刀 師匠から聞いた話だ。 大学二回生の春の終わりだった。 僕は師匠のアパートのドアをノックした。オカルト道の師匠だ。 待ったが応答がなかった。 鍵が掛かっていないのは知っていたが、なにぶん女性の部屋。さすがにいつもなら躊躇してしまうところだが、ついさっきこの部屋を出て行ったばかりなのだ。 容赦なくドアを開け放つ。 部屋の真ん中で師匠は寝ていた。 その日、朝方はまだそれほどでもなかったのに昼前ごろには急に気温が上がり、昨日の雨もあってか、猛烈に蒸し暑かった。 その部屋はお世辞にもあまりいい物件とは言えず、こういう寒暖差の影響はモロに受ける。 師匠は畳の上、うつ伏せのままぐったりして座布団に顔をうずめている。 僕は靴を脱いで上がるとその側に近寄って声を掛けた。 「……」 なにか応答があったが、モゴモゴして聞き取れない。 「師匠」 もう一度言いながら肩を叩く。 ようやく座布団から顔がわずかながら浮き上がる。もの凄くだるそうだ。 また、なにか言った。 耳を寄せる。 「おばけ見る以外、したくない」 はあ? 「ちょっと」 僕はまた座布団に顔をうずめた師匠の身体を揺する。 「これですよ、これ」 そうして左手に下げた紙袋をガサガサと頭上で振ってみせる。 「ちょっと。見てくださいよ、これ」 師匠は薄っすらとかいた汗を頬に拭って顔を半分こちらに向け、眠りかけのうたぐり深そうな目つきでボソリと呟く。 「おばけ以外、見たくない」 ええと。 そんな宣言どうでもいいですから、お金下さい。立て替えたお金。 そもそもついさっきお遣いを頼んだのはそっちでしょう。 僕はあきれて紙袋から印鑑を取り出すと、またもや顔を座布団にうずめている師匠の前で振って見せたが、反応がないので首筋に押し付けてやった。 やっべ。 赤いものがついた。店で試しに押した時のインクが残っていたらしい。 師匠はようやくその感触にすべてを思い出したのか、深いため息をついて上半身を起こした。 「そうか。頼んでたな。いくらだった」 注文していた印鑑ができてるはずだから取りに行って来いという、お願いというより半ば命令だった。 「高かったですよ」 僕の言った値段に鼻を鳴らして恨めしそうに財布を探る。やがて決まりの悪そうな顔になった。 「また金欠ですか」 心なしか痩せて見える。 「いや、金が入るあてはあるんだよ。今日だって…………今日?」 財布を探る手を止めて僕の顔を見た。そしてすぐさま電話に飛びつく。 どこかにかけた。相手が出る。 「すんません。忘れてました」 開口一番それだ。 僕は立て替えた印鑑代が戻って来るのか不安になった。 しばらくのやりとりの末、師匠は受話器を置く。頭をかきながら。 「事務所行くの忘れてた」 事務所というのはバイト先の興信所のことだ。名前を小川調査事務所という。 師匠は時どきそこで依頼を受ける。たいていは他の興信所をたらい回しにされたあげくにやって来る奇妙な依頼ばかりだ。 そんな奇妙な依頼が今回は名指しでやって来たらしい。 噂を聞いてのことだろう。 このごろはそんなご指名による依頼が多い気がする。それなりに結果を出しているということか。 僕はその手伝いをしている。見よう見まねだが割と面白いので師匠から声が掛かるのを楽しみにするようになっていた。 「待ち合わせしてた依頼人、帰っちゃったみたいだけど所長が話聞いてくれたみたいだから、今から事務所行く」 もちろんついて行く。印鑑代もかかっているから。 事務所について早々、所長の小川さんは師匠を叱った。もちろん待ち合わせをすっぽかしたことについてだ。 こんな小さな興信所では依頼の一件一件が大切な商談だから、たとえどんな変な依頼でも割り切って大切に扱わなくてはいけない。少なくとも依頼人の前では。常にそんな心がけをして欲しい……云々と。 小川さんは飄々としているようで締めるところは締めている。 師匠はしゅんとなって聞いてたが、適当なところで説教も切り上げられ、話は依頼内容 にうつった。 「と、言うもののこいつはどうかな。期待に沿えるかどうか怪しい感じがする」 小川さんは砕けた調子で手を広げて見せた。 依頼人の名前は倉持というそうだ。男性で、七十年配の老人。刀剣の蒐集が趣味だという。依頼はその刀剣についてだった。 「金、持ってそうな名前」 と師匠がぼそりと呟いた。 倉持氏は先日、ある日本刀に関する勉強会に参加した。勉強会とは言っても刀剣研究家という肩書きを持つ先生の講義のあと、それぞれ持ち寄った自慢の一品を見せびらかして全員でああでもないこうでもないと、 とりとめもない雑談に終始する集まりなのだそうだ。 