものがDに見えるようになったってことだよ」 「ちょっと待ってください。Dは霊的な存在じゃないんですか」 「自分でも知らないうちに、そうなってるんじゃない?」 指を向けられ、思わず目を反らす。でもそんなわけはない。 「おっ。否定するね。自分が死んでることを認めたがらない。典型的な霊体の症状です」 からかわれている。さすがにむかついてきた。 「まあそう怒るな。Dになった君が依然として霊的存在ではないとすると、初めからDは人間だったってことになるんじゃないか」 Dは人間。 それは俺も考えた。玄関のドアから覗く顔は植木鉢の下の鍵を使えば人間にも可能だ。 帰宅した山下さんが中から鍵を掛けたのを見計らって植木鉢の下から鍵を出し、ドアを開ける。気づいた山下さんが近づいてくる前にドアを閉じて、外から差したままの鍵を捻って施錠し、逃げる。一階の端部屋だったから、角を曲がれば上手く逃げ隠れできるだろう。 誰がなぜそんなことを、という疑問は残るが。 ただ風呂場に立つDは分からない。その風呂場はこの目で見たが、小さな窓はあったものの人間が出入りできるようなものではなかった。気づかれないように家宅侵入して、同じく気づかれないように出て行くなんてことができるだろうか。 「難しく考える必要はないよ。ヒトは生身の人間ではなく、まして霊でもない人間を見ることがあるじゃないか」 「幻覚だと」 でも、師匠も山下さんの霊感が強いのを認めていたじゃないか。 「だとするならば、ってつけてたよ。Dを霊と仮定した場合の話だ。僕の結論は最初に言ってる」 師匠はまたニヤニヤ笑いながら言った。 「病んでるね、その人」 だったらさっきまでの話はなんなんだ。本当に回りくどいなこいつは。 「最初は幻覚が見えたんだよ。それでも生身の人間と幻覚の区別がついてたんだ。それがだんだん本物の人間まで幻覚のように思えてきたって話。末期的だね」 あからさまに他人事だと言わんばかりの口調で、幻聴の場合だとどうだとかいう話をつらつらと続けた。 「あんまり関わらない方がいいと思うよ」 最後にそう忠告してくれたが、それは結局俺の結論と同じだった。 それからしばらくは山下さんのこともDのことも、あまり考えることなく過ごした。新しく始めたバイトやサークル活動で忙しく、オカルトフォーラム自体にもほとんど顔を出さなかった。 沢田さんからの電話もなく、俺の中で終わったことになりかけていた。 ところがある夜、寝る前に何気なくフォーラムの掲示板を覗いてみると、一番下に『殺し方ってなに?』という書き込みがあって、思わずドキリとする。 嫌な予感がした。 その少し前の書き込みに対するレスのようだった。投稿者は俺の知らないハンドルネーム。新顔だろうか。 緊張しながら上にスクロールしてみる。 すると今から一時間ほど前に、山下さんの名前で書き込みがあった。 『あいつらの殺し方がわかった』 その文字を見た瞬間、心臓の鼓動が早くなった。 あいつらってなんだ? 殺し方って? さらに遡る。 『いや、フリじゃない。ツモリなんだ』 間に、業者の宣伝がいくつか入り込んでいる。俺は画面から目を離せずにゆっくりとマウスを動かしていく。 『あいつらは人のフリをしている。ぼくだけがそれを見抜くことができる』 危険だ。 俺は立ち上がった。 なにをしようと思ったわけでもない。ただ無意識に身体が動いたのだ。 山下さんの書き込みはその三つだけ。五分ほどの間に書き込まれ、そしてそれから現れていない。 何人かが冗談めかしてレスをしているが、常連の名前はなかった。 みんなこの書き込みの意味を理解していない。情緒不安定なんてものじゃない、山下さんは本当に危険な精神状態にある可能性があるのだ。 Dが増えている。彼の平穏な生活を脅かすDが。疲れた時、人の顔が四パターンに見えたように、少しずつ狂っていった彼の精神が、増えていくDに追い詰められていく。 そして彼の中でついに暗く恐ろしい決断が下された。 その増えたDとは。あいつらとは。俺であり沢田さんであり、大多数のただの人間のはずなのに。 俺は家を出ると自転車に飛び乗り山下さんの部屋に向かった。ドロドロと纏わりつくような嫌な予感がして仕方なかった。 まずコンビニに到着し、前回のコースをそのまま辿る。やがて見覚えのあるアパートが見えてきた。 ドアに掻きつくように駆け寄ると激しくノックする。名前を呼ぶ。深夜だが周囲の迷惑など気にしていられない。 「山下さん」 動きを止めて静かにしてみたが、中からはなにも聞こえない。裏に回ってベランダ側から覗き込もうとしてもカーテンに覆われていて中は伺えない。しかし明かりは一切漏れておらず、相変わらず人の気配は無かった。 次に俺は周辺道路を歩き回った。山下さんらしき人影がないか目を凝らしたが、見つからない。 疲れ果てて、なんの収穫もないまま帰らざるを得なかった。 三ヶ月が経った。 あれからついに山下さんの姿を見ることはなかった。失踪したのだ。仕事先にも告げずにいなくなったらしいということを沢田さんから聞かされた。 しばらくは新聞やテレビで地元の傷害事件のニュースがあるたびに山下さんが関わってはいないかと恐れたものだったが、杞憂に終わっている。 アパートの部屋は保証人になっていた家族が片付けたそうだ。今はその部屋にはそんな経緯も知らない新しい住人が入っている。 春になり、有形無形の様々な別れがやってきた。 