その中によくこうした集まりで顔を合わせる同年輩の男がいて、いつになく嫌味たらしい表情をしていると思っていると、大事そうに一振りの刀を取り出して口上を始めた。 ものは新々刀、会津の名工、三善長道。慶応のころというので、おそらく八代目。 刃長は二尺七寸五分。幕末らしい長刀で、非常に見栄えのする姿。 小板目の地肌に、刃紋は匂い出来の大互の目乱れ。 やや研ぎ減りはあるものの、元重ねは三分もあり、迫力に満ちた一振り。 などと実に自慢げだ。 三善長道といえば初代は会津虎徹と称される最上大業物の名工。素性の良いものはおいそれと手が出せない高値がつく。 けれど時代が下り、代が重なれば「さほど」ではなくなる。 刀身や拵えなどをひっくるめて総合的に見ると、良い物だとは思うがそれほど自慢したくなるものだろうかという疑問が湧く。以前見せびらかしていた河内守国助の方がよほど良い品だ。 そう思っていると長道を持ってきたその男はこう言った。 「ところがこの迫力、野趣、いったい見栄えだけからくるものだろうか」 なにが言いたいのだろうと、周囲が注目する。 すると男はこの刀の出自に関する話をし始めた。 長々と話したが、要約するにこの三善長道は幕末期に大洲藩のさる家老の家中にあり、そのころ勤皇で固められた藩風のなかその家老の身内に、長州の起こした禁門の変に呼応して私兵により挙兵をしようとした者があった。 八月十八日の政変後の際どい政治情勢のさなか許されない愚挙であったため、家老はこれを強く諌めたが聞く耳持たれず、泣く泣く密かに斬り捨てて御家の安泰を図ったという。 その身内の若き藩士を斬った刀がここにある三善長道である、と告げられて勉強会の面々はほおと感嘆の声を上げた。 刀は人を斬るためのものだが、人を斬った刀というものにはなかなかお目にかかれない。正確には、斬ったという事実を確認できないのだ。なにしろ鑑定書にはそんなものは出てこない。 三善長道を持ってきた男はこれを懇意にしているさる噺家から譲り受けたのだそうだ。噺家の血筋はその家老に通じており、家宝の刀とともに家中の秘密としてその逸話が伝わっているのだという。 それを聞いた刀剣趣味の者たちは興味津々の体で口々に目の前の三善長道を褒め称えた。 「そう言われてみると、なるほど他にはない凄みがある」だの、「刃先からうっすら妖気のようなものが漂ってきている」だのと口にしては触らせてもらっていた。 刀剣研究家の先生までもが「若き血気が志半ばで断たれた怨念が篭っているようだ」と感慨深げに言い出して、倉持氏は内心気分が良くなかった。 銘は本物でもその逸話の真贋は分かるまいに、と思ったが口に出すことは躊躇した。 この場に水を掛けるのはいかにも悪者にされてしまいそうで。 会がお開きになり、家に帰ってからも気分が落ち着かないので所蔵している日本刀をすべて出してきて並べてみると、これらの中にも人を斬ったことのある刀が混ざっているのではないかという思いが湧いてきて、居ても立ってもいられなくなったのだそうだ。 「それで私か」 「そういうこと」 倉持氏は『オバケ専門』の師匠の噂を聞きつけ、鑑定を依頼してきたのだという。 鑑定! 僕は思わず吹き出しそうになった。 う〜ん、これには無礼打ちされた町人の霊が憑いてますねぇ、などとやるのだろうか。 傍目にも胡散臭いことおびただしい。 「刀のことはあんまり分かんないから、ちょっとな」 師匠は困惑した様子でため息をつく。 「ボクだってそうさ。カタナシ、ってやつ」 小川さんは冗談のつもりなのか判断つきかねる軽口を言って手のひらを上げる。 「ただ、実際になにか家で変な気配がしたり音がしたり、心霊現象かと思うようなことが起こってるらしいんだ」 「……思い込みだろう」 「さあね。ともかくそういうこともあって一度専門家に見に来て欲しいんだそうだ」 専門家ねえ、と肩をすくめながらも師匠は興味が湧いてきたような目つきをした。 「もう受けたの?」 「後日連絡ってことにしてある」 師匠は考え込むようなそぶりをしながら思いついたように首を傾げた。 「……三善長道って、なんか聞いたことがあるな」 僕は思わず口を挟む。 「近藤勇の愛刀ですよ。新撰組の。池田屋事件の功に対して京都守護職の松平容保から拝領した物です。近藤勇と言えば虎徹の方が有名ですけど、そっちは偽名だったって言われてますね」 師匠は、なんだおまえ、という顔をした。 「詳しいな」 小川さんは急に真剣な顔つきになった。 「実家にいっぱいあるんで、刀やら脇差やら。門前の小僧程度ですけど」 そう言う僕の肩に、師匠は乱暴に手を置いた。 「よし、受けよう。その依頼」 ええっ。と呻いてしまった。 もしかして、なんか失敗したら僕のせいにされるのではないかという不安がよぎった。 「引き受けてくれるなら、早い方が良いって言ってたぞ。家まで来てくれって」 「じゃあもう今日とかでも?」 「二、三日はほとんど家に居るらしい」 師匠はさほど考えもせずに宣言した。 「今日、今から行くって電話して」 「了解」 零細興信所のたった一人の所員たる所長は、遅刻してきたアルバイトの勝手な都合をあっさり了承した。 「暇だろ?」 師匠は有無を言わせぬ笑顔をこちらに向けた。仕方がなかった。僕だって興味がある。 その後小川さんは倉持氏に電話をして、これからご氏名の所員が助手を一人連れて行く旨を伝えた。 そして住宅地図を確認したり先方に渡す契約書などについて師匠と簡単な打ち合わせをした後で、落ち着かなげな様子で妙に言いよどんだ。 どうしたんだろうと思っていると、「あー」と少し視線を上に向けてから「まあ、なんだ」と言った。 「さっきはちょっと言い過ぎたな。悪かった。いつも変な依頼を回して、すまない」 小川さんは師匠に軽く頭を下げた。 ふっ、と師匠の顔が和らぐ。「いや、すっぽかしたのは弁解できない。気をつけます」 「そうだな」と言ってから、小川さんはネクタイの先をねじった。 「まあ、そういうことをするなとは言わないけど、昼間っからってのはちょっと控えるんだな」 ん? と言う顔をした。僕と師匠で。 小川さんは自分の首筋を叩いて見せた。思わず二人ともその首のあたりを見つめる。細い首だ。 ハッと気づいた表情をして、師匠は自分の首筋を触りその指先に視線を落とす。 薄っすらと赤い色がついている。首筋にもかすれて広がった丸い微かな赤い跡。 あ、印鑑の。 そう思った瞬間、「このボケェ」という怒声とともに師匠の足が鳩尾に飛んできた。 痛ってぇ。 と、右腕をさすりながら事務所の階段を下りていると師匠が何かを思い出したのか「ちょっと外で待ってろ」と一人で引き返して行った。 事務所の下の喫茶店の前で顔見知りのウエイトレスと立ち話をしていると嬉しそうな顔をして師匠が下りて来る。 「なんか食ってこうぜ」 そう言って、千円札を何枚かヒラヒラさせた。 どうやら調査費を前払いしてもらったらしい。しかし家に行って刀を見るだけの仕事で調査費なんて使うことあるんだろうか。 疑問に思ったが、まあくれたからには使っていいのだろう。 「でも今から行くって電話したばかりですよ」と諌めると、師匠は恨めしそうな顔をして「じゃあさっさと片付けてこよう」と僕をせかし始めた。 コピーした地図を見ながら自転車に二人乗りして目的地に向かう。 蒸し暑さに何度も汗を拭いながらペダルをこぐこと二十分あまり。古い家の並ぶ住宅街の一角に倉持氏の家を発見した。 「へぇ」と言いながら師匠が後輪の軸から足を下ろす。 想像していたより立派な日本家屋だ。数寄屋門から覗く庭がかなり広い。 門の傍らについていたインターホンで来意を告げると、倉持氏本人の声で「どうぞお入りください」と返答があった。 庭と言うより庭園とでも言うべき景色を見ながら石畳の上を歩いて玄関にたどり着くと、ガラガラと戸が開いて和服姿の老人が出迎えてくれた。 「倉持です」 痩身から引き締まった表情の顔が伸びている。七十年配だと聞いていたが矍鑠とした姿はもう少し若く見えた。 「どうぞ、お上がりください」 値踏みするように師匠を見つめながら右手を流す。 僕は緊張したが師匠は平然と靴を脱いで倉持氏の後をついて行った。 涼しげな音をさせる板張りの廊下を進み、僕らは庭に面した広い和室に通された。 「いまお茶を」と倉持氏が消え、ほどなくして戻って来たときにはお盆の上に高級そうな和菓子も一緒に乗せられていた。 主人と客がそれぞれに居住まいを正し、もう一度名乗りあった。 僕もおずおずと名刺を差し出す。 「坂本さん」 まだその響きに慣れない。偽名を使うのは所長に無理やりあてがわれたからだが、いつもこの嘘が見抜かれないかと不安になる。 僕の将来に対する配慮らしいが、そんなやっかいごとに巻き込まれる可能性を恐れるならそもそもこんな師匠みたいな人について回りはしないのだが…… 「僕の方は助手というか、あの、ただの付き添いです」 口調が気に入らなかったのか師匠が「堂々としてろ」と目で発破をかけながら僕の足を小突いた。 「さっそくですが、ご依頼の品をお見せいただきたい」 契約に関するやりとりを終えて、師匠はそう切り出した。 「ええ、いま」 倉持氏は両手をついて立ち上がった。 二人だけになった部屋で僕は師匠に声をひそめて話しかけた。 「なにか感じますか」 静かな日本家屋は外の蒸し暑さが心なしか緩和されたような空間で、少しづつ汗が引いていくのが心地よかった。 