看護婦をしていた沢田さんが実家のある県外の別の病院へ移ることになり、オカルトフォーラムのメンバーでお別れ会と称したオフ会を開いた。 人当たりも良く、オカルティックな話題を多く提供してくれた功労者ならではの扱いだった。 沢田さんは散々回りからお酒を注がれてかなり酔いが回ったらしく、口数が減ってきたかと思うと外の空気が吸いたいと言い出したので俺が付き添って居酒屋の外に出た。 主役がいなくても盛り上がっている宴席を尻目に沢田さんは歩道に植樹されたケヤキにもたれかかるようにして立っている。 「吐きますか」 と訊いて近づこうとした俺に彼女は頭を振って、かわりに「電話があった」と言った。 「誰からです」 「山下さん」 一瞬誰のことか分からなかった。ヤマシタさん。ヤマシタさん? 「元気か、なんて言うから、どこにいるのって怒鳴ってやったら、部屋にいるよ、って」 山下さんって、あの山下さんなのか。 「いるわけないじゃない。あの部屋、もう他の人が住んでるんだし。そう言ってやったら、そんなはずはないって笑うの。ぼくはずっとここにいるって」 半ば覚悟していた狂気に寒気がするのと同時に、妙な符合が頭に引っ掛かる。 最初に沢田さんと部屋を訪ねた時、俺たちがそこにいたと思われる時間帯に書き込みがあったこと。その俺たちをどこかで見ていたかのようなその内容。そして玄関の靴。 まるで目に見えない彼がひっそりとそこにいたかのような。 「なにしてたのって訊いたら、ずっと探して回ってたって」 なにを? 決まっている。Dだ。 「あいつらは人間のつもりなんだって。いつの間にかその本人と入れ替わってるんだって。自分でも気づいていないから普通の人間みたいに生活してるけど、ぼくにだけは分かるんだって。Dの顔に見えるから」 探して、どうしたんだ? 沢田さんは顔をケヤキの幹の方に向けたままポツリポツリと語る。 「フリじゃなくて、ツモリだから、教えてあげればいいだけなんだって。おまえは人間じゃないよって。そしたら……」 忌まわしい言葉を飲み込むように押し黙る。 「怖かった。彼がなにを言ってるのか分からない。電話越しに声が近くなったり遠くなったりしてた。狂ってると思った。でも狂ってるのは私かも知れない。そんな電話本当は掛かってきてなかったのかも知れない」 小さな声が微かに震えている。 自分の周囲の人間がいつの間にか良く似た全く別の存在に入れ替わられているという妄想にとりつかれるというのは聞いたことがあるが、山下さんは少し違うようだ。 入れ替わっているのは、彼自身なのではないか? いや、入れ替わりと言っていいのか分からない。 客観的に見て彼のいる空間と我々のいる空間とが交わっていないという、この不可思議な現象にこちらの頭もこんがらがってくる。 山下さんは確かに狂いかけていた。けれどその狂気が、内側にだけでなく外側、つまり現実にまでじわじわと浸潤していったというのか。 「もう街に人がほとんどいなくなったって。見つけ次第、自分が殺してあげたから。誰もいない街を毎日歩いて歩いて、それでも不安が消えない、って泣きそうな声で言うのよ。それで……」 会いたいって。 沢田さんは絶句した。 俺はちょっと待って下さいと小さく叫んで手を前に突き出す。 割れた鏡が頭に浮かんだ。 彼のいない部屋に残された唯一の生きた痕跡。いや、あの時も彼はいたのかも知れない。部屋に侵入してきた二人のDに怯えながら。 鏡。鏡。もう一つどこかでその言葉を聞いた。 そうだ。彼が初めてその四つの顔の話をした夜。俺はいつの間にか眠ってしまっていて、起きた時には彼はもういなかった。疲れたから帰ると言い残して。 その時、鏡占いに行こうという話になっていたはずだ。鏡。鏡。 疲れたから帰る? 疲れた時には四つの顔が見える。鏡の向こうには何が見える? 俺はA、沢田さんはA、ColoさんもA、みかっちさんはC……彼自身は? 誰も訊かなかった。どうして訊かなかったんだろう。思い返すと、どうも彼がその話題にならないよう上手くかわしていたように思う。 彼は鏡を見たくなかった。だからあの夜、先に帰った。そして自分の部屋の鏡を割った。 なぜ見たくなかった? 俺は想像する。 鏡の前に立っている俺自身を。そしてその鏡に映っている顔が、一瞬、どこかで見たような、どこでも見ていないような、知っている誰かのような、知らない誰かのような、無表情の人間の顔に見えた気がした。 ハッとして我に返る。 すべてのDを殺して回っているという彼が本当に恐れているのは…… 自分に真実を告げる他者の存在。 「会いたいって言うのに、私、来ないでって」 沢田さんが口元を押さえる。 それで実家へ帰るのか。 急な引越しの理由が分かった。 あれ? その時、急にデジャヴを感じた。こうなることを知っていたような気がするのだ。なんだろう。気持ちが悪い。 「『分かった』って、そう言って電話が切れた。もう繋がらない。掛けても、現在使われていない番号だって……」 沢田さんは泣いているようだった。 しばらくそうして二人とも黙ったまま夜風に吹かれていたが、やがて落ち着いた頃合を見て席に戻ろうと言った。 居酒屋の自動ドアの前に立ち、それが開く瞬間、ガラス製の不完全な鏡に映った俺と沢田さんの後ろ、誰もいないはずの空間に、無表情の人間がひっそりと立っているような気がした。 [*←][→#] |