師匠は畳から壁、そして天井の四隅へと首を巡らせた後で「なにも」と言った。 僕も同感だった。心霊現象の気配などなにも感じない。どうやら倉持氏の思い込みの可能性が高いようだ。 ということは、自分の所有する蒐集物の中に人を斬った刀があって欲しいという彼の願望がいかに強いかということを暗に示している気がして、少し気が重くなった。 先だっての勉強会で金銭の多寡を超えたその付加価値の存在を認識してしまったことが彼の精神に与えた影響は大きいと思わざるを得ない。 そしてそれはこの依頼の難易度にも関わる問題だった。 もし刀を見ても師匠がなにも感じ取れなければ、その通り告げて終わるというものではないかも知れない。 だからあの倉持氏のいかめしい表情のことを思うとどうしても気が重くなるのだった。 「お待たせしました」 その当人が戻って来て座につく。想像に反してその手は空だった。 そんな僕らの視線に反応して軽く笑みを浮かべる。 「ご鑑定いただくものは別室に用意してあります」 その前に、と倉持氏は含みを持たせるように少し間を置いた。 「ご評判を伺って相談した次第ではありますが、こうしたことは私も初めてですし、テレビなどで霊能者の方を拝見することがありますが、なかなかどうして皆さんそれぞれにやり方も違えば仰ることも違いますのでね、 なんと申しましょうか、ま、私もそうした方にお会いする機会もなく、いったいぜんたいどういうものなのだろうと、こう思う所もございまして」 師匠の顔が曇った。 回りくどい言い方だが、ようするに証拠を見せろと言っているのだ。人を斬った刀かどうか人知を超えた力で鑑定するのというのだから、それが何の能力もない人間に適当なホラを言われたのではたまらないということか。 自分から頼みに来ておきながら、したたかなものだ。 どうするのかと思って見ていると師匠は軽く息を吐いて「いいでしょう」と言った。 「私は死者の霊と交感することができます。ですから、もし人を斬り殺した刀があればそこにこびり付く死者の霊を見ることができるでしょう。……たとえばあなたの背中に今も寄り添う奥様のように」 空気が変わった。倉持氏の顔が緊張で震える。 「どうしてやもめだと?」 「見えるからですよ。そして奥様は私に様々なことを教えてくれます。あなたは先代から続く食料品の卸業で立派な家を建てられた。今では息子さんに会社を譲られ、悠々自適に暮らして趣味を楽しまれている。隣に並んでいるのがその息子さん夫婦の家ですね」 コールドリーディングだ! 僕は興奮した。 たぶん奥さんの霊が見えるというのは嘘だ。さっきこの家になにも感じないと言ったばかりだから。 ということは師匠は実際に目にしたものや、相手との会話から情報を引き出しているに違いない。 インチキ霊能力者と同じ手口を使っているのだ。そうして信用を勝ち取ろうとしている。 なんて人だ。 僕は畏敬と呆れるような思いが入り混じったモヤモヤした気持ちのまま、その師匠がどこで情報を得たのかと目を皿のようにして倉持氏の身に着けているものや部屋の間取、家具などを探った。 そしてこれまでのやりとりを思い浮かべる。 そう言えば倉持氏自身がお茶を運んで来たことなどは今現在独り身であることを示唆しているようにも見えるが、たまたま奥さんが外出中であったり、病院に入院中であったりというケースだって考えられる。 僕にはまったく想像がつかない。どうやって師匠はここまで推理できたのか。 「息子夫婦は確かに隣に住んでおりますが、今も息子のやっている食料品の卸の屋号は私の名字と同じです。広いようで狭い街です。聞き覚えがあったのではないですか」 倉持氏は震える声で、それでも頑張っている。 「いえ、残念ながら。それと奥様はあなたのご病気を心配されていますね。……心臓ではないですか。倒れたこともおありのようだ」 「む」 倉持氏は息が詰まったような声を漏らした。 「これ以上は今回の依頼内容からは逸脱しますので、別の機会に願いたい所ですが。信じる信じないはお任せします」 師匠はふっ、と力を抜いた表情を見せて続けた「奥様はとてもお綺麗な方ですね。みさこさん、とおっしゃる」 張り詰めた空気が破れ、倉持氏は「失礼」と言って胸元を押さえたまま部屋を出て行った。 僕も驚いていた。気持ちが悪いものを見る目で師匠を見てしまう。 「どうしてわかるんです」 恐る恐る訊いてみると、師匠は涼しい顔をして言い放った。 「知ってたから」 そんなはずはない。依頼人の名前も今日聞いたばかりだ。それも師匠自身は約束をすっぽかしたせいで今の今までその倉持氏とやりとりもしていない。 これは僕の知らない師匠の霊能力なのではないかと、寒気のする思いを味わっていると鼻で笑うような言葉が降って来た。 「あのな。こういう霊能力を期待してるような依頼人と会う時は、会う前から情報収集するのがセオリーだよ」 会う前から? そんなバカな。師匠は僕とずっと一緒にいたじゃないか。僕にはそんな情報、入っていない。 横から試されているような目で見られていると、ハッと気付いた。 そうだ。事務所から出る時、師匠だけ引き返して行った。あの時だ。 お金の無心をしにいったと単純に思っていたが、もしその所長との交渉が一瞬で終わっていたとしたら、僕が下でウエイトレスと立ち話をするだけの空白の時間ができることになる。 「今回の依頼って、私の噂を聞いて名指しで来たって言ってたよね。自分で言うのもなんだけど、私なんか全然有名じゃないし。そんな噂をするのなんて、前に依頼を受けた人に決まっている。 その中で日本刀趣味の七十過ぎの爺さんと交友関係がありそうな人なんて数が限られるよ。というか、もうだいたいそんな噂を広めてるの、あの婆さんに決まってんだけど」 師匠は具体的な名前を一人出した。以前、心霊現象の関わるある事件を解決してからやたら気に入られてしまい、感謝と親切心のつもりで様々な場所で頼みもしないのに宣伝をしてくれているのだそうだ。 「事務所から電話して、その婆さんからできるだけ聞き出した」 つまらなそうに言う。 コールドリーディングじゃなかった。 同じようにエセ霊能力者が良く使う技術で、もっと直接的かつ身も蓋もない裏技。ホットリーディングだったのだ。 そしてその情報を元に、死者の霊との交信を演じて見せたわけか。 凄いと思うと同時に、なんだかやり口が手馴れていて気持ちが悪かった。 この人、その道でもやっていけるんじゃないかと思ってしまう。 「失礼しました」 襖が開いて、また倉持氏が戻って来た。薬でも飲んできたのか、多少青ざめてはいるものの落ち着いた様子だった。 「大変ご無礼を申しました。どうかお気を悪くなさらずに」 僕らよりよりはるかに年長者である老人が頭を下げるのを見て、なんだか後ろめたい気になったが、おどおどしているわけにもいかない。 なるべく無表情を心がけた。 「では、刀を見ても?」 「は、はい。こちらです」 案内を受けて部屋を出、廊下を抜けて別の部屋へ入った。 さっきと同じような造りの和室だが、三、四畳分は優に広い。そして室内には刀掛台がいくつも並べられており、そのどれにも存在感のある日本刀が飾られていた。 数えると大小あわせて十本。ちょっとした光景だ。 「すぐ戻ります」 倉持氏はなにかに気付いたような顔をして部屋から出て行った。 残された僕らはその場に立ったまま刀剣の立ち並ぶ様を眺める。 「なあ、あれ、間違ってるよ」 師匠がおかしそうに指をさすので、なんだろうと思ったがその先には黒漆の一本掛の台に飾られた一振りがある。 背が反っており、腹にあたる部分が下向きになっている。他の六本はすべて逆に腹を上向きに出っ張らせている。 一つだけ掛け方が異なっているので、間違っていると思ったらしい。 「あれはタチですよ」 小声で注意する。 「え?」 「太刀です。打刀より古い型の武器です。馬に乗って戦うことを前提に作られたもので、刃を下にした状態で腰に吊り下げて使います。『佩く』って聞いたことあるでしょう? いわゆる刀の方は刃を上にして腰に差します。だから台に掛ける時もそれにあわせてるんです」 「なんで刀は刃が上なの」 「戦さの時だけじゃなくて、武士が普段から持ち歩くものになっていったからですよ」 「持ち歩くとなんで刃が上なの」 「下だと刀身の重みで刃が鞘の内側にあたって痛むからです」 へえ。という顔をして師匠はしきりに頷いている。 実は適当に言ったのだが、たぶん当たらずとも遠からずのはずだ。 それにしても、と僕は少し身体を引いた。 当然、それらは茎(なかご)を抜いた状態、つまり裸で並べてあると思っていたからだ。鑑定と言う言葉のイメージがそうさせたのだが、しかし確かによく考えてみると霊能力で鑑定するのだから、柄の内側に隠れている銘など確認する必要はない。 むしろ余計な先入観を与え、鑑定の信憑性を疑う結果になるだけだろう。 この依頼人はなかなかにしたたかな人物だ。 師匠がその太刀に近づこうとした時に倉持氏が戻って来た。手に布を持っている。 そう言えば今日は蒸し暑さのせいで手も汗ばんでいた。 ということは鞘から抜かせてはくれるようだ。 布を受け取り、汗を拭く。師匠もそれにならう。 「抜いても?」と顔を向けると、老人は無言で頷いた。 僕は左端の黒く落ち着いた拵えが印象的な一振りを手に取った。 そして鞘を持つ左手を腰に引きつけ、右手で柄を握ると棟を鞘の中で滑らせながら真っ直ぐに抜いた。 刀身を見て、すぐに白いもやの様な線に気付いた。持ち手から斜めに上がっている。 水影だ、と思った。 二度焼きした時に出る線だ。二度焼きは再刃と呼ばれ、その刀の持っていた本来の価値を大きく損なうものだ。 がっかりしかけたが、よく見ると再刃特有の刃紋の濁りもなく美しい形を保っている。水影がそのまま映りにつながっているところを見ると、これは逆にそうした趣向なのだと気付かされた。 姿からすると堀川物かも知れない。だとすると案外これは値が張る。 持つ手が少し緊張した。 その隣では師匠が別の刀を手に取り、同じく鞘から抜こうとしている。しかし危うげな手つきで、しかも胸の前で刀を横にして左右に力を入れて引き抜こうとしていた。 僕は思わず首を振って注意する。 自分の左手の鞘をもう一度腰にあてて、さっきの僕と同じように抜けというジェスチャーをした。 刀身を晒している時は喋らないのがマナーだということは雰囲気で察してくれたらしい。 師匠は無言のまま見よう見まねで腰から引き抜いた。 唾がつくと錆の原因にもなるので、刀剣を鑑賞する時には会話は慎むのが普通だ。そのために懐紙を咥える習慣さえあったのだ。 刃を上にして抜くのも鞘の内側に擦らないようにするためだ。横にして左右に抜くと、刃を鞘に押し付ける形になり、鞘も痛めるし刃にも「ひけ」という傷がつくことがある。 こんなに素人とは思わなかったのでドキドキしながら師匠の動きを注視していたが、その手に現れた刀身に思わず目が行った。 あまりに滑らかな肌、そして刃紋。 現代刀だ。 木製の漆台も二本掛けで、大小が揃っている。残された脇差の拵えも全く同じ意匠で、しかも鍔に見覚えのある家紋があしらわれている。 さっきの部屋にあった桐の箪笥にあった家紋と同じだ。倉持家の家紋なのだろう。 ということは注文打ちに違いない。 ここで僕の頭は回転を早めた。 まずいな。 師匠はこのあとどうするつもりなのだろう。 もしなんの霊感も働かない場合、正直にそれを依頼人に告げるだろうか。依頼人は自分のコレクションの中に人を斬った刀があることを望んでいるのだから、そんな結論にあっさりと納得するだろうか。 安くない料金を興信所に払い、その代償としてお金に代えられない付加価値を見出す、というのが倉持氏の目的なのだろうから、逆にそんな刀はないというお墨付きを得た結果になると、これは酷い意趣返しだ。 もし倉持氏がそんなことを想定もしていないような短絡的な人物だったなら、面倒なことになりそうだ。 だから、いっそ師匠は霊視まがいのホットリーディングで見せたようなプロ意識と言うか、割り切った考え方をして「どうせわかりっこないから」と出まかせを言う可能性があるのだ。 たとえば、「この刀はかつて人の生き血を吸っています」と。 その発言がもし今持っているその現代刀に対して飛び出してしまうと実にまずいことになる。 そんなワケないからだ。 けれど師匠はそれを知らない。その刀が最近打たれたものだということを。 せめて家紋に気付いてくれ、と祈りながら師匠を横目で見ていると、首を振りながら難しい顔をした。 (違う) そう言っているようだ。 僕は手の内の刀を一通り鑑賞したあとで鞘に収めた。師匠もそれにならう。 「これらはすべてご自分で?」 師匠の問い掛けに倉持氏は頷いた。「ええ。若いころからの道楽で、自分で買い集めたものです」 期待するような目を向けてくる。 それから僕らはそれぞれすべての刀剣を抜いた。もちろん一振りだけある太刀も。 どれも高そうなものばかりだった。しかし新刀、新々刀、現代刀と、どれも時代や体配が異なり、あまり蒐集物にこだわりは感じられない。 銘が見てみたかったが、とりあえずここは師匠に任せることにする。 「拝見しました」 座布団の上に居住まいを正し、依頼人に正対する。 「ありません」 きっぱりした口調に倉持氏の顔が強張る。 「ないと」 「はい」 窓ガラス越しに庭の白い砂の照り返しが射し込み、師匠の横顔を照らしている。 背筋を伸ばして前を見据えるその前髪をわずかに開けた窓から吹いてくる風が揺らす。 「少なくとも、人を斬り殺したような痕跡は見つかりません。殺された人間の怨念や情念は全く感じない。以前人を刺した包丁を見たことがありますが、何年経ってもそこに残る怨念は消えていませんでした。 もっとも刀のそれははるかに古いものでしょうから、消えてしまうものなのかも知れませんが。いずれにしても私には見ることができませんでした」 お役に立てず、残念です。 師匠は軽く頭を下げた。 倉持氏はなにかを言おうとして口を開きかけたが、すぐにつぐんだ。あまりにはっきりとした否定に、反論をすべきか迷っているようにも見えた。 信じたくなかったらそれでいい。別の霊能力者を探して同じことを頼めばいいだけだ。 ただ、誓ってもいいが、まず自分で霊能力者を名乗るような人間なら、今僕らがなにも感じられなかったこの刀の中の一振りを無責任に指差すに違いない。 そんなことで満足するならどうぞ御自由に、というところだ。 「そう、ですか。しかし……そんな……では……」 師匠の視線から目を逸らし、倉持氏はぼそぼそと歯切れ悪く放心といったていで呟いている。 見つからなかったからと言って、規定の料金を負けてやるわけにもいかない。その分多少の愚痴はじっと聞いてあげるしかないだろうと覚悟していた。 しかし依頼人は妙に落ち着かなげな様子をしていたかと思うと、その表情に不穏な翳りが覗き始めた。 落胆しているのかと思って見ていたが、その目の色に浮かぶものはそれとは少し違うように感じられた。 なんだろう。師匠も怪訝な顔をしてじっと目の前の和服姿の老人を見つめている。 彼を包むその感情は落胆ではない。絶望? 違う。なんだろう。とても懐かしい感じ。親しみのある感情。 目を、逸らしたくなるような。 ……恐怖。 恐怖ではないか。これは。 そう思った瞬間、寒気に襲われた。 わああああああん。 身体が硬直する。 なんだ今の音は。音? 今僕は音を聞いたのか? 部屋を見回すが、変わった様子はない。 しかし、ずうんと重いものが腹の下にやって来たような感覚。 部屋の中の光量は全く変わらないままで、すべてが暗くなっていく感じ。 ビリビリと僕の中の古い、人体に今はもうないはずの感覚器がその気配をとらえていく。 うぶ毛が逆立つ。 死者の霊魂が。凍てつくような悪意が。 今、僕らの周りに湧き出てこようとしていた。 「動くな」 師匠が短く言った。 やばい。 これはやばい。近すぎる。 まったく心構えができていなかった僕はパニック状態に陥りかけた。 知らぬ間に広い畳のそこかしこから、人の頭のような形をした真っ黒いなにかがいくつもいくつも生えてきている。 前を向いたまま動けない僕の首の後ろにも、なにかがいた。無数の気配。吐き気のするような。 外よりいくぶんかましだった蒸し暑さも、そのまま変質したようにどろりとした濃密な冷たさとなって、部屋の中に充満している。 僕は自分の霊感が異常に高ぶっているのがどうしようもなく恐ろしかった。相手の正体も分からない。 倉持氏もその気配に気付いているのか、顔を硬直させたままぶるぶると頬の肉を小刻みに震わせていた。 さっきまで。 さっきまでなにも感じなかったのに。どうして? 畳からずるりと出てきた黒い影たちが、浮遊を始める。 人の形をしている。 視界の端をかすめたそれは首のあたりが千切れかけ、皮一枚で繋がっているようにぶらぶらと揺れているように見えた。 黒く塗りつぶされているようで顔かたちなどはまったく分からない。 ただ、その黒いものが笑っているような気がするのだった。 いくつもの影が部屋の中を浮遊し、そのどれもが身体の一部が欠けていた。 心臓が早く脈打ちすぎて止まりそうだ。 確かに家の中で、変な気配や音、心霊現象のようなことが起こっていると聞いていたのに。 それを、コレクションの中に人を殺した曰くつきの刀があって欲しいと願う心理が生み出した過剰な錯覚だろうと高をくくってしまっていた。 どうしたらいい。どうしたらいい。 視界が暗くなっていく。どろどろと部屋ごと溶けて行くようだ。 師匠が、動いた。 それに反応して倉持氏がそばにあった掛台から脇差の一振りを掴み、中腰のまま胸元に引き寄せる。 怯えた表情だ。周囲を包む異様な空気を察知しているらしい。 師匠は構わず一歩前に踏み出す。そして倉持氏の目を見据える。 「戦争に、行きましたね」 その言葉に老人は目を剥く。 「北じゃない。……南方ですね」 師匠はちらりと横目で影を追うような仕草を見せた。 見えているのか、あの黒い影をもっと詳細に。 「あなたはそこで、人を斬り殺しましたね。軍刀で」 口をへの字にして泣きそうな顔をする依頼人に、容赦なく言葉が浴びせられる。 「斬り口が深すぎる。戦場じゃない。無抵抗の相手に対して振り下ろされた刃ですね」師匠の瞳が大きくなり、左目の下に指が這う。 「戦時中のことです。今それを非難するつもりはありません。しかし戦争が終わって新しい生活を送り始めても、あなたにはその凄惨な記憶ががずっと圧し掛かっていた。夜、うなされただろうと思います。死者の恨み、怨念を恐れたはずです。 日々得体の知れない物音に、気配に、怯えていたでしょう。だから……」 師匠は立ち並ぶ刀剣に目をやった。 「勉強会で人を斬ったという刀を見てから、あなたは『上書き』を考えたのです。あるいは無意識に。人を斬り殺した刀が家にあれば、そんな気配や物音も、すべてその刀に憑いているものと思い込めるからです」 そうか。 分かった。 そのために霊能力を雇って来て、そのお墨付きを貰いたかったのか。 倉持氏はなにも言えずにだだ呼吸だけが荒い。鞘の中で刀がカタカタと鳴っている。 「今日私はこの家にお邪魔して以来、なんの霊的な気配も感じませんでした。それは刀を見ても同じでした。しかしそんな霊は刀に憑いてはいないという先ほどの返答とともに、どこにもなかったはずのこの霊気が吹き出してきました。 今まで自分を苦しめた悪霊が、自分ではなく刀に憑いていたものなのかも知れないという期待感によってさっきまでその存在を保留されていたからです。斬った軍刀はここになくとも、死者の一部はあなたの心の中に残っていた。 それが私の言葉で存在を肯定され、湧き出して来たのです」 こうなってはもう。 と師匠は言った。 「死者の念なのか、あなたの心が生み出したものなのか、区別がつけられない」 嘲笑が周囲から流れてくるような錯覚があった。気持ちの悪い気配が、薄くなったり濃くなったりしながら周りを漂っている。 気がつくと鞘の音が止まっていた。 「なにをいう。なにを……なにを……わかったような……」 ぼそぼそと口の中で繰り返す倉持氏の目に暗い色が灯っている。その目は師匠を睨み付けていた。正常と異常の境でわだかまるような目の色だった。 空気が張り詰める。座ったまま、重心が少しずつ動いていく。そろそろと鞘を腰に押し付けていく。 居合いをやっている! この老人は。 無数の針で刺されるような殺気を感じながら、自分の汗が引いていくのが分かる。 師匠との距離は、間合いだ。 息が短く、荒くなる。 左手の親指が鯉口にかかる。 右手の指が柄の下に隠れる。 すべての動きが止まる。 抜く。 そう思った瞬間、僕は機先を制して手元にあったガラス製の灰皿を指に引っ掛けるようにして、投げつけていた。 「あっ」 という声がして、同時に柄の先に硬いものが当たる衝撃音がした。 老人は左手を押さえ、脇差は鞘に収まったまま畳の上に落ちる。周囲のざわざわした影たちが一瞬で引いていく気配があった。 「貴様ッ」 物凄い形相で唸る老人を尻目に、僕は目の前の師匠の肩を抱いた。 「逃げますよ」 有無を言わせず抱きかかえるように走り出そうとする。 師匠はそれに抵抗しようとはしなかったが、ただ一言、老人に向かって短く言い放った。 「業だ。付き合え。一生」 そして畳を蹴って部屋を出た。 出るとき、ぬるん、という嫌な感触があった。自分を包む空気が正常に戻る。 背後からわめき声が追いかけて来る。正気が疑われる。危険だった。 廊下を走り抜け、玄関の靴を持ち、履く余裕もなく太陽の下に飛び出てから石畳の道を一目散に駆けた。 自転車に飛び乗り、師匠の重さが加わるのを確認してからペダルを思い切り踏んだ。 「あ」 と背中から師匠の声。 ギクリとして、それでも自転車をこぎ出しながら「なんです」と訊いた。 「金、もらうの忘れた」 それどころじゃないでしょう。 そう言い返して、僕は全速力でその立派な家の門から離れ始めたのだった。 後日。 小川調査事務所のフロアで僕と師匠は上機嫌の所長と向かい合ってた。 「倉持さんからお金が入ったよ」 報告を聞いて諦めていたそうだが、昨日本人がやって来て規定の料金の十倍を超えるお金を置いていったのだという。 僕と師匠は顔を見合わせた。 「取り乱して悪かったって。あの時のことは他言無用に願うってさ。そりゃまあこちらには守秘義務ってものがあるからね。もちろん、と答えといたよ」 口止め料も含まれているわけか。確かにへたをすると殺人未遂だからな。 思い出していまさらゾッとする。 「ああ、それからこれ。きみたちにと」 デスクの下から大きな箱を取り出して来る。桐製の立派な刀箱だった。 開けると中には目算六十センチ弱の刀剣が一振り入っている。脇差だ。 「え? これをどうするんですって?」 動悸が早くなってきた。 「だから、くれるって」 凄い。こんな高価なものを。 ついていた登録証と保存鑑定書を読みながら興奮を抑えられなかった。 師匠は笑って「もらっとけ」と言った。僕に譲ってくれるらしい。価値が分かっているのだろうか。 「あと最後に伝えてくれって。……『わかりました』ってさ。なんのことだ」 師匠はそれを聞いて、嬉しそうな顔をした。ひょっとして脇差を抱える僕よりも。 その僕は脇差の柄のところに目立つ傷があるのに気が付いた。 あの時の灰皿か。 しっかりしてるな。 倉持氏のいかめしい顔を思い出して、なんだかおかしくなった。 [*←][→#] |